産経ニュース2018.4.3 05:00
3月19日夕、安倍晋三首相は現地時間18日のロシア大統領選で再選したばかりのプーチン大統領と電話で会談した。祝辞もそこそこに両国に横たわる北方領土問題について持ち出した。
「これまでの合意を一緒に進めていこう」
2人は最近5年間で直接20回、会談している。互いを「ウラジーミル」「シンゾー」と呼ぶ仲だ。北方四島での共同経済活動を進める合意も交わした。圧倒的なリーダーシップを持つプーチン氏の再選は領土問題の進展には好材料に違いない。しかし具体的な解決のめどがあるわけでもない。
電話会談は約20分間。プーチン氏は首相の言葉に同意はしたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方四島を旧ソ連、ロシアが不法に占拠してから73年がたつ。いまだに名実ともに日本の領土となる見通しは立っていない。
北方領土問題をさかのぼると、明治8年に日露間で締結した樺太・千島交換条約にたどり着く。千島列島はそれまで択捉島とその北東のウルップ島との間に国境があった。樺太(サハリン)はアイヌや日本人、ロシア人が居住し、どこの国にも属さない「雑居地」だった。
海に囲まれた島国の日本で、国境という概念は近代の産物といえる。19世紀のドイツの法学者、ゲオルク・イェリネックは国家の三要素を「領土、国民、主権」と定義した。現在もその概念は浸透している。
日本が領土を明確に意識したのは明治初期だ。近代国家を歩み始める上で、国境の問題は避けて通れない。当時の日本地図を見ると、現在の領土とほぼ変わらないが、北や南の国境は曖昧だった。
英国に次ぐ強国・ロシアは日本への野心を隠そうとしていなかった。1860年に清から日本海に面した沿海州を割譲させ、東の海に出る不凍港としてウラジオストクを築いた。意味は「東方を支配せよ」。その「東方」に日本がある。
交渉の末、千島列島は全て日本に、樺太はロシアとすることで合意した。前面に立ったのは駐露全権公使の榎本武揚(1836~1908年)だ。榎本は明治7年に交渉に出発する前、「維新の三傑」の一人、大久保利通らからこんな特命を受けていた。
「樺太の雑居地を廃して国境を定め、樺太を放棄する場合は千島列島を日本に譲ること」
かなりの難題である。樺太とほぼ同じ面積の北海道すら開拓の緒についたばかりの時代、さらに北の樺太の統治は発展途上だった日本の国力からして重荷だった。一方、雑居地とはいえ、日本人も住む樺太から撤退すれば「弱腰外交」との批判が噴出する懸念もあった。そもそもウルップ島以北の千島列島はロシア領だ。そこを新たに獲得する大胆な案をロシアが受け入れるあてもなかった。しかし特異な経験を持つ榎本は外交力に自信があった。
明治7年11月、ロシアの首都サンクトペテルブルクで日本の北の国境を画定する交渉が始まった。駐露全権公使、榎本武揚に対しロシア側は案の定、樺太(サハリン)の全島所有を主張した。同時に「日本に代償を用意する」とも語った。榎本は機先を制した。
「それはウルップ島と1、2の小島だろう。樺太と釣り合わない」
膠着状態の中、榎本は次の手を打つ。択捉島の北東に位置するウルップ島などの譲渡を受け入れると同時に「樺太に見合うだけの軍艦」を求めた。東方進出や度重なる戦争で財政難のロシアに高価な軍艦を供与できる余地はなかった。ロシアは代案を考え始め、千島列島の譲歩のラインを北東に延ばしていった。完全に榎本のペースである。
榎本はついに「樺太と千島列島の交換」のカードを切った。ロシアは拒んだが、悩んでいるようだった。榎本はこんな情報をつかんでいた。欧州で英国と対立するロシアの皇帝、アレクサンドル2世が「二正面作戦」を避けるため、日本との交渉を早期に決着させたがっている-。
榎本は幕末に5年間、オランダに留学し、幕臣として日本に来たロシア人の相手もしていた。国際感覚と人脈を駆使し、相手がひるんだ隙を逃さなかった。8年5月7日、樺太・千島交換条約が締結された。
国境に関する著作が多い東海大の山田吉彦教授は「当時は力で解決できない時代だった。力が弱い者が“交渉”することは非常に重要だった」と語る。欧州では戦争による国境画定が一般的な時代、日本は武力が乏しかった。外交で国難を克服した明治人の気概と行動力は実に痛快である。
榎本は数奇な運命をたどった人物だ。江戸幕府海軍の指揮官として明治改元後も新政府に抵抗し、戊辰戦争の最終決戦、箱館(函館)戦争では新選組の土方歳三らと五稜郭に籠城。そして明治2年に降伏した。
榎本の助命に奔走したのは、後に首相となる黒田清隆だ。箱館戦争で新政府軍の参謀だった黒田と榎本は文字通り対峙した。黒田は最後の総攻撃直前、劣勢の榎本に使いを出し、武器弾薬の提供を申し出た。当時の気風はそうだった。
