中国へは何度か行きましたが、目的地への中継地点として成都に三度訪れました。
最初は2001年、四川省の太姑娘山(タークウニャンシャン 5025m)へ登頂した帰りです。その時の7月31日の日記…
『午後、蜀漢の宰相・諸葛亮(孔明)を祭る「武候祠」へ。「武候」とは孔明の贈り名・忠武候にちなむ名であり、主君・劉備玄徳廟と合祀されている。広大な境内を、三国志の世界に思いを馳せながら見て回った。次に「杜甫草堂」へ行く。詩聖が安史の乱を避けて長安から成都に移り、郊外に建てた草堂である。杜甫は4年間をここで過ごし、多くの詩作を残したという。「武候祠」「杜甫草堂」どちらもたくさんの人で賑わっていた。』
次は2006年5月、ラサへ行き、4,999mの峠カンパ・ラを越えてソムドク湖を訪ねた帰りに寄りました。

(これが杜甫の隠棲した庵)
『武候祠はライトアップ効果が良くなって見やすくなり、少人数(註.変愚院夫婦と友人の幸ちゃん、北京で合流した恵那市の青年の計4人)なので雷鳴君(註・スルーガイド、実名である)の説明も良く聞き取れた。杜甫草堂には新しく博物館ができていて、その裏の「珍宝殿」で飾り棚に入った9種の珍宝の説明が長々とある。』
この説明をした人は日本人で「大阪(の?)大学に勤めていて中国美術研究のため成都に滞在している。飾り棚は黒檀製で、これだけでン十万円する。一つ一つの玉の器や壺などにはそれぞれ由緒があり、名工の手によるもの」だそうだ。

(奥に見えるのが博物館)
『何か変だと思っていたら、「5月いっぱい期間限定で」一式120万円で販売しているので、四川省教育援助のため協力してくれという。翌日、「あれを買った人がいる」と飛行機で隣に坐った別のグループの人から聞いた(「ほら、あの人よ」と後姿を教えて貰いました)。「お宝好き」もいるものだと驚いた。』
三度目は2010年8月です。九寨溝、黄龍を訪ねる前に一泊した成都は、最初に来た時とは見違えるような近代都市に変貌していました。この時は少し詳しく日記に残しています。
『26日 午後は「武侯祠」に行く。「武侯」とは、三国志で名高い劉備の軍師「諸葛亮(孔明)」に死後贈られた贈名である。成都はかつて彼が長年働いた都市で、そして5回も魏国北伐に出発した都市なので、当初はここより西に離れた所に「武侯祠」があった。ここは、もともと劉備の墓と廟があったところだが、明の時代に「君臣を合祀するべきだ」という考えによって、合併されて現在の形になった。したがって正門の上の字は、劉備玄徳を祭る「漢昭烈廟」で、これが正式な名称である。(中略)』
「武侯祠」入口をくぐる。先年の四川大地震の影響があったようで、内部でまだ補修作業が行われていた。劉備が「三顧の礼」を持って迎えた名軍師・諸葛亮(字は公明)の像は、『鵞鳥の扇子を持つ智者姿で、中国人のもっとも馴染みの深い諸葛孔明のイメージという。
赤い塀と煉瓦の道が、劉備の墓へ続いている。赤い色は魔よけということで、竹の緑と美しいコントラストを見せる道である。
劉備玄徳の墓と伝えられる塚は高さ 12m、周囲180 m。劉備が病死した白帝城は、三峡付近なので成都から 1000キロも離れている。果たして遺体がここへ運ばれて埋蔵されたかは疑問で、一説には衣服だけが納められているという。発掘が許されないので真実は謎に包まれたままだ。
見学を終えて出口までの間にある「博物館」に入る。各時代の珍しい美術品が展示されているが、学術員が説明を始めると中央の何段かに分れた棚に明りが灯った。
2006年に杜甫草堂の「博物館」で出会ったのと同じ状況だ。案の定、「四川大地震で博物館も被害を受け復旧の費用捻出には入場料収入では足りない。展示品は売り物ではないが、寄付してもらったお礼に差し上げることはできる。この珍しい細工物はいくらすると思うか?この辺りは北京や上海と違って田舎で、細工する人の賃金が安いので6万円でいい。」この販売方法は中国の他の都市でもあるそうだ…。』
これら「お宝」は「撮影禁止」の博物館内に保管されているため、写真で見て頂けないのが残念です。