ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(76)~(80)

2015-09-10 17:12:01 | 奈良散歩

(76)馬ノ鞍峰 「山岳美と渓谷美を兼ねた山」



台高の主稜上の馬ノ鞍峰は、標高は低いが、登山路の通る谷の斜面には手つかずの原生林が残り、深山幽谷の趣がある』畏友・森沢義信氏の「奈良80山」に、このように紹介されています。2007年、五月晴れの憲法記念日、山友のSさんと三人で、上掲書に『台高山脈の山岳美と渓谷美をともに楽しむことのできる、まれなコース』と記された道を登りました。



明神谷と三之公谷の出合となる林道終点が登山口で、ここから「かくし平」までは散策路があるので、木の杖がたくさん置いてあります。ゆるやかな登りが続く道は、小さな沢を渡ったり、ザレ場を越したりするが、桟道や丸木橋などでよく整備されています。明神滝への分岐を見送り、登山口から1時間ほどでカクシ平の南朝遺跡・三之公行宮跡に着きました。



三之公とは、北朝に神器を譲った後亀山天皇の曾孫にあたる尊義王、その子の尊秀王と忠義王の三人のことをいいます。現在でも交通の不便な、この山奥でのご不自由な生活を思うと、有為変転は世の習いとはいえお気の毒でなりません。
小さな谷を何度か渡り、林の中の急斜面を登って馬ノ鞍峰から西に延びる尾根の上にでると、木の間から白髭岳、弥次平峰が見えました。



尾根に出ると勾配はゆるます。スギ、カシ、ヒノキ、ブナ、ミズナラ、ツガ、モミ、ヒメシャラなどの、奇妙な形の木、共生している木、目を見張る程巨大な木、根が尾根いっぱいに拡がっている木、キノコがたくさん寄生して入る木などを見ながら登うちに、次第に痩せ尾根になります。見事なシャクナゲ林に入るが、まだツボミが固く残念でした。アケボノツツジの花が艶やかな彩りを見せる最後の急坂を登って、1,177m、二等三角点の埋まる山頂に立ちました。林に囲まれて展望はありませんが、長い間の念願だった山頂だけに満足感に浸りました。登山口から約3時間でした。



帰り
はカクシ平で尊義親王のお墓にお詣りし、40mといわれる高さから一直線に落下する明神滝へ寄りました。これだけの高さを、岩壁に触れずに飛び出すように落ちる滝は、関西では珍しいのではないでしょうか。幕末に著わされた「和州吉野郡群山記」にも『三の公の滝、また明神の滝と云ふ。高さ三三尋、腰を打つことなし』と記されています。

77)三津河落 (さんづこおち)「三つの川の分水点」



津河落の名は、紀ノ川(吉野川)、熊野川(北山川)、宮川(大杉谷)の水源として、その分水嶺となっていることからきています。「和州吉野郡群山記」には「三途川落」と表され、『大台一の高山なり』と記されています。分水点の「三津河落」は広大な笹原の中にあり、ピークではありません。「三津河落山」は一般に、如来月から大和岳にかけてのピークの総称とされています。

しかし、古くからそれぞれの峰は別の名前で呼ばれていたようで、「世界の名山・大臺ヶ原山」 (大正十二年・大台教会刊)に次の記述があります。『中の谷川に沿ふて遡れば三津川落に至る、即ち三国三水の分嶺なり、此地隆起の度日出ケ嶽に譲らず、展望の快亦殆んど相亜ぐ、唯さんづのかうちてふ称呼の、さながら、黄泉の境に入るが如き心地するを厭ふべしとするのみ、昔はみつかはおちとこそ云ひけん、知らす何処のえせものぞ誤り初めしにや。…』



る年、日出ヶ岳から稜線を辿りました。巴岳、名古屋岳、如来月とピークを辿り、モミ、トウヒ、ブナ、シャクナゲなどの林を下って、広々としたミヤコザサの原っぱに飛び出すと、三津河落山の石標がありました。



最高点の如来月より少し低い(Ca1630m)のですが、Y字型に尾根の別れる実際の分水点です。



たちはY字の下棒に当たる南から来ましたが、日本鼻、大和岳は左前方(北西)に伸びやかに拡がり、右前方(北東)には緩やかに緑の尾根が下り、その上に一筋の道が大台辻へ続いていました。

78)大和岳  「日本の鼻?」



「和州吉野郡群山記」では「国見が岳」の名で記されていますが、説明は一切ありません。「世界の名山・大臺ヶ原山」では次のように詳しく記されています。

『山戸谿 三津川落を去りて、約半里ばかりの処に、また隆起せる高地あり、山戸岳と云ふ、其南谿より流出る川は即ち山戸川にして、此川に沿へる一帯の谿谷を山戸谿と云ふ、山戸川と中ノ川の間なる山の背を日本鼻と云へど其義詳かならず、或は山戸が鼻にもや、此山わたり地相平達にして能く大臺の称呼に合ふ、随ひて水声緩慢、頗る大陸的趣致ありなど云はることも、偶然にあらず、況んや老樹欝葱として、四面を包み、風光最も閑寂を極むるをや。』



