*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*
<生駒・金剛エリア>
(31)生駒山
「山頂三角点は遊園地の中」
山上に多くの放送施設の電波塔が林立する大阪奈良府県境の生駒山。
その三角点(一等)は奈良県側の山上遊園地内にあります。SL列車の敷地内「大阪←山頂→奈良」の駅名表示板から少し離れた所で、登山者は断って中に入れます。大阪と奈良を結ぶ道はいくつかありますが、中でも重要なのは暗(くらがり)峠越えの奈良街道(奈良からは大阪街道)。
峠に残る石畳は今も往時の面影を伝えています。神功皇后が三韓征伐のとき、峠の東、西畑に陣を敷き、暁を告げる鶏の鳴き声とともに出立する手筈でした。ところがニワトリが早く鳴きすぎて、いつまでたっても夜が明けず、軍が峠に来てもまだ暗がりだったのが地名の所縁だそうです。
生駒山は大阪平野と奈良盆地を区切って南北に走る生駒金剛山地の北半、生駒山地の主峰で、古くから河内・大和の人々に朝夕、親しまれてきました。戦中の小学5年生の時から1970年代初めまで、この山系の中腹(大阪側)に住んでいた私にとっては、実に思い出の深い山です。河内音頭や演歌「河内男ぶし」で「大阪の山」のイメージが強いのですが、高校野球の実況で大阪桐蔭高校(当時の住いの近く)の校歌で「大和平野にそびえ立つ 生駒の峯の松風が…」と聞くと、府県境の山であることが改めて思われます。
山腹や山麓には山腹や山麓には伊古麻都比古神社(生駒大宮)、鳴川千光寺(元山上)↑、宝山寺など有名な古社寺や旧跡が多くあります。とくに宝山寺は「生駒の聖天さん」として関西商人を中心に多くの参拝客で賑います。生駒は宝山寺の門前町として栄え、生駒山には日本最初のケーブルカーが設置されました。
(32)大原山
「暗峠の名の由来になった山」
暗峠の500m ほど南にある高まりが、古くは「小椋山」と呼ばれていたこの山です。河内名所図会に『世に暗峠という者非ならん…(中略)…生駒の山続きて小倉山という。故尓(に)椋ケ根の名あり。一説には此山乃松杉大ひ尓繁茂し、暗かりぬればかく名付くともいふ。」と記されています。
この山は赤茶色に山肌が露出していたので「赤はげ山」とも呼ばれました。現在の山頂は気持ちのいい草地で、眼下に河内平野が一望され、その向こうに大阪湾、六甲連山、北摂の山々を見る絶好の展望地です。
北東にドライブウェイ駐車場の道標に従って100mほど下った所に、新しい514mの4等三角点があり、周辺は三角点広場と呼ばれています。(2008年に行った時には、なぜか標高522mの標識がありました)西(大阪)側一帯は「大阪府民の森」の一部で「なるかわ園地」と名付けられ、ここからの展望も素晴らしいです。
暗峠を通る奈良街道(奈良側からは大阪街道と呼びます)は、郡山藩主の行列のために敷かれた石畳が峠付近に残っています。現在でも大阪への通勤者が非常災害時に奈良への帰宅ルートとして、その訓練に使われるなど重要な道であることに変わりありません。
(33)高安山
「昔は山城、今は台風の見張所」
生駒から南に走る信貴生駒スカイラインは、暗峠、十三峠を経てこの山の東側を通ります(信貴山山頂付近は通りません)。
信貴山からハイキングコースとなっている山道を行くと、途中で右に折れる分岐があり高安城倉庫跡に出ます。林の中に礎石が残る広場で、三号倉庫跡からは北東側が切り開かれて矢田丘陵や平群の町が望めます。
元の道に帰り、直進してスカイラインを越えて少し登ると、落ち葉に埋もれた小広場があり二等三角点(点名・峰山487.4m)が埋まっています。
前方に見える白いドームは高安山レーダー観測所で現在は無人、大阪管区気象台からリモートコントロールされています。
