水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
全て霊という表現もある。
肉体が無い霊が「オバケさん」
肉体が有る霊が「人間」
怖いのは人間の方だ。
イキナリ他人を殺傷するのは人間だ。
「オバケさん」は怖くない。
怖い力が持てない存在だ。
小さな事にクヨクヨこだわっている存在だ。
可哀想だが、ツマラン生き方(?)だ。
大らかになると、この世にはいられないが、
もっと素敵な所には行けるかもしれない。
あの世の事は、死んでからで間に合う。
生きている人間がアレコレ思い煩う事ではない。
生きている人間は「生きる事」。
それで精一杯のはずだ。
余計な事を考えるのは「活きてない」証拠だ。
霊障は「人間とオバケさん」の交流(?)。
それに係わると「気づき」もある。
「オバケさん」から教わる事も多い。
なるほどなぁ・・・(一人納得!)
だけど、そんなに勉強熱心(霊障)になる必要はない。
生きている相手だけで、充分だと思うぞ。
生きているのは、肉体が主役だなぁ。
肉体があるから、イロイロが変わる。
変わる事が出来る。
森羅万象は無常だから意味があるのだ。
イロイロと出会う。
人やモノや風景や機会や感情や思想。
イロイロと出会えるのは、生きている時だけだ。
イロイロと経験、体験できるのも特徴だ。
死んでからでは・・・遅いのだ。
霊能者ではなく、零脳者の観方がある。
霊も人間も本質は同じだ。
(霊に脳が有るか、無いかというのは、
とても面白いテーマだが、ここでは書かないぞ)
生身(肉体・物質)の有無だけだ。
それが・・・大きな意味を持つ。
霊は怖がる相手ではない。
付き合う相手でもない。
だが、とても大切な事を教えてくれる。
追い払う相手でもない。
こちら側(人間)を見直す相手では、あるなぁ・・・。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
ワシは零脳者だが、霊能者ではない。
霊能者ではないが、感じる事は出来る。
これでもプロの氣功師だからだ。
霊が障りの病も結構あるからだ。
だが病に関係ない霊はワシの範囲ではない。
ほとんどは、たいした事が無い。
当たり前だが、生きている人間より強い霊はない。
生身の本人の方が優れているのだ。
それなのに、心を縮めて霊を受け入れる。
霊が勝手に憑くことは出来ない。
霊は力の無い孤独なヤツなんだ。
生身の人間の方が霊を捕まえているんだ。
心が縮むか歪まないと霊も近寄れないのだ。
その事に、気づかないだけだ。
ワシは霊能者でも退霊屋でもない。
霊をどうのこうのするつもりもない。
彼等だって、それぞれ都合があるだろう。
力でも理屈でも直接アレコレされるのは嫌だろうね。
ワシも相手が霊とはいえ、嫌な事はしたくない。
霊も妖怪も人間もそれほど違いは無い。
それでもクライアントから依頼されれば解決する。
ワシ流の解決はできるのだ。
ワシは医療氣功師だからだ。
霊が居座れる部分を修復すればいい。
修復(波動の変化)で、霊は憑いていられない。
ワシが扱う「氣」は相手を区別しない。
どんな人間も異細胞も霊も区別しない。
「調和・浄化」の「氣」だ。
霊が側にいるなら、霊も修復してしまう。
側にいるから影響してしまう。
霊は、たいてい歪んだ波動だ。
生身の人間と同じだ。
アナタやワシと同じだ。
人間は生きているからイロイロある。
イロイロあると「氣」も心も変わる。
歪んだ波動も変わってしまうのだ。
ところが霊は死んでいる。
イロイロが・・・出来ない。
イロイロの相手と接触出来ない。
同じ歪んだ相手だけが接触できる。
つまり心が変わるチャンスが少ないのだ。
生身は歪んだ波動が消えても残る。
それを回復・修正という。
だが霊は生身が無いから・・・消えてしまう。
それを成仏というようだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
脳が働かない時、
心も静かになっている。
零の部分が広い時、
体も自然に動いてる。
零の脳は自然体と連動している。
動かないから、開く通路がある。
零だから、流れてくれるモノがある。
努力精進すると、塞き止められてしまう。
もう一つの世界の仕組みは、
とても、とてもヒネクレているのだ。
脳が零になるのは能力じゃない。
誰でも零になる時がある。
