ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

子の山の思い出

2020-01-16 09:24:13 | 四方山話

干支の山・子ノ泊山(ねのとまりやま)

熊野市と紀宝町の境にある三重県最南端の山。山名の由来は「熊野灘から新宮に向かう舟が、子(北)の方角にあるこの山を目印にしたことによる。   

1996年5月11日、町内のハイキング同好会月例会で「干支の山」へ一泊登山した。169号線で紀伊半島を縦断、しばらく海岸を走って新宮を過ぎ、再び熊野川の支流沿いに遡って目指す山へ。桐原の集落から舗装林道となり、中の谷橋を渡ったところの路側に駐車する。いきなり雑木林の中の厳しい直登が始まる。地図の等高線から覚悟はできていたので、焦らずに胸を突くような急坂をゆっくりと登る。炭焼き窯の跡を過ぎ、さらに踏み跡程度の細い道を行く。シイの落ち葉が敷き積められ、滑りやすく歩き辛い。30分ほど稜線に出てやや傾斜が緩む。むせるような若葉の中にコメツツジの柔らかなピンク色が優しく感じられる。

ブナやケヤキの大木はしっかりと根を拡げて、たくましい生命力を主張している。ふと見上げた頭上に薄紅色のシヤクナゲの花が夢のように浮かんでいた。稜線へ出たものの相変わらず雑木林の中で視界は開けず、少しなだらかな所があるかと思うと急坂が現れたり、結構しんどい山だ。左手からの道を合わせる分岐からは道らしくなり、かなり歩きやすくなる。

さらに急坂を登っていい加減うんざりする頃、林を抜けて小広い台地に飛び出すと一等三角点のある頂上だった。

立派な山名板に「十二年後にまた会いましょう。紀宝町」とあり、スタンプ台や記名帳を入れたポストも設けられている。正月頃はさぞかし賑やかだったろうと思わせるが、今日は我々だけの静かな山頂だった。東から南にかけて大きく熊野灘が拡がり、北から西には大峰、熊野の山並みと360度の展望台なのだが、残念ながら薄墨を流したような曇り空の下で、すぐ近くの山が頂を見せるだけ。海のほうも辛うじて海岸線が見分けられる程度だった。

下山は、よくこんな所を登ってきたと我ながら感心するほどの急坂を頑張り、分岐からは右にとり直降下すると最後に金属の梯子があり、朝の林道の上部へ飛び出した。駐車スペースもあり指導標も立派で、どうも最近はこちらの方が登山口として定着しているらしい。のんびりと林道を降りていくと、右手下にU字形に大きく中ノ谷が開けた。

 

まだ時間があるので、「落打ノ滝」の道標に誘われて谷に降りる。苔むした石を飛んだり、流れを渡ったり、けっこう沢歩きの気分を味わいながら登ること300m、谷筋を曲がると目の前に大きな飛瀑が現れた。

 期待していなかっただけにその豪壮さに度肝を抜かれた。高さも幅も十分に大杉や、赤目の滝に匹敵する美しい姿の滝である。しばらくは全員、言葉もなく流れに見入り、登頂の満足にさらに感激を加えて勝浦温泉の宿に向かった。

<コースタイム>千日町発5:35…9:48仮登山口9:52…稜線に出る10:30…分岐11:05…12:10子ノ泊山頂(昼食)13:15…14:20林道登山口14:45…15:30落打ノ滝15:40…登山口発15:55


奈良の山あれこれ(140)石地力山

2016-07-22 09:45:50 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(140)石地力山(いしじりきやま)<1140m> 「涯無東山

昔は「涯無」とも書かれた果無山脈…なんと夢をかきたてる魅惑的な名前だろう。「大和青垣の山々」(奈良山岳会編、1973)には『十津川の桑畑から紀州田辺の牛の鼻まで二十里」とは土地の人いう果無山脈の全容である。桑畑から発した果無山脈は果無東山、果無西山、安堵山、和田森と紀和両国を分けて二十余キロ連なり、なお南西へ笠塔山、虎ヶ峰とその名の通り果てしなく続いている』と記されている。その東部の最高点が石地力山である。

冷水山からは幅広い尾根となって明るい疎林が続く。ピークともいえない林の中にカヤノダンを示す小さい標識があった。密生したスズタケの中の急な下りを抜け出すと、南側が大きく崩落している公門の崩(ツエ)を通り、公門谷ノ頭に来る。ここでは釈迦ヶ岳から笠捨山に続く、大峰山系南部の山々が眺望できた。

