ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

私の関西百山(58)行者還岳

2014-05-30 09:40:18 | 私の関西百山

58 行者還岳(1546m)<大峰山脈>

(ぎょうじゃがえりたけ、又ぎょうじゃがえしたけ)七曜岳から鞍部にくだった奥駆道が、次に登り返すのが行者還岳である。大台ヶ原から見ると烏帽子型の峰が南に倒れかかったような特異な姿である。山頂の南側が垂直の断崖となって落ち込んでいるためで、その険しさに役行者でさえ引き返したという言い伝えが山名の由来である。

1998年9月、天川村側の神童子谷と布引谷の合流点・大川口から関電巡視路を登った。吊橋を渡りヒノキ林の中を急登。ジグザグを繰り返して4つ目の鉄塔の立つ小さなコブの上にでる。少し尾根を登り、右に捲くように進む。また二つ鉄塔を見る。涸れた沢を三つほど越す。苔むした岩や倒木が多く、深山幽谷の趣。

岩から水が滴っているところや、道が崩れてワイヤーが張ってあるところがある。危なっかしい桟道をいくつか通り、尾根を緩く登る。ブナやシャラの大木が散在する自然林の中に行者還小屋の青い屋根が見えた。大峰奥駆道(縦走路)に出るところにも、とどめのように鉄塔が建っていた。奥駆道を北へ行くと、すぐ岩盤に細い滝のかかる水場に出る。その右の長短3つのハシゴを登り、笹原の急坂を登る。林に囲まれた小台地に三角点と大きな錫杖の形の山名板があった。

正面に弥山などが見える筈だが、この日は小雨模様で無展望だった。【コースタイム】大川口8:55…4番目鉄塔9:40…行者還小屋11:10~11:15…行者還岳11:40~12:10…4番目の鉄塔13:40~13:45…大川口14:30

奥駆山行のときも雨の中で、展望にはついていない山である。


私の関西百山(57) 大普賢岳

2014-05-28 09:37:13 | 私の関西百山

57 大普賢岳(1780m)<大峰山脈> 

(だいふげんたけ)大峯奥駆道は山上ヶ岳から東へ約2キロの小笹宿で女人禁制区間を終わる。次いで阿弥陀ヶ森近くで南へ方向を転じて、3キロで大普賢岳に至る。奥駆行所(第六三番普賢岳)の勤行は本峰北にある小普賢岳で行われている。普賢岳の名は、この行所の礼拝対象である普賢菩薩からきている。

始めて二人で登った1994年、その2年後に町内のハイキング同好会での山行、2006年7月のJAC関西と千日山歩渉会の合同山行(21名の大パーティ)は、いずれも和佐又ヒュッテから笙ノ窟、石ノ鼻(岩頭の展望台)を経て登った。

   
               指弾窟                      朝日窟

大普賢岳山頂から東に延びて伯母峰峠に続く笙ノ窟尾根山腹には鷲ノ窟、笙ノ窟、朝日窟、指弾ノ窟などが連続しているが、中でも笙ノ窟は平安時代から冬籠り修行の場として知られる。『吉野郡群山記』に「窟の内広き事、二十畳ばかり。水湧き出る処有り。修行の僧、九月九日山止りの節より、飯菜等を用意し、来年四月八日まで籠るを、冬籠りの行と云ふ。冬に至れば、巌谷の外は白雪積りて、往来なしがたし。…」とある笙ノ窟は六二番靡(行所)である。 

 笙ノ窟

2004年に大峯奥駆の途中で二度山頂に立った。6月は五番関から山上ヶ岳を経て大普賢岳に登り、笙ノ窟を経て和佐又に下った。9月には和佐又から前回終点の大普賢岳へ登り返し、そこから行者還岳へ向かっている。

和佐又にはヒュッテと大きなキャンプ場もある。西行らの三歌碑が立つ広場から和佐又分岐を過ぎて、美しいブナやヒメシャラの林になる。指弾ノ窟の前を通り、鉄ハシゴを登って朝日窟を通過し、笙ノ窟に着く。洞窟の天井からは冷たい水が滴り落ちている。

