(76)馬ノ鞍峰 「山岳美と渓谷美を兼ねた山」
『台高の主稜上の馬ノ鞍峰は、標高は低いが、登山路の通る谷の斜面には手つかずの原生林が残り、深山幽谷の趣がある』畏友・森沢義信氏の「奈良80山」に、このように紹介されています。2007年、五月晴れの憲法記念日、山友のSさんと三人で、上掲書に『台高山脈の山岳美と渓谷美をともに楽しむことのできる、まれなコース』と記された道を登りました。
明神谷と三之公谷の出合となる林道終点が登山口で、ここから「かくし平」までは散策路があるので、木の杖がたくさん置いてあります。ゆるやかな登りが続く道は、小さな沢を渡ったり、ザレ場を越したりするが、桟道や丸木橋などでよく整備されています。明神滝への分岐を見送り、登山口から1時間ほどでカクシ平の南朝遺跡・三之公行宮跡に着きました。
三之公とは、北朝に神器を譲った後亀山天皇の曾孫にあたる尊義王、その子の尊秀王と忠義王の三人のことをいいます。現在でも交通の不便な、この山奥でのご不自由な生活を思うと、有為変転は世の習いとはいえお気の毒でなりません。小さな谷を何度か渡り、林の中の急斜面を登って馬ノ鞍峰から西に延びる尾根の上にでると、木の間から白髭岳、弥次平峰が見えました。
尾根に出ると勾配はゆるます。スギ、カシ、ヒノキ、ブナ、ミズナラ、ツガ、モミ、ヒメシャラなどの、奇妙な形の木、共生している木、目を見張る程巨大な木、根が尾根いっぱいに拡がっている木、キノコがたくさん寄生して入る木などを見ながら登うちに、次第に痩せ尾根になります。見事なシャクナゲ林に入るが、まだツボミが固く残念でした。アケボノツツジの花が艶やかな彩りを見せる最後の急坂を登って、1,177m、二等三角点の埋まる山頂に立ちました。林に囲まれて展望はありませんが、長い間の念願だった山頂だけに満足感に浸りました。登山口から約3時間でした。
帰りはカクシ平で尊義親王のお墓にお詣りし、40mといわれる高さから一直線に落下する明神滝へ寄りました。これだけの高さを、岩壁に触れずに飛び出すように落ちる滝は、関西では珍しいのではないでしょうか。幕末に著わされた「和州吉野郡群山記」にも『三の公の滝、また明神の滝と云ふ。高さ三三尋、腰を打つことなし』と記されています。
(77)三津河落 (さんづこおち)「三つの川の分水点」
三津河落の名は、紀ノ川(吉野川)、熊野川(北山川)、宮川(大杉谷)の水源として、その分水嶺となっていることからきています。「和州吉野郡群山記」には「三途川落」と表され、『大台一の高山なり』と記されています。分水点の「三津河落」は広大な笹原の中にあり、ピークではありません。「三津河落山」は一般に、如来月から大和岳にかけてのピークの総称とされています。
しかし、古くからそれぞれの峰は別の名前で呼ばれていたようで、「世界の名山・大臺ヶ原山」 (大正十二年・大台教会刊)に次の記述があります。『中の谷川に沿ふて遡れば三津川落に至る、即ち三国三水の分嶺なり、此地隆起の度日出ケ嶽に譲らず、展望の快亦殆んど相亜ぐ、唯さんづのかうちてふ称呼の、さながら、黄泉の境に入るが如き心地するを厭ふべしとするのみ、昔はみつかはおちとこそ云ひけん、知らす何処のえせものぞ誤り初めしにや。…』
ある年、日出ヶ岳から稜線を辿りました。巴岳、名古屋岳、如来月とピークを辿り、モミ、トウヒ、ブナ、シャクナゲなどの林を下って、広々としたミヤコザサの原っぱに飛び出すと、三津河落山の石標がありました。
最高点の如来月より少し低い(Ca1630m)のですが、Y字型に尾根の別れる実際の分水点です。
私たちはY字の下棒に当たる南から来ましたが、日本鼻、大和岳は左前方(北西)に伸びやかに拡がり、右前方(北東)には緩やかに緑の尾根が下り、その上に一筋の道が大台辻へ続いていました。
(78)大和岳 「日本の鼻?」
「和州吉野郡群山記」では「国見が岳」の名で記されていますが、説明は一切ありません。「世界の名山・大臺ヶ原山」では次のように詳しく記されています。
