北 岳
梅雨明けを待ち詫びたように7月下旬は山に入っている日が多かった。51年前の1963年は雨中の雲ノ平にいたし、1965年は燕岳から槍への縦走途中だった。この頃、私たち夫婦は会員数80名ほどの大阪の社会人山岳会に所属していて、私はチーフリーダー、♀ペンは入会後5年目の中堅女子会員だった。毎年、夏は六甲山系でボッカ訓練などを行った後、北ア、中ア、南アなどで4~5泊の幕営山行が年中行事だった。日数的にもお互いにこれが最大限で事実、有給休暇の多くを、この頃からお盆前にかけての夏山シーズンで消化している。
さて、1964年は男性7、女性4のパーティで白根三山を縦走した。以下は当時の山日記から。
7月22日 港町発の「やまと」はガラ空きで、17時から並んだ我々は完全に肩透かしを食う。車中、例によって差し入れのうち重そうな奴を平らげたりしながら、あまり寝られずに富士に着く。創価学会の千人の大部隊に逢ったりして身延線の始発に乗り、甲府へ。ここでバス待ち。芦安から予約してあったマイクロバスで、いよいよ入山。
7月23日 快晴。広河原~白根御地 野呂川に沿って走るマイクロバスはスリル満点。まるでジェットコースターなみのスピードで広河原に着く。ここで昼食。すぐに御池への登り。川沿いにしばらく登って、樹林帯の登りにかかる頃からHが遅れ気味。ガンバで高度を稼ぐ。苦しさが高じる辺りで左に捲き、冷たい水場に出る。鳳凰を見上げ、思う様水を飲み、すぐに御池の畔のテント場に着く。北岳バットレスがすぐ目の前にそびえている。
7月24日.快晴。~草スベリ~北岳~北岳小屋付近
↑草スベリからバットレス
出発してすぐ草スベリの急坂にかかる。最初の一本でレモンを囓り、頑張る。KOが苦しそう。
稜線に出ると、富士、中ア、北アと素晴らしい展望と冷風が待っていた。(↑前列左・変愚院、中央・♀ペン)しきりに写真を撮り、北岳へ向かう。
北岳より仙丈岳
北岳頂上で差し入れのメロンを喰う。最高の味!(前列中央・♀ペン、後列・タバコを咥えている変愚院)
バットレスを見下ろしながら行く北岳小屋への下りは、思ったよりキビシイ。
だがキジ場からも富士の見える絶好の幕営地。北岳別荘地の満月は素晴らしかった。
7月25日.快晴。~間ノ岳~農鳥岳~大門沢小屋付近。
←北岳テントサイトにて
稜線へ出るのは思ったより楽だった。間ノ岳を過ぎ、農鳥の小屋へかかる頃から日差しが強くなり、頭が痛くなりそう。
今日の行程は水が不自由なのが恨めしい。西農鳥への登りで手前のピークと間違ったりして少し遅れる。この辺りよりKの様子がおかしい。東農鳥の手前でついにダウン。先にパーティを行かせて空身で歩かせ、ザックを二つ担いで頑張る。東農鳥でO、Tが迎えに来てくれる。SLのKUまでがバテ気味。大門沢の下降点で遂にパーティを分ける。KOとI、T、Oを残し、ビバーグを覚悟して先行のパーティ(KU、KA、女子)と別れを告げる。
約1時間でKは少し元気を取り戻し、自力で下れる見通しがついたので、降りることにする。さすがに大門沢の下りは嫌になるほど長い。ようやく水場に着き、歓声を上げて腹一杯になるまで飲み、ふらふらで小屋にたどり着く。小屋は満員なので河原にテントを張る。
7月26日.~奈良田~身延 遅寝をして、ゆっくり朝飯を平らげ、奈良田に下る。河原沿いの暑い道や、樹林帯の激しい下りや、
吊橋のスリルやらを経て発電所に着く。真っ黒に日焼けした顔を揃えて、賑やかにバスに乗り込み帰阪の途に着く。快晴続きがありがた迷惑で、稜線歩きで水がなく苦しい山行になった。
この年の10月には東京オリンピックで日本中が湧いた。12月、ペンギン夫婦が誕生した。