ダイヤモンド2024.12.23 7:00
インドのカースト制度に基づく差別は現代では法律で禁止されているものの、今もなお人々の生活に深く根付いている。職業選択の自由や食べるもの、結婚相手、人間関係など生まれながらにして多くを制限されているカースト制の実態とその起源を専門家が解説する。※本稿は、宮崎智絵『インド沼 映画でわかる超大国のリアル』(インターナショナル新書、集英社インターナショナル)の一部を抜粋・編集したものです。
インドのカースト制度を描いた
傑作「きっと、うまくいく」
インドといえば、“カレー”、“ターバン”、“映画”とともに“カースト制”を挙げる人も多いでしょう。世界史の授業で、「バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ」という身分制度を習ったと思います。最近では、「スクール・カースト」という言葉も一般的に使われるようになってきました。
映画『3Idiots』(邦題:きっと、うまくいく、2009年)でも、成績によって序列をつけることをカーストみたいだと主人公のランチョーが指摘する場面があります。
内容は、次の通りです。10年前、インド屈指の難関工科大学ICE(Imperialcollege of Engineering)にそれぞれの家庭の期待を受けて入学してきたファルハーンとラージュー、そして自由奔放な天才ランチョーの3人は寮でルームメイトとなります。
何をするにも一緒の3人はしばしばバカ騒ぎをやらかし、学長や秀才のチャトル等から「3バカ」と呼ばれ目の敵にされていました。「きっと、うまくいく」というモットーのもと、なんとか大学を卒業しますが、卒業と同時にランチョーは姿を消してしまいます。
ファルハーンとラージューは、ある日チャトルから母校に呼び出されます。チャトルがランチョーの消息がつかめたということで、3人はランチョーを探しに行くことにします。
10年前の大学生活の思い出と現代のランチョーを探す3人の旅を織り交ぜながら、やがてファルハーンたちはランチョーが実は庭師の息子で、領主の息子の身代わりで大学に行き、今は何百という特許をもち、理想の小学校を作ったことを知るのです。
さて、ランチョーは、序列を可視化することを「カースト」と表現しています。成績順に座って集合写真を撮る場面で学長の隣に座った学年1位のランチョーは「こんな所に座るのはどうも……」と言います。
「何か問題でも?」という学長に対してランチョーは、「問題だらけです。まるでカースト制度だ。“優”は王様、“可”は奴隷、間違っています」と言います。
学長が「他に方法が?」と聞くと、ランチョーは、「あります。貼り出すのをやめてください」と言います。
ここでも順位を明確にし、競争を煽るやり方に疑問をもたない学長に、その問題の本質を鋭く指摘するのです。
ランチョーは、これを「分断」と表現していますが、階層間の分断はまさにカースト制の問題点なのです。
ヴァルナとジャーティで成り立つ
カースト制は二重構造の権力で発展
では、まずカースト制とはいったいどのようなものかを見ていきましょう。
同書より
カースト制の「カースト」は、ポルトガル語で「種族」や「血統」を意味する「カスタ」が語源です。その実態は、サンスクリット語で「色」を意味する「ヴァルナ」と、「生まれ」「血」を意味する「ジャーティ」から成り立っています。
つまり、カースト制とは、インドではヴァルナ・ジャーティ制のことを指します。この制度では、カーストは2000~3000あるといわれています。
さて、ヴァルナ制ですが、「バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ」という、まさに私たちが世界史などで習ったカーストの4姓のことです。
ジャーティ制は、生まれにより決定されるもので、職業の世襲、同じジャーティ同士での結婚などの決まりがあります。さらに、他のジャーティとの食物の授受、共食は制限されています。
逆に、食物の授受、共食をするということは、同じジャーティであることを対外的に示すことにもなります。
また、ジャーティには序列があります。「浄と不浄」というヒンドゥー教の概念にもとづいたもので、そのトップがバラモンです。序列によって食べて良いものと悪いものなどが決められていますが、上に行けば行くほど浄性が高くなり、そのため食べられるものも制限されます。
たとえば、上位カーストの中には、にんにくやネギなどを制限されているカーストもあります。
カースト制は、バラモンが指導する宗教とクシャトリヤである王という二重構造の権力によって、そのシステムを発展させていきました。
前世と来世、浄と不浄のようなものが見えないところで権力として機能したのが宗教で、現実世界の象徴であり、見える権力として機能したのが王です。