岩壁の下を辿り、キレット状の岩場を長い梯子で日本岳のコルに登る。

さらに短い鉄の階段をいくつか過ぎると石の鼻である。遭難碑のある小普賢岳へ往復し、金属製の桟道を渡り、ハシゴを登って次第に高度を上げていく。最後は何度もジグザグを繰り返して稜線の奥駈道に出る。

奥駆道は山頂西側の山腹を捲いているが、数分で大普賢岳頂上に達することができる。和佐又から休憩を入れて2時間ほどだった。

山頂からは山上ガ岳の宿坊まではっきりと望める。さらに稲村ヶ岳の間には金剛・葛城の山々、南には奥駈道上の行者還岳、弥山、八経ヶ岳、行仙岳、笠捨山…と見飽きることがない。

大普賢岳から奥駈道を南に辿ると水太覗に下る。弥勒岳を捲き、内侍落しを下り、岩壁に太い鎖がつけられた薩摩転びを過ぎると稚児泊(六十番行所)。国見岳から緩く下って七つ池を見る。

岩場の登りで尾根に登ると七曜岳頂上である。2006年には、この先で奥駈道と別れて和佐又へ下った。水太谷までは標高差およそ600mの長い下り。谷の左岸に石灰岩にうがたれた無双洞がある。

ここから流れ出る落差20mの水簾ノ滝の落ち口を対岸に渡り、源流部の涸れ谷に出て対岸の林の中を登る。アングルが打ち込んである急勾配の岩壁を登ると「底なし井戸」に来る。

森澤義信氏の「奈良80山」には「昭和初期の記録では…深さは30mあり、誤って墜落した森の動物の白骨が累々としていたとか」と書かれている。ここから林の中を歩き和佐又ヒュッテに帰る。(このときは大人数のため、山頂より休憩を含め5時間かかった)。


古寺と湖岸なぎさの散歩道(2014.05.24)

2014-05-26 17:24:22 | 旅日記

初夏というより夏そのものの土曜日。イタ友(2011年のイタリア旅行で知り合った友人グループ)恒例の「夏の会」で大津に行きました。

今回の担当幹事は草津在住の丸さんです。恒例のようになったWalkingのあと、大津プリンスホテルで遅めの昼食会という企画です。9人(時間的に午後の食事会から参加の方が二人)のメンバーがJR大津駅前で、久しぶりに懐かしい顔を合わせました。京阪京津線の踏切を渡って西へ坂道を登っていくと、長等(ながら)公園に入ります。明治からある古い公園で、桜の頃は素晴らしい景色だったという丸さんの話です。園城寺の別所・近松寺の前を通り、長等山不動尊にお参りしたあと、少し下って三橋節子美術館へ。

病気で右腕を失い、最後の二年間は左手に絵筆を握って僅か35歳で夭折した女流画家。彼女の没後40周年記念企画として、夫の鈴木靖将氏の作品とともに「魂の出会いと別れ」をテーマにした作品の数々が展示されています。ゆっくり鑑賞したあと、三井寺へ向かいます。

美しい朱色の楼門が立っています。大津市指定重要文化財「長等神社楼門」で古式を踏まえた明治時代の秀作です。門を潜って本殿に参拝しました。後で資料を見ると、天智天皇の世に都の鎮護としてこの地にスサノオノミコトを祀ったのが起源で、清和天皇のとき園城寺の開祖智証大師が日吉大神を勧請合祀して園城寺の守護神としたという由緒ある神社です。境内の「馬神社」も印象に残りました。

神社の横に「三井寺南参道」の文字が見えますが、北へ歩きます。大津絵の店(まだ閉まっていました)の前を通り、琵琶湖疎水の上を横切って園城寺(三井寺)の正面へ。昔、西国三十三ヶ所巡りをしていたとき二度、それ以外にも来たことがありますがすべてマイカーで、歩いてきたのは初めてです。堂々たる仁王門の前で記念写真。居合わせた方に、いのっちさんのカメラで撮って頂きました。

天台宗総本山の園城寺は大友皇子の建立で、天智・弘文・持統天皇の産湯に用いられた「御井」があることで「みいのてら」と呼ばれてきました。仁王門をくぐり、受付を済ませて正面の石段を登ります。

本堂にあたる国宝の金堂にお参りしました。北政所寄進の桃山建築です。


(丸さん撮影)