しょっちゅう零になるのは性格だ。
ナマケモノでいいかげんな性格だ。
通常、褒められない性格だ・・・。
その人の能力による特殊な力なら、
超能力や異能力と表現してもいいだろう。
「素晴らしい力をお持ちですね」
勘違いもはなはだしい・・・。
穴があったら覗いてみたい・・・。
(好奇心は人並み以上かもしれない・・・)
性格と「運」だけで歩いている。
二人の御師匠様との「縁」も「運」だ。
培った能力じゃない。
「素晴らしい縁」は「気まぐれの運」だと思う。
徳の覚えが無いのだから、御褒美はありえない。
謙遜ではなく、本気でラッキーだと思う。
「全ては必然。偶然は無い」とかいうが、
この世は間違いだってあるのだ。
ワシが創造主なら、アチコチに冗談を創る。
創造主なんてそんなモノだろう。
生真面目な創造主なら、世界を創るはずがない。
(ここが理解できない学者が多い・・・)
「落ちこぼれ者」にも法則(道)を創ってくれた。
とりあえず「感謝」だけはしておこう。
ワシは不遜の独善家だが「感謝」は得意な方だ。
見境無く感謝する事が出来る。
無能力者や零脳者にとって自分以外は全てマトモなのだ。
(不遜のフリをしても)結構・・・己を知っている・・・。
努力が適さないタイプもいる。
社会に馴染めないタイプもいる。
遠慮せず、落ち込んでみよう。
捨てて、脱いで、放してみよう。
そこに道(法則)が見えるかもしれないぞ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
氣功時に零になる脳。
零になるのもワシの力じゃない。
零の通路を流れるモノも
ワシの力じゃない。
ワシは無能力者なのだ。
零脳者としては半人前だ。
最後まで半人前だ。
それでも零脳者の素質はあったようだ。
子供の頃からボケ~としていた。
今もボケ~は得意だ。
ワシにも得意技はあるもんだ。
零時に流れるモノは優しい。
ワシのような者を通る。
高徳も下品も金持ちも貧乏人も区別しない。
鼻持ちならない嫌なヤツも区別しない。
節操が無いのと、とても優しいのは似ているなぁ。
「波動は同波動に共鳴する」(これはまぁ、いい)
ハイレベルでなければハイレベルの「氣」は扱えない。
だから「ハイレベルの氣」を扱う人はハイレベルだ。
これは、生半かの机上論だ。
それを本人が言ったら・・・アホの上塗り・・・
周波数が細かい(優しい)と範囲は広がる。
もし「ハイレベルの氣」なら、周波数を超えて作用する。
事実は理屈より優先するんだぜ。
(「ハイレベル」というのがワシには違和感がある。
ハイやローというより、荒い細かいだろうね)
周波数を超えて作用するのなら、
ワシのような下品でも扱えるだろう。
事実、扱っている。
事実は理屈より奇なり・・・。
「こだわっている氣」はレベルによって違うのだろうが、
「この氣」はレベルなどとツマラン事にこだわってないぞ。
「同周波か近周波は無条件で影響する」
類は類を呼び、影響し合う。
だけど、この世は、それだけじゃないのだよ。
異周波も影響するから「物質界」なのだ。
そして無節操に影響する波動(氣)もある。
故マザーテレサが手を差し伸べた人は誰でも影響された。
誰でも、とてつもなく優しい人の思いを受け取れる。
レベルがどうの、こうの言うのは戯言だ。
神様(?)は徳の高い人だけを優遇しない。
当たり前だよねぇ・・・
畏れ多いけど・・・
ワシとマザーテレサに流れるモノは同じかもしれない。
マザーは素晴らしい人格を持って流れる。
ワシはナマケモノのまま、流れてくれている。
だから、ワシの力じゃないのだ。
その中間の皆さんにも、当然流れているはずだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
多種多様な生き物がいる。
多種多様な人がいる。
多種多様な生き方がある。
それぞれに法則があるようだ。
法則は一つじゃない・・・。
偉いも下種も立場からの見方だ。
実際は単なる違いがあるだけだ。
価値が違うわけじゃない。
ブッダとなったシッタルーダも、
捨てられた本妻、愛人達もそれぞれの人生だ。
全て必要で、全て大切なピースだ。
ワシとブッダが同じ落ちこぼれ者というのは、
とても、とっても、とてつもなく、異論があるだろう。
ワシだって私事とはいえ、異論がある。
それは・・・あんまりだぁ!