そして、宗教が教育の役割を担うことによって、見えない権力を浸透させる役割を果たしました。
出産しても結婚できない
肌の色も差別の対象に
映画『Vanaja』(ワナジャ、2006年)は、1960年代のアーンドラ・プラデーシュの田舎を舞台とした映画で、アメリカとインドの合作です。
内容は、次の通りです。ワナジャは漁師の父と2人暮らしをしています。ワナジャは、生活が苦しいため15歳で女領主の家に奉公することになりました。
女領主は、インドの古典的な踊りクチプディの踊りの名手で、ワナジャは必死に頼んで踊りを習うことを許可してもらいます。ワナジャの踊りはどんどん上手になっていき、村祭りで賞金をもらいます。
ある日、女領主の息子シェカールが、アメリカから帰国します。ワナジャは、シェカールがお金の計算ミスをしたと女領主の前で指摘し、彼に恥をかかせてしまいます。そして、ワナジャは、シェカールに襲われ、妊娠します。
女領主はシェカールを叱り、ワナジャに中絶を勧めますが、ワナジャは、見つからないところで男の子を出産します。子どもはシェカールの子として女領主が引き取りますが、ワナジャも子どもの側にいたいと仕事に戻ります。
この映画では、ワナジャは漁師の娘であり低カーストです。女領主の息子であるシェカールは、低カーストのワナジャと結婚することはできません。1960年代には、すでにインド憲法は施行されており、カーストにもとづく差別は禁止されています。
しかし、現実では、子どもができても結婚することができないのが当たり前だったのです。そして、子どもの肌の色が黒いのをワナジャのせいにし、差別的なことを言います。肌の色がカーストの指標の1つとして、差別につながっているのです。
さらに、ワナジャが洗濯物を干していると、使用人の少年が、「奥様と同じ並びに服を干すのか?」と言います。ワナジャは、「私とアンタとは階級が違う」、少年は、「へー、上流階級なんだ」と嫌みを言います。洗濯物の干し方に対して、カーストを理由に年下の少年が文句をつけているのです。
しかし、親友のラチは、バラモンの娘ですが、学校では教科書が買えないワナジャに教科書を見せてくれたり、一緒にいたずらをしたり、ワナジャを一生懸命助け、精神的な支えとなります。ラチの父もワナジャと彼女の父を助けます。このラチとワナジャには、カーストは関わりなく、純粋に友人としての関係が成立しています。
カースト制の起源は諸説あり
制度として成立したのは紀元前
一方で、シェカールとワナジャの関係は、カーストが影響しています。同じ村でもカーストを超えた友情は成立しますが、結婚はカーストを超えることはできないのです。
このように、カースト制が、村での人間関係を限定しているのですが、この映画では、カースト制に縛られない友情が成立する場合もあるという希望が描かれています。
カースト制の起源に関して、ヒンドゥー教の聖典の1つである『リグ=ヴェーダ』によると、プルシャ(原人)から発生したとしています。プルシャ(原人)とは、世界の最初の存在で、千の頭、千の目、千の足をもち、その身体から月や太陽だけではなく神々や人間など世界のすべてが生まれた巨人です。
そして、プルシャ(原人)の頭は人間のバラモン、両腕はクシャトリヤ、両ももはヴァイシャ、両足はシュードラとなった、というのが神話的なカースト制の起源です。
しかし、実際のカースト制が制度として成立するのは、紀元前1000~600年あたりです。この時代は、ヨーロッパから移動してきたアーリア人が、農耕社会を完成させた時代です。
鉄器を使用することで農業の生産性は高まり、農耕従事者以外の人々の活動を可能にする経済的基盤が確立しました。政治的には、部族制度が崩れて王権が拡大し、行政制度や徴税制度が整えられつつあった時代でした。
では、カースト制の起源についてですが、諸説あります。まず、血縁集団、職能集団、民族集団などの多様な集団間での雑婚によるという説です。
本来は同じヴァルナに属する者同士で結婚しなければならないのですが、混血によって様々なジャーティが生まれ、上下のランクが決まったというものです。
『インド沼 映画でわかる超大国のリアル』(インターナショナル新書、集英社インターナショナル)
宮崎智絵 著
あるいは職業重視説というのもあります。文明社会では職業が分化し、同じ職業を世襲する者たちの集合体が成立しますが、このような職者集団にカーストの起源を求める説もあります。
また、人種重視説では、黒色の先住民を征服した白色のアーリア人が、自己の血の純粋性を守ろうとして決めた内婚というルールにカーストの起源を求めています。
さらに、カースト制の起源はインド=ヨーロッパ社会にまでさかのぼるという説や、アーリア人がインドに来る前にすでにドラヴィダ人社会にあったという説もあります。
いったい、どれが本当の起源なのでしょうか?いまだに決定的なものはなく、まだしばらく論争は続きそうです。