尾根の幅が広くなり踏み跡が錯綜してくる。筑前タワの北側は倒木が積み重なるような斜面で、正面に釈迦ヶ岳はじめ大峰南部の山々がよく見えた。美しいブナやヒメシャラの林の中、はっきりした道となってP1117、P1158など小さなピークを上下していく。ブナ平を過ぎて少し登ったところにすばらしい展望地があった。

『南側が開け、眼下に蛇行する熊野川が光る。大齊原の大鳥居が小さく小さく見える。大雲取、小雲取の山並みも私を招いているようだ。(山日記より)』

僅かな登りで石地力山(1139.5m)である。伐採された西側斜面が開け、振り返ると朝から歩いてきた峰々が延々と続いている。

冷水山は稜線の右肩に小さく頭をのぞかせている。その右手には牛廻山、護摩壇山が見え、山座同定に忙しい。

急坂を下るとスギ林の中の果無峠に到着。十津川から本宮へ通じる小辺路の最終行程・果無越えで、西国三十三カ所をかたどった観音さまの第十七番目が安置されている。角の取れた宝筺印塔もあった。「十津川へ6.5キロ」を示す標識に従い、杉植林の中の整備された道を下り、果無集落を通って十津川の畔の蕨尾に下り着く。朝から8時間半(冷水山から7時間半)の行程だった。


奈良の山あれこれ (139) 冷水山

2016-07-05 08:44:15 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(139)冷水山(ひやみずやま)<1262m>  「果無山脈最高峰」



奈良と和歌山の県境を東西に走る果無山脈の最高点である。山脈を代表する山として果無山とも、この山で山脈が南西に曲がるために最西とみなして果無西山とも呼ばれる。かっては和歌山側の竜神(田辺市)からも、奈良側の十津川からの登路も長く苦労する山だったが、現在は広域林道「龍神本宮線」によって短時間でアプローチできるようになった。


私たちも果無山脈縦走の折、丹生ノ川沿いの「ヤマセミの郷」で一泊。翌朝、この広域林道を利用した。ところどころに落石がある安堵山の山腹を絡み、黒尾山との鞍部、登山道に出会ったところで車を降りる。すでに標高1000m、ひんやりとした冷気が体を包む。真っ青な空の下に大塔山系の峰々がずらりと並んでいる。木の階段を少し上った小広い展望所から、背丈を超すスズタケを切り開いた道になる。少しの急登で笹原を抜けると1222mピークを越え、ブナやリョウブの自然林の中を行く。ふわふわの土を踏んで疎らに雪が残っている道を行き、黒尾山頂(1235m)に立つ。いったん下って登り返すと、一等三角点が埋まり「果無山脈最高峰」の山名板がある山頂である。

南北が開け、和州、紀州両側の重畳たる山並みを望むことができた。車を降りてから山頂まで1時間だった。


奈良の山あれこれ (138)護摩壇山

2016-06-14 18:00:04 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(138)護摩壇山(ごまだんざん)<1372m>  「平家の滅亡を告げた山」

この山から伯母子山へ十津川と野迫川の村境となる山稜が続いている。山名は次の伝説による。源平屋島の戦いで敗れた平維盛は、西国に落ちた一門と別れて高野山に隠れたあと、滝口入道に導かれ熊野に向かう。この山頂で護摩を焚き行く末を占うが、煙が空に昇らず谷に下るを見て平家の運命を知る。そして那智に至り熊野の海に入水した。一説には、護摩を焚いて一門の将来を占ったのは清盛ともいう。

山頂山頂近くまで高野竜神スカイラインが通り、駐車場と護摩木を積み上げたユニークな形の展望塔「ごまさんスカイタワー」がある。塔の横から広い階段状の遊歩道を登ると、10分程で山頂に着く。

休憩舎と「和歌山県朝陽夕陽100選」の標識があるが、展望は殆どない。護摩壇を象った大きな山名板に和歌山県最高峰の表示があるとおり、山頂は奈良、和歌山両県にまたがっている。 

