ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ (133) 玉置山

2016-04-29 10:04:56 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(133) 玉置山(たまきやま) <1076m>  「熊野灘を望む霊山」


山頂より宝冠ノ森

別名・沖見嶽、舟見山。大峰山脈の最南部にある信仰の山である。別名の通り、山頂からは熊野灘を望むことができ、三角点横の祠に沖見地蔵が安置されている。また山頂から南東へ延びる尾根を約45分辿ると宝冠ノ森がある。ここは一時、南奥駈道最後の行所と言われていた。これは江戸後期に入って逆峰が一般的となり、玉置山から本宮までを歩かずに玉置山から竹筒に出て、北山川を舟で新宮に下ることが多くなったためである(森澤義信氏『大峰奥駈道七十五靡』)。

山頂を南に下った山中の台地に、杉の大木に囲まれた玉置神社が鎮まっている。

神社と山頂との間には山名の由来になったと考えられる玉石神社がある。

周辺は『海底火山の噴火により噴出した玄武岩質の溶岩が、水中に流出して冷えた固まった(説明板より)』枕状溶岩推積地で、県指定天然記念物となっている。玉置神社は十津川郷の総氏神であり、熊野権現の奥の院とされている。

周辺の原生林は神域として伐採を禁じられてきたので、樹齢千年といわれる神代杉をはじめ巨大な老杉が残されている。十津川村折立から玉置神社へは古くから参詣道があった。現在は神社の駐車場まで林道を車で上ることができる。私たちも何度かこの道で安直に登った。

駐車場から山頂までは30分強である。

2005年6月、奥駆山行最終回で玉置神社に泊めて頂いた。

朝食後、井上宮司さんの説明で重要文化財の襖絵を見学させて頂く。

狩野派の絵師による花鳥図は華麗で、よく保存されていて色鮮やかである。三柱神社で祝詞とお祓いを受けた後、杉林の中を玉置山山頂へ登る。熊野灘は見えなかったが、遠く雲海に浮かぶ山々、近くは濃緑の宝冠ノ森があるピークと、胸のすくような爽快な眺めであった。この日は大森山、五大尊岳、大黒天神岳を経て夕刻、熊野川の畔に下り、吉野から140㎞に及ぶ奥駈道山行を終えた。
<奥駆道山行の詳細はこちらに>



2006年11月、宝冠ノ森を訪ねた。山頂からシャクナゲの林を下ると左は花折塚へ右は玉置神社への道を分ける十字路で、勧業山の碑と大きな案内図がある。直進してなだらかに登るとミズナラやアセビの茂る1064m峰で、これを下った鞍部から登り返して1057mピークに立つ。二股に分かれた道を左に行くと100mほどで見晴らしの良い絶壁の上にでた。

中八人山から笠捨山、蛇崩山、西峰に続く山々が一望され、右下に目指す宝冠ノ森が紅葉の山肌を輝かせている。分岐を右に行くと急坂の下りになる。

大きな一枚岩に鎖が下がっている処を下りきるとキレット状になり、少し登り返すと美しいブナやミズナラの林の中に入る。

大きな岩の上に碑伝が打ってあるところが宝冠ノ森である。少しし先の断崖の上まからは先程見た山々と、蛇行する熊野川が望めた。行所に帰り、手を合わせ般若心経を唱えた。


奈良の山あれこれ (132) 蛇崩山

2016-04-27 09:03:30 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(132)蛇崩山(だぐえやま) <1172m>    「長大な尾根を蛇と見た?」

笠捨山から瀞八丁に向かって南下する長い山稜の上にある。十津川周辺の方言で「崩れる」ことを「ぐえる」という。しかし、山名との関係は詳らかでない。さて、笠捨山から古屋宿間の奥駈道は江戸時代には現在の稜線通しの道でなく、笠捨山から熊谷ノ頭を経ていったん上葛川に下り、ここから古屋宿に登り返していた(森澤氏『大峰奥駈道七十五靡』)。
 2006年11月、森澤氏をリーダーとする日本山岳会例会でこの江戸道を登った。

上葛川の民宿で一泊、葛川対岸の斜面に付けられた道を登る。支尾根にでて西側山腹をトラバースして稜線を東側に乗越す。展望が開け、熊谷ノ頭や蛇崩山が見える。1040mピークを越えて壊れた作業小屋のあるコルに下り、丈の低い笹原の斜面を右手の樹林帯に沿って直登すると熊谷ノ頭である。

