水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
「眠れぬ森のB女・6」
妻はツマらない?
アタシは魔女でも、世間的にみれば人妻ね。人妻はすべて魔女でもあるのよね。魔女に毒はつきものよ。だから妻と毒の字は似ているわけね。稲妻が凄いというのもうなずけるわ。でも、妻はツマらないわ。どうしてかしら?
実態はほとんど女王様や女暴君でも、妻って自主性が無い気がしない? いまいち積極性に欠けるのよねえ。もちろん人様々だから、十分満足している魔女だっていると思うけれど、アタシには物足りない立場なのよ。
アキラメは積極的な生き方だ、とダンナは言うけれど、簡単にアキラメない根性が世間では美徳とされているわ。アタシに根性があるとは思えないけれど、美という字がついているモノに弱いのよ。同じ波動は共鳴するっていうじゃない。美人のアタシの宿命なのかしらね。
じゃあ何をしたいのか、というと困るのよねえ。努力も苦労もしたくないし、多くの人に会うのはうっとうしいし、テキパキ動くのは苦手だし。何よりも、食事時間はたっぷり必要だわ。えっ、今の立場が最高なの? そうかなあ。
そういえばお師匠様の言葉を思いだすわ。
「不満があるのではなく、感謝を忘れているだけだ」
感謝というと、現状に満足しきって動かない姿勢にみえるけれど、実際は感謝から新たなコトが始まるみたいね。不思議なんだけど、不満より感謝のほうが何かを変える原動力なのよ。ツマらない、って言っていたのでは何も変わらないわ。
ダンナがいなければ妻になれないわ。だからダンナに感謝なのね。それがどんなダンナであってもね。アタシもダンナに感謝してなかったと気づいたわ。
この時に反省をする人がいるのだけれど、必要ないみたいよ。それどころか下手な反省は、いじけた心を創りやすいそうよ。ただ、気づくだけでいいの。ただ、感謝するだけでいいの。何事も「ただ」がいいのよ。この奥ゆかしさが美しいのよ。
感謝っていっても力まないでね。心から感謝するものだ、なんてウソよ。心なんてフラフラと頼りないものよ。あまり相手にならないでね。心がどう思っていてもいいの。感謝の行いをすれば、感謝したことになるのよ。心より感謝の行いのほうが優先するのよ。
注意してね。心で思っているだけでは感謝にならないわ。
感謝は「行い」があって感謝の形となるのよ。
感謝の行いも簡単よ。言葉で「ありがとう」と言うか、文字で書くか、体で表現するかだけよ。体の表現も合掌したり、頭を下げることぐらいよ。しかも、必ずしも相手に見せなくてもいいのよ。相手に気づかれなくてもいいの。
それからね、これが大切な特徴なんだけど、対象が当の相手でなくてもいいのよ。
このことが理解できると真の感謝を行なえるわ。
どう、これならアタシにも出来るわね。貴女にも出来るわね。
あらっ、何だか妻もわるくないわね。ダンナもわるくないわ。人間も地球もこの世もわるくないわね。アタシは初めからイイオンナだし。
何だか嬉しくなって、今夜も眠れそうもないわ。
「鏡よ鏡。いつも美しいアタシを映してくれて、ありがとう」
「ありがとうは最高最強の呪文でんがな。この言葉だけで世界は変わるんや」
「今日は気分がいいから、座布団二枚」
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
「眠れぬ森のB女・5」
ダンナはナンダ?
上から読んでも下から読んでも、ダンナがダメだが何だ。つまらない廻文ねえ。
世にはイロイロな病名があって、マジメ人間に罹る率が高いのが、平等過敏症症候群なのよ。すぐ、「差別だ、差別だ」と言うのが特徴よ。未熟な法律や制度を変えるのも大切かもしれないけれど、自分からもっと和(柔)らぐ必要がありそうよね。
「旦那というのは男尊女卑思想の現れであって、平等社会にあってはならない言葉です。差別用語を無くし、明るい社会を創りましょう」なんて本気で言うんだもん。
その旦那が怪しい所でムチに叩かれ、「女王さま~、私は奴隷です」なんて喜んでいる場合はどうするのかしらね。
差別用語を無くせば、「〇〇というのは〇〇〇〇思想の現れであって、〇〇〇〇にあってはならない〇〇です」とか、〇〇がムチで叩かれ、「〇〇〇〇~、私は○○です」なんて喜んでいます。となるのだけれど、これで明るい社会になったかしら?