鐘楼。近江八景「三井の晩鐘」で知られる梵鐘が吊るされています。音色が美しく「日本の残したい音百選」に選ばれました。

閼伽井。三井寺の名の由来となった霊泉です。指さして見上げているのは…



閼伽井覆屋上部の「左甚五郎作の龍」。夜な夜な抜け出して琵琶湖で暴れるので目に五寸釘を打たれたとか。
弁慶の引き摺り鐘は、三上山のムカデ退治のお礼に竜宮から貰った鐘を俵藤太が寄進。弁慶が比叡山へ引きづり上げたが「イノー」となるので、谷に蹴落とされたとか、有名な伝説が残されています。

開祖智証大師の廟所・唐院の灌頂堂と三重塔。

観音堂。西国十四番札所。本尊の十一面観音像が御開帳中で拝観しましたが、薄暗くてよくお顔を拝めませんでした。

展望台に登ってみました。石段を登ると台地に「そろばん発祥の地」の碑があり、眼下に大津市街地を見下します。先月登った三上山は湖を隔てた向こう側に近江富士の名にふさわしい山容を見せています。

境内の堂塔の背後に比叡山。遠く比良連峰が霞んでいます。

東の方角には湖南アルプスを背にして、他のビルの上に突き出した高い煙突のような大津プリンスホテル。これから、あそこまで歩きます。



急傾斜の階段を直下降すると長等神社横へ出ました。左の石垣の中が馬神社です。

琵琶湖疎水は三井寺の下を通って蹴上に通じています。去年晩秋のイタ友会では、南禅寺から疎水沿いの紅葉の道を歩きました。

三井寺駅を過ぎて「大津絵の道」を湖岸へでました。歩道に大津絵が埋め込まれ、両側のお家の前にはさまざまの美しい花々が咲き乱れています。車の往来の激しい国道を渡り、外輪船ミシガン号が停泊している大津港へ。湖の駅浜大津のを横目にして「なぎさ公園」に入ります。カンカン照りの夏日になりましたが、湖から涼しい風が火照った体に心地よく、若者のグループや子供連れなど大勢の人が青空の下で休日を楽しんでいました。

釣竿を垂れている人に誰かが尋ねると、アユが釣れるそうです。ドームテントも一張り見ました。急に青春時代にこの琵琶湖(もっともっと北ですが)でヨット遊びをしたことを思い出しました。明智左馬之助湖水渡りの碑や常夜灯など見ながら歩くうちに、だんだんホテルが近づいてきます。

東へ歩いてきた道がぐるりと南へ回って、13時過ぎ、大津プリンスホテル入口に到着。満開のヤマボウシ越しに見上げる38階に冷たいビールが待っています。企画から下見までして下さった丸さん、本当にありがとうございました。


大和葛城山・名残りのツツジ(2014.05.23)

2014-05-25 21:27:47 | 山日記

【コースタイム】水分橋05:45…水場 06:20~06:25…中間ベンチ 06:45~06:55…山頂07:55…ツツジ園発 09:00…水越峠 10:05…水分橋10:30

今年のツツジのシーズンも終わり近く、最後のチャンスに葛城に登ろうと思って遠方の山友を誘う。昨日のM新聞に記事が出たので、平日だが混雑が予想される。駐車場所の確保に「早ければ早い方が…」と話したら、早朝に迎えに来てくれて、お蔭で5時半過ぎに水越トンネルを抜ける。すでに何台かの車が旧道に並んでいたが、おそらく金剛山への毎日登山の人だろうと思う。トンネルを見下ろす平地には先着の車が1台だけ置いてあった。

晴の予報だったのに空模様は今一つ、どんよりと重い雲が垂れ込めている。薄暗い林道を抜けて鎖場を過ぎ、水場で一息入れる。イワタバコの葉がたくさんでていた。身体が自然に山に慣れて、快調に中間ベンチへ登る。涼しい風が吹き抜けて、じっとしていると汗が冷えて寒いくらい。他愛ないおしゃべりをしながら、階段道を登る。切り開きから見る右手の金剛も、行く手の葛城山頂部も流れる雲に覆われている。緑の中に、ときどきヤマツツジが咲いている。月始めに山腹道を白く染めていたモミジイチゴの花は完全に消えていた。

