JBpress 4/10(金) 6:00配信
ホロコースト、ポグロムなど、レイシズムに起因する数多の悲劇はどんな時になぜうまれるのか。ファシズムが台頭していた第2次世界大戦中に、人種差別の本質を鋭く問いかける名著があった。『菊と刀』の著者が時代を超えて私たちに提示する解決の方法とは。(JBpress)
(※)本稿は『レイシズム』(ルース・ベネディクト著、阿部大樹訳、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。
■ 排外主義の歴史
レイシズムの研究をしていると、そのドクトリンが政治的な利害関係から形づくられたり、煽り立てられたりすることがあらゆる国で頻繁に起きていると分かる。
ある時は血のつながった兄弟のように国と国が結びつき、またしばらくすれば宿命の仇敵として憎み合う。
第一次世界大戦の前、イギリスの歴史家カーライルとJ・R・グリーンは勇ましいゲルマン系部族がイングランド人の祖先であるとしていた。
しかし1914年には、「ドイツ人は1500年前の蛮族だった頃とまったく変わっていない、我らの祖先を攻め立てて、ローマ帝国の文明を破壊した頃から進歩していない」と。かつて東からやってきたモンゴル帝国の「フン族である」とまで言っている。
そしてロシアは同盟国側についていたから、ケルト人の魂だとかスラヴ人の精神性だとかには丁重な言葉が並べられている。
国家的レイシズムの歴史は、排外主義の歴史そのものである。私たちがヨーロッパの歴史を学び、生物学的な遺伝や慣習の受け継がれていく様式について知り、そして好戦的な愛国主義と一線を引くことができれば、レイシズムは雑音として消えていくに違いない。
しかし私たちが傲慢無知であったり、あるいは恐慌に煽られて平常心を失うとき、分かりやすくて耳に心地よい物語がそっと忍び入る。自暴自棄になったとき、私たちは誰かを攻撃することによって自分を慰める。
物語は、一方で私たちを時代の正統なる相続人と褒めそやし、もう一方で他者を根絶するべき劣悪な血族と貶す。この半世紀をみる限り、レイシズムの幹となっているのは科学ではなく政治である。
現代というナショナリズムの時代には、レイシズムは政治家の飛び道具である。遠ざけたい相手がいれば罵詈雑言をまき散らし、そして協力しておきたい相手がいるときには美辞麗句を送り合う。
歴史をみるならば、レイシストの発する言葉が利己的な動機を隠すためにあることは否定しようがない。四方八方に撃ちまくることで弾幕を張っているのだ。
この世界はこうも問題だらけで、利害がそれぞれに絡み合っている。だから現実の仕事をするためには、レイシストのスローガンの背後にあるものを見つけ出さなければならないし、彼らが扇動しようとする対立が実際のところ何であるかを見極めなければならない。
すべての闘いが悪というわけではないし、時にはそのどちらか一方に加担しなければいけないこともある。しかしその判断は、レイシズムという危うい足場に立って行われるべきではない。
体制側による迫害を正当化するために人種間の対立が言われていることだけ押さえておけば、レイシストの論理にみられる珍妙な矛盾も不思議ではなくなる。
人類の本性に背くものとしてレイシストは通婚を批難し、そして歴史家・生物学者・人類学者がこれを繰り返し論破してきた。「自然が通婚を禁じているなら、どうしてそれがこうも頻繁に起きているのか?」と。
しかし通婚を批難することが常に二つのグループ間に対立関係を生み出すことに着目してみよう。実のところ、批難の対象が人種間の通婚である必要は全くない。ローマの貴族は平民との結婚を嫌ったし、カトリックはユグノーとの結婚を避けていた。
同じ人種にだけ性的魅力を感じる本能が人類に備わっているからではなく、内集団の特権をアウトサイダーに渡したくないために通婚が批判されるのだ。
もしも内集団がアングロサクソン系であるかどうかによって定義されるなら、植民地の先住民族との結婚は否定される(婚外交渉は否定されない)。
インドでの英印混血児や、南米でのムラートが相当な数にのぼることは、他の人種と交わることの禁忌があくまでも文化的なものであって生物学的なものではないことを証明している。
人種差別を目に見える差異によって説明しようとするのも誤りである。顔の形や皮膚の色が違うから人々は人種差別をするのだとしてしまうのは、あまりに表面的だ。
