PHPオンライン衆知 2021/08/10 12:00
戦争は農耕とともに始まった。そして、縄文人は戦争を誘発する農耕を狂気とみなし、稲作を拒み続けた。
歴史作家の関裕二氏によれば、「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解けるという。
※本稿は、関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
縄文人が水田稲作をはじめていた証拠
長い間、弥生時代は「弥生土器を使用した時代」と考えられていた。しかし、考古学の進展によって、この定義が揺らぎつつある。弥生土器=遠賀川式土器の出現と共に、水田稲作が始まったというかつての常識は、もはや通用しなくなったのだ。縄文から弥生時代への移り変わりがグレーゾーンに入った。近年しきりに耳にするのは、「縄文と弥生の境目がわからなくなった」という話である。
縄文土器を使っていたのが縄文時代で、弥生土器を使っていたのが弥生時代と考えているようでは、もはや時代遅れなのだ。土器は技術が伝承され、文化は継続されるのだから、はっきりとした時代区分はできないというのが、すでに常識となりつつある。弥生土器のような縄文土器があるかと思えば、縄文の息吹を感じさせる弥生土器もある。境界線が、じつに曖昧なのだ。
ならば、稲作をはじめた地域から、弥生時代は始まったと言い換えればよいのだろうか。
ところが、稲作をはじめた地域の人間の使う道具が縄文的な香りを残していたりする。いつから、その地域が弥生時代に突入したのかも、線引きが難しくなってきた。だから、「縄文晩期末にすでに稲作は始まっていた」、「いや、稲作が始まった時点で、それはもうすでに弥生時代だから、弥生時代早期と呼ぶべきだ」と、色々な区切り方が生まれてきてしまうのだ。
昭和53年(1978)から翌年に板付遺跡(福岡県福岡市)の調査が行われ、弥生時代をめぐる学説の迷走は始まったのだ。縄文時代晩期と信じられてきた夜臼式土器の時代の遺跡から、水田遺構と木製の鍬、石製の穂積具(石包丁)、炭化したコメ(ジャポニカ)がみつかった。明らかに「縄文人が水田稲作をやっている!!」という、それまでの常識では考えられない事態に、みな戸惑ったのである。発掘に携わった山崎純男は、これを「縄文水田」と、断言した(森岡秀人・中園聡・設楽博己『先史日本を復元する4 稲作伝来』岩波書店)。
水田遺構は、幹線水路、井堰、出水路、排水路、畦畔など、しっかりとしたものだった。
水田から水が流れ落ち、下の段の水田に水を供給するシステムまで、すでに登場していたのだ。水田のあとには、人の足跡が残されていて、福岡県警の鑑識も協力し、身長164センチという、当時にしては高身長だったこともわかった。縄文時代から継承された生活道具で暮らしながら、新来の水田技術を駆使していた様子が浮かび上がってくる。
ちなみに、遺跡のある「板付」は、福岡空港のすぐ脇で、かつてこの空港は板付空港とも呼ばれていた。それはともかく、夜臼式土器は、刻目をもつ突帯文土器で、縄文土器の伝統を継承していた。
興味深いのは、戦後すぐ、板付遺跡で板付Ⅰ式土器が発見されていたこと、その後北部九州では、夜臼式土器と板付Ⅰ式土器がともに出土する例が多かったが、板付Ⅰ式土器は、遠賀川式土器の最古の物と位置づけられていたことだ。遠賀川式土器といえば、弥生前期を代表する土器である。
考古学者はこう判断した。夜臼式土器は縄文時代の終わりに、板付Ⅰ式土器は、弥生時代の始まりに作られた、というのだ。つまり、板付遺跡は、縄文から弥生への過渡期の遺跡ということになろうか。
一方、昭和54年(1979)に、菜畑遺跡(佐賀県唐津市)で夜臼式土器よりも古い、山ノ寺式土器と同時代の水田が出現したのだ(ちなみに、その後、この水田が夜臼・板付Ⅰ式まで時代が下ると、報告は変更されるのだが)。また、弥生時代前期と見なされていた石器が、出土していた。
昭和55年(1980)には、曲田遺跡(福岡県糸島郡二丈町)の住居跡から、夜臼式土器よりも古い突帯文土器(曲り田式)と共に、大陸系の磨製石器だけではなく、なんと鉄器まで埋まっていたのだ。