古い砂防堰堤で右に折れると、立ち枯れたショウジョウバカマの下に、若く新しい葉がつややかに光っている。新しい堰堤の上で左に見える朱色に引かれて林道に登る。

弘川寺からの道と合流して山頂へ。婿洗い池を見下ろすところに真紅の色が見えたのは、蕾の中に立った一輪、シャクナゲが咲いているのだった。

白樺食堂横のフジ棚には薄紫のフジが咲き残っていた。

誰もいない山頂にはガスが流れ、北の無線塔が見え隠れするだけで金剛山も見えない。

ススキの原を高原ロッジ前に下ると、そろそろ待望のツツジがお出迎え。いちばん早く咲いていたツツジ園入口の花は茶色に枯れて、陽当りにいいところでは盛りを過ぎた花が目に付く。空中に突き出した木の台に腰を下ろし、足をぶらぶらさせてコーヒータイム。

ここから眺めると枯れた花は目立たず、まだまだ楽しめる。ときどき雲間から薄日が射すと色が変わり、花が若返ったように見える。次第に人影が増えてきたのはロープが着いたのかもしれない。しかし下を見るとビールの空き缶が転がり、中身の入ったビニール袋も捨てられている。いっぺんに興が醒めて、待っていても晴れ間も広がらないので腰を上げる。

ダイアモンドトレールを下る途中から、細い道に入りツツジのトンネルを抜けていく。

日陰ではまだ蕾も残り、下からのツツジ園入口になるシンボルの丸い丘下では、素晴らしい真紅の花が見頃だった。

今日はダイアモンド・トレールを水越峠にくだる。はじめの分岐で左の開けた場所から、陽の当たる大和平野を見下ろす。

久しぶりの道は両側にロープが張られよく整備されているが、階段が多く厳しさには変わりがない。ただツツジの若木が育ち、美しい花が続くので慰められる。下へ降りるにつれて登ってくる人が増え、道を譲る。峠に降りると、ずらりと長い車の列が道に並んでいた。車道を避けて川沿いの遊歩道を歩いて駐車場所に向かう。

ツルアジサイの白い花や、

ヒレハリソウ(野生化したコンフリー)がたくさん咲いていた。太尾分岐のずっと上まで路上駐車の車の列が続いている。駐車場所周辺の路上にも車がある。しかし丸さん夫妻のように「山の初心者」を自称して歩き方から覚え、自然から多くのことを学ぼうとする人たちがいることは喜ばしいことだ。来年はもう少し早い時期に来たい」という彼らのために、いつまでも美しい山であることを願ってやまない。


聖地高野山(2014.05.18)

2014-05-21 15:53:34 | 旅日記

良く晴れた日曜日の高野山は各地からの大勢の参詣客に加えて、外国からの観光客も大勢訪れていました。金剛峯寺前の駐車場は満車で、壇上伽藍裏側の観光バスも置いてある路上駐車の列に加えて貰いました。

車道を高野山の総門である大門まで歩きます。宝永2年(1705)再建の高さ25.8mの堂々とした二層の楼門で、江戸時代の仏師・法橋運長作の金剛力士(仁王さん)も力に溢れて睨みを利かせてます。

大門から各寺院が並ぶ大門通りは、今は車の行き交う国道になっています。600m離れた壇上伽藍に歩きます。壇上伽藍(金剛峯寺のHPでは「壇場伽藍」)は、空海が理想とする真言密教の胎蔵曼荼羅世界をこの世に具現したものとされています。現在、再建作業中の中門横から域内に入ります。

空海の創建当時は講堂と呼ばれた金堂。何度かの火災の後、現在のコンクリート造り建築は昭和7年のもの。修法が行われている堂内に参詣し見学しました。

壇上伽藍には何度か訪れているのですが、いつもこの金堂と根本大塔の写真を撮るくらいで終わっていました。今日はゆっくり巡拝するつもりで「登点の松と杓子の芝」の横から、六角経堂へ。鳥羽法皇后・美福門院が法皇の供養のために金泥で書かれた一切経を収めたお堂で、これも昭和の再建です。

