山と渓谷 12/27(金) 18:01
長きにわたって絶版、入手困難な状況が続いていた伝説の名著『羆吼ゆる山』(今野保:著)がヤマケイ文庫にて復刊。「赤毛」「銀毛」と呼ばれ恐れられた巨熊、アイヌ伝説の老猟師と心通わせた「金毛」、夜な夜な馬の亡き骸を喰いにくる大きな牡熊など、戦前の日高山脈で実際にあった人間と熊の命がけの闘いを描いた傑作ノンフィクションです。本書から、一部を抜粋して紹介します。羆を仕留めそこなった熊撃ち名人の行方とは――。
熊撃ち名人
三石川を十キロあまり遡ったところに幌毛という部落(現在の富沢)があった。その幌毛に、熊撃ちの名人と呼ばれた大友さんという老人がいた。
当時、日高の山では、どこへ行っても羆の足跡が見出され、その姿を目にすることもしばしばであった。老人は、そんな山に入って毎年のように二、三頭の熊を撃ちとるので、部落の人たちからは、「熊撃ちの名人だ」ともてはやされていた。
秋の穫り入れもたけなわのある日のこと、隣りの主人が大友さんを訪ねてきて、
「大豆畑が荒らされているから、ちょっと調べてみてほしいんだが」
と言った。
「畑が荒らされているって、どんな具合いにかね」
「うん、大豆のニオが一部こわされて、バラバラになっているところがあるんだよ」
「そうか、足跡はついてないのか」
「うん、ハッキリとは分からないけど、シカでないかと思うんだ。シカだったら、一晩であの畑ぐらい荒らしてしまうべもよ」
「そうだな。よし解った、すぐ仕度して行ってみるよ」
翌朝、腹ごしらえをすませてから銃を背に家を出た老人は、まだ働く人の来ていない豆畑に足を運び、件の豆ニオのところへ行ってみた。思ったとおり、シカの足跡があった。銃で撃たれた際、飛び跳ねて付いたと思われる、深い足跡も残っていた。畑の縁には、走り去るときに付けたものであろう、荒く搔いたような足跡もあり、シカはそこから小笹の藪へ逃げ込んだものと思われた。さらに笹藪の中へ入ってゆくと、多量の血が付着した笹の葉が見出された。銃弾はシカのどこかに命中していて、しかも相当な深手を与えているものと見受けられた。
流れ出た血の量から推して、獲物は近いとみた大友老人は、小笹の中に付いた血の跡を追って、ゆっくりと上っていった。ひと思いに息の根を止めてやるつもりで、シカの全身が見える位置を目で探した。再び歩き始め、ボサ藪の右側に回ってその裏側に出、シカがいるはずのボサ藪を振り返ったとき、はっとしたように老人の足が停まった。
畑荒らしの正体
なんと、そこで老人が目にしたのは、大きな一頭の羆がシカの死体にまたがって、下腹のあたりを喰い破り、内臓をむさぼり喰っている姿であった。熊もひどく驚いたのであろう、引っぱり出した内臓を口からぶら下げたまま、じっと老人を見すえている。
だが、生い茂るボサ藪は老人の下半身を隠すほどの丈があり、手に下げた銃も熊の位置からは見えないものと思われた。老人はそろりと左手の銃を持ち上げて、右手でしっかりと銃把を握った。そして、そっと左足を前に踏み出したとき、不覚にも右足がズルッとわずかにすべった。体が斜面にかしぎ、一瞬目線が逸れ、熊が大きく跳んだ。
かしいだ体勢を立て直す間もなく、腰矯(こしだめ)にした銃がダーンという音とともに火を噴き、老人は切り株の下部へ回り込みながら腰の弾帯から二弾目の実弾を抜き出して、手早く装塡した。銃身を一振りすると同時に熊を見ると、緩斜面を下へ跳んだ熊が、向きを変えるやいなやウオーッと一声大きく吼えて、今度は老人に向かって走りだした。
肩付けするいとまもなく、またもや腰矯にして、走り上る熊の真正面に撃ち込み、素早く切り株の上へ回り込んで、三弾目を詰めるべく遊底を開こうとした。ところが、老人がいくら引いてみても遊底は開かなくなってしまった。
樹上の闘い
羆は、と見れば、斜面に坐り込んで傷ついた胸のあたりを搔きむしっている。それを見定めた老人は、傍らに生えている少し太目のカシワの木に登った。
第一の枝は、地上から約八尺(二・四メートル強)あり、大きな羆なら立ち上がって前肢を伸ばすとどうにか届く高さに付いている。老人は、その一の枝に立って幹に左足をからませ、再度銃を操作してみたが、脹れたケースは一向に抜ける様子もなく、遊底はどうやっても開いてくれなかった。そのうち、立ち上がった熊が低い唸り声を発しながら斜面を上ってきた。木の下に寄った熊は、顔を振り上げて老人を見、木の上側に回り込むや、前肢を幹に掛けて立ち上がり、真っ赤な口をあけてガウーッと一声吼え、老人を威嚇した。仕方なく老人は銃の先を羆の顔面に押し付け、「ズドン、ズドン」と大声を出して脅かしてみた。だが、熊はひるむ気配すら見せず、木を叩いたり揺すったりしていたが、しまいには老人をにらみつけて大きく吼え、その木に登り始めた。
老人は思いっきり体を低くして、銃口で熊の鼻先を突いた。ウワッと短く吼え、いきなり熊が銃の先に嚙みついた。老人は右手を銃床の台尻にかけ、熊の咽深くまでいきなり銃身を押し込んでやった。さすがに痛かったのであろう、熊は木から滑り落ちながら大きく頭を振った。そのとたん、危うく木から転落しそうになった老人は、思わず銃を手離し、木にしがみついた。