縄文晩期から弥生時代中期にかけて、日本の土器が朝鮮半島南部に流れ込んでいたこともわかってきた。釡山市の東三洞貝塚から、九州の縄文土器が大量に発見されてもいる。
北部九州沿岸部に朝鮮半島の土器がもたらされるようになったのは、弥生時代前期後半ごろだ、しかもその規模はわずかで、先住の民の集落の片隅に、渡来系の人びとが、肩を寄せ合って暮らしていたイメージだ。そして、その後、集落の人びとと融合し、同化していったのである。
この結果、縄文時代晩期末と弥生時代前期が、交錯してくることがわかってきたのだ。縄文時代から弥生時代に切り替わったというよりも、少人数の渡来とともに縄文人が水田稲作を受け入れ、次第に、朝鮮半島からもたらされた文化に染まっていったことがわかってきた。
最初から稲作一辺倒だったわけではない
ところで、すでに触れたように、縄文時代にすでに稲作は行われていた。縄文中期末(約4500年前)の土器の表面に、稲籾の圧痕が着いていたのだ。
「本当に稲なのか」と、疑われることもあったが、イネ科植物に含まれるケイ酸の化石(プラントオパール)が、縄文後期中ごろの土器の胎土に含まれていたことから、縄文時代の稲作は、確実視されるようになった。ただし、水田ではなく、陸稲だった。また、縄文後期中ごろから、オオムギ、ハトムギ、ヒエ、アワなどの穀物や豆類の圧痕もみつかっている。
また、縄文系と思われていた突帯文土器の時代に、すでに水田稲作が行われていたのは、北部九州沿岸部だけではない。四国、中国、近畿でも、同じように、水田稲作民が登場していたのだ。
穀物を栽培していた縄文後・晩期の西日本の縄文人を、考古学では「園耕民」と呼ぶ。彼らは川の下流部には住まなかった。たとえば稲作がもっとも早い段階に始まった早良平野でも、園耕民は、川の中流、上流で暮らしていた。
縄文人は低湿地を好まない。縄文海進によって海面が高かった時代から続く伝統だ。穀物だけではなく、さまざまな手段で食料を調達する園耕民は、川の上流側を選んだ。
ところが、縄文時代の晩期は冷涼多雨で、下流域に稲作に適した低湿地が形成されつつあった。これは偶然なのか、あるいは、この自然条件があったから、縄文人が生業を変えようと決意したのかどうか、よくわからないが、ここで水田稲作が始まったのは間違いない。
この時代の遺跡からは、水田稲作に用いる新たな道具に混じって、縄文人が陸稲栽培に用いた打製の土掘り具が見つかっている。また、食料も、縄文時代以来継承されてきたような、「多彩な食物(イノシシやシカなどの動物、魚貝類、ドングリ)採取がメインで、米食は補完」と考えた方が正確なのだ。2つの生産方式を並行して行っていた。はじめは従来の食料を補完するために、水田稲作を選択したわけである。
ただし、やがて水田の面積は広がり、採集や狩猟は下火になっていくのである。
そしてもう1つ、縄文から弥生への転換期を考える上で大きな意味をもってきたのが、「いつごろ水田稲作を始めたのか」だった。
かつて、弥生時代の始まりは、紀元前300年から、同500年ごろと信じられていた。
このころ、中国大陸では、春秋戦国という大混乱の時代だったのだ。多くの難民が海に逃れ、日本列島に押し寄せて、弥生時代は始まったと信じられていた。
ところが、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりは紀元前10世紀後半と考えられるようになり、「稲作を選択したのは縄文人だった」という考古学の証言とも、一致してきた。さらに、稲作はゆるやかに東に伝わっていったと考えられるようになった。
考古学者・金関恕(かなせきひろし)は、『弥生文化の成立』(角川選書)の中で、弥生時代の始まりを、次のように総括する。要約しておく。
(1)イネは遅くとも縄文時代後期に日本に伝わり陸稲として栽培されていた。
(2)朝鮮半島南部とは密接な交流があり、縄文人が主体的に必要な文化を取捨選択した。
(3)縄文人と渡来人は当初棲み分けを果たし、在地の縄文人が自主的に新文化を受容した。
(4)まとまった渡来人の移住は、弥生時代初期ではなく、そのあと。
こうして、「渡来人に席巻されて稲作が広まった」というかつての常識は、完ぺきに覆されたのだ。
弥生文化はバケツリレーで広まった?