アルビジョアの民衆やユグノーには、皮膚の色や鼻の形状について明らかな差異などなかった。一方で、貧困にあえいでいるかどうかは、皮膚の色と同じくらい外見上の差異を生んだはずだ。
グループをどうやって分けるかは極めて恣意的である。日曜のミサに行くかどうか、hを発音するかどうか、と(英国を中心として、hの発音を省略することは教育程度が低いことを表していると考えられていた)。
原始的な部族民は、同じ人種・同じ言語を使うものであっても、隣の集落の人間をみたら即座に殺すということが知られている。籠の担ぎ方が冒瀆的だからというのがその理由だ。
肌の色が「目に見える」からではなくて、肌の色が何世代にもわたって受け継がれていくということが人種差別をこれまでにない問題としている。
ミサに行くのを止めたり、洗礼を受けるのは簡単である。もともとユグノーであったアンリ四世は「パリが手に入るなら、ミサくらいなんでもないさ」といってカトリックに改宗できた。あるいは戯曲『ピグマリオン』のヒロインは強烈な訛りも上品なオックスフォード風に矯正できた。
しかし肌が黒ければあのように上流階級に潜り込むことはできなかっただろうし、それは孫の代になっても同じことである。境界となるものが永続的であることこそ人種差別の本質であって、「目に見える」かどうかだけが問題なのではない。
歴史を振り返ると、マイノリティの迫害は激しいときもあれば、穏やかなときもあった。しかしそのことは、取り上げられた差異が可視的であったかどうかには関係がなかった。
異人種に対して本能的な敵愾心があるのだとか、目に見える差異があるから反発するのだとかは机上の空論であって、人種差別の本質を考えるうえで大した意味はない。
人種の対立を理解するためには、人種とはなにかではなく、対立とは何であるかを突き止める必要がある。人種差別として表面化したものの奥に、あるいはその根本に何があるのかを知る必要がある。
文明を自負する私たちが差別をなくそうとするなら、まずは社会の不公正を解決する手立てを見つけなくてはならない。
人種とか宗教に寄りかかるのではない形で不公正を是正して、そのことを一人ひとりが共有財産とする必要がある。権力の無責任な濫用をなくし、日々の尊厳ある生活を可能にしてくれる方策ならば、それがどの領域で行われるのだとしても、人種差別を減らす方向に働くだろう。逆に言えば、これ以外の方法で人種差別をなくすことはできない。
■ 敗戦の捌け口に利用したヒトラー
そもそもの問題が人種ではないことに、私たち皆はもう気づいているではないか。既得権益層は死にものぐるいで現状維持を行い、持たざるものがそれを批判する。貧困、雇用不安、政府間の対立、そして戦争。
捨て鉢になった人間は生贄を求める。一瞬の間だけ、惨めな境遇を忘れさせてくれる魔法である。支配する側の人間、搾取する側の人間は生贄を捧げることに反対しない。むしろ積極的にそれを推奨する。人々が暴力沙汰に興じているのは支配層にとって好都合でさえある。もしそれがなくなったら、怒りがいつ自分たちに向くかわからないから。
ナチスの再軍備計画によって民衆の生活は苦しくなった。労働時間が長くなり、それなのに手取り賃金は減った。
そこで1938年にヒトラーは、そもそも1919年にドイツが負けたのはユダヤ人のせいなのだと言い出した。そして暴動を扇動した。――これは二つの目的にかなっていた。栄養不良に陥った国民に怒りの捌け口を、しかも政府にその矛先が向かないような捌け口を作り出すことができた。そしてさらにユダヤ人の資産を政府が接収する口実となった。
第三帝国はヨーロッパに古くからあった反ユダヤ主義に便乗したに過ぎない。人種問題ではなく宗教問題としてだが、中世からユダヤ人迫害はあった。カトリックが異端宗派と交流を持つのを避けるように、ユダヤ教徒とキリスト教徒の結婚は忌避されていた。
十字軍の時代のポグロムは民衆によって行われた。出征の真似をして、キリストの死に復讐しようとしたのだ。十字軍はアラブ人とトルコ人を征伐し、我々はユダヤ教徒を殺す、というように。
つまりユダヤ人とトルコ人は人種として結びつけられたのではない。二つが並列されたのは、前者がキリストを殺し、後者がその墓を手にしているからであった。だからユダヤ人を人種として皆殺しにしようという運動もなかった。回心を表明すれば、ユダヤ教徒はひとまずの安全を手に入れることができた。