言葉を規制するより、笑顔がこぼれる工夫のほうが明るい社会になるんじゃない?
アタシがパートナーのことを、ダンナと呼ぼうが宿六と呼ぼうが大きなお世話よ。これでも愛し合っているし、ダンナはどう思うとアタシのほうは満足なのよ。
そのダンナのことを少し紹介しますわ。
氣功で治療をするのを仕事としている、つもり、らしいのだけれど、こんな山の中に来る人は滅多にいません。考えないのが氣功師であり人間の生き方だ、というのがダンナの言い分です。だから毎日ボ~としているわ。
時々、文章を書くのだけれど、それがヒドイのよ。例えば、
我輩は考えぬアッシである
我輩はネコではない
我輩はトンビやタカでもない
我輩はワシである。私である。あたしである
我輩はアッシである。間違いない
間違いないが、考えてはいない
我輩は考えぬアッシである
(アッシとは私、わし、あたしの訛った言葉)
ね~。アタシはこれを読んだら溜息が出たわ。結婚して十年よ、十年。十年経ってこれじゃあね~。アタシは魔女だから年齢は気にしないけれど、ダンナは四十五歳よ。それでこの文章よ。まあシアワセといえば、シアワセかもしれないわね。
ダンナが考えない人だから、アタシが考える魔女で調和がとれているのかしら。魔女といってもマホウの鏡と遊ぶくらいで、特別なことは何もしないし、する気もないわ。結構お似合いかもね。
これってオノロケだから素直に聞くのよ。他人のシアワセを素直に喜べる人に、幸運は訪れるものよ。オノロケに出会ったらチャンスなのよ。
ところで明日のオカズ、何にしようかしら。考えると今夜も眠れないわ。
「鏡よ鏡。アタシとダンナとどっちが好き?」
「アンさんの前でダンナはんの方が好き、なんてよう言われへんで。ワイ、こう見えても心臓小さいんや。正直者は長生き出来んと言うやないか」
「あんたね~」
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
奥様は魔女?
アタシは何年か前にインドを旅したことがあります。バンガロール空港に降り立つと、ラッキーなことにサティア・サイババさまが、すぐ近くのホワイトフィールドという所に来ているというではありませんか。
サイババさまの事は本がたくさん出版されているので、ぜひ読んでみて下さいね。読んでも理解は無理ですけど、大切なことに触れるキッカケにはなるわ。とても深いレベルでの大切なことよ。
この時はラッキー続きで、アタシはサイババさまのお御足に触れさせていただきました。そのときの人間年齢では六十七歳だったらしいのですけど、一七・八の少女の足のようでしたわ。とってもキレイでした。体温は予想に反して冷たくて、触覚的にも人間とは別な感じだったわ。
サイババさまは、このようにおっしゃいました。
「私は神です。しかし、あなた達も神なのです。私はそのことを自覚していますが、あなた達は目覚めていないだけです」
アタシは自分が神とは思えないけど、魔女だと自覚しているわ。魔女って特別じゃないのよ。自覚していても、していなくても、サイババさまが私達全員を神と断定したように、女はみんな魔女なのよ。あるいは魔女になれるのよ。
近頃は自分が魔女だと自覚する、イイオンナが増えてきているわね。うれしいわ。
その反対を愚女といって、魔女の誇りを忘れているコも多いわよ。コのまま年をとると恥を知らないオバサンになって、やはりコ(ガキ)のまま年をとった恥を知らないオジサンと一緒に、迷惑をふりまくようになるから注意しなさい。
子からオンナやオトコにきちんと変身するのよ。オバサンやオジサンからだって、オンナとオトコに変身してね。
人間は変身できるし、変身をするためにこの世にいるのよ。ただし変身後は何に変わってしまうのかは、本人の意識と行動次第なのよ。私は魔女に変身したわ。
ところで、女はマジョだけれども、男は何て云うか知ってる?