くどいようだが、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりが数百年古くなった。ちなみに、なぜここまで大きく、年代観がずれていたのかというと、炭素14年代法が確立する以前は、土器編年によって、「おおよその年代」を推定していたのだ。
つまり、この土器よりもこちらの土器の方が古い、という、「土器が作られた順番」を正確に把握し、それを並べていき、東アジアの土器と比べたり、出土する地層も鑑み、などなどの作業を積み重ね、年代観は「推定」されていたのだ。しかし、世界中の考古学者、史学者が炭素14年代法を認めるようになったため、日本だけが従来の年代観にこだわっていると(こだわりたくなる気持ちもわかるのだが)、世界の年代観と合致しなくなってしまうのだ。
この結果、稲作の急速な普及という前提は、崩れ去った。征服者が押し寄せてきたのではなく、「バケツリレー」という言葉が使われるようになった。そして逆に、なぜ稲作は、一度東への進出を停滞させたのか、という謎が湧きあがってきたのである。
日本の「農耕社会化」は「弥生化」と呼ぶ。小林青樹は、弥生化に時間がかかった理由を、目に見えない「縄文の壁」があって、文化的攻防が勃発していたからだと指摘している(『弥生時代はどう変わるか』学生社)。
どういうことか、説明しておこう。
小林青樹は、縄文人が壁を取り払い、弥生人になるためには、大きな決断が必要であり、また水田稲作をはじめるには、共同作業をするのだから、集団の同意がなければならなかったと指摘する。また、新しい社会の枠組みを構築する必要もあったと、まず前置きをする。
その上で、「縄文の壁」は、6つの地域に存在したという。(1)南島の壁、(2)九州の壁、(3)中国地方と四国の壁、(4)中部の壁、(5)東日本の壁、(6)北海道の壁だ。このうち、南島と北海道は、弥生時代には突破できなかった。
北部九州でも、水田、環濠集落、金属器、弥生土器すべてが揃うまで、約200年を要している。弥生時代前期の関門海峡の東側では、日常生活でいまだに縄文系の道具類を使用していた。また、板付遺跡を起点にして、関東に弥生文化が到達するまで、400〜500年、最初の水田が北部九州にできてからだと、約700〜800年かかっている。
したがって「弥生時代」と一つに括ってしまっているが、その弥生時代の3分の2の時間は、縄文的な暮らしを守ろうとする人たちと、新しい生活を始めた人たちが共存していた時期だったことになる。
この間、兵庫県神戸市付近( 新方遺跡。明石駅の北側)では、弥生前期に、無理矢理近畿側に越えようとした「弥生人」と在地民の間に小競り合いがあったようだ。縄文系の人骨が出土していて、6体の人骨のうち、5体に石鏃が伴っていたのだ。10数本の矢を受けていた。
戦争は農耕とともに始まった
東の縄文人は、なぜ弥生化を拒み続けたのだろう。
広瀬和雄は弥生文化が、日本文化の源流として、次の三つの特性を持っていたと指摘している。端的に弥生時代を表現していて、じつに参考になる。
第一は、水田稲作や金属器の製作・使用に代表される大いなる技術革新で、文明社会のいわば正の側面である。第二は、社会の階層化や戦争や環境破壊など、その負の側面とも言えるものである。第三は、そうした正・負の要素が中国王朝を中核にした東アジア世界のなかで動きはじめる、いうならば国際化である(『歴博フォーラム 弥生時代はどう変わるか』学生社)
かつて、弥生時代の始まりは、文明開化とみなされていた。それが、第一と第三の指摘に当たる。その一方で、第二の負の側面も、ようやく注目されるようになってきたのだ。それは特に、九州や西日本で顕著だった。
北部九州で始まった水田稲作は、大きな社会変革をもたらした。
具体的にいえば、富が蓄えられ、首長(王)が生まれた。弥生時代の到来によってもたらされた「縄文と異なる文化要素」は、水田だけではなく、武器、環濠も重要だった。水田は、それまで園耕民が行っていた農作業とは比べものにならないほど大規模で、人びとの共同作業が求められた。そして、それを指導し指揮する者が集団のトップに立つ。
こうして、弥生化が進むと、戦争が勃発する。コリン・タッジは人類が戦争を始めたのは、農業を選択したからだと述べている(竹内久美子訳『農業は人類の原罪である進化論の現在』新潮社)。
おそらくその通りだろう。余剰が生まれ、人口は増え、新たな農地と水利を求め、争いが起きた。日本列島でも、組織的な戦争は、弥生時代から始まったようだ。佐原眞も日本で初めて戦争が起きたのは弥生時代だといっている。
神話の中で日本の国土は武器(矛)を用いて作り出された。乱暴者のスサノヲをアマテラスは「弓矢」で迎え撃とうとしている。葦原中国を平定に向かった武甕槌神(たけみかづちのかみ)は剣の神だ。天孫降臨も神武東征も、武人が活躍する(『大系日本の歴史1 日本人の誕生』小学館)。日本神話の神々は、好戦的で弥生的だ。
その上で、戦争を次のように定義している。すなわち「考古学的事実によって認めることの出来る多数の殺傷をともないうる集団間の武力衝突」(佐原眞編『古代を考える稲・金属・戦争』吉川弘文館)だという。そして、戦争の証拠の九割は、農耕社会から出土すると指摘する。
戦争が始まった具体的証拠
さらに佐原眞は、具体的な証拠を、以下の通り羅列する。要点をまとめておく。
A 守りの村=防禦集落(町・都市) 高地性集落 環濠集落 逆茂木など
B 武器 弓矢、剣、矛、戈、武具など
C 殺傷(されたあとを留める)人骨
D 武器の副葬=遺体に副える
E 武器形祭器=武器の形をした祭祀、儀式の道具
F 戦士・戦争場面の造形
その上で、このような考古学資料がみつかる地域は、北部九州から伊勢湾沿岸までの範囲で、環濠集落・高地集落が存在し、ヤジリが発達していること、この地域で戦争が起きていたこと、南部九州・長野・北陸・新潟・東海・南関東は、戦争は知っていたが実際に戦っていたかどうかはわからない社会だと指摘している(前掲書)。
ヤマト建国の直前には倭国大乱が勃発していたが、春成秀爾はその原因を鉄と流通にあったと推理している(『日本史を学ぶ 一』有斐閣)。
抗争が始まったのは弥生中期中ごろで、人口増に伴い、前期の氏族社会が一度分裂し、新たな耕地を開発する段階だった。農業共同体ごとに、高地性集落が形成されるが、その分布域が、銅鐸文化圏とほぼ重なる。高地性集落は防御力が強く、「攻められる側」と、想定できる。
この文化圏内では、石製武器や石製利器が原産地集団から交易によってもたらされ、この中で抗争が起きていた可能性が高い。乱は石器を多用する時代に勃発したが、鉄器時代に移行し終わった時点で収束していることに、春成秀爾は注目している。
朝鮮半島南部から鉄を輸入するに際し、見返りの物資がなければ手に入れられない。さらに、石器に比べて格段と効率の良い利器を私的所有することで、「原始的平等で貫かれた農業共同体の真只中に重大な矛盾をもちこんだ」(吉田晶・永原慶二・佐々木潤之介・大江志乃夫・藤井松一編『日本史を学ぶ 1 原始・古代』有斐閣選書)といい、集団内での公平を期すために、他の農業共同体から財を奪ったという。これが倭国大乱の真相ということになる。
いずれにせよ、弥生時代に本格的な戦争が勃発していたことは、間違いない。
縄文人は戦争を誘発する農耕を狂気とみなした?