ユダヤ人に多少とも好意的な宗教指導者や教皇は、「力によってユダヤ教徒に洗礼を受けさせることがあってはならない、キリスト教の祭礼に参加することや印をつけることを強制してはならない」とする法令を発布している。世界大戦の時までも、レイシストは民族抹殺ではなく混交によって摩擦を解消しようとしている。
19世紀末にドイツ政府内でレイシズムを推し進めた、国家主義の歴史家トライチュケもこれに賛成していた。
■ ドレフュス事件
しかしヨーロッパ全体でレイシストの声が大きくなるにつれて、ユダヤ人はユダヤ教徒としてではなく、ユダヤ人種として攻撃されるようになる。
1880年までに、ポグロムが大波のようにヨーロッパを襲った。土地所有が禁じられていたためにユダヤ人は都市ゲットーで生活せざるを得なかったのだが、このことがユダヤ人はブルジョワジーであって都会生活を謳歌しているのだという風に曲解された。
ユダヤ人は嫌われ、大昔からの宗教上の敵意が増幅されて、排斥は激しくなった。
80年代のドイツでは社会民主党を攻撃するために、(皮肉にもブルジョワジーを中心としていた)保守党員によって反ユダヤ主義のデマゴーグが流布された。そしてユダヤ教会堂は焼き討ちされて、ユダヤ人への暴力は処罰されずに黙認されるようになった。
カトリックの子供の血がユダヤ教の儀式に使われているという噂話が、また広まった。あるいはフランスでは90年代のドレフュス事件によって反ユダヤ主義が爆発した。おそらくこれが戦前期のヨーロッパで反ユダヤ主義の最高潮となった瞬間であろう。
軍隊に代表される反動的党派がアルフレド・ドレフュス大尉を濡れ衣によって「炎上させた」事件は、一年間にわたってフランス世論を二分した(フランスの名誉のために付け加えておくと、陰謀のあったことは後に明らかにされて、ドレフュスは名誉回復された)。
真に反逆の罪を犯していたのは、大衆の反ユダヤ感情を利用して自分たちの地位を守ろうとした軍部である。
■ マイノリティの安全保障
つまり人種差別を最小化するには、差別につながる社会状況を最小化しなくてはならないのだ。人種そのものが対立の火種となることはない。
対立が生じるのは、何らかのグループが、でっち上げによって全体から切り離されるときである(人種差別ではその「何らかのグループ」が人種であるだけで、それが信仰する宗教だとか、社会経済的な階級によって分けられることもある)。
ある集団がマイノリティとなると、法による保護の枠外に置かれて、生活するための権利や、社会参加の機会を奪われてしまう。差別の口実が人種であろうと、それ以外の要因であろうと、このことは変わらない。いずれの場合にも、社会としてあらゆるマイノリティ差別の撤廃に向かっていくことこそ健全と言うべきではないだろうか。
この世界の現況では、あらゆる差別を撤廃するなんて全く実現不可能なことと思われるだろう。しかしこれは単に人種差別をなくすためだけのプログラムではない。ただマイノリティの人権を法律によって保護するよう求めているのでもない。
少数派の生活を保障することは、マジョリティの側も、つまり今のところ迫害する側に立っているひとも、将来の生活について安心できるよう仕組みを作ることである。そうでなければ、どんな条文も、保護政策も、結局はまた新たな犠牲者を、絶望を忘れるための生贄を探し出してくることだろう。
失業対策、最低生活水準の引き上げ、市民権の保障をすれば、どんな国家であれ人種差別を無くす方向に一歩進むことになる。逆に他国民についての恐怖を煽ったり、特定の個人を辱めたり、社会参画を阻害したりすれば、対立は激しくなる。
人類は未だに、家畜小屋から出ることができていない。雄鶏につつかれれば雌鶏もつつくだろう、自分より強いその雄鶏ではなく、自分より弱い別の雌鶏を。そして弱い雌鶏がもっと弱い雌鶏をつつく。それが続いて、最後には一番弱い雌鶏がつつかれて死んでしまう。
人間にもやはり「つつく序列」があって、たとえ「優等人種」に属していようと、つつかれた人間はまた誰か別の人をつつかずにはいられないものだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200410-00060082-jbpressz-life