だから「同じ」ではない(当たり前だ!)
だけど「落ちこぼれ者」の類には違いない。
ウワサで聞く、街のヤンキー兄ちゃん。
チンピラあんちゃん、ホームレスおじさん。
閉じこもりネ~ちゃん、アル中主婦。
ブッちゃん(ブッダ)と同じ類の仲間だ。
偉くはないけど、悲観するほどじゃない。
ブッちゃんは「落ちこぼれ」用の法則に乗った。
それも・・・偶然だと思う。
努力を放棄したから乗れたのだ。
我々はまだ乗ってない。
「落ちこぼれ」なのに未練があるからだ。
こだわりがあるからだ。
それでも、道は用意されている。
いつでも、道は乗れる準備が出来ている。
いつか、乗れるかもしれないぜ。
「落ちこぼれ専用道路」
ワシはどうでもいいと思っている。
道路じゃなくてもいいや。
崖っぷちばかりいたら、馴れた・・・。
綱の上でもいいかぁ、と思えた。
生きてりゃ、それで充分だな。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
約2500年前だった。
一人の落ちこぼれ者がいた。
釈迦族の王子という立場に厭きた。
本妻も愛人A・B・C・Dも捨てた。
それぞれの子供も捨てた。
ロクなヤツじゃないなぁ・・・。
名前をシッタルーダという。
通常の社会に役に立たない事が気になり出した。
「人は何故、死ぬのか?」
「何故、病気になるのか?」
「何故、老いるのか?」
「何故、苦しむのか?」
落ちこぼれ者だよねぇ~
こんな事考える為に家出しちゃったんだ。
しかも金も持たずに、行き先も決めないでだ。
無謀というか、坊ちゃんというか・・・。
ワシなら愛人Aは連れて行く。
ついでにキャッシュカードも持っていく。
行き先は、やはり温泉地でしょう。
(水上温泉は避けよう・・・)
とりあえず、芸者を上げて騒ぐのだ。
落ちこぼれ者は現実社会の常識を知らない。
世間知らずなのだ。
社会に適応する努力が出来ないタイプだ。
アホだ。
元々努力型じゃないのに、無理をした。
苦行をしたみた。
苦行からも、落ちこぼれた。
だから、諦めた。
「悟りなんて、もういいやぁ」
根性無し・・・。
そして菩提樹の下でボンヤリしてた。
脳が空になっていた。
その空になった脳に何かが通った。
そして・・・落ちこぼれ者は・・・
ブッダ(開かれた人)となった。
ブッダとなったシッタルーダは、
森のタヌキやウサギやトリ相手に話をした。
かなり・・・跳んでるなぁ・・・
ブッダになっても、マトモな社会人じゃないなぁ。
どうしたら、幸せに生きられるか?
嬉しく、愉しく毎日を過ごそうよ、と話した。
難しい真理を話したわけじゃない。
難しい話など、ウサギじゃなくても聞く気にならない。
タヌキやウサギは真理を求めていないしね。
落ちこぼれ者には落ちこぼれ用の世界がある。
誰が創ったか知らないが、
この世の仕組みはかなりヒネクレている。
そう思わんか?