人類学は、人口の急増を問題視する。穀物の高栄養が、寿命をのばし、幼児の死亡率を下げる。穀物から離乳食を作れるので、乳離れが早まり、多産が可能となる。子供も老人も、労働力としてある程度期待できる。かたや集団移動をくり返す狩猟社会では、子供は足手まといだ。
狩猟社会では、食料の種類は豊富だったが、農耕の場合、資源は単一化する。不作になれば、命がけでよそから食料を奪ってこなければならない。ここで、戦争が始まる……。しかも、土地や水利の奪いあいも起きるわけだから、恨みが恨みを買い、戦争は反覆し連鎖していく恐れもあった。
もう一つ、定住生活の始まりが、戦争を招く可能性がある。苦労してせっかく開墾した土で、人びとは農耕を営む。土地に対する執着が、排他的な発想に結び付いていくというのだ。
ただしそうなると、三内丸山遺跡のように、「定住生活を始めていた縄文人」の場合はどうなるのか、という問題が立ちあがる。そこで、「思想」がからんでくるのではないか、とする説が登場する。
考古学者・マーク・ハドソンの次の仮説がある。大陸ですでに行われていた農耕を、縄文人たちは知っていたはずなのに数千年もの間手を染めなかったのは、縄文社会側のイデオロギー的な抵抗だったのではないかとする。
この考えに共鳴した松木武彦は、この「抵抗」は、戦争にも当てはまると考えた。縄文時代、すでに大陸では戦乱が起きていて、朝鮮半島にも迫っていた。しかし縄文人たちは、それを無視している。
本格的な稲作農耕と戦争とは、当時の東アジアの地域では、一つの文化を構成するセットをなしていた可能性が考えられる。だとすると、固有の伝統を守りつづける傾向が強かった縄文の人びとが稲作農耕を「拒絶」したことが、それと表裏の関係にあった戦争の導入をもはばむ結果につながったのではないか(松木武彦『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』講談社選書メチエ)。
なるほど、無視できない指摘だ。稲作農耕を拒絶したことで、表裏の関係にあった戦争を、たまたま阻むことになったのかというと、むしろ「農業をはじめれば戦争になる」という現実を目の当たりにした縄文人が、「狂気の沙汰」と察知し、だからこそ、稲作を拒み続けた可能性も考えてみたい。縄文的な文化を残した人たちは、なぜかその後、水田稲作を選択しても、「強い王の発生を嫌う」傾向にあるからだ。
ただし、狩猟民族が平和的で農耕民が戦争好きという単純な図式で括ってしまってよいのか、という反省も登場している。
たとえば、世界史レベルで見れば、石器時代にすでに人は戦っていること、英語圏の武器「weapon」は、石製利器を含むこと、縄文人骨の中から殺傷痕が認められるものも見つかっている。
戦争の発生原因を農耕社会の発達や円熟に求めず、社会そのものの複合化や階層化社会の発展段階と結びつける見解もままみられる(森岡秀人『列島の考古学 弥生時代』)
と、慎重な態度が求められている。しかし、日本以外の地域の新石器時代は、農耕社会であり、縄文人も、人を恨めば殺人もしただろうが、組織的な戦闘の痕跡は見当たらない。ここが、大きな意味を持っている。
じつは、ヤマト建国も、この縄文的な発想によって成し遂げられたのではないかと、筆者は疑っている。ヤマト建国の直前まで、日本列島は、「倭国大乱」と中国側に記録されるほど混乱していた。その騒乱を、魔法のように収拾した事件が、ヤマト建国だった。それこそ、縄文的な発想の賜物ではなかったか……。
https://news.goo.ne.jp/article/phpbiz/entertainment/phpbiz-20210729210544120.html
戦争は農耕とともに始まった。そして、縄文人は戦争を誘発する農耕を狂気とみなし、稲作を拒み続けた。
歴史作家の関裕二氏によれば、「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解けるという。
※本稿は、関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
縄文人が水田稲作をはじめていた証拠
長い間、弥生時代は「弥生土器を使用した時代」と考えられていた。しかし、考古学の進展によって、この定義が揺らぎつつある。弥生土器=遠賀川式土器の出現と共に、水田稲作が始まったというかつての常識は、もはや通用しなくなったのだ。縄文から弥生時代への移り変わりがグレーゾーンに入った。近年しきりに耳にするのは、「縄文と弥生の境目がわからなくなった」という話である。
縄文土器を使っていたのが縄文時代で、弥生土器を使っていたのが弥生時代と考えているようでは、もはや時代遅れなのだ。土器は技術が伝承され、文化は継続されるのだから、はっきりとした時代区分はできないというのが、すでに常識となりつつある。弥生土器のような縄文土器があるかと思えば、縄文の息吹を感じさせる弥生土器もある。境界線が、じつに曖昧なのだ。
ならば、稲作をはじめた地域から、弥生時代は始まったと言い換えればよいのだろうか。
ところが、稲作をはじめた地域の人間の使う道具が縄文的な香りを残していたりする。いつから、その地域が弥生時代に突入したのかも、線引きが難しくなってきた。だから、「縄文晩期末にすでに稲作は始まっていた」、「いや、稲作が始まった時点で、それはもうすでに弥生時代だから、弥生時代早期と呼ぶべきだ」と、色々な区切り方が生まれてきてしまうのだ。
昭和53年(1978)から翌年に板付遺跡(福岡県福岡市)の調査が行われ、弥生時代をめぐる学説の迷走は始まったのだ。縄文時代晩期と信じられてきた夜臼式土器の時代の遺跡から、水田遺構と木製の鍬、石製の穂積具(石包丁)、炭化したコメ(ジャポニカ)がみつかった。明らかに「縄文人が水田稲作をやっている!!」という、それまでの常識では考えられない事態に、みな戸惑ったのである。発掘に携わった山崎純男は、これを「縄文水田」と、断言した(森岡秀人・中園聡・設楽博己『先史日本を復元する4 稲作伝来』岩波書店)。