私たちは三津河落から、笹原の中の平坦な道を大和岳へ向かいました。真新しい農林水産省雨量測候局を過ぎると、左手に小さい丘がありました。



上に引用した日本鼻です。「…郡山記」では『日本ケはな<>(これは低き山なり。この山中の水、日本ケ谷へ流るるなり)』と記されていますので、「大和=日本」と転化したのかとも思われます。ここも見晴らしのよい草地で、奥の林との境に古い雨量測候所らしい建物がありました。



笹原を少し下ってオオイタヤメイゲツの林を抜け、ちょっと登り返すと大きな岩のある大和岳です。経ヶ岳に続く稜線の上に大峰山脈がぼんやり浮かんでいました。

79)如来月 「付から月へ?」

 
三津河落より如来月

国土地理院の地図では標高(1,654m)のピークが三津河落山とされています。「和州吉野郡群山記」の「大台山記」に『如来附(三途川落に添える小山なり。三途に附きしゆえゑ、如来附といふ。高山にあらず)』『三途川落に登れば渓筋三方に分かれたり。一方東は宮川に出、一方北西は紀ノ川に出、一方西南は大台に入りて新宮川に出る。(和州吉野郡山記)』と書かれています。また、『前鬼山ヨリ大台山ヲ見ル真写』という図があり、円い山頂の巴岳を挟んで、左に秀ヶ岳、右に三途川落が共に富士山型に描かれています。面白いことに秀ヶ岳(日出ヶ岳)より三津河落山が高く描かれています。如来月は三津河落より低いとされるなど、正確な測量が出来なかった時代と、現在の標高や山名と比べてみて面白く思いました。
 
川上辻は昔、名古屋峠と呼ばれていました。ある年、少し筏場の方に下り、左手の涸れ谷を登ってナゴヤ岳と三津河落山のコルにでました。丈の低いミヤコザサの中に一筋の細い道が通じていて、ブナやトウヒの林の中を登ると、次第にジグザグの道になりました。



大きな岩が積み重なった左側を回り込むように登ると、「如来月」の古い石標と府県境界を示す石柱があり、新しい山名板は、如来月と三津河落山の二種類が混在していました。細いヒノキに囲まれて眺望は全くありませんが、静かな気持ちの良い頂上でした。



実はこの時、てっきりここが三津河落山の山頂と思っていました。数年後、再訪すると前にたくさんあった山名板は一枚も見当たらず、石の山名標と境界見出標だけが残っていました。

 



80)経ヶ峰 

「怪物をお経で封じ込めた山」

 大蛇クラより

大台山中、三津河落山から西へ延びる尾根上にあります。「大和青垣の山々」では「和州吉野郡群山誌」大台山記の「教導師」をこの山に比定しています。
「和州吉野郡群山誌」によると『ほうその木谷という所有り、この処より大台の地中山々見ゆ。土俗云く、慶長一七年丙午年、伯母峰の道を開き、西上人(この僧不詳)この教導師へ変化を符じ込めしという。伯母峰よりこの所へ一里あり』。註によると西上人は、上北山と川上両村を結ぶ伯母峰越えの道を開くなど、さまざまな功績があり、土地の人は後に丹誠上人と呼んで徳を慕ったといいます。



上に引用した『変化を符じ込め』というのは「経を埋め化け物を封じ込めた」という意味で、山の名はここから来ています。今はすぐ下を大台ヶ原ドライブウェイが通っています。
ワサビ谷への降り口付近の小広場に車を置いて、北へドライブウェイ左手の稜線に登りました。



落ち葉に埋まるような踏み跡を辿って行くと、最初の小ピークに小さな石標が立っていました。西上人が怪物を封じ込めるために経を埋めた経塔石のようです。踏み跡はゆるく下って、ドライブウェイのガードレールに沿って20mほど行き、再び山道に入ります。バイケイソウの群落の中を通り、シカ除けの柵沿いに原生林の中を登ります。やや尾根が狭まり、岩が出てくると経ヶ峰(1528.9m)に着きました。



山頂は樹木に囲まれて殆ど展望がありません。帰りはドライブウェイを歩いて、往復45分の短いハイキングでした。


蛙飛び

2015-07-12 06:00:24 | 奈良散歩

蛙飛び  

7月7日、吉野山金峯山寺蔵王堂で行われた蛙飛び

白河天皇の時代、不心得な男が山伏を侮辱したので鷲の窟にさらされ、その後、男は後悔したので、金峯山 寺の高僧が男を蛙の姿にして救い出し、蔵王権現の宝前でその法力によって人間に立ち返らせたという伝説」(吉野町HP)を再現した行事です。