御社(俗に高野明神)。空海が山麓の天野から高野山鎮守のために勧請した三社で、高野明神(二宮)の他に丹生明神を祀る一宮、多くの伴神を祀る三宮が鎮座しています。

山王院。御社の拝殿として建設され、現在でも重要な儀式の場になっています。

西塔。空海の伽藍配置計画に基づいて仁和2年(886年)建立された高さ27mの多宝塔です。周囲は杉の古木で囲まれています。

孔雀明王を祀る孔雀堂(左)と准胝観音を祀る准胝堂

逆指しの藤(さかさしのふじ)。祈親上人が一時荒廃した高野山の再興を誓い、地面に逆に植えたところ芽生えたという伝説のフジ。

三鈷の松。弘法大師空海が唐から帰国する際に投げた三鈷(宝具)がこの地に落ちたという伝説の松。そのため三葉を持つと言われます。

御影堂(もと空海の持仏堂で、真如親王直筆の「弘法大師御影像」を安置)と「三鈷の松」の後ろに根本大塔が見えます。密教の源、根本という意味をもつ優美な塔。壇上伽藍のシンボルといえます。 

東塔。天保14年(1843年)に焼失後、昭和59年(1984年)にようやく再建された美しい塔。

蓮池。昭和の初め頃まではハスで覆われていたということです。

他にも多くの堂塔がありますが、この辺りで…。ようお参りくださいました。 


高野~竜神の旅(2014.05.17~18)

2014-05-20 16:55:09 | 旅日記

高野三山を歩いたあと、宿に入るまで少し時間があるので金剛峯寺に参詣しました。

良く知られるように、高野山は標高1,000m前後の8つの峰に囲まれた区域全体の名称で、一大宗教都市を形成しています。しかし実際に来てみると「頭に浮かべていたイメージとはかなり違う」というのが、初めて高野山を訪れた丸さんの率直な感想でした。三輪子さんも子供の頃に林間学校で来て以来ということでした。私たちも2006年以来8年ぶりです。翌日、コンビニの前に座ってコーヒーを飲んだのですが、「こんな店があったかな?」と思ったのも道理で、実は去年(2014年)7月に高野山に初めてできた店で、肉や刺身は売っていないそうです。 

金剛峯寺は高野山真言宗総本山で、全国の末寺は3600あると言われます。

門を入ると、参道の両側に今を盛りとシャクナゲが咲いていました。

豪壮な建物の内部や有名な「ばん龍庭」は時間がないので拝観できませんでしたが、

老杉に囲まれて深山の趣の寺域に咲き誇るシャクナゲの花や…

「かご塀」の緑に苔生した檜肌葺きの屋根と白壁の対比の美しさに見とれました。西に傾いた陽が白い壁を、ほんのりとシャクナゲのピンクに染め上げています。

時間にせかれるように、延長42.7kmの高野竜神スカイラインを龍神温泉へまっしぐら。龍神温泉は日本三美人の湯の一つ(他は、出雲の湯の川温泉と群馬の川中温泉)として知られています。役行者が発見、弘法大師・空海が難陀龍王の夢のお告げで開湯したので「龍神」の名がついたと伝えられる、修験道と所縁の深い温泉です。

日高川の清流の畔、その名も「美人亭」が今宵の宿です。まずは山の汗を流そうと熱めのお湯に浸かると、本当に肌がつるつるする感じです。

夕食には野趣豊かな料理が並びました。
お品書きは「自家製梅酒、いたどりの胡麻和え、大根なます、こんにゃくの刺身、天然アマゴの塩焼き、熊野牛すき焼き、山菜炊き合わせ、季節のてんぷら、手作り漬物、竜神産白ご飯、味噌汁」デザートは梅ゼリー。
 熊野牛はボリュームたっぷり、てんぷらはユキノシタ、イワタバコ、コゴミ、コシアブラ、タラの芽でした。イワタバコの葉を食べたのは初めてでした。

せせらぎに鳴く河鹿の美声を聴きながら眠り、朝からまた温泉に浸かりました。朝食にはアユの一夜干しがでましたが、これがなかなかの美味でした。

京奈和道が部分開通したので、奈良に帰るには高野山に引き返して橋本に出るのが最速とのことで、再び高野山へ引き返しました。

日曜日のスカイラインはレーサー気分のバイクが多く、中にはセンターラインを割って向かってくる輩までいて、丸さんは運転に気を遣います。

ほぼ中間点の護摩壇山森林公園で一服。左の「ごまさんスカイタワー」から護摩壇山に続く稜線が呼んでいます。帰り途のついでに、護摩壇山にも登ることにしました。

タワー前の駐車場に移動して、護摩木を積み上げた形のタワーの横を登ります。木の段の間に石を敷き入れた遊歩道のような道を僅か10分あまり登るだけですが、身体がほぐれるまでに少し手間取りました。