タワー横まで車で入り、護摩壇山頂上を経て東の稜線伝いに歩くと、NHKのTV無線中継塔が立つ耳取山 (三角点名・丸山、標高1382m)がある。

ここは展望にすぐれ、眼下に深い谷に沿って龍神へ続くスカイライン、その左に1304mピークなどの山、その左に鉾尖山の鋭峰、正面遠くには果無山脈などがよく見える。本峰に引き返して、休憩舎横を左に折れ南側の尾根を下る。スカイラインを横切ると「森林公園ワイルドライフ」の大きな広場である。

ここから自然観察路に入り、1304mピーク山頂の休憩舎にくるとタワーから護摩壇山、耳取山とつづく稜線が正面に見える。


奈良の山あれこれ (136) 荒神岳

2016-05-28 08:59:59 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(136)荒神岳(こうじんたけ) <1280m> 「かまどの神をまつる神社の奥の院」

野迫川村立里。三角点峰は立里(たちり)荒神社を祀る北の峰(1240m)の南、600mの地点にあり、立里荒神社の奥の院にあたる峯で「古荒神」と呼ばれる。立里荒神への舗装林道から見ると、整った三角錐の美しい山容である。

荒神社は「かまど」の火を守る火産霊神(ほむすびのみこと)を祀り、「立里の荒神さん」として信仰されている。縁起では弘法大師空海が高野山を開山する際に勧請したと伝える古刹である。駐車場に車を置き、古い鳥居の並ぶ急な石段道を登る。10分近くで参詣道はほぼ直角に左に折れるが、その角が広場になりベンチも置いてある。スギ林の向こうに目指す荒神岳が見えるが、まずは三宝荒神社本殿に参詣する。本殿はこの北峰山頂に位置し、稜線伝いに最高峰の荒神岳に行けそうだが、一帯は社地の囲いがあって入ることができない。

先の広場にに降り、ヒノキ植林の踏み跡を下ってみる。勾配が弱まるところで山腹を捲く道があり、植林の中を辿るとジグザグの登りで稜線にでて、あとはだらだらと緩やかな道になる。クヌギ、ナラ、カエデなどの落ち葉を踏んで行く。広葉樹林に大きなブナやヒメシャラが混じるようになり、少し傾斜が強まると三等三角点のある山頂だった。展望はないがミヤコザサに囲まれた明るい感じの頂上である。帰りは荒神社のあるピークを正面に見ながら下る。右手に延びる尾根のピークに電波塔、その下に駐車場の建物が見える。往路で稜線にでたところの手前に、右に山腹を捲いて下る道を辿る。一部、崩壊して細いところもあるが間もなく車道に飛び出して、3分ほど下ると駐車場だった。


奈良の山あれこれ(135) 陣 ヶ 峰

2016-05-25 14:05:59 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(135) 陣ヶ峰(じんがみね)<1106m>   「山頂に金毘羅さん」

和歌山県高野町と奈良県野迫川町の境にあり、標高1106mの一等三角点を持つ。山頂に金比羅宮がある。

高野山の門前町を抜けて、行き交う車の少ない県道53号線に入る。尾根末端を回り込む格好でヘアピンカーブがあり、その頂点で三叉路になっている処が天狗木峠である。私たちは休憩舎の横の駐車スペースに車を置いて「金比羅宮参道」の標識に従って舗装路を尾根に登った。

なだらかな土の道が終わると、急な舗装路に変わり、それが何度か交互に出てくる。左手にヒノキ、右にはマツが並ぶ道の幅は広く、土の出ているところは緩傾斜、舗装部分は凄い急勾配である。しかし15分足らずで、あっけなく山頂の一角、金比羅宮の前に出た。

陣ヶ峰三角点は神社前の広場から、ミヤコザサやススキを掻き分けるように南へ100mほど行った処にある。

さすが一等三角点だけあって展望は広く、南に伯母子岳、護摩壇山、西に矢筈山や生石ヶ峰、北には高野山の塔頭とそれを囲む高野三山、東側はヒノキ林の切れ目から大峰の山々が望めた。 


奈良の山あれこれ (134) 清水ヶ峰

2016-05-05 09:06:25 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(134) 清水ヶ峰(しみずがみね) <1186.2m> 「美しい自然林の山」

五條市(旧大塔村)にある。地形図には山名記載のない標高1186.2m、三等三角点をもつ。奈良教育大学の実習林の山であり、ブナ、ミズナラなどの美しい自然林を歩く。2007年10 月中旬、日本山岳会の仲間ら10人で歩いた。