右に延びる尾根上の蛇崩山へは、緩やかに起伏するコブを二つ越してヒノキ林の道を行く。最後に急登でもう一つコブを越すと、大きなブナが林立する中に蛇崩山の広い頂上があった。

往復45分だった。熊谷ノ頭から笠捨山へは、緩やかなアップダウンから次第に傾斜が強まり、露岩の散らばるピークを越して行く。最後は笹原の中の胸を突くような急坂を登ると、笠捨山東峰の広場に飛び出した。釈迦ヶ岳から奥駈道が通る山々がこちらに向かって続き、七面山、中八人山も霞んでいた。

狭い西峰から南へ。槍ヶ岳への登りにかかる手前の葛川辻で奥駈道を離れ、上葛川に向けて下った。


奈良の山あれこれ (131) 笠捨山

2016-04-25 20:50:42 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(131)笠捨山(かさすてやま) <1352m> 「あまりの寂しさに笠も捨てる?」

別名千種岳、仙ヶ岳。三角点のある西峰と、マイクロ反射板の立つ東峰からなる双耳峰である。「笠捨」の名は山の形状から来たものと想像していたが「西行法師があまりの淋しさに笠を捨てて逃げた」ことが由来という十津川の昔話があるという。(森澤義信氏『新日本山岳誌』)

『大和名所図会』には「千種岳に至る、一名仙嶽といふとぞ。また笠捨山ともなづく。姥捨山に連なるをもって名とするなり」とあり、西行の一首『をばすては しなのならねど いずくにも 月すむ峰の名にこそありけれ(山家集)』を載せている。しかし姥捨山とは現在のどの山か、また「笠捨」とどう関連するのか、私にはよく分からない。 

 笠捨東峰よりの眺望

2005年梅雨入りの日にJAC奥駆山行で笠捨山を通過した。貸切バスで浦向から425号線を上って未舗装の四ノ川林道に入り、登山口に来る。行仙小屋への補給路となっているジグザグの山道を登ること50 分で稜線の行仙小屋に着き、昼食。

午後は何度かアップダウンを繰り返して笠捨山西峰(千種岳)に立つ。

新しい神仏の石碑と二等三角点があった。行仙小屋から1時間半だった。この日は笠捨山から玉置山へ、さらに5時間雨中の縦走を続けた。


奈良の山あれこれ (130) 行仙岳

2016-04-23 09:22:09 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(130)行仙岳(ぎょうせんたけ) <1227m>  「山頂に電波中継塔」

持経宿は役行者が経典を納めたところという。ここに立つ山小屋から奥駆道を南に辿ると、持経千年檜と不動尊の祠がある。

ヒノキは昔から十津川郷の人々に大事にされてきた樹齢800年の巨木である。この辺りに多いヒノキ、ミズナラなどの巨木を見ながら、小さいピークを上下し、中又尾根分岐の標識があるピークを下ったコルに平治宿(靡二一番)がある。

理源大師聖宝が大蛇を呪縛して、遥かの谷に投げ落としたという伝説が残り、蛇の落ちたところが上北山村池原郷の明神池になったという。(理源大師の蛇退治については、黒滝村の百貝岳の項でも記した)。なだらかな道をしばらく進み、わずかの急登で転法輪岳(1281m)の頂上に着く。釈迦が説法した椅子の形に似た岩がある。少し下るとルンゼ状の岩の間に鎖場があり、ここでもシャクナゲが美しかった。

次の倶利伽羅岳の頂上は狭いが、すぐ先の岩の上から、北方の釈迦ヶ岳や西の中八人山の展望が得られた。さらに二、三のアップダウンがあり怒田宿跡に来る。すでに行仙岳の登りにかかっていて、その中腹にある狭い平坦地だ。行く手高くに山頂が望まれる。

急登で長い階段道が終わると、最後は右へ山腹を捲くように登って電波中継塔の立つ山頂に着く。行仙岳三角点はその一段上の枯れ木の下にあった。


奈良の山あれこれ (129) 涅槃岳

2016-04-21 12:12:31 | 四方山話

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(129)涅槃岳(ねはんたけ) <1346m>   「昔は、けつかうが森」

地蔵岳のコルから般若岳へは短いが急登である。頂上付近にはミツバツツジやアケボノツツジが美しく咲いていた。少し狭まった尾根道を下ると滝川辻で、西に下ると十津川側の滝川である。雑木林の中をさらに下った最低鞍部にくる。エアリアマップでは、ここに笹の宿跡、ヒクタワとともに剣光門の文字がある。