地面に落ちた熊は、頭を振って口から銃を放り出すと、またもや木に登りだした。羆が木に登るときは、一の枝まではそれほど早くないが、一の枝に前肢をかけると、そこから上に登るのは恐ろしく早い。まして、この木のように一の枝から地面までの間隔が短い木であれば、たちまちのうちに老人の足元まで来てしまう。
腰鉈を抜いた老人は、力一杯、登ってきた熊の頭にそれを叩きつけた。そしてさらに、一の枝に掛けた右前肢の指に鉈を振りおろし、指の大半を爪もろとも切り落としてしまった。
指を切られた熊は、自分の体重を支えきれずに木から転落し、ガウーッ、ガウーッと叫びながら、その辺りを狂ったように走り回った。頭を割られ、指を切断され、腹部に浅い傷とはいえシカ弾を受け、急所は外れていたものの鉛の実弾を一発胸元深くに撃ち込まれていては、出血も多量となる。そのためか、もはや走ることができなくなったらしく、熊は前肢を庇うような仕種で、よろめきながら山の奥へ遠去かっていった。
手負い熊と猟師
「大友さん、どうしたかね、朝早くから鉄砲の音がしていたけど」
この人は山本さんという人で、昨日大豆畑が荒らされていると言ってきた当人である。
「うん、ゆんべここで撃ったシカを追っていったらよ、おっきな熊がシカの腹破って百尋(内臓)喰らっていたんだ。あいにく手負いにしてしまったでよ、これから追ってみるけど、あの上にあるナラの根っ株のところにシカが倒れていっから、二、三人で行って、おらのとこまで運んできてけろや。晩にはシカの肉で一杯やるべしよ」
「うん、わかった。すぐ運んでバラしておくから、気をつけてや。熊も運びに行ってやるべよ。大体、どのあたりだべか」
「そうだな、あのへんだと、大方シュムロ沢のカッチ(沢の詰め)だべよ。まああとから来てみてくれや」
「うん、シカを始末したら行ってみっから、気をつけて行ってや」
山本さんの声を背に受けて、老人は、畑の上縁から背丈の低い笹藪の中に足を踏み入れ、カシワの樹林へ向かってゆっくりと歩を進めていった。
笹の葉や地面に付着した血痕は、跡切れ跡切れながらもなお先へ続いている。少し先に小さな窪みがあり、そこにベットリと血の塊りが付いていた。熊が坐り込んだ跡だ。
“近いな”。老人は足を停め、顔を上げて様子を窺った。注意深く見回す老人の目には、何ひとつ動くものの影は映らなかった。透かし見る雑木林の樹間には、なにも変わったところはなく、たまさかに小鳥の囀りさえ聞こえるほど、静けさが辺りを包んでいた。だが、老人の頭の中から、“熊は近くにいる”との直感は去らなかった。全身を耳にし、目にもして、老人はその場に立ちつくしていた。
いくばくかの時が流れ、再び老人は歩き始めた、ひと足ひと足ごとに足元に目をやりながら。“熊はもう少し先だ”と、周囲の状況から老人は判断したのだ。歩き始めて五メートルあまり、右手にナラの大木が立っていて、その根元で血痕が消えた。
老人はナラの根元を回ってみた。ほんの二メートルほど離れたところに、もう一本、ナラの大木が立っており、その二本の木の真ん中あたりに、やや多目の血痕があった。まだ新しいものと思われるその血痕に、老人の目がひきつけられた。
あれだけ細心の注意を払いながら、老人は不覚にも前屈みになって、地面に落ちた血の跡を目で追った。それがすぐに跡切れているのを見たとき、何か異様な気配を感じた老人は、素早く傍らの大木に身を寄せた。その瞬間、後頭部に烈しい一撃を受け、前のめりにたたらを踏んだ。倒れる寸前、老人は咄嗟に体の向きを変え、仰向けになって倒れながら銃を前に突き出し、覆いかぶさってきた熊の咽元に銃口を当てるようにして引き金を引いた。
ドッと胸にのしかかってきた熊の重みとズキンという胸の痛みを感じながら、老人はしだいに意識を失ってゆき、いつしか深い眠りに落ちた。
家に運ばれた老人は、床についたまま、訥々とその日の出来事を語り、よばれた医者が到着したときには、もう二度と立ち上がることもできず、次の日には遂に帰らぬ人となってしまった。肋骨が折れて内臓に突き刺さり、出血が腹中に溜ったため、命を落とす羽目になったという。
このように、手負いの熊がどんなに恐ろしいものであるかということは、父からも、他の猟師からも、事あるごとに何度も聞かされていたし、「確実にたおせる距離でなければ、絶対に発砲するな」と固く戒められたものだった。さらに、「もし万が一、かりにも手負いの熊を出したとしたら、自分の命を賭けてでも、それを仕留めてしまうことに全力をそそげ」とまで教えこまれた。
このような教えが、少年の私をいっそう用心深くしたのか、身近に熊の気配を感ずることがずいぶんと早くなっていた。
文=今野 保
https://news.yahoo.co.jp/articles/d3ef3f86b6a154339f1b1b92d784a268563520b3