水田遺構は、幹線水路、井堰、出水路、排水路、畦畔など、しっかりとしたものだった。
水田から水が流れ落ち、下の段の水田に水を供給するシステムまで、すでに登場していたのだ。水田のあとには、人の足跡が残されていて、福岡県警の鑑識も協力し、身長164センチという、当時にしては高身長だったこともわかった。縄文時代から継承された生活道具で暮らしながら、新来の水田技術を駆使していた様子が浮かび上がってくる。
ちなみに、遺跡のある「板付」は、福岡空港のすぐ脇で、かつてこの空港は板付空港とも呼ばれていた。それはともかく、夜臼式土器は、刻目をもつ突帯文土器で、縄文土器の伝統を継承していた。
興味深いのは、戦後すぐ、板付遺跡で板付Ⅰ式土器が発見されていたこと、その後北部九州では、夜臼式土器と板付Ⅰ式土器がともに出土する例が多かったが、板付Ⅰ式土器は、遠賀川式土器の最古の物と位置づけられていたことだ。遠賀川式土器といえば、弥生前期を代表する土器である。
考古学者はこう判断した。夜臼式土器は縄文時代の終わりに、板付Ⅰ式土器は、弥生時代の始まりに作られた、というのだ。つまり、板付遺跡は、縄文から弥生への過渡期の遺跡ということになろうか。
一方、昭和54年(1979)に、菜畑遺跡(佐賀県唐津市)で夜臼式土器よりも古い、山ノ寺式土器と同時代の水田が出現したのだ(ちなみに、その後、この水田が夜臼・板付Ⅰ式まで時代が下ると、報告は変更されるのだが)。また、弥生時代前期と見なされていた石器が、出土していた。
昭和55年(1980)には、曲田遺跡(福岡県糸島郡二丈町)の住居跡から、夜臼式土器よりも古い突帯文土器(曲り田式)と共に、大陸系の磨製石器だけではなく、なんと鉄器まで埋まっていたのだ。
縄文晩期から弥生時代中期にかけて、日本の土器が朝鮮半島南部に流れ込んでいたこともわかってきた。釡山市の東三洞貝塚から、九州の縄文土器が大量に発見されてもいる。
北部九州沿岸部に朝鮮半島の土器がもたらされるようになったのは、弥生時代前期後半ごろだ、しかもその規模はわずかで、先住の民の集落の片隅に、渡来系の人びとが、肩を寄せ合って暮らしていたイメージだ。そして、その後、集落の人びとと融合し、同化していったのである。
この結果、縄文時代晩期末と弥生時代前期が、交錯してくることがわかってきたのだ。縄文時代から弥生時代に切り替わったというよりも、少人数の渡来とともに縄文人が水田稲作を受け入れ、次第に、朝鮮半島からもたらされた文化に染まっていったことがわかってきた。
最初から稲作一辺倒だったわけではない
ところで、すでに触れたように、縄文時代にすでに稲作は行われていた。縄文中期末(約4500年前)の土器の表面に、稲籾の圧痕が着いていたのだ。
「本当に稲なのか」と、疑われることもあったが、イネ科植物に含まれるケイ酸の化石(プラントオパール)が、縄文後期中ごろの土器の胎土に含まれていたことから、縄文時代の稲作は、確実視されるようになった。ただし、水田ではなく、陸稲だった。また、縄文後期中ごろから、オオムギ、ハトムギ、ヒエ、アワなどの穀物や豆類の圧痕もみつかっている。
また、縄文系と思われていた突帯文土器の時代に、すでに水田稲作が行われていたのは、北部九州沿岸部だけではない。四国、中国、近畿でも、同じように、水田稲作民が登場していたのだ。
穀物を栽培していた縄文後・晩期の西日本の縄文人を、考古学では「園耕民」と呼ぶ。彼らは川の下流部には住まなかった。たとえば稲作がもっとも早い段階に始まった早良平野でも、園耕民は、川の中流、上流で暮らしていた。
縄文人は低湿地を好まない。縄文海進によって海面が高かった時代から続く伝統だ。穀物だけではなく、さまざまな手段で食料を調達する園耕民は、川の上流側を選んだ。
ところが、縄文時代の晩期は冷涼多雨で、下流域に稲作に適した低湿地が形成されつつあった。これは偶然なのか、あるいは、この自然条件があったから、縄文人が生業を変えようと決意したのかどうか、よくわからないが、ここで水田稲作が始まったのは間違いない。
この時代の遺跡からは、水田稲作に用いる新たな道具に混じって、縄文人が陸稲栽培に用いた打製の土掘り具が見つかっている。また、食料も、縄文時代以来継承されてきたような、「多彩な食物(イノシシやシカなどの動物、魚貝類、ドングリ)採取がメインで、米食は補完」と考えた方が正確なのだ。2つの生産方式を並行して行っていた。はじめは従来の食料を補完するために、水田稲作を選択したわけである。
ただし、やがて水田の面積は広がり、採集や狩猟は下火になっていくのである。
そしてもう1つ、縄文から弥生への転換期を考える上で大きな意味をもってきたのが、「いつごろ水田稲作を始めたのか」だった。
かつて、弥生時代の始まりは、紀元前300年から、同500年ごろと信じられていた。
このころ、中国大陸では、春秋戦国という大混乱の時代だったのだ。多くの難民が海に逃れ、日本列島に押し寄せて、弥生時代は始まったと信じられていた。
ところが、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりは紀元前10世紀後半と考えられるようになり、「稲作を選択したのは縄文人だった」という考古学の証言とも、一致してきた。さらに、稲作はゆるやかに東に伝わっていったと考えられるようになった。
考古学者・金関恕(かなせきひろし)は、『弥生文化の成立』(角川選書)の中で、弥生時代の始まりを、次のように総括する。要約しておく。
(1)イネは遅くとも縄文時代後期に日本に伝わり陸稲として栽培されていた。
(2)朝鮮半島南部とは密接な交流があり、縄文人が主体的に必要な文化を取捨選択した。
(3)縄文人と渡来人は当初棲み分けを果たし、在地の縄文人が自主的に新文化を受容した。
(4)まとまった渡来人の移住は、弥生時代初期ではなく、そのあと。
こうして、「渡来人に席巻されて稲作が広まった」というかつての常識は、完ぺきに覆されたのだ。
弥生文化はバケツリレーで広まった?