宮家準氏「大峰修験道の研究」によると、「乾光門」の鳥居と金剛童子をまつった小祠があり、吉野から発心門、等覚門、妙覚門とこの乾光門で四門を越えたことになるので、ここから山上権現、釈迦、弁才天、さらに大峰一山を拝み返す所であったという。しかし鳥居や祠は見あたらなかった。森沢さんによると、本来の「拝返し」はこの先の聖誠無漏岳ではないかということである。次のピーク・涅槃岳(1346m)へも急な登りがある。

「吉野郡群山記」に『乾光門、滝川辻、金剛童子祠より登る坂を云ふ。乾光門を登れる峯を、俗にけつかうが森と云ふ。』とあるが、この「けっこうが森」が今の涅槃岳である。あまり展望はよくない。

緩やかなアップダウンで聖誠無漏岳(しょうじょうむろ)に来る。大きなシャクナゲが群がる中を下る。背丈より高い笹の緑とピンクの花のトンネルがしばらく続く。鎖のついた大きな岩を下り、再び鎖で登り返す。最後の阿須加利岳から、かなりの急坂を下ると持経宿(第二十二靡)である。


奈良の山あれこれ (128) 天狗山

2016-04-19 14:31:07 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(128)天狗山(てんぐやま) <1537m>  「360度の大展望」

大日岳の項で述べた太古ノ辻には「これより大峯南奥駆道」の標識が立っている。南へ辿る奥駆道は笹原の登りとなり、登り切ったピークを蘇莫岳(そばく)岳と呼ぶ。ここは第三二番靡で古くからの行所である。

この山にある大岩の上で、仙人が雅楽の「蘇莫者」を舞ったという伝説が残る。笹原の中を鞍部に下り、ガレ場を過ぎて次の1472m峰は西側を捲く。

しばらく登って頂上に立った『石楠花岳は、その名に恥じず満開のシャクナゲ林の中にあり、岩峰に登ると釈迦ヶ岳と大日岳が正面に見えた。(2005年5月の山日記)』

明るいブナの林を行き、小さなコブを上下して着いた天狗山の頂上は背の低い笹原で、広々とした大展望に恵まれた。

ここからブナやミズナラなどの林が続く稜線の道で、西側に大きく切れ落ちたナギを二箇所通過する。奥守岳の標識を見て大きく下ると嫁越峠である。『十津川村と北山村を結び、奥駆道が女人禁制であった時代には、幅一間だけ女性の通行が認められていたという(森沢義信氏「奈良80山」)』。

今は単なる鞍部に過ぎず、花嫁が馬の背に揺られながら越えた風情を忍ぶすべもない。広々とした草地の「天狗の稽古場」を過ぎて、地蔵岳(1464m)への急登になる。しかし10分程で終わり、あまり特徴のない頂上を通過する。地蔵岳は行所としては二六番靡の子守岳に当たる。下りになると背丈を超すスズタケの切り開き道になる。「新宮山彦ぐるーぷ」の皆さんの献身的な奉仕で、楽々と歩かせて頂けることを本当にありがたく思った。


奈良の山あれこれ(127) 小峠山

2016-04-17 09:00:33 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(127) 小峠山(ことうげやま) <1100m>「東側からの釈迦ヶ岳展望台」

大峰山系孔雀岳から東に派生した尾根上のピーク。山頂は釈迦ヶ岳を初め、奥駈道の山々の好展望台である。2006年4月14日、日本山岳会関西支部例会、一般参加も含めて24人の大パーティで登った。

『八木から貸切バスで169号線を南下、池原ダム湖に臨む水尻集落から登り始め、今日はしんがりを務める。


バス停横の階段を登り、墓地を過ぎて樹林帯の急登が続く。尾根に出るとやや傾斜が緩み、松林や常緑樹の林の中を抜けて、小さいコブを二つ三つ越していく。

尾根道のあちこちにシャクナゲが美しく咲き、新緑の中にミツバツツジやアケボノツツジなどが美しいアクセントとなっていた。再び急な登りで926mピークに出る。



左手眼下に幾重にも重なる山々に抱かれるようなダム湖が美しく望めた。』

小さなコルに下って、次に登りなると左側は大きく開けた伐採地になる。ネット沿いに転石混じりの少し歩きにくい道を辿り頂上に着く。ここは三方を樹林に囲まれて西北側だけが開け、中央に釈迦ヶ岳、その左に大日岳の先鋒が見える。5分ほど先にある展望峰までは、シャクナゲの花の道だった。

