「勝って、勝ちに傲ることなく、 負けて、負けに屈することなく、 安きにありて、油断することなく、 危うきにありて、恐れることもなく、 ただ、ただ、一筋の道を、踏んでゆけ。」(嘉納治五郎)
前期試験結果発表あった。武道文化に学ぶことの出来た有難さ痛感した。
昨夜、前期試験結果発表があった。満点に近い成績の科目、落ちているかと思ったのが、温情で通してもらったと思える科目等いろいろあった。これは同級生についても同じで、好成績に喜ぶもの、追試に落胆するもの様々であった。
そんな時に、自身の生きる指針となってくれるものは、歴史上の、現代の、武道文化であると思える。例えば冒頭の、武術を道として捉え返すことの出来た嘉納治五郎の修業(行)にかかわる言葉である。(この言葉はもしかしたら、「一日の負けは終身の負けにあらず、一日の勝ちは終身の勝ちにあらず。目先にとらわれずとどまることなくやわらの道をいけ。」と起倒流秘伝書にあると読んだことがあるので、オリジナルは嘉納治五郎では無いかもしれないが、、、。)
そして、それは本来ならば、柔道整復に受け継がれていなければならない筈のものだと思える。それは端的には、患者の認識を整える術である。例えば、やる気を出させることであり、不安を除いてやることである。何故それが必要かと言えば、それが治療の成否を決めるからである。
そう考えると、鍼や灸という武器を使える鍼灸は、素手の柔道整復よりも数段効果のある治療の可能性があるというのは一面の真理であり、一面では、本来の柔道整復は鍼灸に勝るものがあると思えた。
前期試験結果発表あった。武道文化に学ぶことの出来た有難さ痛感した。
昨夜、前期試験結果発表があった。満点に近い成績の科目、落ちているかと思ったのが、温情で通してもらったと思える科目等いろいろあった。これは同級生についても同じで、好成績に喜ぶもの、追試に落胆するもの様々であった。
そんな時に、自身の生きる指針となってくれるものは、歴史上の、現代の、武道文化であると思える。例えば冒頭の、武術を道として捉え返すことの出来た嘉納治五郎の修業(行)にかかわる言葉である。(この言葉はもしかしたら、「一日の負けは終身の負けにあらず、一日の勝ちは終身の勝ちにあらず。目先にとらわれずとどまることなくやわらの道をいけ。」と起倒流秘伝書にあると読んだことがあるので、オリジナルは嘉納治五郎では無いかもしれないが、、、。)
そして、それは本来ならば、柔道整復に受け継がれていなければならない筈のものだと思える。それは端的には、患者の認識を整える術である。例えば、やる気を出させることであり、不安を除いてやることである。何故それが必要かと言えば、それが治療の成否を決めるからである。
そう考えると、鍼や灸という武器を使える鍼灸は、素手の柔道整復よりも数段効果のある治療の可能性があるというのは一面の真理であり、一面では、本来の柔道整復は鍼灸に勝るものがあると思えた。
おっしゃるとおりですね。
嘉納治五郎先生。偉大な方だったのだと思います。
たしか、旧制高校の校長も務められていたと記憶していますが、ドイツ観念論哲学の学びもあったのではと思えます。
↓~いい言葉ですね~
「勝って、勝ちに傲ることなく、 負けて、負けに屈することなく、 安きにありて、油断することなく、 危うきにありて、恐れることもなく、 ただ、ただ、一筋の道を、踏んでゆけ。」(嘉納治五郎)
(この言葉はもしかしたら、「一日の負けは終身の負けにあらず、一日の勝ちは終身の勝ちにあらず。目先にとらわれずとどまることなくやわらの道をいけ。」と起倒流秘伝書にあると読んだことがあるので、オリジナルは嘉納治五郎では無いかもしれないが、、、。)
↑~
初めて知りました。
とてもいい言葉ですね~♪♪♪~
とても~弁証法的言葉ですね!
どこが?
勝ち=奢る、負け=屈する、安き=油断、危うき=恐れる…
それが普通の人=自然成長的人、そんな普通の人を否定して、
変化・運動的・弁証法的人を目指し~
「一筋の弁証法道を踏んで行け」~
ですかね~♪♪♪~
部分・一日の「負け」≠全体・終身の「負け」、
部分・一日の「勝ち」≠全体・終身の「勝ち」、
見えている部分に囚われず・留まるコトなく、
全体的・体系的一体化を目指して~
「弁証法的やわらの道をいけ」~
ですかね~♪♪♪~