ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

私の関西百山(82) 峰床山

2014-09-29 16:46:16 | 私の関西百山

82  峰床山(970m ) <京都北部>

(みねとこやま)京都北山にあり、高層湿原・八丁平を抱く京都府第二の高峰である、東側の敦賀街道にある葛川小学校前から、西側の花背・大悲山口から、南側の大見町から、北側の久多下からのコースがある。
 
 
2004年、千日山歩渉会の仲間たちと葛川小学校から伊賀谷沿いに林道終点の手前まで車で入り、中村乗越を経て山頂を目指した。車を置いて30分近く歩いて林道終点の大きな岩の横で木橋を渡って山道に入る。木橋や飛び石で何度か左右に沢を渡り返し、左から涸沢が入ってくる所で山腹道になりジグザグに登る。
 
 
登るにつれてイワウチワの花が多くなり、疲れも感じぬ間に中村乗越に着いた。
 
 
ブリキ板に書かれた絵地図が立っている。少し下って40年ぶりに八丁平に来る。
 
 
北に緩く登る。道はよく整備され道標も多い。オグロ坂峠には小さな祠があり、北側の展望が開ける。右に鎌倉山の標識がある。峰床山には手前のなだらかな道を左に行く。少し下って登りになるが、大した急坂もなく頂上に着く。
 
 
東から南にかけての展望があり皆子山、雲取山も見えている筈だが、似た山が並んでいて同定不能。特徴的な比良の蓬莱山だけは分かった。昼食を終え、クラガリ谷を下る。思いがけないことに、この暑さにも雪が消え残っていた。がらがらの降りを終えると、八丁平西側の周回路に入っていく。
 
 
ジメジメした湿原に苔むした木道が設けられていて、なかなか風情がある。緩く登って「二ノ谷へ」の標識を左に折れると八丁平を見下ろす形となり、南側から回り込むようにして元の道に出て、中村乗越への分岐に帰った。

<コースタイム>駐車地点(25分)林道終点(60分)中村乗越(20分)オグロ坂峠(30分)峰床山(35分)中村乗越(45分)林道終点(20分)駐車場所

大和郡山の史跡と伝説(5)主人神社

2014-09-29 06:00:00 | 四方山話
5 主人神社(大和郡山市矢田町)
 
 
奈良高専から西へ矢田寺へ向かうと、すぐ右手に主人(ぬすと)神社があります。小さい神社ですが、矢田坐久志玉比古神社の摂社で、櫛玉饒速命(クシタマニギハヤヒノミコト)御炊屋姫神(ミカシギヤヒメカミ)を祭神としています。
 
 
土地の人は「ぬすっとじんじゃ」と呼んでいます。今は車の往来が激しい県道沿いですが、昔は淋しいところで、ここを根城にした盗賊が村々を荒らしまわった…ということです。また昔、この神社にへは近くの村から年に一人、若い娘を差し出さねばなりませんでした。あるとき旅の僧が村人の嘆きを聞き、愛犬・サンとともに神社に向かいます。怪物の正体は境内に棲む歳を経た土蜘蛛で、これを噛み殺し自らもクモの毒気に倒れたサンを村人は手厚く葬り、年老いるまで旅僧を世話したという人身御供伝説が残っています。
 
 
史実では、矢田村では毎年一人の処女を境内の仮小屋に住まわせて祭神に奉仕させる習慣が、明治に至るまで続いていたそうです。
これも、ある意味では「人身御供」といえなくもなく、ここから土蜘蛛退治の伝説が生まれたのかも知れませんね。

51年前の今日(1963年9月24日)

2014-09-24 06:00:00 | 私の関西百山

51年前の9月24日、私たちは当時所属していた大阪の山岳会の秋合宿で八ヶ岳におりました。

15名パーティ(うち女性4)で私はCL、結婚前の妻は会計係でした。22日、夏沢峠近くで幕営、23日は強風とガスの横岳を通過する頃に小雪が降り出しました。

赤岳山頂は霧の中でしたが、通過する頃には展望が開けてきました。写真は縦走路からの阿弥陀岳です。キレットに下り、強風で飛びそうな中、やっと4張りの設営を終えました。



24日は快晴で明けました。モルゲンロートの富士を見て勇躍して出発。(これはテント場での朝の準備体操です)

キレットから竜頭峰



ツルムの頭では赤岳、阿弥陀、権現から南ア、中ア、新雪に輝く北アまで見えました。

編笠岳に着きました。

しかし、権現岳から下る途中で浮石に乗った男が足を痛めて足を引きずるようになり、嫌がりましたが編笠からは交代で背負って長い裾野を小淵沢へ。男性だけ10分交代のボッカでしたが、重かったです。棒道の電柱に設置されていた電話でタクシーを呼んで怪我人を乗せ、残り4kmを頑張って夕暮れ迫る小淵沢に急ぎ、3日間の縦走を終えました。