男は最初からマオトコよ。マが抜けてるとイイオトコになるの。これがわかるようになれば、貴女も魔女の自覚ありよ。イイオンナの仲間だわ。
男と女の間には、マは一つだけがちょうどいいのよ。マジョとオトコの組み合わせね。でも、位置関係はオトコが前か上が道理よ。男、間(魔)、女の関係ね。何故って、間(愛)は真ん中にあるものなの。
ついでにマの話もしておくわね。
漢字で書くと解りやすいわ。実は、魔も間も真も変わらないのよ。すべて愛の変形なの。人によって魔のイメージが悪と重なるようだけど、愛や真に悪も良も関係ないわ。魔と表現しようが真と表現しようが、間には愛しかないのよ。だから魔女は真女でもあるのよ。
愛の話もしようと思ったけど、ダンナが眠そうにしているので明日にするわ。アタシは結構ダンナ思いなのよ。優しくなければ魔女じゃない。優しいばかりじゃつまらない。
でも眠れないから鏡と遊ぼうかな。
「鏡よ鏡。世界で一番優しいのは誰?」
「ダンナはん思いの、アンさんでんがな。ダンナはんは近頃アンさんが重いと言うてたで~」
「一言よけいだったわね。座布団は全部没収!」
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
奥様は魔女?
アタシは何年か前にインドを旅したことがあります。バンガロール空港に降り立つと、ラッキーなことにサティア・サイババさまが、すぐ近くのホワイトフィールドという所に来ているというではありませんか。
サイババさまの事は本がたくさん出版されているので、ぜひ読んでみて下さいね。読んでも理解は無理ですけど、大切なことに触れるキッカケにはなるわ。とても深いレベルでの大切なことよ。
この時はラッキー続きで、アタシはサイババさまのお御足に触れさせていただきました。そのときの人間年齢では六十七歳だったらしいのですけど、一七・八の少女の足のようでしたわ。とってもキレイでした。体温は予想に反して冷たくて、触覚的にも人間とは別な感じだったわ。
サイババさまは、このようにおっしゃいました。
「私は神です。しかし、あなた達も神なのです。私はそのことを自覚していますが、あなた達は目覚めていないだけです」
アタシは自分が神とは思えないけど、魔女だと自覚しているわ。魔女って特別じゃないのよ。自覚していても、していなくても、サイババさまが私達全員を神と断定したように、女はみんな魔女なのよ。あるいは魔女になれるのよ。
近頃は自分が魔女だと自覚する、イイオンナが増えてきているわね。うれしいわ。
その反対を愚女といって、魔女の誇りを忘れているコも多いわよ。コのまま年をとると恥を知らないオバサンになって、やはりコ(ガキ)のまま年をとった恥を知らないオジサンと一緒に、迷惑をふりまくようになるから注意しなさい。
子からオンナやオトコにきちんと変身するのよ。オバサンやオジサンからだって、オンナとオトコに変身してね。
人間は変身できるし、変身をするためにこの世にいるのよ。ただし変身後は何に変わってしまうのかは、本人の意識と行動次第なのよ。私は魔女に変身したわ。
ところで、女はマジョだけれども、男は何て云うか知ってる?
男は最初からマオトコよ。マが抜けてるとイイオトコになるの。これがわかるようになれば、貴女も魔女の自覚ありよ。イイオンナの仲間だわ。
男と女の間には、マは一つだけがちょうどいいのよ。マジョとオトコの組み合わせね。でも、位置関係はオトコが前か上が道理よ。男、間(魔)、女の関係ね。何故って、間(愛)は真ん中にあるものなの。
ついでにマの話もしておくわね。
漢字で書くと解りやすいわ。実は、魔も間も真も変わらないのよ。すべて愛の変形なの。人によって魔のイメージが悪と重なるようだけど、愛や真に悪も良も関係ないわ。魔と表現しようが真と表現しようが、間には愛しかないのよ。だから魔女は真女でもあるのよ。
愛の話もしようと思ったけど、ダンナが眠そうにしているので明日にするわ。アタシは結構ダンナ思いなのよ。優しくなければ魔女じゃない。優しいばかりじゃつまらない。
でも眠れないから鏡と遊ぼうかな。
「鏡よ鏡。世界で一番優しいのは誰?」
「ダンナはん思いの、アンさんでんがな。ダンナはんは近頃アンさんが重いと言うてたで~」
「一言よけいだったわね。座布団は全部没収!」
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
第 一 章 眠 れ ぬ B 女
美女? B女?
『眠れぬ森のB女』。なんで、こんな題名なのよ?
