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「日本人として五輪に出たい」聖火リレー最終走者・大坂なおみが背負わされた“金メダル以上のウソと重圧”

2021-08-01 | 先住民族関連
文春オンライン 7/31(土) 11:12
 赤いブレイズヘアに赤白のシュシュ、真っ赤なワンピースウェアに白いラケット、赤いリストバンドに白い時計―――。少なくともファッションでこれほど大胆に<日本>をアピールしたアスリートが他にいただろうか。それができるかどうかは競技にもよるが、大坂なおみはテニスという競技のファッション性と自身が持つ個性を最大限に生かし、全身をジャパンカラーでコーディネートして初めての五輪の舞台を戦った。まるで、日本代表として東京に立つ自分自身を祝福するかのように。
将来の目標は「オリンピックに出場すること、そして幸せになること」
 まだ日本で一般的にはその名前すら知られていなかった頃、大坂は将来の目標を尋ねられるとこう答えていた。
「ナンバーワンになること、できるだけ多くのグランドスラム・タイトルを取ること、オリンピックに出場すること、そして幸せになること」
 世界1位を目指し、複数回のグランドスラム優勝を目標として口にする選手なら、バランス的にふさわしい3つ目の目標は「オリンピックで金メダルを取ること」だろう。しかし、大坂にとってオリンピックは出場そのものが夢だったのだ。複雑なバックグラウンドの中で抱いたピュアな心情を、私たち多くの日本人はどこまで理解できていただろうか。
 日本人の母とハイチ系アメリカ人の父の間に大阪で生まれ、3歳のときにはニューヨークに渡るが、14歳から参戦しているプロサーキットでは初めから日本国籍を登録して戦ってきた。以前、その理由を尋ねると、「日本の文化が好きで日本の人たちも好きだし、私はシャイな性格で、日本人というほうが自分の中ではしっくりくる」と答え、「それと、東京オリンピックに日本人として出たいから」と続けた。
 少女時代からの夢だった世界1位もグランドスラム優勝も叶え、人生をダイナミックに変えた大坂が今でも「内面は日本人」という感覚のままでいるかどうかは、確認してみたことがないのでわからない。しかし、日本の法律で22歳の誕生日までと定められている国籍選択にあたって、日本を選んだという事実には「日本人として東京五輪に出たい」という思いが貫かれている。
 出場することこそが目標だった大坂は、あれよあれよという間に有力な金メダル候補となり、最終的にはこの東京五輪が掲げる理念を象徴する存在としてそこに立つことになった。開会式のクライマックス―――聖火台へ点火をするリレーの最終走者として。
「間違いなく、アスリートの人生でもっとも大きな成果であり名誉です。今の気持ちをどう表現したらいいのかわかりませんが、感謝の思いでいっぱいです」
 大役を終えたあとSNSにそう綴り、その感動に酔いしれた。
『多様性と調和』のアイコンとして選ばれたが…
 極秘の依頼を大坂自身が知ったのは、今年3月のことだったという。全豪オープンでグランドスラム4つ目のタイトルを獲得して間もない頃ということになる。
 最終点火者をそのオリンピックに出場する現役選手が務めた例はわずかだ。近いところでは、2000年のシドニー五輪でオーストラリアの先住民族であるアボリジニの陸上選手、キャシー・フリーマンがいるが、彼女はすでに2度の五輪経験があり銀メダルも獲得していた。五輪での実績がまったくない大坂の起用は、異例中の異例といっていい。
 しかし、大会の基本コンセプトの一つとして『多様性と調和』を掲げる東京五輪にとって、世界的な知名度や発信力も合わせて大坂ほどふさわしい人物はいなかったかもしれない。女性であることも望ましかった。3月といえばすでに、大会組織委員会の元会長・森喜朗氏の女性蔑視発言が招いた騒動により、ジェンダー・ギャップに対する日本人の遅れた意識が浮き彫りになってもいた。