『山戸谿 三津川落を去りて、約半里ばかりの処に、また隆起せる高地あり、山戸岳と云ふ、其南谿より流出る川は即ち山戸川にして、此川に沿へる一帯の谿谷を山戸谿と云ふ、山戸川と中ノ川の間なる山の背を日本鼻と云へど其義詳かならず、或は山戸が鼻にもや、此山わたり地相平達にして能く大臺の称呼に合ふ、随ひて水声緩慢、頗る大陸的趣致ありなど云はることも、偶然にあらず、況んや老樹欝葱として、四面を包み、風光最も閑寂を極むるをや。』
私たちは三津河落から、笹原の中の平坦な道を大和岳へ向かいました。真新しい農林水産省雨量測候局を過ぎると、左手に小さい丘がありました。
上に引用した日本鼻です。「…郡山記」では『日本ケはな<鼻>(これは低き山なり。この山中の水、日本ケ谷へ流るるなり)』と記されていますので、「大和=日本」と転化したのかとも思われます。ここも見晴らしのよい草地で、奥の林との境に古い雨量測候所らしい建物がありました。
笹原を少し下ってオオイタヤメイゲツの林を抜け、ちょっと登り返すと大きな岩のある大和岳です。経ヶ岳に続く稜線の上に大峰山脈がぼんやり浮かんでいました。
(79)如来月 「付から月へ?」
三津河落より如来月
国土地理院の地図では標高(1,654m)のピークが三津河落山とされています。「和州吉野郡群山記」の「大台山記」に『如来附(三途川落に添える小山なり。三途に附きしゆえゑ、如来附といふ。高山にあらず)』『三途川落に登れば渓筋三方に分かれたり。一方東は宮川に出、一方北西は紀ノ川に出、一方西南は大台に入りて新宮川に出る。(和州吉野郡山記)』と書かれています。また、『前鬼山ヨリ大台山ヲ見ル真写』という図があり、円い山頂の巴岳を挟んで、左に秀ヶ岳、右に三途川落が共に富士山型に描かれています。面白いことに秀ヶ岳(日出ヶ岳)より三津河落山が高く描かれています。如来月は三津河落より低いとされるなど、正確な測量が出来なかった時代と、現在の標高や山名と比べてみて面白く思いました。
大きな岩が積み重なった左側を回り込むように登ると、「如来月」の古い石標と府県境界を示す石柱があり、新しい山名板は、如来月と三津河落山の二種類が混在していました。細いヒノキに囲まれて眺望は全くありませんが、静かな気持ちの良い頂上でした。
実はこの時、てっきりここが三津河落山の山頂と思っていました。数年後、再訪すると前にたくさんあった山名板は一枚も見当たらず、石の山名標と境界見出標だけが残っていました。
(80)経ヶ峰
「怪物をお経で封じ込めた山」
大蛇クラより
大台山中、三津河落山から西へ延びる尾根上にあります。「大和青垣の山々」では「和州吉野郡群山誌」大台山記の「教導師」をこの山に比定しています。「和州吉野郡群山誌」によると『ほうその木谷という所有り、この処より大台の地中山々見ゆ。土俗云く、慶長一七年丙午年、伯母峰の道を開き、西上人(この僧不詳)この教導師へ変化を符じ込めしという。伯母峰よりこの所へ一里あり』。註によると西上人は、上北山と川上両村を結ぶ伯母峰越えの道を開くなど、さまざまな功績があり、土地の人は後に丹誠上人と呼んで徳を慕ったといいます。
上に引用した『変化を符じ込め』というのは「経を埋め化け物を封じ込めた」という意味で、山の名はここから来ています。今はすぐ下を大台ヶ原ドライブウェイが通っています。ワサビ谷への降り口付近の小広場に車を置いて、北へドライブウェイ左手の稜線に登りました。
落ち葉に埋まるような踏み跡を辿って行くと、最初の小ピークに小さな石標が立っていました。西上人が怪物を封じ込めるために経を埋めた経塔石のようです。踏み跡はゆるく下って、ドライブウェイのガードレールに沿って20mほど行き、再び山道に入ります。バイケイソウの群落の中を通り、シカ除けの柵沿いに原生林の中を登ります。やや尾根が狭まり、岩が出てくると経ヶ峰(1528.9m)に着きました。
山頂は樹木に囲まれて殆ど展望がありません。帰りはドライブウェイを歩いて、往復45分の短いハイキングでした。