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アイヌ民族の歴史に差す光と影 抑圧の実態伝え方探る「ウポポイ」開業1年 アイヌ文化 継承の道(上)

2021-08-08 | アイヌ民族関連
日本経済新聞 2021年8月8日 5:00 [有料会員限定]
日本の先住民であるアイヌの人々の文化や歴史に対する関心が近年、急速に高まっている。北海道には国立の民族博物館が開館し、アイヌ民族を描いた小説やマンガの刊行も相次ぐ。北の大地に独自の文化を花開かせた側面に光が当たる一方、厳しい差別や抑圧を受けた経緯にもっと目を向けるべきだとの批判もある。

博物館では、衣服や当時の生活民具のほか、映像や音声などでアイヌの文化や歴史を学べる
湖を望む公園ではアイヌの民俗衣装を着たスタッフが伝統楽器「ムックリ」を演奏し、屋内では木彫りやアイヌ料理の調理といった体験プログラムがずらりと並ぶ。国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設などからなる「民族共生象徴空間(ウポポイ)」(北海道白老町)が2020年7月に開業し、1年がたった。館長の佐々木史郎は体験メニューを充実させた狙いについて「アイヌ文化を知らない人に興味を持ってもらうきっかけになる」と話す。
だが、こうした方針に対し「抑圧や差別の実態を十分に展示していないとの批判があるのも事実」(佐々木)だ。ウポポイの展示は、江戸時代の松前藩がアイヌ民族に不利な条件下での交易を進めたり、人々を漁場で労働させて搾取したりしたこと、明治政府がアイヌの伝統的な習慣や狩猟を禁止したことなど抑圧の歴史に触れてはいる。だが、容姿の違いでいじめを受けたり、就職で不利益を被ったりといった、個々のアイヌの人々が長く苦しんできた差別の詳細については、多くを語っていないようにみえる。
自らもアイヌ民族である北海道大学准教授の北原モコットゥナㇱは「魅力発信こそが大切だ」との考え方そのものが、国が進めてきた「アイヌ文化政策の陥りがちな点だった」と指摘する。「例えば女性活躍では男性の、性的少数者への理解ではそうでない人々の意識変革が重要なように、当事者の魅力を知ってもらうより、周りの人々の変化や問題意識(の醸成)が必要だ」
北原自身も学生時代、「自分がアイヌだと話すと『自然が好き、平和な人々』といった枠にいきなりはめられる感じがした。一人の人間としてみてほしかった」経験をした。「差別体験によるトラウマは蓄積しているのに、差別があること自体に触れない空気がまん延している」現状が、ウポポイの展示のあり方にも影響しているという。
首都圏でアイヌ民族の団体を設立し活動してきた宇梶静江も著書「大地よ!」(藤原書店)で、自身が受けてきた激しい差別を振り返る。ウポポイに関しても「アイヌ文化は、暮らしから切り離されて、博物館に飾られるものになってしまった」と、厳しい言葉を書き付ける。
逆に差別に苦しんできたからこそ「今を生きるアイヌに光を当ててほしい」という声もある。静江の息子で俳優の宇梶剛士や地元企業で働く若者、料理人ら、現代に活躍するアイヌの人々について紹介するパネル展示は、そうした声に応えたものだろう。館長の佐々木も「差別については展示でもしっかり説明しており、伝えるべきだと思う。だがそこだけなく、例えば(松前藩が主導権を握る以前は周囲の諸民族と)交易を盛んにしていたことなどにも注目してほしい」と強調する。
博物館の研究者育成もこれからだ。「展示学など、博物館そのものを支える研究者が必要」(佐々木)で、「そういう人材がアイヌの方々から出てくる後押しもしたい」。今は研究者も展示場で説明に立ち、常設展示は2カ月ごとに入れ替え、特別展は年2回という多忙なスケジュールのため、「研究者間でもっと議論し、共通の認識を形成する」必要性を感じながら、十分な時間がとれていないのが現状だという。最近では、アイヌ文化の地域ごとの違いや衣服などの展示資料をテーマにしたプロジェクトチームをつくり、研究に割く時間の確保にも腐心する。
コロナ禍でウポポイの昨年の来場者数は約25万人と、当初目標の100万人には遠く及ばなかった。コロナが収束したら「伝統的な衣装や道具、楽器に触れる展示を増やすなど、ソフトの部分を高めたい。もっと知りたいと思う方が詳細な情報にアクセスできるよう、館内やウェブサイトで資料を閲覧できるようにもし、初心者から上級者まで満足できる施設にしたい」(佐々木)と話す。