くどいようだが、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりが数百年古くなった。ちなみに、なぜここまで大きく、年代観がずれていたのかというと、炭素14年代法が確立する以前は、土器編年によって、「おおよその年代」を推定していたのだ。
つまり、この土器よりもこちらの土器の方が古い、という、「土器が作られた順番」を正確に把握し、それを並べていき、東アジアの土器と比べたり、出土する地層も鑑み、などなどの作業を積み重ね、年代観は「推定」されていたのだ。しかし、世界中の考古学者、史学者が炭素14年代法を認めるようになったため、日本だけが従来の年代観にこだわっていると(こだわりたくなる気持ちもわかるのだが)、世界の年代観と合致しなくなってしまうのだ。
この結果、稲作の急速な普及という前提は、崩れ去った。征服者が押し寄せてきたのではなく、「バケツリレー」という言葉が使われるようになった。そして逆に、なぜ稲作は、一度東への進出を停滞させたのか、という謎が湧きあがってきたのである。
日本の「農耕社会化」は「弥生化」と呼ぶ。小林青樹は、弥生化に時間がかかった理由を、目に見えない「縄文の壁」があって、文化的攻防が勃発していたからだと指摘している(『弥生時代はどう変わるか』学生社)。
どういうことか、説明しておこう。
小林青樹は、縄文人が壁を取り払い、弥生人になるためには、大きな決断が必要であり、また水田稲作をはじめるには、共同作業をするのだから、集団の同意がなければならなかったと指摘する。また、新しい社会の枠組みを構築する必要もあったと、まず前置きをする。
その上で、「縄文の壁」は、6つの地域に存在したという。(1)南島の壁、(2)九州の壁、(3)中国地方と四国の壁、(4)中部の壁、(5)東日本の壁、(6)北海道の壁だ。このうち、南島と北海道は、弥生時代には突破できなかった。
北部九州でも、水田、環濠集落、金属器、弥生土器すべてが揃うまで、約200年を要している。弥生時代前期の関門海峡の東側では、日常生活でいまだに縄文系の道具類を使用していた。また、板付遺跡を起点にして、関東に弥生文化が到達するまで、400〜500年、最初の水田が北部九州にできてからだと、約700〜800年かかっている。
したがって「弥生時代」と一つに括ってしまっているが、その弥生時代の3分の2の時間は、縄文的な暮らしを守ろうとする人たちと、新しい生活を始めた人たちが共存していた時期だったことになる。
この間、兵庫県神戸市付近( 新方遺跡。明石駅の北側)では、弥生前期に、無理矢理近畿側に越えようとした「弥生人」と在地民の間に小競り合いがあったようだ。縄文系の人骨が出土していて、6体の人骨のうち、5体に石鏃が伴っていたのだ。10数本の矢を受けていた。
戦争は農耕とともに始まった
東の縄文人は、なぜ弥生化を拒み続けたのだろう。
広瀬和雄は弥生文化が、日本文化の源流として、次の三つの特性を持っていたと指摘している。端的に弥生時代を表現していて、じつに参考になる。
第一は、水田稲作や金属器の製作・使用に代表される大いなる技術革新で、文明社会のいわば正の側面である。第二は、社会の階層化や戦争や環境破壊など、その負の側面とも言えるものである。第三は、そうした正・負の要素が中国王朝を中核にした東アジア世界のなかで動きはじめる、いうならば国際化である(『歴博フォーラム 弥生時代はどう変わるか』学生社)
かつて、弥生時代の始まりは、文明開化とみなされていた。それが、第一と第三の指摘に当たる。その一方で、第二の負の側面も、ようやく注目されるようになってきたのだ。それは特に、九州や西日本で顕著だった。