(以下、山日記から抜粋) 国道168号線で赤谷オートキャンプへ向かう。赤谷大橋を渡ると奈良大自然環境教育センターがあり、登山口は建物の裏手にある。スギ、ヒノキ林の中の急な階段道を登り標高500mのベンチがある分岐を左に行くと「左下・夫婦松」の標識がある。アカマツとゴヨウマツが根本で合体している仲の良い木である。尾根に出ると、標高600mの標識。ここからブナやリョウブなどの美しい緑の中を登り、登山口から45分で十坪平に着く。標高800mの休憩ベンチで道は分岐する。

等高線を捲くように付けられた沢道は「トチノキ回廊」と呼ばれ、往路はこの道を歩く。

涸れ沢を渡ると、斜面の右下に大きなトチノキが二本並んで立っていた。奈良県下一番の大きさといわれていて、一本の木には大きな洞が開いている。やがて水が流れ落ちるシャクナゲ沢出合を渡る。次の沢を渡るところにトリカブトに似たシロバナサンヨウブシがたくさん咲いていた。鉄塔の下を通って、小さな枝尾根を登った林の中で遅めの昼食。

ここからいったん沢に下り、登り返して「第三の(巨大)トチノキ」はすぐ横を通って行く。

広い「イノシシのヌタ場」を過ぎ、尾根道の勾配が緩むと平田平である。ミズナラの美林の中に大きなヤマナシの木があり、実がたくさん落ちていた。ここまで来ると頂上まではあと一登りである。

山頂は東から南にかけて開け、まず鋭鋒・釈迦ヶ岳の姿が目に飛び込んでくる。その左には孔雀岳、仏性ヶ岳と続く奥駈けの峰々。東南には整った形の笠捨山を挟んで、左に奥・中・南の八人山。右に地蔵岳、蛇崩山…と思った以上に素晴らしい展望だった。

ゆっくりと眺望を楽しんだあと、北東に延びる尾根道を下る。美しいブナ林の中を抜けて、800m地点で朝の道と合流。たっぷりと緑の森林浴に浸り、心身ともにリフレッシュできた楽しい一日だった。


奈良の山あれこれ (133) 玉置山

2016-04-29 10:04:56 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(133) 玉置山(たまきやま) <1076m>  「熊野灘を望む霊山」


山頂より宝冠ノ森

別名・沖見嶽、舟見山。大峰山脈の最南部にある信仰の山である。別名の通り、山頂からは熊野灘を望むことができ、三角点横の祠に沖見地蔵が安置されている。また山頂から南東へ延びる尾根を約45分辿ると宝冠ノ森がある。ここは一時、南奥駈道最後の行所と言われていた。これは江戸後期に入って逆峰が一般的となり、玉置山から本宮までを歩かずに玉置山から竹筒に出て、北山川を舟で新宮に下ることが多くなったためである(森澤義信氏『大峰奥駈道七十五靡』)。

山頂を南に下った山中の台地に、杉の大木に囲まれた玉置神社が鎮まっている。

神社と山頂との間には山名の由来になったと考えられる玉石神社がある。

周辺は『海底火山の噴火により噴出した玄武岩質の溶岩が、水中に流出して冷えた固まった(説明板より)』枕状溶岩推積地で、県指定天然記念物となっている。玉置神社は十津川郷の総氏神であり、熊野権現の奥の院とされている。

周辺の原生林は神域として伐採を禁じられてきたので、樹齢千年といわれる神代杉をはじめ巨大な老杉が残されている。十津川村折立から玉置神社へは古くから参詣道があった。現在は神社の駐車場まで林道を車で上ることができる。私たちも何度かこの道で安直に登った。

駐車場から山頂までは30分強である。

2005年6月、奥駆山行最終回で玉置神社に泊めて頂いた。

朝食後、井上宮司さんの説明で重要文化財の襖絵を見学させて頂く。

狩野派の絵師による花鳥図は華麗で、よく保存されていて色鮮やかである。三柱神社で祝詞とお祓いを受けた後、杉林の中を玉置山山頂へ登る。熊野灘は見えなかったが、遠く雲海に浮かぶ山々、近くは濃緑の宝冠ノ森があるピークと、胸のすくような爽快な眺めであった。この日は大森山、五大尊岳、大黒天神岳を経て夕刻、熊野川の畔に下り、吉野から140㎞に及ぶ奥駈道山行を終えた。
<奥駆道山行の詳細はこちらに>