中峰といわれる最高点(といっても僅か1mほど先程の山頂より高いだけ)で展望はますます拡がり、孔雀岳、釈迦ヶ岳、大日岳から続く大峰奥駈道が涅槃岳、行仙岳(頂上のアンテナもくっきり)、笠捨山…そしてずっと左向こうに玉置山まで連なりを見せていた。同じ道を下山、上北山温泉で山の汗を流して帰途についた。


奈良の山あれこれ(126) 大日岳

2016-04-14 17:59:26 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(126)大日岳(だいにちたけ) <1540m>  「岩上に大日如来像」

釈迦ヶ岳の南にある神仙ノ宿は修験道の重要な聖地で、これより北は蔵王権現の支配する金剛界、南は熊野権現の胎蔵界になぞらえた大峯の中心とされてきた。従ってこの山には、多くの靡き(行所)が点在している。三五番靡の大日岳は釈迦ヶ岳の東南に聳える岩峰である。鎖のある一枚岩を登る修行場だが、捲き道もある。山頂には大日如来像が鎮座している。これも「鬼雅」が運び上げたと伝えられている。

釈迦ヶ岳への東山麓からの登山口は前鬼である。ここには三重滝(みかさねのたき)という大峰修験者にとっては重要な裏行場(二八番靡)がある。前鬼には役行者に帰依した前鬼・後鬼の子孫が住み続けてきたが、現在は小仲坊ただ一軒で、現当主五鬼助義之氏は61代目に当たる。「群山記」に「釈迦嶽前鬼より登る道」として『前鬼村より釈迦嶽へ六十八丁(神仙宿へ五十丁、前鬼より西南の谷を登る)』とある。私たちもこの谷を登った。

 地蔵の尾

谷を詰め、地蔵の尾の急斜面を登ると制多迦(せいたか)童子と矜伽羅(こんがら)童子の名を持つ二つ石がある。「群山記」には『俗にせくらべ石といふ』とも記されている。しばらく平坦な道を行き、最後に笹原の中の急登を終えると奥駆道の通る太古ノ辻に出た。さらに深仙宿への途中の鞍部が大日岳(群山記では『宝冠嶽 すなはち大日嶽なり』)の基部になる。

以下、山日記より…
 『三三尋(約60m)と言われるフェイスには鉄鎖が下がっていて、ここを登ると面白そうなのだが…。17名の大人数なので、万一のことも考えて捲き道をとることにした。それでも最後は結構、面白い登りで全員が通過するのに時間がかかった。

大日岳頂上にはブロンズの大日如来が安置されている。狭い頂上は樹木に囲まれているが、北側が開けて釈迦ヶ岳から孔雀岳へ続く稜線、五百羅漢の岩峰群が美しく望めた。


奈良の山あれこれ (125)釈迦ヶ岳

2016-04-13 09:29:47 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(125)釈迦ヶ岳(しゃかがたけ) <1800m>  「山頂に大釈迦如来像」

<馬ノ背より空鉢の岩峰と釈迦ヶ岳>

山頂にある大銅像で知られるように、古くから釈迦如来が祀られていた。昔は金の如来像が釈迦堂に安置されていたという。

現在の銅製如来像は大正13(1924)年、「鬼雅」と呼ばれた大峰の強力(ごうりき)・岡田雅一が、ただ独りで担ぎ上げたものである。高さ3.6mあり、台座を含めるとかなりの重量となるが、彼は何度かに分けて背に負って登ったという。

 山頂からは富士山が見えるという記述が『吉野郡群山記』にある。 曰く「釈迦嶽は大山にして、群峰の上に出る。南に大日嶽、千種嶽相並び、北に楊枝の大山有り。西に群れ、七面山有り。常に雲霧起り、晴日稀れなり。晴るれば、頂上より西に当りて、紀州の海・四国・九州を眼下に見る。南は、南海を過ぎる船の帆かすかに見え、熊野の諸山見ゆ。北は、大和国中の諸山、山城の山々、大峰通りの諸山、山上嶽は楊枝の山に支へられて見えず。その外は、大台山を始めとして、東は伊勢・尾張・駿河の海を望み、晴天のあした日未だ出でざる頃、駿河の富士山、海中に見ゆ。」たしかに奈良県下第三の高峰だけに、期待に違わぬ素晴らしい展望が得られる。 釈迦ヶ岳へは三つの登山道が利用できる。最も簡単には十津川側からの旭ダム近く、不動小屋谷林道の登山口から登る。