 シドニーでフリーマンが金メダルを獲得したように、大坂にも壮大なシナリオが描かれていたに違いない。しかし聖火台にもっとも近い場所にいたあの夜から4日後、夢の舞台は3回戦敗退というかたちで幕が下ろされた。
大坂にとっては天候が災いした3回戦
 1回戦、これ以上はない立ち上がりで世界ランク52位の鄭賽賽(中国)を圧倒し、好調なサーブを維持して2回戦も世界ランク50位のビクトリア・ゴルビッチ(スイス)に快勝した。高温多湿のフロリダを長く拠点としてきたこともあり、過酷な東京の夏にも対応。もっとも暑い時間帯の試合でも、辛そうな表情すら見せなかった。
 続く3回戦の相手は、チェコのマルケタ・ボンドロウソバ。現在は世界ランク42位だが、2019年の全仏オープンの準優勝者でその後14位までランキングを上げた時期もある左利きの22歳だ。要警戒の敵を前に、大坂にとっては天候が災いしたかもしれない。雨天のために屋根は閉じられ、空調をきかせた中での戦いは、暑さが苦にならないという大坂のアドバンテージを削いだだけでなく、ボンドロウソバの最大の武器であるドロップショットの精度を高めた。風の影響を受けやすい繊細なショットは、屋内環境でより有効だ。実際、大坂は要所でこのドロップショットに何度も苦しめられた。前日までとは一変してミスが増えたのは、屋根を閉めたことによって気温や湿度が変化した影響も考えられる。ボールの重さやバウンドが微妙に変わるからだ。
 ただ、そうはいっても、日々変わる環境に対応していかなければならないのは今大会に限ったことではない。ハードコートの女王は、1-6、4-6というまさかの敗退にこう語ったという。
「私への期待の大きさは感じていたし、それは明らかにプレッシャーになった。オリンピックに出場したことがなかったからかもしれない。初めての年にしては(期待が)大きすぎた」
大坂に与えられた“嘘を覆い隠す役目”
 大坂が背負っていたものは、金メダルへの期待以上のものだった。開会式で大坂の存在に託されたメッセージは初めから十分重いものだったが、コロナ禍で疑問視される開幕が近づくにつれてその重みは増し、最後の数日にはもう抱えきれないほどだったのではないか。開会式の演出チームのメンバーの辞任や解任が続出し、その原因となった彼らの言動はいずれも「多様性を認め合う社会の実現」という理想とは程遠い日本の現実。開会式でどんな演出を見せたところで、そらぞらしさ、わざとらしさが見え隠れする。総仕上げに登場した作り物でない生身の大坂なおみには、そうした嘘を覆い隠す役目すら与えられたかのようだ。
 しかし、この数ヶ月、大坂に戸惑いや躊躇は一切なかったという。エージェントのスチュアート・ドゥグッド氏は、「ためらいなどあるはずもないし、後悔もしていない。なおみのキャリアにとって非常に大きな名誉であり、後々まで記憶されるすばらしい出来事だった」と断言する。
 重圧の背景には、大坂自身の事情もあっただろう。5月の全仏オープンの直前に記者会見拒否宣言という爆弾級の<一石>をテニス界に投げ込み、大騒動の中で1回戦に勝利しながらも次戦の前に棄権。さらには、長く苦しめられていたうつ症状をSNSで告白し、「しばらくコートを離れるつもり」と告げてウィンブルドンも欠場した。今回が約2ヶ月ぶりの試合だったことに加え、例の記者会見問題のせいでメディアへの対応ぶりにも別の視点が加わった。
 それにしても、2ヶ月後に五輪の火を聖火台へと灯す自分の立場を知った上でのあの行動だったということに、あらためて驚愕する。ブラック・ライブズ・マター運動も然り、まるで自ら重圧の中に飛び込んでいくような大坂の挑戦の行き着く先はどこだろうか。ちなみに、「アスリートの心の健康にも配慮し、時代遅れのシステムを変えるべき」という主張は今も曲げていない。