榎本は「ご好意に感謝する」と丁重に断った上で、ある書物を託した。オランダから持ち帰った国際法の教科書「海律全書」だ。
「今後の日本に必ず役立つと思う。新政府でご活用願いたい。決戦の際に消失する恐れがあるので、ぜひ保存願いたい」
黒田は感嘆し、武器の代わりに酒とつまみを届けた。内務卿の大久保利通らに榎本の釈放を嘆願し、頭を丸めアピールした。そして死罪確実といわれてから5年後。榎本は対露交渉で日本の代表となった。
薩摩や長州出身者を中心とする新政府に外交経験者は少なく、国際感覚にたけた榎本の才能は貴重だった。とはいえ、近代国家を歩む上で最優先だった国境画定のために「優秀な罪人」を登用した明治政府の心意気は驚くべきことだ。
明治維新は全てが変容したといっても過言ではない。混迷の時期の中、国境の画定は焦眉の急だった。
明治初期のさまざまな記録を見ると、政府が極力武力に頼らず、国際的な理解を得ながら国境を画定しようとした痕跡が見える。
山田教授は「岩倉具視の遣欧使節団の意味は大きい。欧米を回り自分たちに力がないことを改めて確認すると、交渉しようとなった。不平等条約と向き合い、主権ということに初めて目が向いた」と話す。
新政府は明治4年、公家出身の岩倉を団長とする使節団を結成し、大久保や木戸孝允、伊藤博文ら中枢メンバーが加わった。想像しがたいことだが、政情不安のときに1年10カ月、要人中の要人が日本を留守にして米英独仏などを回った。
産業技術や国民の暮らし、政治・社会制度を直接見た成果は絶大だった。随行員で帰国後に『米欧回覧実記』を刊行した久米邦武はこう回顧している。
「英国は日本と同じ島国なのに大きな船を作り、近代化を進めて国力を広めている。この島国の根性をわれわれは見習わなければいけない」
現在の日本も北方領土をはじめ、韓国が不法占拠する竹島(島根県隠岐の島町)、中国の脅威にさらされる尖閣諸島(沖縄県石垣市)と国境をめぐる懸案は絶えない。しかし、武力による解決は選択肢となり得ない。求められるのは外交力だ。時代や国際環境は大いに変化しても、明治人の精神に学ぶところは多い。
http://www.sankei.com/politics/news/180403/plt1804030002-n1.html
3月19日夕、安倍晋三首相は現地時間18日のロシア大統領選で再選したばかりのプーチン大統領と電話で会談した。祝辞もそこそこに両国に横たわる北方領土問題について持ち出した。
「これまでの合意を一緒に進めていこう」
2人は最近5年間で直接20回、会談している。互いを「ウラジーミル」「シンゾー」と呼ぶ仲だ。北方四島での共同経済活動を進める合意も交わした。圧倒的なリーダーシップを持つプーチン氏の再選は領土問題の進展には好材料に違いない。しかし具体的な解決のめどがあるわけでもない。
電話会談は約20分間。プーチン氏は首相の言葉に同意はしたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方四島を旧ソ連、ロシアが不法に占拠してから73年がたつ。いまだに名実ともに日本の領土となる見通しは立っていない。
北方領土問題をさかのぼると、明治8年に日露間で締結した樺太・千島交換条約にたどり着く。千島列島はそれまで択捉島とその北東のウルップ島との間に国境があった。樺太(サハリン)はアイヌや日本人、ロシア人が居住し、どこの国にも属さない「雑居地」だった。
海に囲まれた島国の日本で、国境という概念は近代の産物といえる。19世紀のドイツの法学者、ゲオルク・イェリネックは国家の三要素を「領土、国民、主権」と定義した。現在もその概念は浸透している。
日本が領土を明確に意識したのは明治初期だ。近代国家を歩み始める上で、国境の問題は避けて通れない。当時の日本地図を見ると、現在の領土とほぼ変わらないが、北や南の国境は曖昧だった。
英国に次ぐ強国・ロシアは日本への野心を隠そうとしていなかった。1860年に清から日本海に面した沿海州を割譲させ、東の海に出る不凍港としてウラジオストクを築いた。意味は「東方を支配せよ」。その「東方」に日本がある。
交渉の末、千島列島は全て日本に、樺太はロシアとすることで合意した。前面に立ったのは駐露全権公使の榎本武揚(1836~1908年)だ。榎本は明治7年に交渉に出発する前、「維新の三傑」の一人、大久保利通らからこんな特命を受けていた。
「樺太の雑居地を廃して国境を定め、樺太を放棄する場合は千島列島を日本に譲ること」