ホロコースト、ポグロムなど、レイシズムに起因する数多の悲劇はどんな時になぜうまれるのか。ファシズムが台頭していた第2次世界大戦中に、人種差別の本質を鋭く問いかける名著があった。『菊と刀』の著者が時代を超えて私たちに提示する解決の方法とは。(JBpress)
(※)本稿は『レイシズム』(ルース・ベネディクト著、阿部大樹訳、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。
■ 排外主義の歴史
レイシズムの研究をしていると、そのドクトリンが政治的な利害関係から形づくられたり、煽り立てられたりすることがあらゆる国で頻繁に起きていると分かる。
ある時は血のつながった兄弟のように国と国が結びつき、またしばらくすれば宿命の仇敵として憎み合う。
第一次世界大戦の前、イギリスの歴史家カーライルとJ・R・グリーンは勇ましいゲルマン系部族がイングランド人の祖先であるとしていた。
しかし1914年には、「ドイツ人は1500年前の蛮族だった頃とまったく変わっていない、我らの祖先を攻め立てて、ローマ帝国の文明を破壊した頃から進歩していない」と。かつて東からやってきたモンゴル帝国の「フン族である」とまで言っている。
そしてロシアは同盟国側についていたから、ケルト人の魂だとかスラヴ人の精神性だとかには丁重な言葉が並べられている。
国家的レイシズムの歴史は、排外主義の歴史そのものである。私たちがヨーロッパの歴史を学び、生物学的な遺伝や慣習の受け継がれていく様式について知り、そして好戦的な愛国主義と一線を引くことができれば、レイシズムは雑音として消えていくに違いない。
しかし私たちが傲慢無知であったり、あるいは恐慌に煽られて平常心を失うとき、分かりやすくて耳に心地よい物語がそっと忍び入る。自暴自棄になったとき、私たちは誰かを攻撃することによって自分を慰める。
物語は、一方で私たちを時代の正統なる相続人と褒めそやし、もう一方で他者を根絶するべき劣悪な血族と貶す。この半世紀をみる限り、レイシズムの幹となっているのは科学ではなく政治である。
現代というナショナリズムの時代には、レイシズムは政治家の飛び道具である。遠ざけたい相手がいれば罵詈雑言をまき散らし、そして協力しておきたい相手がいるときには美辞麗句を送り合う。
歴史をみるならば、レイシストの発する言葉が利己的な動機を隠すためにあることは否定しようがない。四方八方に撃ちまくることで弾幕を張っているのだ。
この世界はこうも問題だらけで、利害がそれぞれに絡み合っている。だから現実の仕事をするためには、レイシストのスローガンの背後にあるものを見つけ出さなければならないし、彼らが扇動しようとする対立が実際のところ何であるかを見極めなければならない。
すべての闘いが悪というわけではないし、時にはそのどちらか一方に加担しなければいけないこともある。しかしその判断は、レイシズムという危うい足場に立って行われるべきではない。
体制側による迫害を正当化するために人種間の対立が言われていることだけ押さえておけば、レイシストの論理にみられる珍妙な矛盾も不思議ではなくなる。
人類の本性に背くものとしてレイシストは通婚を批難し、そして歴史家・生物学者・人類学者がこれを繰り返し論破してきた。「自然が通婚を禁じているなら、どうしてそれがこうも頻繁に起きているのか?」と。
しかし通婚を批難することが常に二つのグループ間に対立関係を生み出すことに着目してみよう。実のところ、批難の対象が人種間の通婚である必要は全くない。ローマの貴族は平民との結婚を嫌ったし、カトリックはユグノーとの結婚を避けていた。
同じ人種にだけ性的魅力を感じる本能が人類に備わっているからではなく、内集団の特権をアウトサイダーに渡したくないために通婚が批判されるのだ。
もしも内集団がアングロサクソン系であるかどうかによって定義されるなら、植民地の先住民族との結婚は否定される(婚外交渉は否定されない)。
インドでの英印混血児や、南米でのムラートが相当な数にのぼることは、他の人種と交わることの禁忌があくまでも文化的なものであって生物学的なものではないことを証明している。
人種差別を目に見える差異によって説明しようとするのも誤りである。顔の形や皮膚の色が違うから人々は人種差別をするのだとしてしまうのは、あまりに表面的だ。