 五輪のコートで最大の成果を得ることはできなかったが、テニスは休む間もなく夏のアメリカ・シーズンへと突入する。そのクライマックスは2年連続3度目の優勝がかかった全米オープンだ。大坂のコート内外での戦いは続く。
山口 奈緒美/Webオリジナル(特集班)
https://news.yahoo.co.jp/articles/9c2cbd80126f2d3e9339552c623571183fb8c350?page=1

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「母国で仲間が殺されている」ナイジェリア・ビアフラ出身女性の悲痛な願い

2021-08-01 | 先住民族関連
SPA! 7/31(土) 8:50
身の危険があり帰国できずにいるが、難民申請は認められない
 7月16日、港区虎ノ門にあるナイジェリア大使館前で「ビアフラ」という地域の出身者による抗議行動が行われた。東京をはじめ、大阪、愛知、神奈川など、日本各地から100人以上が梅雨明けの炎天下に集まった。
 日本人配偶者がいてビザのある人もいるが、中には難民申請中で仮放免の立場に置かれている人たちも参加していた。
「ナイジェリアでは、ビアフラの人々が日々殺されています。その方法は残酷で、目を潰したり、両手を切り落としたり。ひどい殺され方をしています」
 怒りの混じった表情でそう話してくれたのは、この行動に参加していたエリザベスさんという女性だ。彼女はビアフラ出身で、1991年に来日した。長年日本に暮らしているがいまだに難民として認められず、一切の在留資格を与えてもらえていない。
 彼女は身の危険があるナイジェリアに帰ることができず、保険も就労資格もない仮放免の状態のまま苦しい生活を強いられている。過去には出入国在留管理庁(入管)の、処遇が劣悪な収容施設に2度も収容されていた苦い経験も持っている。
 彼女は普段、ボランティアをしている。入管収容施設にたびたび足を運んでは、被収容者に面会して励ましたり、入管に難民の権利を訴えたりと、ほぼ毎日のように活動している。今年4月に入管法改正案が衆議院で審議入りとなった時にも、多くの支援者とともに廃案を求めて国会前でシット・イン(座り込み)を何日も続けていた。
ナイジェリアの「ビアフラ戦争」の問題はまだ終わっていない
 今回の大使館前の抗議行動は、ほんどが男性の参加者ばかりだったが、彼女は中心メンバーの1人として母国の平和のために声をあげ続けた。
 発端はビアフラ戦争から始まった。ビアフラ戦争とは1967年7月から1970年1月までナイジェリア国内で起きた内戦だ。東部州軍政知事のオドメグ・オジュク氏が「ビアフラ共和国」として分離・独立を宣言して戦争が始まり、ビアフラ側の敗北に終わった。オジュク氏は海外に亡命、200万~300万人の死傷者・餓死者が出た。
 この内戦は50年前に終結したように思われているが、実はこの問題は終結していない。ビアフラの人々に対するナイジェリア政府の迫害は、現在も続いているのだ。ナイジェリアがビアフラの独立を抑えようとする大きな要因は、南東部に位置するビアフラの土地は石油埋蔵量が豊富であるからだと言われている。
「ボコ・ハラム」などの武装勢力も現れて、ナイジェリア国内はさらなる混沌をひき起こしている。村や学校を襲撃しては虐殺を行ったり、生徒を誘拐したりといった残虐な行いを繰り返している。
 大使館前のデモに参加した人々は口々に説明してくれた。
「子供だって容赦してくれません。妊婦すら胎児ごと殺されてしまうなど、罪のない人たちが苦しめられています」
「政府はボコ・ハラムなどの武装勢力にお金を渡して、ビアフラの人たちを殺すように煽っているのです」
「日本で暮らしていて、ビザのある人は里帰りすることもできます。それでも、あまりの治安の悪さから危険を伴います」
ビアフラ民族組織の指導者をナイジェリア政府が拘束