春日大社新発見と若宮十五社巡拝(5)

2015-07-01 11:30:33 | 奈良散歩

若宮十五社巡拝を終えましたが、この日(6月27日)の「新発見」は、まだ終わりではありませんでした。



ご本殿の方へ帰ると、本殿北西側に桂昌殿があります。寄進者の徳川綱吉の母・桂昌院の名で呼ばれますが、天下国家の安泰を祈る祈祷殿です。



その前にあるこの建物は春日大社関係者の祖先の霊を祭る、いわば葬祭場です。同じような仏教系の建物が出雲大社にもあったことを思い出しました。



その左手に「天の原ふりさけ見れば春日なる…」の阿倍仲麻呂望郷の石碑が立っています。遣唐留学生として吉備真備とともに唐に渡る前に壮行の儀式が行われた場所でした。



北の若草山の方に広い道を行くと、私たちに欠かせない衣食住のうち「住い」を司る総宮神社。
平安時代の創建で明治維新までは興福寺境内にありました。



続いて、これも興福寺から移された一言主神社。ここへは何度かお参りしたことがあります。
今日も願いを一つ叶えて頂こうと、たくさんの絵馬が置かれていました。小さな鳥居は願いが叶った人がお礼に収めたものです。

燈籠の並ぶ道の両側に、たくさんの鹿たちが群れていました。今年生まれたばかりと思われる小鹿が母鹿にお乳をねだる微笑ましい光景を見ながら、



水谷(みずや)神社に来ました。水谷川に沿うこの摂社は平安から明治までの神仏習合時代は祇園精舎の守り神、医薬の神様でした。現在はスサノオノミコト他ニ神をお祭りしています。



このお社の床下に、先程ご本殿で拝観した磐座と同じ様な磐座が置かれています。ご本殿は撮影禁止でしたのでこちらでご想像ください。

赤い橋を渡り、広い交差点に出ました。真っ直ぐ行くと手向山八幡宮から二月堂への道ですが、右に折れて若草山と御蓋山の間になる道を歩きます。春日遊歩道の標識を見て、緩い登りながら汗ばんで来る頃、右手の沢に降りて「仏塔石」に出会いました。



増田さんのお話では仏塔石は室町中期のもので、六角柱のそれぞれに観音様と狛犬が刻まれています。手前にある平べったい石は「洞の地蔵」で、よく見ると地蔵さんが線刻されています。残念ながら谷間のことで薄暗く、いい写真が撮れませんでした。

さらに上へ歩くと御手洗川の源流に近くなります。緑に苔蒸した岩は「日月磐」で日輪と月が刻まれています。

対岸の少し上には苔むした石燈籠と、池の跡とも思われる窪地がありました。

今日のイベントのフィーナーレを飾る静かな春日奥山に夕暮れが迫ります。
急いで元の道を下り、山あいを抜けると下界はまだ明るく、そぞろ歩きの観光客が行き交っていました。
今日一日、春日神社やその周辺について、数多くの新しいことを教わりました。これからの春日神社参拝や周辺の散策が、より一層充実したものになることに違いありません。
準備の段階から、当日のご案内、解説まで心を砕いてお世話下さった熊木さん・増田さん・金田さんに深くお礼申し上げます。
ありがとうございました。


春日大社新発見と若宮十五社巡拝(4)

2015-07-01 10:14:08 | 奈良散歩

春日大社南門を出たところに、回りを低い柵で囲まれた石があります。殆どの人は気付かずに通り過ぎるようですが、宝亀三年の雷火で焼け落ちた南門の額を埋納した後に石を置いたところから「額塚」と呼ばれる、由緒のあるところです。

他にも、神様の依代として祀られた磐座、あるいは赤童子(若宮御祭神)の出現石などの説があります。

南門から若宮神社の間の道は「御間道(おあいみち)」と呼ばれて、古来、数え切れぬほどの神官が往来した道です。道には御間型燈籠が並んでいます。本宮神社遥拝所で浮雲峰山頂の本社を拝みます。

夫婦大黒社は我が国唯一の夫婦の大黒様を祀る神社で、平安時代に出雲大社の神霊をお迎えして夫婦二体の大黒様をお祀りしたことに始まります。
夫婦和合や良縁を願うハート形の願い札がずらりと並んでいますが、近頃目立つのが英語、中国語、ハングル文字…。    

受付で玉串札の入った布袋を授かり、十五社巡りに出発します。(写真は上下とも若宮神社)

