先日、藤田嗣治展を見てきました。
藤田の絵は、ブリジストン美術館に、この乳白色の技法を使った絵がいくつか展示してあり、見たことがありました。
この写真の絵は、パリのポンピドゥーセンターにありました。
舞台はニューヨークで、タイトルは「カフェ」。
でも描かれている女性は、まるでパリジェンヌ。
藤田は、東京新宿・牛込で生まれます。(夫は、まずはそこにシンパシーを感じたようです)
5歳で母親を亡くし、東京藝大を卒業し、パリに渡ろうとした藤田を、軍医だった父は反対しました。
けれど、まだ売れない画家であった彼に資金援助し続けたのは、その父であったのです。
彼は生涯に、何人もの女性と結婚します。
最後に、ずっとそばにいたのは、君枝という女性でした。
画家としての藤田に目を転じると、最初はモジリアニの影響や、キュビズムの影響を受けた絵を描いていたりしましたが、そのうち、「乳白色の下地」による個性的な画風を確立して行きます。
パリの蚤の市を歩いては収集していた、木靴や、人形、壁の絵皿などを、乳白色の下地の上に、描いて行きます。
日本を離れ、異国に住む異邦人の「趣味性」が、こうしてアイデンティティとして現れています。
やはり特筆すべきは、戦争画です。
当時、久しぶりに日本に帰国していた藤田は、戦意高揚のため、国から戦争画を描くよう言われます。
それが「アッツ島玉砕」です。絵の前に立つと、敵か味方もわからない人間たちが、絡み合い殺しあっています。
この絵の前に立つと、「これが、戦意高揚のための絵?」と疑問を持ちました。
逆に、戦争の残虐性を突きつけられた思いがします。
当時、横山大観なども、こぞって戦意高揚を煽る戦争画を描いていました。
けれど、戦後、藤田は、こうした絵を描いたことで、一身に、戦争責任を追及されることになります。
彼は祖国を離れることを決意します。
それからの彼の道のりと、技法の変化には目を奪われます。
北米、中南米、アジアを旅する藤田の絵には、写真家のような鋭い眼差しが向けられ、装飾性も、一切排除されます。
そうして彼が最後にたどり着いたのは、やはりフランス。
ランス大聖堂で、カトリックの洗礼を受け、名前も「レオナール」に変えます。
日本人であった藤田は、キリスト教徒のフランス人として、南フランスで生きていきます。
彼にとって、日本とは、なんだったのでしょう。
5歳で母を亡くし、藝大を出て、すぐにパリに渡り、キュビズムや、モジリアニなどの影響を受けながらも、無名画家としていきながら、、あの「乳白色技法」を生み出し、多くの注文が入るようになり、パリは、居心地のいい国になっていったのかもしれません。
でも郷愁を感じ、帰国した国では戦争が始まっていて、そこに組みされていった・・・。
日本は、藤田にとって、生涯、安住の地ではなかったようです。
おかっぱ頭に、丸メガネ、ちょび髭、金のピアス。
藤田の作品は、これからも、この独特な風貌とともに、私たちの心に残っていくでしょう。