その北側に「高安城跡」の石碑があります。
663年、白村江の戦で唐・新羅の連合艦隊に敗れた大和朝廷が、防衛のために「烽火」を置いたと日本書紀にあります。これまで見張り所くらいの規模と考えられていましたが、1999年に城壁と思われる長大な石垣や櫓址も発見されて、強固な防御陣地の山城があったことが実証されました。
高安山の最高所(485.9m)はこの背後の台地上にありました。
(34)信貴山
生駒山脈の南端、高安山から東に派生した尾根上にある双耳形の小火山。(写真は明神山より、右は生駒山)
中腹にある朝護孫子寺は聖徳太子が物部守屋との戦いに敗れてこの山に逃げ込み、毘沙門天に祈願して勝利を得たので創建したと伝えられ、庶民信仰のお寺で毘沙門天が出現した「寅年寅月寅の日」は特に賑わいます。
信貴山はこの寺の山号で、太子が「信ずべき山、貴ぶべき山」と讃嘆したことが由来です。中興の祖・命蓮上人の奇瑞を描いた国宝・信貴山絵巻は鳥羽僧正筆と伝えられ、日本四大絵巻の一として有名です。
しかし、私たちトラ党にとっては境内至るところに様々なトラが鎮座して、阪神タイガースの選手たちも優勝祈願に訪れるこの寺は甲子園に次ぐ聖地といえるでしょう。
ここは河内と大和を結ぶ政治的・戦略的要地で、古代から何度も山城が造られました。戦国時代、松永秀久が大和攻略の拠点として、近世城郭の先駆的形態を備えた居城を構えました(永禄2年・1559)が、天正5年(1577)織田信長により落城しました。
三重塔の横から朱色の木の鳥居、石の鳥居が並ぶつづら折れの急坂を登って山頂に着きますが、三角点(437m)は空鉢堂の敷地内にあるようで未確認です。
空鉢堂前の舞台からは、南に二上、葛城、金剛、岩湧、和泉葛城に続く山並み、その左に吉野から大峰への連山。南東には大和平野に浮かぶ大和三山、その上に竜門山群。三輪山の右奥には高見山が青く霞みます。東には竜王山、国見、貝ヶ平山など素晴らしい展望が楽しめます。
(35)明神山
「米相場の旗振り山」
生駒山脈と金剛山脈の間のくびれた所を大和川が流れています。亀ノ瀬の辺りは古代から交通や戦略上の要衝となってきた所で、現在も国道25号線、JR大和路線が大和川に平行して走っています。その南側、つまり金剛山脈の最北端にあるのが、この明神山です。晴れれば明石大橋も見えるという見通しのよい所で、昔は大阪堂島の米相場を知らせる旗振り山でした。旗振山は須磨アルプスにある山が有名ですが、他にもたくさんあり、特に大和は源助という男がこのシステムを作り出したと言われる発祥の地でもあります。
王寺町明神7丁目の公園横「明神山参道・是より西壱八七〇米」の標識がある赤い大鳥居を潜り、住宅地の中の坂道を登ります。ハイキングというより散歩道といった感じです。笹原へ下る分岐があり、「頂上へ460m」の道標と「右大坂、さかい」の石標があります。すぐ下の国道を走る車の音が聞こえてくると、僅かの距離で広い山頂部に着きました。
水神社(明神山太神宮)は往時、伊勢参りに行く人が通過したので阿波からの参詣人も多かったそうです。山には二匹の白狐が棲んでいましたが、関谷の甚九郎という人が一匹を退治し、一匹は天理の山に逃れたとか、馬で通りかかった郡山藩主が「偽の皇大神宮」と言って破却させたという伝説が残っています。
神社の回り三箇所に大きな展望台があります。王寺町の人の憩いの場になっているらしく、顔馴染みの皆さんが談笑しています。
標高274.9m(三等三角点、点名・西山)の超低山ですが、頂上からの展望は意外にも大きく信貴、生駒、二上、金剛、葛城の山々、大阪側は大阪南港やあべのハルカスも見ることができます。
大鳥居の登山口から山頂まで、ちょうど30分でした。ここから大阪側に降りるコースも一度行って見たいと思っています。