近年アイヌの文化や歴史はマンガや小説でも注目されている。明治末期の北海道・樺太を舞台に元陸軍兵がアイヌ民族の少女の力を借りながら、金塊探しに取り組む野田サトルのマンガ「ゴールデンカムイ」(集英社)は代表例。これまでにコミックス(単行本)26巻が刊行されており、累計発行部数は1600万部に上る。活力あふれる魅力的なアイヌ民族の姿を描き、アイヌ文化人気を後押しした。20年に直木賞を受賞した川越宗一の小説「熱源」(文芸春秋)も樺太出身のアイヌ民族が主人公だった。
米軍統治下の沖縄を描いた長編「宝島」(講談社)で19年に直木賞を受賞した作家の真藤順丈もアイヌ民族に関心を持つ一人だ。21年4月刊行の短編集「われらの世紀」(光文社)には、アイヌ民族の女性が活躍する「レディ・フォックス」が収められている。第2次世界大戦末期、北海道から本州に食糧を運ぶ作戦に関わる彼女らからは独自の生き方を貫いてきた人々の誇りがうかがえる。
「当事者(アイヌ民族)ではない人間が書くことに、何らかの搾取がつきまとうことは自覚しており、常に緊張にさらされる」と真藤は振り返る。一方で「当事者にしか分からないことは多いが、当事者にだけ分かっていればいいかというと、それは違うと思う。内と外の視点が絡まり合うことで多方向からの検証が可能になる」と考える。
展示や作品上でアイヌ民族を取り上げる際に重要な点は「十分な取材と、安易に文化や実在の人物像を改変しないこと」だと北原は述べる。整理された展示を見て学べる場や、文学作品やマンガなどで多くの人が興味を持つきっかけがあることは大切だ。しかしそれ以上に必要なのは、学ぶ側や触れる側が「文化を学ぶことは人を理解すること」(北原)という視点を持つことなのだろう。
=敬称略、つづく
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD284RQ0Y1A720C2000000/?unlock=1

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かつて教科書から消えた縄文時代。その理由とは?

2021-08-08 | アイヌ民族関連
PHPオンライン衆知 2021/08/07 12:00

かつて教科書から消えた縄文時代。
しかし歴史作家の関裕二氏によれば、日本史の常識は覆った。渡来文化よりも縄文文化の影響が圧倒的だったのだという。
※本稿は、関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
一度、教科書から消えた縄文時代
ゆとり教育のせいだろうか。平成10年(1998)の小学校学習指導要領改訂によって、一度旧石器時代と縄文時代(新石器時代)は教科書から消えてしまった。平成20年(2008)に、ようやく復活したが、それでも教科書の記述はわずかで、一般社団法人日本考古学協会は平成26年(2014)5月に「小学校学習指導要領の改訂に対する声明」を発表して、改善を求めている。
なぜ、縄文時代は教科書からはねられてしまったのだろう。その理由の一つに、「日本人の歴史は大陸や半島から稲作が伝えられて、ようやく発展の糸口を摑んだ」という、漠然とした常識が支配していたからではなかろうか。野蛮で未開な縄文時代を学んでも、何も意味を持たないと、信じられていたからにちがいない。
しかし、縄文時代がわからなければ、日本史や日本人の正体は、わからないままだ。大袈裟に言っているのではない。縄文人が1万年の歳月をかけて作り上げてきた文化と習俗と文明が、「民族の三つ子の魂」となって現代まで継承されている。日本人がなぜ「世界でも稀な文化を形成したのか」といえば、日本列島が東海の孤島で、縄文人が他の世界にはない独自の文化を編み出したからにほかならない。
その後、大陸と半島の混乱によって、多くの人びとがボートピープルとなって海を渡ってきて、渡来系の血が混じり、水田稲作をはじめて人口爆発を起こしていったが、それでも、1万年の縄文の文化と習俗を消し去ることはできなかったのだ。
たとえば日本料理は、「煮る作業」が基本だが、これは縄文文化の名残だ。縄文人は、世界最古級の縄文土器(1万6000年前か?)を利用して、ひたすら食品を煮て食していたのである。