ある日、アタシは愛用のマホウの鏡に向かって、
「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰? 割られたくなかったら、よぉ~く気を付けてお返事なさいね」と、優しく尋ねたのです。
「それは白雪姫みたいに、ごっつうキレイなアンさんでんがな。天上天下ユーアー独走(天井天下唯我独尊)」
「おもしろいダジャレだこと。座布団を一枚」
座布団が十枚たまると、鏡の願いを叶えてあげる約束なのです。だから懸命にアタシを楽しませようとします。
「毎度おおきに。ついでに七輪の恋人(七人の小人)はどうや? 熱く燃えまっせ」
「あれはね、ナナニンのコビトと読むのよ。座布団没収」
鏡はアタシから離れるのが夢らしいので、簡単に座布団は与えません。離れたがる相手は離したくないものよ。まだまだ鏡も心の機微が解ってないわね。
ともかく、こういう経過から『眠れる森の美女』みたいな題名にしてと言ったのに。ダンナはアタシの言うことをちゃんと聞いてないんだから。貴女も注意しなさい。世のダンナ族は、うわのそらで「ウンウン」なんて返事をするドーブツなのよ。
『眠れぬ』は、いいわよ。アタシは深遠な真理に思いを寄せて、眠れぬ夜がたくさんあるの。ダンナは昼寝が過ぎるからだって言うけど、食べてすぐ動くのは美容によくないわ。いつまでも美しくいたいオンナゴコロが解らないのかしらね。
『森の』も、いいわよ。アタシの住んでいる所は、前に山、横に山、後ろに山だし、山には木がいっぱいだから字にかけば森になるわね。結構気に入っているわ。澄んだ空気と清らかな川。純緑に囲まれ変化する自然は、アタシの美しさと対応して違和感がないの。
どんなモノでも包み込むフトコロの深さが自然というものだ、というお師匠様の言葉を思い出しますわ。最初は自然に学び、やがて己の自然に気づき、ついには自然に融けていくものだ。その融(解)け方、解放の仕方が個性というものだ、とおっしゃっていましたが、アタシの個性はまだツボミですわ。
えっ、じゅうぶん個性的? 恥ずかしいわ、そんなに褒めないで。
(褒められていると受け取る自信がコワイし恥ずかしい)
美女、ビジョって言ったのに何で『B女』になるのよ。美人でも美嬢でも美婦人でも許してあげたのに。自分の妻を褒めるのはテレるものだと解るけど、B女はないんじゃない。だいいち何の略かしらね。
これで今夜も眠れないわ。
(といいながら、妻はぐっすり寝ています。いまのうちにB女の訳をこっそりバラしましょう。私はウソを書くことには抵抗がありませんが、詐欺はいけないと思っています。本人が何と言おうと、私の良心は美女と記すのを許可しません。
正解はBESTの略です。わるくないでしょう。世界中の評価がどうであろうとも、パートナーであるかぎり、私にとってはBESTな女です。これはどんな夫婦にも当てはまるのです。例え憎しみあっていても、BESTな相手なのです。
決して、BUT〇女とかBAK〇女の略だと誤解しないで下さい。ジョークとしても書く勇気がありませんし、シャレにならない可能性があります。自分のパートナーの悪口は天に向かってツバを吐くようなものです)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
始めに・・・おことわり・・・
明日から集中治療の出張です。
最短でも25日まで帰れません。
ホテルのロビーにパソコンがありますが、
ゆっくり書く時間がありません。
そこで、1998年頃の未完成の創作ですが小分けで載せます。
25日までなら、第一章分くらいでしょうかね。
これならコピーペーストで何とかなるでしょう。
しかし、添削も無しの書きなぐりのままです。
文体も表現も酷いものです(あっ、いつもと同じか・・・)
期待する人はマレだと思いますが、マレも無くなるかも・・・。
そ、そして・・・誰も・・・来なくなった・・・。
まぁ・・・いいか。しょうがないもんねぇ・・・。
では、始まりです・・・
「眠れぬ森のB女」
(もう一度)はじめに
はじめにオコトワリしておきますね。これを書いているのはオトコですけど、書かせているアタシは女です。しかも美女ですわ。これについてはイロイロイロンもありますので、徐々に明らかにしたいと思っています。
したがって作者名がオトコなのに、いわゆる女言葉で文章が進んでいきますけど、気持ち悪いとか、ボクと同趣味の方ね、ス、テ、キ、なんて早とちりしないで下さいね。筆者の言葉は()内で時々ありますけど、ロクデナシの意見ですから無視して結構ですわ。
もうひとつオコトワリしておきますね。実はアタシ、魔女なんです。バカバカしいと思うのは貴方の勝手ですけど、この世はバカバカしいコトだらけで成り立っているとご存じかしら?