かなりの難題である。樺太とほぼ同じ面積の北海道すら開拓の緒についたばかりの時代、さらに北の樺太の統治は発展途上だった日本の国力からして重荷だった。一方、雑居地とはいえ、日本人も住む樺太から撤退すれば「弱腰外交」との批判が噴出する懸念もあった。そもそもウルップ島以北の千島列島はロシア領だ。そこを新たに獲得する大胆な案をロシアが受け入れるあてもなかった。しかし特異な経験を持つ榎本は外交力に自信があった。
明治7年11月、ロシアの首都サンクトペテルブルクで日本の北の国境を画定する交渉が始まった。駐露全権公使、榎本武揚に対しロシア側は案の定、樺太(サハリン)の全島所有を主張した。同時に「日本に代償を用意する」とも語った。榎本は機先を制した。
「それはウルップ島と1、2の小島だろう。樺太と釣り合わない」
膠着状態の中、榎本は次の手を打つ。択捉島の北東に位置するウルップ島などの譲渡を受け入れると同時に「樺太に見合うだけの軍艦」を求めた。東方進出や度重なる戦争で財政難のロシアに高価な軍艦を供与できる余地はなかった。ロシアは代案を考え始め、千島列島の譲歩のラインを北東に延ばしていった。完全に榎本のペースである。
榎本はついに「樺太と千島列島の交換」のカードを切った。ロシアは拒んだが、悩んでいるようだった。榎本はこんな情報をつかんでいた。欧州で英国と対立するロシアの皇帝、アレクサンドル2世が「二正面作戦」を避けるため、日本との交渉を早期に決着させたがっている-。
榎本は幕末に5年間、オランダに留学し、幕臣として日本に来たロシア人の相手もしていた。国際感覚と人脈を駆使し、相手がひるんだ隙を逃さなかった。8年5月7日、樺太・千島交換条約が締結された。
国境に関する著作が多い東海大の山田吉彦教授は「当時は力で解決できない時代だった。力が弱い者が“交渉”することは非常に重要だった」と語る。欧州では戦争による国境画定が一般的な時代、日本は武力が乏しかった。外交で国難を克服した明治人の気概と行動力は実に痛快である。
榎本は数奇な運命をたどった人物だ。江戸幕府海軍の指揮官として明治改元後も新政府に抵抗し、戊辰戦争の最終決戦、箱館(函館)戦争では新選組の土方歳三らと五稜郭に籠城。そして明治2年に降伏した。
榎本の助命に奔走したのは、後に首相となる黒田清隆だ。箱館戦争で新政府軍の参謀だった黒田と榎本は文字通り対峙した。黒田は最後の総攻撃直前、劣勢の榎本に使いを出し、武器弾薬の提供を申し出た。当時の気風はそうだった。
榎本は「ご好意に感謝する」と丁重に断った上で、ある書物を託した。オランダから持ち帰った国際法の教科書「海律全書」だ。
「今後の日本に必ず役立つと思う。新政府でご活用願いたい。決戦の際に消失する恐れがあるので、ぜひ保存願いたい」
黒田は感嘆し、武器の代わりに酒とつまみを届けた。内務卿の大久保利通らに榎本の釈放を嘆願し、頭を丸めアピールした。そして死罪確実といわれてから5年後。榎本は対露交渉で日本の代表となった。
薩摩や長州出身者を中心とする新政府に外交経験者は少なく、国際感覚にたけた榎本の才能は貴重だった。とはいえ、近代国家を歩む上で最優先だった国境画定のために「優秀な罪人」を登用した明治政府の心意気は驚くべきことだ。
明治維新は全てが変容したといっても過言ではない。混迷の時期の中、国境の画定は焦眉の急だった。
明治初期のさまざまな記録を見ると、政府が極力武力に頼らず、国際的な理解を得ながら国境を画定しようとした痕跡が見える。
山田教授は「岩倉具視の遣欧使節団の意味は大きい。欧米を回り自分たちに力がないことを改めて確認すると、交渉しようとなった。不平等条約と向き合い、主権ということに初めて目が向いた」と話す。
新政府は明治4年、公家出身の岩倉を団長とする使節団を結成し、大久保や木戸孝允、伊藤博文ら中枢メンバーが加わった。想像しがたいことだが、政情不安のときに1年10カ月、要人中の要人が日本を留守にして米英独仏などを回った。
産業技術や国民の暮らし、政治・社会制度を直接見た成果は絶大だった。随行員で帰国後に『米欧回覧実記』を刊行した久米邦武はこう回顧している。
「英国は日本と同じ島国なのに大きな船を作り、近代化を進めて国力を広めている。この島国の根性をわれわれは見習わなければいけない」
現在の日本も北方領土をはじめ、韓国が不法占拠する竹島(島根県隠岐の島町)、中国の脅威にさらされる尖閣諸島(沖縄県石垣市)と国境をめぐる懸案は絶えない。しかし、武力による解決は選択肢となり得ない。求められるのは外交力だ。時代や国際環境は大いに変化しても、明治人の精神に学ぶところは多い。
http://www.sankei.com/politics/news/180403/plt1804030002-n1.html