神道は稲作民族の信仰と思われがちだが、縄文時代はおろか、旧石器時代までつながる、長い伝統に根ざしている。
さらに、「日本語」はいったいどこからもたらされたのか、はっきりとわかっていない。
似ている言語が、周辺になく、孤立しているからだ。言語の血縁関係の判定法「規則的音声対応」を用いても、琉球語だけが、日本語とつながるだけだった。
かつて、「現代人が使っている日本語は、弥生時代に渡来人が縄文語を駆逐して、弥生時代に完成した」と考えられていた。縄文時代と弥生時代に、大きな文化の断絶が起きていたという発想だ。「縄文人は大量に海を渡ってきた渡来人に圧倒された」と信じられてきたのである。
しかし、すでに縄文時代に日本語は完成していたのではあるまいか。一度に大量の渡来人がやってこなければ、言語の入れ替わりは起こりえない。少数の渡来が長い年月続き、その都度、渡来人は「日本語を習得していった」と考えざるをえない。
奈良県南部の十津川村とその周辺は、近畿地方に属しながら、なぜか、関東の言語によく似ている(乙種アクセント)。それはなぜかといえば、小泉保は『縄文語の発見』(青土社)の中で、柳田國男が提唱した「方言周圏論」(『蝸牛考』)が有力な武器になると考えた。
「カタツムリ」を、近畿では「デデムシ」と呼び、外側の関東や北九州では「マイマイ」、東北や四国西部では「カタツムリ」と呼ぶ。柳田國男は、デデムシ⇒マイマイ⇒カタツムリという順に近畿地方から言葉が広がっていった結果、遠くに行くほど古い言葉が残っていると推理したのだ。
つまり、弥生化していく近畿地方の中で、十津川周辺は取り残され、古い言葉が残ったと考えた。また、日本語はすでに縄文時代に完成していて、琉球縄文語は、縄文中期に本土縄文語と分離したと指摘したのである。
ちなみに、出雲の方言が東北地方とよく似ているのも、「方言周圏論」で説明がつくとする説もあるが、岡山県の人びとの口調も、関西弁とはかけ離れ、むしろ関東弁に近い。
次のような指摘もある。
縄文の海人たちは、難所として名高い津軽海峡を普通に往き来して文化圏を形成していた。また、縄文の海人は沖縄から南西諸島を経由して、日本列島との間を行き来していたが、対馬から朝鮮半島へは、交流の頻度が落ちる。それはなぜかというと、航海術が未熟だったからではなく、その当時は、言葉が通じなかったのではないかといい、すでに縄文時代、日本列島では日本語の原型が誕生していたのではないかと推理している(小林達雄『縄文の思考』ちくま新書)。
この発想はおもしろい。その通りかもしれない。その後、次第に朝鮮半島南部と北部九州は、交流を重ねていくのだが、縄文時代の往き来は、比較的少なかった。
戦後史学界を席巻していた唯物史観の弊害
農耕をする以前の狩猟採集の時代が縄文時代とする定義は、すでに戦前になされていた(1930年代)。縄文人は先住民のアイヌ族と考えられてもいた。
すでに大正時代の1910年代ごろから、科学的な研究が進み、土器の編年作業が始まっていたが、縄文は未開社会というイメージは、つきまとった。
この考えから先に進んだのが、山内清男だった。大陸との交渉がほとんどなく、農業を行った痕跡がない時代と、大陸と交渉を持ち農業が一般化した時代に区切り、紀元前2500年に始まる縄文土器の時代(当時はそう考えられていた)とそのあとに続く弥生時代の概念を明確にしたのだ。
ちなみに、新石器時代に入っても農耕を行わなかった縄文人を「高級狩猟民」と、山内は位置づけたのだった。
戦後になると、今度は唯物史観が、史学界を席巻してしまった。物質や経済、生産力という視点で歴史を捉え、「人間社会は段階的に発展し、最後は共産主義に行き着く」という考えで、農耕を行っていなかった縄文時代に対し、負の歴史的評価を下している。
生産力は低く、無階級で、無私財であり、停滞の時代とみなした。採集生活には限界があり、呪術と因習も、弥生時代に大陸から新技術が導入されることによって、払拭されたと考える。歴史的発展は余剰と階級の差が生まれる農耕社会によってもたらされると、考えられていたのだ。
もし仮に、縄文時代を通じて、徐々に社会が発展し、成熟していったとしても、自然の再生産まかせで、これを越えることができないのだから、縄文社会には限界があり、後期から晩期にかけて呪術や祭祀が盛んになるのは、限界と矛盾の現れと、みなされた。
