JR直営の印刷場名は国鉄時代の印刷場名を使用します。
10年以上前に御紹介した券も再度御紹介しようかと思います。
古紙蒐集雑記帖
東京都港湾局専用線
このたび、タカタカB様のブログ『タカタカB 「一枚のキップから」』と相互リンクを張らせていただきました。
マルス券が中心のなかなかマニアックな内容で、毎回感心させられる内容です。是非とも訪問してみてください。
さて、前回拙ブログにて東京都交通局の地紋について御紹介いたしましたが、東京都では、交通局の各路線の他に、もう一つ東京都章を掲げた鉄道を保有しておりました。
それは、東京都港湾局が所有し、東京都埠頭公社に運営が委託されていた貨物専用線で、東京都港湾局専用線の晴海線・豊洲線・日の出線と呼ばれていましたが、現在はすべてが廃止され、最後まで残っていた晴海線も平成元年に廃線となっています。
有名なところでは、晴海通りに面した春海橋が有名で、ほぼ現役時代の状態で残されている遺構となっています。
その他にも、5年くらい前には、当時の私が勤めていた勤め先の近辺にはまだいくつかの遺構がありましたので御紹介いたしたいと思います。
意外と知られていなかったようですが、秩父小野田セメントの工場と晴海ヤードの間には機関庫が残っていました。その中に入ると、本当にびっくりしたものです。
中には今にも動き出しそうな状態でD60型ディーゼル機関車の7号機と8号機が眠っていました。これらの機関車は東京都港湾局のオリジナルの機関車でしたが、雰囲気としては国鉄のDD51型ディーゼル機関車と似た感じの機関車でした。
(7号機)
(8号機)
どちらも切り抜きナンバーは取り外されておりましたが、7号機には最後の全般検査票が残されており、8号機には東京都の都章がそのまま残されていました。
全般検査の実施は国鉄大宮工場となっており、全般検査の際には大宮工場(現・大宮総合車両センター)へ甲種回送されたものと思われます。
これは現役時代の8号機の姿です。運転台窓上に警笛用のラッパがついており、それはいつでも美しく磨き込まれていました。
機関庫内の検修事務所内部には検査記録を記す黒板がそのまま残されており、それを見ると、7号は昭和63年2月に、8号は昭和62年4月に最後の検査を受けたことがわかります。
機関庫を後にして現在の客船ターミナル側へ歩いていくと、日水(現・ニッスイ)の冷凍倉庫脇にあった「日水大踏切」の警報機が残っており、ここに鉄道があったことがわかります。
さらに歩いていくと、C野積場付近にはポイントがそのまま残されており、達磨型の転轍機が草に覆われていました。また、4号上屋前の通路にはレールがそのまま残されており、いかにも臨港鉄道があった雰囲気が醸し出されています。
もう少し歩いていくと、鈴江コーポレーションの倉庫前に着きます。ここは荷役連絡所などがある埠頭への出入り口の道路になっており、レールは撤去されているように見えます。しかし、よくよく見てみますと、レールは撤去されたのではなく、ただアスファルトで埋め込まれたようで、レールの痕跡を確認することができました。
同じ場所から撮影された、まだ列車が走っていた頃の写真を見ますと、その様子がよくわかります。
鈴江コーポレーションの倉庫を過ぎると東洋埠頭や日本通運の倉庫があり、レール(側線と呼ばれていました)は日通倉庫(1号上屋)の1階部分へと続いていました。
倉庫の写真ではわかりづらいですが、1階側線の入口上には独特な形の踏切警報機が設置されておりました。
日通倉庫の1階に入ると側線は先まで続いております。また、側線上の屋根は鉄製の蓋で塞がれており、蓋を開閉させることによってトラやトキといった無蓋貨車への荷役を、倉庫に設置されていたクレーンで行うことが出来るようになっていたようです。
現在の晴海地区は再開発によってかなり様変わりし、今や日通倉庫や4号上屋などの建物は取り壊されてしまっています。また、機関庫のあった辺りは立入禁止区域になってしまい、現在もそのまま残っているのかは確認できない状況にあります。
さらに、晴海埠頭の客船ターミナルを除外した部分は次の東京オリンピックのメインスタジアム候補地にもなっており、辛うじて残っている痕跡はやがてきれいに消え去ってしまう可能性が大です。
これらの路線は一度も旅客営業をしていない関係から乗車券の類は一切ありませんでしたが、東京都章の繋がりから御紹介させていただいた次第です。