魔女から観ると、人間界はあまりに不思議なコトが多いので、グ~タラしているうちの宿六に文章を書かせたってわけ。
あら、アタシが結婚しているってバレちゃったわ。しかも、ダンナがこのロクデナシの筆者ってことも。
まあいいわ。この世は調和を学ぶために存在しているって、アタシのお師匠様がおっしゃっていました。先ほどの言葉と合わせると、この世のバカバカしいコトを受け入れることで調和を学べるようにあるらしいわ。
アタシ達も美女とロクデナシのカップルだから、調和を学ぶいい機会なのかもしれないわね。なんたってアタシはスコブル付きの美女なんだから、そのくらいのハンディは背負わなくちゃね。
そんなわけで、少々読みづらいのは気にしないでね。その分、内容のおもしろさでカバーさせますから。ただ、ノーナシの筆者に内容が表せるかしら? 内容は無いよう、というのが口癖だから心配だわ。
ああ、これで今夜もアタシは眠れそうもないわ。
(25日まで千葉、26日埼玉に出張中です。体験その他連絡を取りたい方は・・・
何とかメールをしてみて下さい。対応できるかもしれません・・・)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
陶芸が他の芸術と違うところ。
陶器は芸術と生活用品が密着している。
「芸術」なんて威張らなくてもいい。
日常で使う茶碗や花瓶でもある。
生活から離れた芸術作品ではないのだ。
最後の熱がどんでん返しをする。
仕上げを「天」だか「運」だかに任せる。
これも他の創作活動と違うだろう。
どんなに努力し腕を磨いても、
作品の最後は離れなくてはならない。
思うように色が出ない。
思うような仕上がりにならない。
思いもよらない素敵な仕上がりになる。
予想を超えた作品が出来る。
窯から出して、初めて完成するのだ。
どんなに経験しても釉薬の変化は読みきれない。
だから、面白い。
藁を散らす。
灰を散らす。
ガラスを散らす。
いろいろを散らす。
それらが、窯の中で、とても不思議な変化をする。
自分の力量で作った作品が、
自分の力量を離れたところで仕上げられる。
自分と天。
その二つが合う。
そして融け合う。
調和すれば・・・傑作。
土をいじる事。
遥か太古の感覚が震える。
地球(ガイア)とつながる。
意識できない底の底。
生命が伝わる。
歴史が伝わる。
そんな気がする。
ワシもそのうち始めるだろう。
したいとは思っているのだ。
もう少しで、時期が来るだろう。
キチンとした作品は出来ないが、
面白いモノは出来るかもしれないぞ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
チョウナ削りの一本通しの梁。
囲炉裏で染められた煤の天井。
黒光りの板戸。
太い欅や樫の材料。
肝心の作陶展より工房となった家を見る。
そして感心する。
古いモノ達は「やすらぎ」を醸し出す。
そして表情がやわらぐ。
いいねぇ~・・・ウン、確かに・・・
建て直せない根性無しの成果だった。
努力や根性で成果があると、人は褒める。
だが、努力や根性が無い自然体は、
どうやら人が羨むようだ。
どちらを進んでもいい。
どちらの道にも未来はあるようだ。
努力や精進でこだわると作品が出来る。
姉はそういう道を選んだ。
性分だろう。
ワシは「こだわらない」道を選んだ。
作品は出来ない。
その代わり、笑顔に変わる瞬間に立ち会える。
努力や精進という「力み」を解放する。
すると流れるモノがある。
そのモノを活用して医療氣功をしている。
同じ兄弟姉妹でも性格が違う。
それぞれ、勝手に歩くのは・・・似ているのかも。
細い筆で細かい線を引き続ける。
そして茶碗に模様をつける。
ワシにはそんな根気のいる作業は出来ない。
する気にならない。
だが、姉は出来る。
作家とはそういうものかもしれない。
ワシは文を書くのは続けられる。
好きだからだ。
そうかぁ・・・
好きなら
続けるんだなぁ・・・。
根性が無くても、好きなら続くんだ。
治療の道。
今回から本格的に始めた指導の道。
ワシは・・・好きなんだなぁ。
どんどん、先に歩きたいと思う。
姉の陶芸もそんなものかもしれない。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
作陶展に来て、褒めるモノ・・・。
作品より、古い家と庭・・・。
それでいいのか!アネゴよ!
