先日、歩いた両国の回向院の紹介です。
帰宅して、忘れないうちにと、書いていましたが、UPする機会がなく・・・。
blogネタ切れなので、今日載せておきます。
秋雨前線が留まっていて、雨ばかりの毎日。
秋霖は、もう飽きました。
その写真コレクションです。
大相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていたそうです。
その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は、回向院とされてきました。
やがて天保四年(1833)より春秋二回の興行の定場所となり、明治42年の旧両国国技館が完成するまでの76年間、「回向院相撲の時代」が続いたのです。
力塚の碑は、昭和11年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と回向院のつながりを示す象徴になっているそうです。
回向院は、1657年に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われたそうです。
この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。
当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと、隅田川の東岸に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。
このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが、回向院の歴史の始まりだそうです。
この「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」は、現在までも守られてきた理念だそうです。
写真は、聖観世音菩薩立像。
右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。塩がたくさん、お供えしてありました。
鼠小僧次郎吉のお墓。
時代劇で活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削り、お守りに持つ風習が当時より盛んで、現在もあとをたたないそうです。
お庭で、植木の手入れをしていたおじさんから、「受付で売っているよ」と教えていただいた、500円のお守り袋を買いました。
そこに削った粉を入れておくと、強運に守られるそうです。
日の目をみずに葬られた水子の霊を供養するため寛政五年(1793)、時の老中松平定信の命によって造立されたもので、水子供養の発祥とされています。
江戸市民に知られていたこの矩形の板石の塔は、正面に小作りながら、端正なお顔の地蔵菩薩坐像が浮彫りされ、その下に「水子塚」という大字が刻まれています。
長寿の木、楠。