丸さん撮影

護摩壇山は日本300名山の一つで標高1372m、和歌山県田辺市龍神と奈良県吉野郡十津川町の境にあり、源平屋島の戦いに敗れた平維盛が、この山頂で護摩を焚き一門の行く末を占ったという伝説があります。
 
山頂には休憩舎と「和歌山県朝陽夕陽100選」の標識、護摩壇を象った大きな山名版が立っています。永らく和歌山県最高峰とされてきましたが、東に見える山頂にNHKのTV無線中継塔が立つ山、龍神岳の方が10m高いことが分かり、その座を譲りました。
  2004年には
稜線伝いにアップダウンを繰り返して、当時は耳取山と呼んでいたこの山へ往復したのですが、今日は時間的に無理なのでここまでにしました。それでも山頂からの雄大な眺めに満足して、高野山へ向かいます。


高野三山を巡る(2014.05.17)

2014-05-19 22:38:44 | 山日記

八葉蓮華に例えらえた峰々に囲まれた高野山。明治まで山内は女人禁制だったため、聖域に入る参道の七つの入口(高野七口)に女性のための籠り堂が建てられ、女性たちはその女人堂を巡って弘法大師御廟を拝んだ。今日は丸さんご夫妻と4人で、その御廟を囲むように位置する三つの峰を回る。

両側に古い杉並木が続く奥の院への参道は、朝から多くの参詣客で賑わっている。歴史上の有名大名、武士から庶民、現代の会社に至るまで、無数に立ち並ぶ墓碑に時々足を停めながら御廟橋を渡り、燈籠堂へ参詣して奥の御廟を拝む。

御廟橋手前を東へ入り、水向地蔵前の水垢離場前から清め橋を渡る。門を潜ると右手に関係者用駐車場があり、その左手の道を登るのだが、

左の御廟に続く車椅子用参道に入ってしまって無縁塔の前に出た。前にきた時(2005年)の記憶を辿って引き返したが、10年近くの間に辺りの様子が変わっていて戸惑った。

登山口手前で出会った職員の方に挨拶すると、「道が悪く分かり難いので、気を付けて行って下さい」と言われた。じめじめした道を少し歩くと摩尼山に向けて急登が始まる。涼しい木陰の道で助かるが、大きく右に折れて再び左へ登り返して、喘ぎながら摩尼峠に登り着く。

「奥の院より摩尼村に行く近道です」という手書きの標識が立ち、少し上には祠がある。汗を拭い、一息入れて出発。

峠から少し平坦な道を行くが、すぐ急坂に変わり最後は木段を登って摩尼山(1004m)に着く。祠が立つ山頂は原生林に囲まれて無展望である。

2005年の山日記では『ここからゆるやかな尾根道を行く…左手の展望が開けるところがあり、その先からは咲き終わったササユリが点々と続く。』と書いているが、今は尾根左山腹に道が付けられている。

 
丸さん撮影

展望は樹木の間から辛うじて楊柳山の姿をちらりと見ただけに終わる。 

チゴユリの花がずっと並んでいたが、ササユリは貧弱な葉を数本見ただけだった。

ガイドブックの最初の休憩ポイント「日当たりのよい植林地」など通らないうちに、急な下りになり黒河峠に降り立って祠に手を合わせて出発。

祠に手を合わせて出発。雑木林の中、二度ほど急な木段道があり「下った分だけ登るんや」と気合を入れて登る。 

丸さん撮影

しかし思ったよりは楽に楊柳山(1008.5m)の小広い山頂に立つ。祠があり、『前に「揚柳観世音」側面には「天保五甲年三月」、と「摩尼山二十丁、転軸山二十丁」の石標が立っている。三角点はこの祠の後ろにあった。』とは2005年の記録だが、二人とも記憶から欠落していて三角点を見つけられなかった。少し低いところに、丸さん夫人と同じ名前の明神さんの小さい祠もある。 