春日大社には摂社・末社が61社ありますが、そのうち若宮神社周辺15社を巡拝して様々な願い事をします。
第一番収札所は若宮神社。

若宮本殿横のナギの木に巻き付いている「八房藤」。記録から樹齢は500年を越えていると推定されるそうです。

写真の2~3番、そして4番の3社は少し引き返したところにあります。

5番から南東の11番紀伊神社に続く緩い坂道は奥ノ院道と呼ばれます。

この辺りの山(東)側一帯はナギの原生林で、国の天然記念物に指定されています。

9番納札所・春日明神遥拝所は社殿はなく磐座が鎮っています。



最奥の紀伊神社から御間道を引き返す形で、

伊勢神宮と元春日枚岡神社遥拝所を拝み



14番の金龍神社へ参拝。

最後は夫婦大黒社の拝所へ上がって大黒様に十五社満願の報告をしてお札を収め、袋をお返しして御徴(記念品)を授かりました。
これで若宮十五社巡拝は終わりましたが、今日の「新発見」の行動はまだ続きます。

 


春日大社新発見と若宮十五社巡拝(3)

2015-06-30 13:19:15 | 奈良散歩

いよいよご本殿へ。今回は金田さんのご縁で特別に今井禰宜さんにご案内頂いて、赤い回廊で囲まれたご本殿の南門を潜ります。
特別参拝受付で記念品を頂いた後、正面にある拝殿と思いがちな建物の前で、「天皇陛下のお供え物をいったん収める幣殿と宮中に伝わる神楽が行われる舞殿」との説明を受けました。

今井禰宜さんのお話しはユーモアを交えて、われわれ素人にも興味深く、すんなり頭に入る分かり易いものでした。この後も、私たちの今後の予定時間を気使いながらも「どうしても長くなる」と笑いながら、それぞれの見どころを詳しく説明してくださいました。

砂摺りの藤の前から直会殿角を北へ曲がり、御手洗川から導かれた水で穢れを落として林檎の庭へ入りました。

ここで今回の式年造替について、「伊勢神宮の遷宮との違い」や「国宝ご本殿特別公開は20年後にまた行われるかも知れないが」「ご本殿の磐座が公開されるのは史上初であり、宮司の大英断とはいえ実に驚いた」などとお話を聞いていると、居合わせた観光客たちも興味深く拝聴していました。

東南隅にリンゴの木がある林檎の庭は、式典の時に舞楽などが行われる処です。(余談ですが息子の結婚式で記念写真を撮った想い出があります)。対角の北西隅には樹齢千年の大杉が聳え、根本から生えたイブキが直会殿の屋根を突き破っています。

その横の石段を登ると御本殿正面の中門を右に見て、左の移殿(内侍殿)に入ります。移殿と本殿の御廊を結ぶ捻廊(ねじろう)は左甚五郎作と言われる斜めの階段です。

移殿(内侍殿)は御造替の時、本社と若宮から神様をお迎えするところで、また神前に仕える内侍が控えていた建物です。ここで神前に参拝して西側に出ます。

境内にいくつもある磐座の前で本殿の屋根を仰ぎ、勾配が優美なことや「軒を貸して母屋を取られる」の軒は庇(ひさし)ではなくて屋根の下で外壁から出ている部分なので、内部はかなり広い場所になることをお聞きしました。

明治維新以来140年ぶりに開門された後殿御門を入ると写真撮影は禁止。後殿(うしろどの)北側には様々な災難を防いで下さる神社が四社(佐軍、杉本、海本、栗柄神社)並んでおられます。

更に東の八雷神社を拝んで、四殿並んだ本殿の背面になる南側に回ると、第一殿下に初公開された磐座が鎮まっておられます。その姿は後ほど水谷神社で見て頂きます。

御門を出てご本殿正面に回り、「二位橋」を渡って中門を潜り、その奥の赤い鳥居(御内鳥居・おんうちとりい)の下にある「一位橋」(雲井橋)を渡って御本殿の四柱の神々の鎮まるお社(春日四社明神)に参拝しました。お社の間の白壁に描かれた神鹿や唐獅子などの美しい絵も、二度と見ることはできないと、しっかり心に留めました。

林檎の庭上部に帰り影向門を出ると、正面が御蓋山浮雲峰です。
鹿島のタケミカヅチノミコトが白い鹿の背に乗って天下られた神聖な山…「既にこの場所の標高がかなりあるので低い山に見えるが…」と禰宜さんが仰いました。ここは禁足地で普段は入れないのですが、今回は遥拝所で参拝することが出来ました。

遥拝所のある回廊の北東隅は回廊のうちで唯一、板葺の築地塀になっています。詳しくは写真の説明板に譲ります。

東から南側へ回廊を巡り、いったん桜門を潜り、南門を出たところで禰宜さんにお礼を言ってお別れしました。
これから若宮十五社巡りに向かいます。