 今年6月、平和的な住民投票によるビアフラ分離独立を目指す民族組織「IPOB」(ビアフラ先住民族)指導者のンナムディ・カヌ氏が、ナイジェリア政府に拘束された。カヌ氏自身はイギリス国籍だが、ケニアに滞在中、ナイジェリア政府がケニア政府にカヌ氏の身柄引き渡しを要求したため、6月18日にケニアの秘密警察に空港で拘束され、6月27日ナイジェリアに強制送還された。
 その処遇は決して良いものではなく、健康状態も良くないという。「命すら危うい可能性もある」と参加者たちは危惧している。今回の行動は、カヌ氏の解放を求めるための抗議行動でもあった。そんな経緯から、この日はナイジェリア大使館だけでなくイギリス大使館、ケニア大使館にも足を運ぶ予定になっていた。
 ナイジェリア大使館前では職員が外に出てきて、参加者の前で要求が書かれた申し入れ書を受け取り、「上の者に必ず伝える」と全員に伝わるように答えた。誠実な態度だった。参加者の話によると、「あの職員もビアフラ出身」なのだそうだ。
イギリス大使館、ケニア大使館にも申し入れ
 次に、千代田区にあるイギリス大使館まで電車で移動した。イギリス大使館はなぜか警察の警備が非常に厳しく、100人以上の参加者を大使館とは反対側の歩道に立たせ、代表者5名までしか大使館前まで行くのは許さないと告げられた。
 ナイジェリア大使館とは違ってイギリス大使館の職員は出てくる意思がなく、「警備員が代わりに申し入れ書を受け取る」と言ってきた。そのことで参加者たちは怒り出した。警察官と言い合いになり、反対側の歩道で待機していた人たちもガードレールを乗り越えて道路を渡り、大使館に向かってこようとした。
 警察官の数も増えていき、緊迫した状態がしばらく続いた。参加者たちは「イギリス国籍であるカヌ氏を助けるために協力してほしい」と、抗議というよりも「嘆願」に来ていただけだっだ。代表たちは「イギリス大使館の職員が直接、手紙を受け取ってくれるまでは帰らない」と、強い姿勢を見せた。
 そもそもナイジェリアの民族紛争には、イギリスの植民地支配が大きく影響している。それぞれ独自の文化を持っていた民族グループが、1870年代以降のイギリスによる植民地化で1つにまとめられた。そして1950~1960年代にアフリカ諸国が次々と独立した時、そこに住む人々の民族的・文化的な背景は考慮されることなく、イギリスの都合で国境が引かれてしまったのだ。
 参加者に対してイライラしていた警察たちも、だんだんと参加者たちの気持ちを汲み取るようになった。「大使館の人さえ出てくれば済む話なのに」と同調してくれるようになり、緊張していた場が少しずつ緩んできた。
 最終的には職員が直接、参加者に申し入れ書を受け取ることを了承し、この場は無事に終わることができた。参加者たちは警察に何度も「ありがとうございました」とお礼を言い、警察側も「よかったね、よかったね」と優しい言葉を彼らにかけた。
 最終地点はケニア大使館。住宅街にあるため、近隣に迷惑をかけないように代表の数人のみ行くことになり、ここでいったん解散となった。炎天下の中を移動して何時間も立ち続け、誰もがかなりの消耗をしたことだろう。ゆっくり休んでもらいたい。
 日本からするとナイジェリアの紛争は、海をはるか越えた遠いできごとのように感じるかもしれない。それでもエリザベスさんは、「たくさんの人たちが殺されている。多くの日本人にも、この問題を知られてほしい」と切実に語る。
 エリザベスさんやビアフラの人々が願う独立や平和は、いつかなうのだろうか。日本人の関心が高まることを願ってやまない。
文・写真/織田朝日
https://news.yahoo.co.jp/articles/eca22fb2fdf8a4b6e5965e629286c1c352c0569a?page=1

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