私の動物記(8)
海の見える山に登りたくなって体育の日に妻と、マイカーで敦賀半島に向かった。西方ヶ岳の登山口である常宮神社に車を置き、身支度をしていると、宮司さんの家の庭から白と茶の斑犬が現れて、トコトコ先に立って歩きだした。そこから山道になる、最後の民家で「その犬はTVにも出た犬で、山まで行ってくれるよ」と教えられた。
石灰岩質のつま先上がりの道は雨上がりで滑り易く、おまけに風邪気味で体調がすぐれず、いつもよりピッチが上がらない。犬は7、8m前を先導するようにゆっくり歩き、間隔が開くと立ち止まって待っていてくれる。
送電線のある尾根に出てなだらかな道になったのもつかの間、銀名水という湧水から再び勾配が強まる。
海抜0mからの登りは結構、厳しいが、登り続けて鸚鵡岩という大きな露岩で初めて休む。犬は岩の天辺に駆け登って「海風が爽やかで、景色がいいよ」とでもいいたげな顔。
ブナ林の中の道を登り切って、764mの西方ヶ岳の開けた頂上に着く。青い三角屋根の洒落た避難小屋があり、先着の登山者が4人。犬は小屋の入り口で弁当をもらっていたが、私達が広場でスープとパンの貧しい食事を始めると、跳んできてお相伴してくれた。
ここで初めて犬の名がジョンであることや、山の服装をした人を見るとガイドしてくれると、地元の若い女性登山者に聞いた。ただい一日にせいぜい二組で「あなた達は運がいいですよ」といわれた。遠くから来たので歓迎してくれたのか、中高年のペアが余程、頼りなく思えたのだろうか。
蝶螺ガ岳への縦走路は小屋の横から熊笹の下り道になる。雨雲に包まれて夕暮れのような暗さの中を出発する。降り口に座っているジョンに手を振って別れを告げ、ちょっぴり淋しい思い出歩いていると猛烈な勢いで駆け降りてきた。驚いて「もう、お帰り」といったが、知らん顔で再び先導を始める。縦走路から5分程離れたカモシカ台の大きな露岩も案内してくれた。
青いリンドウが美しい道を何度かアップダウンして登り下りして、展望の良い蝶螺ガ岳に立つ。コーヒータイムの間、ジョンは寝そべっていた。ここからは下り一方だが、登りに劣らず厳しい道だ。
しばらく姿を見せないと水場にいて「この水は飲めよ」というように二、三度舐めて見せてくれた。とうとう「注意!熊が出没します」という立札がある浦底側の登山口に来た。民宿の主人に頼んで、車で送ろうとしたが乗ろうとしない。海岸線を7キロ離れた神社へ行き、宮司さんの奥さんに詫びて、車で民宿に帰る途中、車道を急ぎ足で帰るジョンを見つけた。名を呼ぶと、振り返りながら顔を見る。妻の目に涙が溢れた。「ありがとうジョン、さようなら。」
翌朝、もう一度、神社によると尻尾を振りながら駆け寄って、腕の中に飛び込んできた。「ジョン本当にありがとう」
(雑誌「岳人」1993年新年号に掲載された文章です)
今後ともよろしくお願いします。