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
何かにこだわると、塊になる。
それが形になる。
そして成果になる。
それは、人の為にもなる。
(為にならないモノも多い・・・)
人社会はそうして発展してきた。
仕事とはそういうものだ。
こだわり、努力して、成果が出る。
成果の報償として給料や儲けがでる。
そして家族や愛人を喜ばす事が出来る。
脳を使い、能力も使う。
知識を増やし、能力も増やす。
経験を積み、研鑽もする。
精神も鍛え、肉体も鍛える。
それらを仕事に活用して、
社会に還元しつつ、本人も精進する。
ナマケモノにはナマケモノの報いがあり、
勤勉には勤勉の報いがあるものだ。
(ま、実際はそんなに単純じゃないけど・・・)
人の社会には法則がある。
それらの法則に沿って仕事をすると、
いわゆる「成功者」に成れる。
成れる傾向にある。
成れると思うよ。
一応、建前上は・・・成れる。
(あまり、本気に入れ込まないでね)
ワシも異論は無い。
一応、無い。
大体は、賛成している。
ベクトルは合っていると思う・・・。
結果(未来)は、不明だけど・・・。
ついでに「成功者」の価値が判らない・・・。
「幸せ」と直結していないのは確かだ・・・。
この世が人の社会だけならねぇ。
人の社会だけに生きるのならねぇ。
その法則とやらでいいと思う。
普通はそれで充分だと思う。
(成功しなくても充分だと思うけど・・・)
だけど・・・
人には「落ちこぼれ者」がいる。
人の社会から「落ちて」しまう癖がある者がいる。
ナマケモノ、根性無し、イイカゲン者等・・・。
こういう「落ちこぼれ者」も生きている。
存在を許す神様は優しい。
そんな「落ちこぼれ」用に社会を用意してくれた。
それが「もう一つの社会」だ。
「もう一つの社会」は、一つだけじゃないようだ。
存在、全ての社会が用意されていたようだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
ワシの氣功時の脳は零だ。
零といっても、全てパーじゃない。
それほど人間が出来ていない。
憧れるが、まだ遠く遥か彼方の境地だ。
いつか、いつでもパーになりたい・・・。
零の幅が「氣」の通り道になる。
ワシの下品な思いは、隅っこに追いやられる。
無くなりはしないが、働かない・・・。
通る「氣」はワシよりもマトモだからだ。
それならもっと立派な人の脳を通ればいいのに・・・。
ワシはマトモや立派に成りたくないのだ。
どうやら、この氣功は人を差別しないようだ。
上品だろうが、下品だろうが、同じに扱う。
上品の人にだけ使えるわけでもない。
修行を積んで徳を上げても関係ない。
(まぁ修行で徳が上がると思う人は無理かも・・・)
要は、脳が零になればいいようだ。
ワシがこの「氣」を扱うのに適しているのは、
元々脳の能力が少ないせいかもしれない。
少ないのだから、0になるのに苦労しない。
性格かもしれない。
自分の思いなど元々下品だから、いつでも捨てられる。
どうでもいいやぁ・・・。
根性も無いから力を使おうともしない。
だから「氣」が勝手に流れる。
流れるのを邪魔しない。
それが効を増しているようだ。
世の中・・・ヒネクレているなぁ・・・。
能力比べなんてしないが、
この世界にいると相手の範囲が判ってしまう。
判ってしまうことがある。
申し訳ないと(何となく、少し)思う。
マジメに努力している人に顔向け出来ない。
(と言いながら、不遜な発言を繰り返す・・・)
氣功が出来る、という人と出会ってしまう。
すいません・・・ワシは無能力者です。
ワシが悪いのではない。
仕組みがヒネクレているのだ。
無能力に贔屓するのは、ワシのせいじゃない。
キリちゃん(イエス)が言った。
「無い者が得るだろう」
ワシが言ったわけじゃないぞ。
人間社会は努力が報われる(傾向にある)。
だから精進した方がいい。
人の社会は、マジメが一番だ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
「名」が結界(範囲)を縛ると書いた。
そうなんだけど・・・ちょっと違う。
(なんだぁ~?この書き方は?)