ちょうど正午になったので、倒木のベンチに腰を下ろして弁当を広げる。奥ノ院からここまで誰にも出会わなかったので「今日は4人で貸し切りか…」と思っていたが、急に騒がしい声が聞こえて女性一人を含む6人の若者グループが登ってきた。しっかりした山装備だったが、山名版の前でポーズを取って写真を撮り、落葉の多い祠の前でガスコンロに点火して昼食の準備を始める。全員が背中を向けているので、挨拶もせずお先に失礼した。

いったん下って登り返して小さなピークを越える。これまで北へ向いていた道が、ここから南へ下る格好になる。下りきると子継峠で、十字路でなくT字路になっている。右の久保へ下る道は草ぼうぼうで廃道のような感じである。杉林の中を細い流れに沿って下る道は次第に傾斜が緩くなるが、うんざりするほど単調で長く感じる。草地が出てきて、二度ほど左の「三本杉」への道を分けるがいずれも通行できない。ようやく奥ノ院の方からくる車道を渡って、三山最後の転軸山への登り道になる。

今回はここの登りが少し長く感じた。ゆっくりと登りつめて山頂(915m)に立つ。奥ノ院への下り道標識にはX印が付いていた。祠の前で写真を撮って北西に延びる尾根道を下る。

短いがかなりの急坂で車道に出て、左に折れてシャクナゲやシロヤシオの咲く道を転軸山森林公園に下る。再び車道に出た辺りが分かり難く、男女のペアと単独行の人も地図と睨めっこしていた。森林学習展示場の辺りで地図で確認して、中之橋霊園の横からスキー場の下にでて石畳に道に入るとすぐに一の橋から来る御廟への道に合流した。夫婦連れのハイカーは私たちの後をついてきている。先程、丸さんが声をかけてあげた山慣れた感じの男性が追いついてきて、礼を言ってくれた。前に♀ペンと探した『我国最初のヒマラヤ踏破者、日本チベット学の始祖』(墓碑銘による)河口慧海の墓に詣で、一の橋へ参道を歩いて今日の三山歩きを終えた。

<コースタイム>奥ノ院10:00…登山口10:17…摩尼峠10:30 ~10:33 …摩尼山10:55 ~11:00…黒河峠11:33…楊柳山11:55~12:30(昼食)…子継峠13:00…車道分岐13:25…転軸山13:47~13:50…森林公園入口14:05…一の橋14:45


今日も山野草の楽園へ(2014.05.14)

2014-05-15 10:55:04 | 花日記

桜井から十一面観音で有名な聖林寺を経て談山神社へ続く県道37号線は、かっては多武峰街道と呼ばれました。神社への分岐を見て、さらに南へ坂道を登ると新鹿路トンネルが口を開けています。

このトンネルを抜けると吉野町ですが、トンネル手前の旧鹿路トンネルに向かう道に入るとすぐ、こんな標識に出会います。下のオブジェには「ろくろかめ石」と書かれています。

細い道を少し下ると美しい花に彩られた「鹿華苑」です。

個人のお家ですが、桜井市のホームページによると3反の土地に40種の花木、60種の山野草が植栽されていて、四季それぞれの花を見ることができます。

1.ヤマツツジ  2.オオデマリ  3.モッコウバラ  4.ツツジ?シャクナゲ?

モッコウバラ

シャクナゲもまだ蕾をたくさん付けています。

シャクナゲツツジ

花車という名のモチツツジ

カザグルマの群落

1.カラタネオガタマ  2.カルミア  3.カザグルマの一種  4.タイツリソウ

1.?(この花の名前ご存じの方、お教え下さい)
2 .シ
ュウメイギク  3、ナルコユリ  4.ヤマオダマキ

フジ、シャクナゲツツジ、黄色のレンゲツ

他にもたくさんの美しい花が咲いていました。さぞお手入れも大変だろうとご苦労を偲んで、こんな美しい花園を無料で開放して見せて下さることに感謝しつつ家路につきました。


山野草の花園に遊ぶ(2014.05.10)