北部九州で始まった水田稲作は、大きな社会変革をもたらした。
具体的にいえば、富が蓄えられ、首長(王)が生まれた。弥生時代の到来によってもたらされた「縄文と異なる文化要素」は、水田だけではなく、武器、環濠も重要だった。水田は、それまで園耕民が行っていた農作業とは比べものにならないほど大規模で、人びとの共同作業が求められた。そして、それを指導し指揮する者が集団のトップに立つ。
こうして、弥生化が進むと、戦争が勃発する。コリン・タッジは人類が戦争を始めたのは、農業を選択したからだと述べている(竹内久美子訳『農業は人類の原罪である進化論の現在』新潮社)。
おそらくその通りだろう。余剰が生まれ、人口は増え、新たな農地と水利を求め、争いが起きた。日本列島でも、組織的な戦争は、弥生時代から始まったようだ。佐原眞も日本で初めて戦争が起きたのは弥生時代だといっている。
神話の中で日本の国土は武器(矛)を用いて作り出された。乱暴者のスサノヲをアマテラスは「弓矢」で迎え撃とうとしている。葦原中国を平定に向かった武甕槌神(たけみかづちのかみ)は剣の神だ。天孫降臨も神武東征も、武人が活躍する(『大系日本の歴史1 日本人の誕生』小学館)。日本神話の神々は、好戦的で弥生的だ。
その上で、戦争を次のように定義している。すなわち「考古学的事実によって認めることの出来る多数の殺傷をともないうる集団間の武力衝突」(佐原眞編『古代を考える稲・金属・戦争』吉川弘文館)だという。そして、戦争の証拠の九割は、農耕社会から出土すると指摘する。
戦争が始まった具体的証拠
さらに佐原眞は、具体的な証拠を、以下の通り羅列する。要点をまとめておく。
A 守りの村=防禦集落(町・都市) 高地性集落 環濠集落 逆茂木など
B 武器 弓矢、剣、矛、戈、武具など
C 殺傷(されたあとを留める)人骨
D 武器の副葬=遺体に副える
E 武器形祭器=武器の形をした祭祀、儀式の道具
F 戦士・戦争場面の造形
その上で、このような考古学資料がみつかる地域は、北部九州から伊勢湾沿岸までの範囲で、環濠集落・高地集落が存在し、ヤジリが発達していること、この地域で戦争が起きていたこと、南部九州・長野・北陸・新潟・東海・南関東は、戦争は知っていたが実際に戦っていたかどうかはわからない社会だと指摘している(前掲書)。
ヤマト建国の直前には倭国大乱が勃発していたが、春成秀爾はその原因を鉄と流通にあったと推理している(『日本史を学ぶ 一』有斐閣)。
抗争が始まったのは弥生中期中ごろで、人口増に伴い、前期の氏族社会が一度分裂し、新たな耕地を開発する段階だった。農業共同体ごとに、高地性集落が形成されるが、その分布域が、銅鐸文化圏とほぼ重なる。高地性集落は防御力が強く、「攻められる側」と、想定できる。
この文化圏内では、石製武器や石製利器が原産地集団から交易によってもたらされ、この中で抗争が起きていた可能性が高い。乱は石器を多用する時代に勃発したが、鉄器時代に移行し終わった時点で収束していることに、春成秀爾は注目している。
朝鮮半島南部から鉄を輸入するに際し、見返りの物資がなければ手に入れられない。さらに、石器に比べて格段と効率の良い利器を私的所有することで、「原始的平等で貫かれた農業共同体の真只中に重大な矛盾をもちこんだ」(吉田晶・永原慶二・佐々木潤之介・大江志乃夫・藤井松一編『日本史を学ぶ 1 原始・古代』有斐閣選書)といい、集団内での公平を期すために、他の農業共同体から財を奪ったという。これが倭国大乱の真相ということになる。
いずれにせよ、弥生時代に本格的な戦争が勃発していたことは、間違いない。
縄文人は戦争を誘発する農耕を狂気とみなした?