アルビジョアの民衆やユグノーには、皮膚の色や鼻の形状について明らかな差異などなかった。一方で、貧困にあえいでいるかどうかは、皮膚の色と同じくらい外見上の差異を生んだはずだ。
グループをどうやって分けるかは極めて恣意的である。日曜のミサに行くかどうか、hを発音するかどうか、と(英国を中心として、hの発音を省略することは教育程度が低いことを表していると考えられていた)。
原始的な部族民は、同じ人種・同じ言語を使うものであっても、隣の集落の人間をみたら即座に殺すということが知られている。籠の担ぎ方が冒瀆的だからというのがその理由だ。
肌の色が「目に見える」からではなくて、肌の色が何世代にもわたって受け継がれていくということが人種差別をこれまでにない問題としている。
ミサに行くのを止めたり、洗礼を受けるのは簡単である。もともとユグノーであったアンリ四世は「パリが手に入るなら、ミサくらいなんでもないさ」といってカトリックに改宗できた。あるいは戯曲『ピグマリオン』のヒロインは強烈な訛りも上品なオックスフォード風に矯正できた。
しかし肌が黒ければあのように上流階級に潜り込むことはできなかっただろうし、それは孫の代になっても同じことである。境界となるものが永続的であることこそ人種差別の本質であって、「目に見える」かどうかだけが問題なのではない。
歴史を振り返ると、マイノリティの迫害は激しいときもあれば、穏やかなときもあった。しかしそのことは、取り上げられた差異が可視的であったかどうかには関係がなかった。
異人種に対して本能的な敵愾心があるのだとか、目に見える差異があるから反発するのだとかは机上の空論であって、人種差別の本質を考えるうえで大した意味はない。
人種の対立を理解するためには、人種とはなにかではなく、対立とは何であるかを突き止める必要がある。人種差別として表面化したものの奥に、あるいはその根本に何があるのかを知る必要がある。
文明を自負する私たちが差別をなくそうとするなら、まずは社会の不公正を解決する手立てを見つけなくてはならない。
人種とか宗教に寄りかかるのではない形で不公正を是正して、そのことを一人ひとりが共有財産とする必要がある。権力の無責任な濫用をなくし、日々の尊厳ある生活を可能にしてくれる方策ならば、それがどの領域で行われるのだとしても、人種差別を減らす方向に働くだろう。逆に言えば、これ以外の方法で人種差別をなくすことはできない。
■ 敗戦の捌け口に利用したヒトラー
そもそもの問題が人種ではないことに、私たち皆はもう気づいているではないか。既得権益層は死にものぐるいで現状維持を行い、持たざるものがそれを批判する。貧困、雇用不安、政府間の対立、そして戦争。
捨て鉢になった人間は生贄を求める。一瞬の間だけ、惨めな境遇を忘れさせてくれる魔法である。支配する側の人間、搾取する側の人間は生贄を捧げることに反対しない。むしろ積極的にそれを推奨する。人々が暴力沙汰に興じているのは支配層にとって好都合でさえある。もしそれがなくなったら、怒りがいつ自分たちに向くかわからないから。
ナチスの再軍備計画によって民衆の生活は苦しくなった。労働時間が長くなり、それなのに手取り賃金は減った。
そこで1938年にヒトラーは、そもそも1919年にドイツが負けたのはユダヤ人のせいなのだと言い出した。そして暴動を扇動した。――これは二つの目的にかなっていた。栄養不良に陥った国民に怒りの捌け口を、しかも政府にその矛先が向かないような捌け口を作り出すことができた。そしてさらにユダヤ人の資産を政府が接収する口実となった。
第三帝国はヨーロッパに古くからあった反ユダヤ主義に便乗したに過ぎない。人種問題ではなく宗教問題としてだが、中世からユダヤ人迫害はあった。カトリックが異端宗派と交流を持つのを避けるように、ユダヤ教徒とキリスト教徒の結婚は忌避されていた。
十字軍の時代のポグロムは民衆によって行われた。出征の真似をして、キリストの死に復讐しようとしたのだ。十字軍はアラブ人とトルコ人を征伐し、我々はユダヤ教徒を殺す、というように。
つまりユダヤ人とトルコ人は人種として結びつけられたのではない。二つが並列されたのは、前者がキリストを殺し、後者がその墓を手にしているからであった。だからユダヤ人を人種として皆殺しにしようという運動もなかった。回心を表明すれば、ユダヤ教徒はひとまずの安全を手に入れることができた。