まだまだ、家や庭に負けている・・・。
11年前に亡くなった父親は職人だった。
昔の職人だった。
昔の職人は商人の才能が無い人が多い。
ワシの父親も、その点だけは一流だった。
技術を金に変える事など、とても苦手だった。
それだけじゃないぞ。
家を作るのは仕事だったが、家庭を作るのはなぁ・・・。
父親として生活費を稼ぐという自覚は少なかった。
妻や子供を守るという自覚は少なかった・・・。
今、ワシにその血が受け継がれている・・・。
ワシは特に無愛想とも思わないが(ん?無愛想だ?)
人に媚びるのが苦手なのは職人の血だろうなぁ・・・。
父親の職人の血は姉御に受け継がれている。
モノを作るのは好きだし、得意のようだ。
ワシは母系統の祖母や曾祖母の血が濃いようだ。
見えない世界で仕事が出来るのは、その御蔭がある。
霊能者の祖母と浄化のプロの曾祖母の家系だ。
ワシの努力は・・・無いに等しい・・・。
今回は間にあわなかったが、考えていた事がある。
「氣入れ」の陶製グッズだ。
水類や他のモノを入れる陶器。
持ち歩く、身に付ける陶製品。
浄化や結界用としての陶製品。
そのうち作る予定でいる。
職人の大工の家はボロボロなものだ。
棚や引き戸も直さない。
ワシの知り合いの宮大工の親父さんもそうだった。
おかみさんが笑いながら言った。
「親子二人も大工がいて、家の棚は私が作る・・・」
職人が幾人もご機嫌で酒を飲んでいるが、
棟梁の家を直そうともしなかった。
ワシの実家もそうだった。
近所がどんどん綺麗に建替えていくのに、
我家だけは、取り残されて古いままだった。
子供の時は引け目もあった。
何が幸いするかわからない。
親父が貧乏だったから、家が残った。
古いまま、家が残れた。
家が自分で守ったのかもしれない。
今は周辺でも貴重な家となった。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
昨日から実姉の作陶展が催されている。
場所は、嘗てワシの実家だった古い家だ。
約140年前の家だ。
今は改造して「風香窯」の工房になっている。
実姉は(売れてない)陶芸家だ。
陶芸教室や手びねり体験講師もしている。
いろいろ「作る事」が好きだった。
最後に見つけた道が陶芸だったようだ。
陶芸の中には、何でもある。
土いじり。
創造、造形。
絵画、模様、色付け。
それらが熱で変化する。
最後の段階で、ある意味偶然に任せてしまう面白さ。
果ての無い道は面白い。
行き着く事を目的としない道だ。
歩き方を愉しむ道だ。
歩き方に苦労する道だ。
姉はそんな道を選んだようだ。
「風香窯」と名づけたアトリエは
ワシが育った古い家だった。
この地域でも珍しくなった昔の家だ。
嘗ては萱葺きの屋根だったが、
萱葺き屋根を維持するのは難しい。
17年前に、トタンで覆った屋根にした。
7年前になるだろうか。
仲間や知り合いの手を借りて改造した。
半分を作業場。
半分を展示場とした。
古い材料は出来るだけ活かした。
実家の庭は、雑木が多い。
この古い家と同じ歴史を持つ木もある。
櫟(イチイ・一位)の巨木だ。
桜も楓も山法師も沙羅双樹もある。
庭で花見も紅葉狩りもできる。
一部は竹林になっている。
孟宗竹だが、タケノコに不自由しない。
竹林を通る風は、清浄に変わってしまう。
判る人には、敏感に判る。
老母(89歳)にはありがたい風だ。
こう文章に書くと、とても裕福な家のようだ。
自慢じゃないが、我家ほど貧乏も珍しかったのに・・・。
今では、この家、庭を羨ましがる人が多い。
貧乏だったから、残ったのに・・・。
日本は裕福と引き換えに消えたモノも多い。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」