入れ墨や抜歯の風習も、縄文社会停滞のシンボルと判断されてしまったのだ。そして、稲作技術が伝わり、ようやく、発展のチャンスを得たというわけである。
たしかに、縄文人は都市に暮らしていたわけではないし、国を形成していたわけでもない。のちの時代のような、階級社会が生まれていたわけでもない。文字もなかった。
そして、狩猟採集をして、獲物を獲得する生活では、歴史発展が進まなかったと信じられていたし、本格的に農業をはじめる「生産経済」になって、ようやく歴史は動き始めたと信じられていたのだ。教科書から縄文時代が消えてしまった理由も、ここにある。
縄文時代に対する見方が変わってきた
つい二十数年前のこと。縄文時代を礼讃し、縄文文化は日本固有だと称えれば、「夜郎自大なヤツ」とけなされ、へたすれば、「縄文右翼」と揶揄されたものだ(事実、そう言われたことがある)。
「何もかもが渡来人の仕業」と考えることが最先端、という風潮があったのだ。渡来系の人びとから、先進の文物をもらい受け、海外の文化を猿まねすることで、日本は成り立っていたという。
縄文時代の野蛮で未開な日本列島に、朝鮮半島から新たな文物がもたらされたことで、発展のチャンスがやってきた……。これが、常識のようになっていた。
しかし、ようやく人類は直線的、段階的に進歩していくという唯物史観の呪縛から解き放たれようとしている。
たとえば谷口康浩は、次のように述べている。
狩猟採集社会と農耕社会という段階区分が絶対的な指標になりすぎているために、時代区分や通史が膠着し、過去との自由な対話が閉ざされてしまったような閉塞感がある(『縄文時代の考古学1 縄文文化の輪郭』小杉康・谷口康浩・西田泰民・水ノ江和同・矢野健一編 同成社)
縄文時代を見直すという作業は、歴史の連続性を再確認することでもあると思う。狩猟社会が農耕社会に移行し発展していったというこれまでの常識を、疑ってかかる必要があるということだ。
物質と経済に重きを置いた唯物史観は、縄文人を「原始的な社会」と指摘し、これが大きな影響力を持ってしまったのだ。
しかし、イデオロギーや理屈に歴史を当てはめていくという発想そのものが間違っていたのだ。幸い、考古学の物証の積み重ねによって、新たな発想や仮説が次々と飛び出すようになった。そしていよいよ、事実が思想(思い込み)を凌駕するに至ったのである。
1980年ごろからあと、縄文時代に対する見方が変わってきた。縄文人の「高度な資源利用技術や管理技術(特に、植物の利用法)」が判明してきて、彼らがただの狩猟民族ではなかったことが次第に明らかになってきたのだ。
たとえばクリなどの植物の栽培やイノシシの飼育を行っていたことがわかってきた。建築材に使われる木材は耐久性に優れたクリの木が多く、しかもその使用量が「自然に生えている木を切ってきた」レベルではなく、またクリの成長が、自然木よりも速かった。
縄文時代前期後葉に縄文人は集落を構成するようになったが、花粉分析によって、ちょうどこのころから、ナラ類やブナなどの落葉広葉樹が減り、クリが急速に増えていったこともわかっている。
クリの自生する北限の北海道でも、縄文前期後葉にクリが増えていく。人が手を加えて、クリを増やしていったと推理されていた。この仮説はのちに、三内丸山遺跡(青森県青森市)が発見されて、証明されていくのだが……。
ちなみに、鉄道の防風林にクリが多く用いられたが、クリの木は固く丈夫なので、鉄道の枕木に使われ、一石二鳥の働きをしていた(それはともかく)。
縄文時代後期から晩期にかけて、すでにイネ(陸稲)や雑穀が栽培されていたことがわかってきた。イネや雑穀の原生種は存在しない(イヌビエは例外)から、朝鮮半島や大陸から、タネがもたらされたのだろう(当然だ)。
近代日本人が縄文人を野蛮視した
あらかじめお断りしておくが、日本列島にかつて、「縄文人」という単独の民族が存在したわけではない。すでに述べたように、旧石器時代に多くの人びとが色々な場所から日本列島に流れ込み、縄文時代にも、さまざまな人びとが日本列島にやってきた。
そしてその後1万年以上の間、日本列島の中で融合し、地域ごとに異なる面も合わせ持ちながらも、ほぼ共通する文化を熟成させていった。われわれはその日本列島内で、おそらく共通の言語を語り(方言もあっただろう)、よく似た土器を使っていた。この1万年の歴史を積み重ねていた人たちを、暫定的に「縄文人」と呼んでいるに過ぎない。