人類学は、人口の急増を問題視する。穀物の高栄養が、寿命をのばし、幼児の死亡率を下げる。穀物から離乳食を作れるので、乳離れが早まり、多産が可能となる。子供も老人も、労働力としてある程度期待できる。かたや集団移動をくり返す狩猟社会では、子供は足手まといだ。
狩猟社会では、食料の種類は豊富だったが、農耕の場合、資源は単一化する。不作になれば、命がけでよそから食料を奪ってこなければならない。ここで、戦争が始まる……。しかも、土地や水利の奪いあいも起きるわけだから、恨みが恨みを買い、戦争は反覆し連鎖していく恐れもあった。
もう一つ、定住生活の始まりが、戦争を招く可能性がある。苦労してせっかく開墾した土で、人びとは農耕を営む。土地に対する執着が、排他的な発想に結び付いていくというのだ。
ただしそうなると、三内丸山遺跡のように、「定住生活を始めていた縄文人」の場合はどうなるのか、という問題が立ちあがる。そこで、「思想」がからんでくるのではないか、とする説が登場する。
考古学者・マーク・ハドソンの次の仮説がある。大陸ですでに行われていた農耕を、縄文人たちは知っていたはずなのに数千年もの間手を染めなかったのは、縄文社会側のイデオロギー的な抵抗だったのではないかとする。
この考えに共鳴した松木武彦は、この「抵抗」は、戦争にも当てはまると考えた。縄文時代、すでに大陸では戦乱が起きていて、朝鮮半島にも迫っていた。しかし縄文人たちは、それを無視している。
本格的な稲作農耕と戦争とは、当時の東アジアの地域では、一つの文化を構成するセットをなしていた可能性が考えられる。だとすると、固有の伝統を守りつづける傾向が強かった縄文の人びとが稲作農耕を「拒絶」したことが、それと表裏の関係にあった戦争の導入をもはばむ結果につながったのではないか(松木武彦『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』講談社選書メチエ)。
なるほど、無視できない指摘だ。稲作農耕を拒絶したことで、表裏の関係にあった戦争を、たまたま阻むことになったのかというと、むしろ「農業をはじめれば戦争になる」という現実を目の当たりにした縄文人が、「狂気の沙汰」と察知し、だからこそ、稲作を拒み続けた可能性も考えてみたい。縄文的な文化を残した人たちは、なぜかその後、水田稲作を選択しても、「強い王の発生を嫌う」傾向にあるからだ。
ただし、狩猟民族が平和的で農耕民が戦争好きという単純な図式で括ってしまってよいのか、という反省も登場している。
たとえば、世界史レベルで見れば、石器時代にすでに人は戦っていること、英語圏の武器「weapon」は、石製利器を含むこと、縄文人骨の中から殺傷痕が認められるものも見つかっている。
戦争の発生原因を農耕社会の発達や円熟に求めず、社会そのものの複合化や階層化社会の発展段階と結びつける見解もままみられる(森岡秀人『列島の考古学 弥生時代』)
と、慎重な態度が求められている。しかし、日本以外の地域の新石器時代は、農耕社会であり、縄文人も、人を恨めば殺人もしただろうが、組織的な戦闘の痕跡は見当たらない。ここが、大きな意味を持っている。
じつは、ヤマト建国も、この縄文的な発想によって成し遂げられたのではないかと、筆者は疑っている。ヤマト建国の直前まで、日本列島は、「倭国大乱」と中国側に記録されるほど混乱していた。その騒乱を、魔法のように収拾した事件が、ヤマト建国だった。それこそ、縄文的な発想の賜物ではなかったか……。
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