「名」は概念を縛るのだ。
そして、概念が結界を縛る。
縛りの連鎖・・・縛りの美学・・・団鬼六。
縛ってぇ、お願いぃぃぃ~
そ、そうじゃないだろ・・・
(す、すんません・・・少し壊れてます・・・)
概念は固定しやすいのだ。
我々は、頭がワンパターンなんだ。
子供の頃はもっと柔らかかった。
「名」に縛られることが少なかった。
「名」の範囲はもっと広かったのだ。
常識を増やす事で大人に近づく。
「常識」という凝固剤が多くなると、
「名」を固定するようになる。
「名」で判断するようになった。
物事を判断しないと不安になるのだ。
「肩書き」や「資格」や「価格」で判断する。
固定された「名」でしか判断できない。
だから自分も「名」を欲しがる。
不安と不満で漂う霊と似ている・・・。
「名」を持っていても、こだわらぬ人もいる。
いつでも「名」を捨てられる人達だ。
結界(範囲)が柔らかい。
限度を決めなくて、歩ける人達だ。
節操が無い・・・とも言えるかなぁ・・・
でも自由と幸せは味わいやすいぜ。
「名」は縛り、守る。
だが概念が柔らかければ解くこともできる。
縛るのも、解くのも自由。
ワシは縛られるだけじゃイヤだ!
解く愉しみを知っている・・・フッ。
(文章がアブナくて、中々いいぞ!)
「名」の魔法はある。
「名」で運命を左右する事もある。
だが、ワシには効き目が薄いだろう。
姓名判断は、縛られる人にしか通用しない。
不思議が当たり前。
何があっても、アリ、だと思う。
いつでも、可能性がある。
未来は、柔軟性があると思っている。
(オトナになりきれないオッサンだ・・・)
だから、大丈夫だ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
「最初に言葉があった」
これは誰かが間違って訳したものだ。
そして間違って伝わったものだ。
ワードは最初から無い。
(エクセルも無い・・・す、すんまへん・・・
注:ワードやエクセルはソフトの商品名です・・・)
「いいかげん」なワシのことだ。
聖書にいいがかりをつけるつもりは無い。
聖書を尊敬してる。ホントだってば・・・。
だからこそ、キチンと伝えて欲しいと思っている。
ホントだってばぁ~・・・・
最初の書き出しならば・・・
「最初に法則があった」となるだろうね。
(この方がその後の展開に沿っているだろ?)
創世記はこの世(物質界)の説明だ。
ならば最初に「名」を付けなければならなかった。
例えば・・・「天」や「地」
「天」という結界と「地」という結界を個別にする。
それには「名」が必要だった。
言葉ではなく「名」の概念が必要だったのだ。
この物質界(肉体界)は多種多様の個別で成り立っている。
一つ一つを区別する結界が必要なのだ。
それを「名」で縛り、守った。
「名」を解いてしまうと、この世のモノでなくなるのだ。
霊はこの世のモノではない。
「名」の有る霊はありえない。
「名」を言ったら、嘘なのだ。
霊は「名」が欲しいのだと思う・・・。
淋しがり屋だからなぁ・・・。
死んだらつける「名」がある。
戒名というヤツだ。
生身の時の「名」は使えない。
「名」が無くなっているのに「名」をつける。
矛盾しているよね。
実は・・・(書くと異論がありそうだなぁ・・・)
葬式仏教の強引な青田刈りなのだ。
「名」を付けると縛ることになる。
その宗派に強制的信者(霊)とされるのだ。
ちょっと・・・酷いような気がする・・・。
自由にさせてあげたいのは、ワシだけだろうか?
ワシは根性無しのいいかげんオヤジだ。
キリスト教に続き、仏教までケンカを売る気は無い。
大、大既存宗教相手に口を滑らすのはアホです。
アホのたわごとです。
権威は怖い~・・・見逃して下さいね・・・。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」