2014-05-13 08:12:58 | 花日記

金剛山の帰りに高天山野草園へ寄りました。

御所市高天(たかま)は古来、古事記などに登場する高天原伝承地の一つとされています。私たちがよく利用する登山道の一つ「郵便道」は、この地の高天彦神社が実質的な登山口になります。この神社は高皇産霊神(タカミムスビノカミ)を祭神とする延喜式に載る古社で、高皇産霊神はこの地を支配した葛城氏の祖神です。

この高天彦神社の近くに、山の斜面を利用して山野草が植栽されています。思ったより広い敷地内に2000本のエビネ、60本のシャクナゲはじめ、様々な山野草が咲き乱れています。

色んな種類のエビネ

シャクナゲも満開です。

1.黄色のツツジ  2.タイツリソウ  3.クリスマスローズ  4黄色のオドリコソウ

クリンソウ

ユキモチソウ

二ホンサクラソウ

美しい花に囲まれたひと時は、今日の花を見る山行の素晴らしいフィナーレとなりました。


花模様・金剛山(2014.05.10)

2014-05-12 09:18:49 | 山日記

晴れ上がった土曜日の朝、金剛山の花を見ようと車を走らせた。高天神社に着くといつもの駐車場所はすでに満車で、すぐ横の大きな無料駐車場に車を入れる。登山口でもある神社の前には工事用の車両が入り、新しい迂回路を行くように掲示が出ている。少し南へ歩き、伏見からくる道と合流して田圃の中を登ると、イノシシ除けの柵が設けられている。

戸を開いて傾斜を増した山道を登ると、右手にトトガネノ谷を見下ろすようになり、まもなく高天滝からくるいつもの道に合流した。

ゆっくりと急坂を上り消防署救援目標「いノ3」を過ぎた辺りからそろそろヤチマタイカリソウが現れる。下の方は花弁が枯れているものもあるが、登るにつれて日陰ではまだまだ美しいクリーム色を見せてくれる。

救援目標5を過ぎると以前より崩壊が進んだ場所が二ヶ所ほどあるが、ロープも張られて道もよく手入れされている。

ニリンソウ、ヤマルリソウなどの花を見ながら500段の木段道を登り切って、カヤンボからくる道と合流して一の鳥居にくる。ここまで数人の人が降りて来るのに出会っただけの静かな道だったが、大阪側から登る人が多いようで急に人が多くなる。今日は「ちはや園地」の花を見ようとダイトレ道に入る。

途中で一等三角点(1112.2m)のある湧出岳に登る。灌木帯を下ってダイトレ道に合流、大阪府最高地点(1053m)へも寄り道した。

少し下って展望台に登ってみる。先程降りてきた湧出岳が意外に高く、その左側に葛木岳が見える。南の三石山、南葛城、岩湧山の方はよく見えたが、大峰・大台の方は霞んでいた。

「カタクリの道」に入って下っていく。カタクリは殆ど終わり、シャクナゲも終わったものが多かった。

ロープウエイ駅前から「星と自然のミュージアム」へ登り返して、香楠荘横から今度は「シャクナゲの道」をロープ駅へ下る。

ゆるく蛇行する道の斜面に、ヤマブキソウの大群落、

続いてシラネアオイ、

ヤマシャクヤク、ニリンソウなど、この季節ならではの花が次々現れる。

ゆっくり写真を取りながらロープ駅に帰ると、いつもの八重桜がまだ咲き残っていた。

次第に人の増えた遊歩道を国見城跡へ歩く。社務所前も城址もその下の広場も人でいっぱいだった。広場ではボタンサクラが、城址では金剛桜が咲き残り、ウリハダカエデの花も風に揺れていた。城址の時計は正午近く、珍しく山頂部で2時間も過ごしたことになる。一段上の小広場にも人影が見えたが、ベンチに腰を下ろして昼食を済ます。今日はグループ登山が多いようだが、後から隣のベンチに座った女性に聞くとカトラ谷にはバスツアーの団体迄来ているそうだ。

転法輪寺と葛木神社に参拝し、もとの郵便道を下る。ヘルメットを冠った男性が一人、途中で追い越して行っただけの、また静かな山道だった。

今日一番の目的だったルイヨウボタンの花にも会えたし、満足して高天に帰る。「たまには、こんなのんびりムードの山行もいいね」と♀ペンが言った。