2006年11月、宝冠ノ森を訪ねた。山頂からシャクナゲの林を下ると左は花折塚へ右は玉置神社への道を分ける十字路で、勧業山の碑と大きな案内図がある。直進してなだらかに登るとミズナラやアセビの茂る1064m峰で、これを下った鞍部から登り返して1057mピークに立つ。二股に分かれた道を左に行くと100mほどで見晴らしの良い絶壁の上にでた。

中八人山から笠捨山、蛇崩山、西峰に続く山々が一望され、右下に目指す宝冠ノ森が紅葉の山肌を輝かせている。分岐を右に行くと急坂の下りになる。

大きな一枚岩に鎖が下がっている処を下りきるとキレット状になり、少し登り返すと美しいブナやミズナラの林の中に入る。

大きな岩の上に碑伝が打ってあるところが宝冠ノ森である。少しし先の断崖の上まからは先程見た山々と、蛇行する熊野川が望めた。行所に帰り、手を合わせ般若心経を唱えた。


奈良の山あれこれ (132) 蛇崩山

2016-04-27 09:03:30 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(132)蛇崩山(だぐえやま) <1172m>    「長大な尾根を蛇と見た?」

笠捨山から瀞八丁に向かって南下する長い山稜の上にある。十津川周辺の方言で「崩れる」ことを「ぐえる」という。しかし、山名との関係は詳らかでない。さて、笠捨山から古屋宿間の奥駈道は江戸時代には現在の稜線通しの道でなく、笠捨山から熊谷ノ頭を経ていったん上葛川に下り、ここから古屋宿に登り返していた(森澤氏『大峰奥駈道七十五靡』)。
 2006年11月、森澤氏をリーダーとする日本山岳会例会でこの江戸道を登った。

上葛川の民宿で一泊、葛川対岸の斜面に付けられた道を登る。支尾根にでて西側山腹をトラバースして稜線を東側に乗越す。展望が開け、熊谷ノ頭や蛇崩山が見える。1040mピークを越えて壊れた作業小屋のあるコルに下り、丈の低い笹原の斜面を右手の樹林帯に沿って直登すると熊谷ノ頭である。

右に延びる尾根上の蛇崩山へは、緩やかに起伏するコブを二つ越してヒノキ林の道を行く。最後に急登でもう一つコブを越すと、大きなブナが林立する中に蛇崩山の広い頂上があった。

往復45分だった。熊谷ノ頭から笠捨山へは、緩やかなアップダウンから次第に傾斜が強まり、露岩の散らばるピークを越して行く。最後は笹原の中の胸を突くような急坂を登ると、笠捨山東峰の広場に飛び出した。釈迦ヶ岳から奥駈道が通る山々がこちらに向かって続き、七面山、中八人山も霞んでいた。

狭い西峰から南へ。槍ヶ岳への登りにかかる手前の葛川辻で奥駈道を離れ、上葛川に向けて下った。


奈良の山あれこれ (131) 笠捨山

2016-04-25 20:50:42 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(131)笠捨山(かさすてやま) <1352m> 「あまりの寂しさに笠も捨てる?」

別名千種岳、仙ヶ岳。三角点のある西峰と、マイクロ反射板の立つ東峰からなる双耳峰である。「笠捨」の名は山の形状から来たものと想像していたが「西行法師があまりの淋しさに笠を捨てて逃げた」ことが由来という十津川の昔話があるという。(森澤義信氏『新日本山岳誌』)

『大和名所図会』には「千種岳に至る、一名仙嶽といふとぞ。また笠捨山ともなづく。姥捨山に連なるをもって名とするなり」とあり、西行の一首『をばすては しなのならねど いずくにも 月すむ峰の名にこそありけれ(山家集)』を載せている。しかし姥捨山とは現在のどの山か、また「笠捨」とどう関連するのか、私にはよく分からない。 

 笠捨東峰よりの眺望

2005年梅雨入りの日にJAC奥駆山行で笠捨山を通過した。貸切バスで浦向から425号線を上って未舗装の四ノ川林道に入り、登山口に来る。行仙小屋への補給路となっているジグザグの山道を登ること50 分で稜線の行仙小屋に着き、昼食。

午後は何度かアップダウンを繰り返して笠捨山西峰(千種岳)に立つ。

新しい神仏の石碑と二等三角点があった。行仙小屋から1時間半だった。この日は笠捨山から玉置山へ、さらに5時間雨中の縦走を続けた。