昨日(6月20日)封切りの「剣岳・点の記」をさっそく見てきた
「やまあそ」さんからコメントを頂きました。
私たちも見に行くつもりですが、今は原作本(昭和52年8月30日第1刷)
を読み返しているところです。
改めて初登攀時の困難さが思いやれます。
写真は1999年夏、別山頂上よりの剣岳。
「そこ以外にはあり得ないほど、剣岳を見るには好都合なところ」
と上の本にあるとおりです。
右遠くには雲上に白馬岳が浮かんでいます。
剣岳は私たちにも、何かと想い出の深い山です。
写真は始めて登った1961年夏。
半壊した平蔵の小屋を見下ろしながら登る高校生たち。
山岳部ではなく、六甲山で3回の予備登山をしただけの
一般参加の生徒たちです。今では恐らく許可されない
団体登山でした。
これは山頂での若き変愚院。横の二人は山岳部員。
下山の時、岩場で雷雨に遭遇して肝をひやしました。
別山乗越の小屋で一泊後、立山三山を縦走した一般隊は一ノ越
から下山。(バスはまだ弥陀ヶ原までしかきていない時代でした)
変愚院は山岳部(幕営)に合流し、薬師岳に向かいましたが風雨で
五色ヶ原で停滞。入山6日目にザラ峠から立山温泉に下山しました。
翌62年、転勤した高校で山岳部創部初の夏合宿。
カニの横這いを下っています。
剣沢を下り、仙人池畔で幕営中にまた豪雨に遭い、池の増水
でテントが水没しかけて、小屋へ逃げ込みました。
写真は晴れ上がった翌日、仙人峠からの剣チンネ。
欅平から阿曽原まで、関電の上部軌道に乗せてもらう。
生命の保証をしない旨の一札を取られた上、有蓋貨物車に押し込まれ
真っ暗闇のトンネルを突っ走り、生きた心地がしませんでした。
しかし、この軌道はすぐ一般人の乗車を認めなくなったので、貴重な
体験をしたと言えます。
67年7月。雪の多い年でした。
21.室堂~雷鳥沢~別山乗越~剣沢。バスが室堂まで入るようになる。
地獄谷を経て剣沢へ。強風でテントー張りがだめになる。
22. サブで剣往復。いつもより雪が多い。
23. 剣沢~雄山~一の越~五色ヶ原。快晴。立山で人の多いのに驚く。
24. ~越中沢岳~スゴ乗越~間山。
25. ~北薬師~薬師岳~薬師峠。快晴。快調に飛ばし、昼前に早くも
薬師本峰に着く。ゆっくり遊んで薬師峠へ。
26.~太郎兵衛平~有峰~折立。太郎兵衛平には今年もニッコウキスゲ
が咲き乱れていた。有峰へ下山。
1972年 大阪山友クラブ夏合宿。CLでした。
弥陀ヶ原~大日岳~(泊)
山日記より「称名谷への下りは凄い。膝をガクガクさせて降り切ると、
吊橋が流されて見当たらず、やむなくワイヤロープにすがり、腰まで
の徒渉。水の冷たいこと、震えが来るほどだ。
ここから下流に一寸降りてから大日平へ登るのに、そのまま踏跡沿いに
渡河点からルンゼを直登する。キスリングかついで岩登りだ。…」
奥大日岳~室堂乗越~剣沢(泊)
先に剣沢で待っていたメンバーと合流。
八ツ峰などで岩登りも予定していたが、悪天候で断念。全員で登頂する。
中央奥で鉢巻きをしているのが変愚院です。
1998年9月7日。子育てなどで何度も機会を失ってきた♀ペンと、
60歳を過ぎてようやく一緒に剣へ。
前日は「始めて来たときより歳は37プラスだが、10㎏足らずのザック
は20kgのマイナス…」と我が身に言い聞かせ、雷鳥沢を登りました。
始めて剣沢小屋に泊まり、余計な荷を預けて午前五時半行動開始。
難所の「門」も♀ペンはあっという間に渡ってしまい、「ウチは
こういう所好きヤ」。
長女がお腹にいるのに岩登りの練習をした♀ペンですから、あまり
怖がらないのです。
先行のパーティに先を譲って貰って平蔵のコルを過ぎ、「カニのタテ這い」
もスイスイ登ってしまって、案外早く山頂に立つことができました。
「カニの横這い」では先行の若い男性二人組が手間取っていました。
一人がなかなか思い切って足を踏み出せません。ようやく降りた後を、
ここは私が先に降りてスタンスを確認。♀ペンも殆ど鎖を頼らずに
クライミングダウンしました。
一番傾斜が急で、かって電柱のアングルがあったところには、立派な
ハシゴが架けられていました。
無事に剣沢に帰り、別山乗越から雷鳥沢を経て地獄谷を見物したあと、
室堂からさらに天狗平まで歩いて高原ホテルに下ったのは16時15分でした。
以上が「私たちの剣岳」です。
BLOGの材料を示唆してくださった「やまあそ」さん、ありがとうございました。