この道は1999年に初めて歩いた。2006年には登山口が以前より林道奥になり、立派なトイレや駐車場も設けられていた。

ここからは尾根伝いに古田の森や千丈平を経て2時間強で頂上である。

頂上北側のオオミネコザクラを見た後、大日岳にも登ってゆっくり往復できた。

以下、2005年、逆峰(吉野から熊野へ)で奥駆けした折の山日記より抜粋。『孔雀覗きからしばらく進むと小尻返しという岩がある。「刀の鐺の意味でしょう」と先達の森沢さん。山伏が帯刀していたことをうかがわせる言葉である。続いて「貝摺り」という岩の裂け目を通る。これは法具である「法螺貝がこすれる」という意味であろう。

次のやや大きな岩の裂け目を「両部分け」という。大峰を金胎両部の曼茶羅と見なし、吉野からここまでが金剛界、ここから熊野までが胎蔵界としたものである。

次の大岩壁をトラバースしていく曲がり角が「橡(えん)の鼻」である。岩の下に蔵王権現像があり、たくさんの碑伝が打ってあった。鼻を回ると釈迦ヶ岳が正面高く聳えている。「橡の鼻まわりて見れば釈迦ヶ岳、弥陀の浄土に入るぞうれしき」。最低鞍部までには、更に馬の背、杖捨と呼ばれる所を過ぎると、ようやく最低鞍部に着く。ここから釈迦ヶ岳に向けて急登が始まる。あせらずにゆっくりと高度を稼ぎ、思ったよりも楽に頂上に立つことができた。何年ぶりかでお目にかかるお釈迦様が、暖かいお顔で出迎えて下さった。思わず手を合わせ般若心経を唱えた。』 

最も印象に残るのはこの山行の翌月(2005年5月)、前鬼の宿坊・小仲坊に泊まり、両童子岩を見ながら太古ノ辻に登った時である。ちょうどシャクナゲの時期で、緑の山肌がピンクの模様で染め上げられた美しさは幻のようだった。


奈良の山あれこれ (124) 仏生ヶ岳

2016-04-11 10:18:09 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(124) 仏生ヶ岳(ぶうしょうがたけ)<1805m> 「昔はクロユリが群生」

大峰山脈で八経ヶ岳に次ぐ第二の高峰である。「コンサイス日本山名辞典」に『修験道場で七十五靡の一つにかぞえられ、仏生の岩場がある。トウヒの美林が多い』とあるが、『仏生の岩場』というのは何を指すか不明である。

七面山遥拝所から奥駆道を南に辿ると、笹原の中に避難小屋が立っている。元の楊枝宿跡で、「群山記」には『楊枝宿に、黒百合多し。白山の黒百合より苗長大にして二、三尺、…六月土用頃、花あり』と記されているが、私の生年である昭和9年(1934)には、まだ僅かに生育していたという記録が残るそうである。1693mを越えた次の鞍部には平成13年建築の新しい山小屋が建っている。この辺りは楊枝森と呼ばれていたところである。

 
楊枝森より仏生ヶ岳

 以下、2005年の山日記より『目の前に立ちはだかる仏生ヶ岳への登りにかかる。かなりの急坂を登っていくと行所(仏生ヶ岳遥拝所)があり、更に登ったところから少し引き返す形でピークに立つ。針葉樹林に囲まれて無展望で、明星ヶ岳と似た感じのところだった。元の山腹道に戻って少し下り、緩く登り返すと倒木の多いところを通る。跨ぎ越えたり、下を潜ったり。「これも修行のうち」とMさん。

孔雀岳も山腹を捲いていく。この横駆けの途中で、烏ノ水という美味しい湧き水を一口づつ頂く。ちょうど最高点の下を過ぎる辺りでは、登山道が凍結しているところがあった。この辺りからが奥駆道最大の難所ということである。

孔雀覗きで暫く休み、遠く左手下方にニョキニョキと立ち並ぶ、五百羅漢、十六羅漢という名の岩峰群を見おろす。』この岩峰群が釈迦の生地の光景に似ているとして、『仏生の岩場』と呼ばれたのかも知れない。