ただし、強調しておきたいのは、日本列島が東海の孤島だったこと、大挙してこの島国を席巻するような勢力が到来することはなかっただろうこと、縄文人(列島人)が1万年という年月をかけて、他の世界にはなかった独自の文化と信仰を育んでいったことなのだ。
そして、だからこそ、縄文時代の生活や習慣が継承され、縄文の精神が日本人の三つ子の魂になったのであって、1万年という時間こそ、日本人の揺籃期になったと思うのである。
そこでいよいよ、縄文人を、掘り下げていこう。
縄文時代が始まった時期に関して、長い間紀元前4〜5000年と考えられてきたが、炭素14年代法(放射性炭素C14の半減期が約5700年という性格を利用して遺物の実年代を測る方法)の出現で、一気に1万3000年前にさかのぼるようになった。
さらに、炭素14年代法も、放射性炭素が、一定に減っていくわけではなく、微妙に誤差を修正する必要がある。そこで、修正してみると、縄文時代の始まりの「較正年代」は、1万6000年前ではないかと、考えられるようになった(青森県の大平山元Ⅰ遺跡から出土した無文土器片から割り出された)。氷河時代が終わって、温暖な気候がめぐってきて、縄文文化も花開いたのだ。
そして、縄文土器も、世界的にみて、最古級の土器と考えられるようになった。世界最古の可能性もある。ただし、やはり最古級の土器がみつかるシベリアや沿海州の発掘が遅れているために、さらに古い土器が出土する可能性がある。
また、縄文時代の終焉(弥生時代のはじまり)の時期に関しても、大きく見方が変わってきた。紀元前300年と考えられていた時代もあったが、次第に古くなり、やはり炭素14年代法によって、今では、紀元前10世紀後半の可能性が高くなってきた。
この結果、「北部九州に渡来人が稲作をもたらし、一気に日本列島を稲作文化が席巻した」というかつての常識は、通用しなくなった。北部九州から、徐々に東に稲作文化は伝えられていったと修正されているのだ。
縄文の年代観だけでなく、縄文文化に関しても、見方は変わってきている。かつて縄文人といえば、狩猟採集に明け暮れ、移動生活をしていた野蛮人とみなされていた。縄文時代は、原始時代と同意語だったのだから、隔世の感がある。
平成6年(1994)に青森県青森市で三内丸山遺跡が発見されたころから、縄文見直し論が徐々に高まってきたが、それ以前、地方の「実際に遺跡を発掘している考古学者」たちは、縄文の実力を、すでに高く評価していた。資料館などでお話を伺うと、「すべて渡来人の仕業と考えることはできない」と、しきりに訴えられ、また、「縄文の習俗は消えたわけではない」と、口々におっしゃっていた。
特に、渡来系の影響を強く受けたと思われる日本海側の北部九州や山陰地方の考古学者たちは、古い史学者や歴史愛好家が、「なんでもかんでも渡来人の影響」と信じる傾向にあったことを嘆かれていた。その苦々しい表情を、よく覚えている。
https://news.goo.ne.jp/article/phpbiz/entertainment/phpbiz-20210729204408120.html

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五輪、アイヌ民族が華麗な舞披露 札幌の競歩会場で

2021-08-08 | アイヌ民族関連
岩手日報 2021.08.05
アイヌの伝統舞踊を披露する北海道在住のアイヌ民族の人ら=5日午後、札幌市
 東京五輪の男子20キロ競歩が行われるのに先立ち、会場の札幌市で5日、北海道在住のアイヌ民族ら約80人が伝統舞踊を披露した。多様性や共生社会をテーマにした華麗な舞で、国内外にアイヌ文化をアピールした。
 発着点となる大通公園で、踊り手たちはアイヌ文様があしらわれた衣装をまとい、道内各地に伝わる踊りや歌など計15の演目を実施。ツルを模したり、弓を射たりするような姿勢の踊りなどで北海道の自然や民族の伝統を表現した。
 舞踊に参加した札幌市の藤岡千代美さん(51)は「このような機会が得られて光栄。アイヌを世界の人々に知ってもらう、きっかけになれば」と語った。
https://www.iwate-np.co.jp/article/kyodo/2021/8/5/732542

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