ユダヤ人に多少とも好意的な宗教指導者や教皇は、「力によってユダヤ教徒に洗礼を受けさせることがあってはならない、キリスト教の祭礼に参加することや印をつけることを強制してはならない」とする法令を発布している。世界大戦の時までも、レイシストは民族抹殺ではなく混交によって摩擦を解消しようとしている。
19世紀末にドイツ政府内でレイシズムを推し進めた、国家主義の歴史家トライチュケもこれに賛成していた。
■ ドレフュス事件
しかしヨーロッパ全体でレイシストの声が大きくなるにつれて、ユダヤ人はユダヤ教徒としてではなく、ユダヤ人種として攻撃されるようになる。
1880年までに、ポグロムが大波のようにヨーロッパを襲った。土地所有が禁じられていたためにユダヤ人は都市ゲットーで生活せざるを得なかったのだが、このことがユダヤ人はブルジョワジーであって都会生活を謳歌しているのだという風に曲解された。
ユダヤ人は嫌われ、大昔からの宗教上の敵意が増幅されて、排斥は激しくなった。
80年代のドイツでは社会民主党を攻撃するために、(皮肉にもブルジョワジーを中心としていた)保守党員によって反ユダヤ主義のデマゴーグが流布された。そしてユダヤ教会堂は焼き討ちされて、ユダヤ人への暴力は処罰されずに黙認されるようになった。
カトリックの子供の血がユダヤ教の儀式に使われているという噂話が、また広まった。あるいはフランスでは90年代のドレフュス事件によって反ユダヤ主義が爆発した。おそらくこれが戦前期のヨーロッパで反ユダヤ主義の最高潮となった瞬間であろう。
軍隊に代表される反動的党派がアルフレド・ドレフュス大尉を濡れ衣によって「炎上させた」事件は、一年間にわたってフランス世論を二分した(フランスの名誉のために付け加えておくと、陰謀のあったことは後に明らかにされて、ドレフュスは名誉回復された)。
真に反逆の罪を犯していたのは、大衆の反ユダヤ感情を利用して自分たちの地位を守ろうとした軍部である。
■ マイノリティの安全保障
つまり人種差別を最小化するには、差別につながる社会状況を最小化しなくてはならないのだ。人種そのものが対立の火種となることはない。
対立が生じるのは、何らかのグループが、でっち上げによって全体から切り離されるときである(人種差別ではその「何らかのグループ」が人種であるだけで、それが信仰する宗教だとか、社会経済的な階級によって分けられることもある)。
ある集団がマイノリティとなると、法による保護の枠外に置かれて、生活するための権利や、社会参加の機会を奪われてしまう。差別の口実が人種であろうと、それ以外の要因であろうと、このことは変わらない。いずれの場合にも、社会としてあらゆるマイノリティ差別の撤廃に向かっていくことこそ健全と言うべきではないだろうか。
この世界の現況では、あらゆる差別を撤廃するなんて全く実現不可能なことと思われるだろう。しかしこれは単に人種差別をなくすためだけのプログラムではない。ただマイノリティの人権を法律によって保護するよう求めているのでもない。
少数派の生活を保障することは、マジョリティの側も、つまり今のところ迫害する側に立っているひとも、将来の生活について安心できるよう仕組みを作ることである。そうでなければ、どんな条文も、保護政策も、結局はまた新たな犠牲者を、絶望を忘れるための生贄を探し出してくることだろう。
失業対策、最低生活水準の引き上げ、市民権の保障をすれば、どんな国家であれ人種差別を無くす方向に一歩進むことになる。逆に他国民についての恐怖を煽ったり、特定の個人を辱めたり、社会参画を阻害したりすれば、対立は激しくなる。
人類は未だに、家畜小屋から出ることができていない。雄鶏につつかれれば雌鶏もつつくだろう、自分より強いその雄鶏ではなく、自分より弱い別の雌鶏を。そして弱い雌鶏がもっと弱い雌鶏をつつく。それが続いて、最後には一番弱い雌鶏がつつかれて死んでしまう。
人間にもやはり「つつく序列」があって、たとえ「優等人種」に属していようと、つつかれた人間はまた誰か別の人をつつかずにはいられないものだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200410-00060082-jbpressz-life