忠勇無双の我兵は
歓呼の声に送られて
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて還らじと
誓ふ心の勇ましさ
軍歌 「日本陸軍」第1番(出陣) の歌詞である。
26日夜インドのムンバイでイスラム過激派と思われる武装集団による同時多発テロが発生し100人以上の死者が出たとの報道が各メディアによってなされたが、こういう話を聞くとこの歌を思い出す。
かつて日本の戦争は聖戦であり、「天に代りて不義を討つ」と外国を侵略し多くの人を殺し殺され多くの恨みを買った。イスラム武装ゲリラの論理も「天に代りて不義を討つ」、これは聖戦であるところも同じ。イスラムの教えでは聖戦で死んだら天国でも最もよいところへいけるとか、酒は美味いし、ねえちゃんは綺麗、いくら交わっても処女のまま。エジプトのサダト大統領を暗殺した武装集団が捕らえられ連れて行かれるところの映像を見たが死刑になることが間違いないのに聖戦だと言ってその顔は喜々としていた。
だいたい聖戦なんてあるべきことではない。この世のことは全て天なり、神なりが統べているところなのである。全てのものは天なり、神なりの意思で存在しているのであり、在るべくして在るのである。
敵だって害虫だってばい菌だって在るべくして在る。在るべくして在るものを、抹殺しようとするのは人間の都合なのである。人間の都合だけで殺しまくっているのである。
天に代わるとか、神の名によりて、なんていうのは、天とか神とか信じる者としては本来あるまじき言動なのである。天とか神が人間ごときの手を借りることは何もないのである、全てを統べているのだから、罰を下すことぐらい訳はない。天に代わるなどというのは不遜の極みであり、天、神に対する冒助Kであることに気がつかなければならない。
とにかく、天でも神でも仏でも在るべくして在らしめているもの、それだけである。人格的な要素を取り入れるとおかしな論理が生まれて人間の都合が入ってくる。そうなると本来無限なるものを有限に、絶対的なるものを相対的なものにしてしまうのである。人間のことは人間同士でカタをつければいいの。自分のことはどうせ自分のことなのだから自分でカタをつければいいのである。
まあ、キリスト教でもイスラム教でも絶対神ではありません。人間によって考え出された相対神です。相対神だから言うことが違う。その託宣によって今までどれだけの人間が殺されたか、相対神だから殺し合うのです。