大和郡山の史跡と伝説(4)割塚古墳

2014-09-23 07:01:47 | 四方山話

 

4.割塚古墳(大和郡山市千日町)
 
我が家から100mほど歩いた同じ町内(第三自治会)にあります。1986年(私達家族がこの地に居を構える1年前)に宅地造成に伴って調査され、現在は史跡として市の文化財に指定されています。



直径39m、高さ4.5mの大型円墳で、埋葬施設の横穴式石室は長さ14mあり
、玄室の石棺からは耳飾りや鏡、周囲から馬具、須恵器などが発掘されています。



周辺は今、児童公園になっていますが、転居した当時は旧村(現外川町)の人から「蛇塚」と呼ばれていました。確かにその頃は我が家(第一自治会)の庭にもヘビが姿を見せていました。



1989年・
編集工房あゆみ発行「遊歩Vol.8」によると、この古墳には「元旦の朝になると黄金の鶏が鳴くという伝説や墓を盗掘すると重い熱病になるという語り伝えが残っている。」そうです。今も例年8月には矢田寺の住職をお招きして、町内の三自治会合同で「古墳供養」が行われています。

19年前の9月22日

2014-09-22 06:00:00 | 過去の今日

もう20年近く前になりますが春に退職した1995年9月、旅行社のパック・ツァーに参加してスイスに行きました。

22日はロープウェイでエギィーユ・ミディへ登りました。途中で一度乗り替え標高差2700mを20分ほどで登り切りますが、もの凄い急勾配で最後はまるで垂直のエレベーターに乗っているようでした。エレベータで中央峰テラスへでると、

純白のモンブランからグランドジョラスへ続く岩峰が並び、眼下にジェアン氷河。左にはシャモニ針峰群。

遠くグラン・コンパンの右肩にマッターホルンが小さく見えました。この日はツェルマットで泊り、

翌23日は宿からモルゲンロートに輝くマッターホルンを眺め、登山列車でゴルナグラード駅へ。

シュトックホルンへキャビンで登り、足首を埋める雪を踏んで小高い丘から360度の大展望を楽しみました。

電車でローテンポーデンへ下りハイキング。マッターホルンの投影する池・リッフェルゼーの畔で弁当を食べ、残った花が寂しげに咲く草原をリッフェンブルグへ歩きました。

*詳しい旅行記は下記のページ http://mountainpenguin.web.fc2.com/swiss/swiss1.html をご覧ください* 


私の関西百山(81) 帝釈山

2014-09-21 20:01:21 | 私の関西百山

 81  帝釈山( 585.9m 

六甲西北(行政区画上は神戸市北区)に位置する標高 500~600 mの低山の連なり丹生山系二番目の高さの山。山名は昔、山頂にあった明要寺の本尊が帝釈天であったことによる。
 

山系での最高峰である稚児ヶ墓山( 596m )への縦走路がよく歩かれているが、 2005 9 月に交通の便を考えて衝原湖畔に車を置き、帝釈山からシビレ山を周回した。衝原(つくはら)湖から義経が一ノ谷奇襲に使ったといわれる義経道を登るつもりが、少し東寄りの林道に入ってしまった。 30 分ほどで「十七丁」の町石の立つ表参道と合流する。
 
 
延命地蔵のたつ「十一丁」から山道に入り、かなりの急坂をジグザグに登って「四丁」を過ぎると道はなだらかになり、山頂部の平地に来る。
 
 
大きな石の鳥居を潜り、草ぼうぼうの社務所横の短い石段を登って丹生神社に詣でる。
 
 
ここから帝釈山までの間、至る処でママコナの群落に出会った。 
 
 
585m の帝釈山頂は小広い草地に石の祠が二つ残っていて、かっての丹生山明要寺奥の院の雰囲気を残している。草に埋まるように二等三角点があったが、残念ながら薄曇りで展望は今ひとつ。それでも西六甲の山々が近く、明石大橋も薄く霞んで見えた。
 
 
シビレ山へは砂岩の急な登りから朝日山を越えて、再び急登で山頂に立つ。
 
 
ここへは 90 年3月に来ている。少し先の古代祭祀の跡から急な尾根を下る。
 
 
白い砂岩に緑の松が点在した湖南アルプスに似た眺めだが、勾配が強いので慎重に下る。コウモリ谷の核心部手前から 尾根道に逃げて峠を越すと、眼下に青い衝原湖が見えた。
 

駐車場に帰り、箱木千年家を見学。少なくとも14世紀以前の、おそらく現存する日本最古の民家であり、国指定重要文化財である。離れの縁側に腰を下ろして、初めてひんやりした秋の気配を感じた。

大和郡山の史跡と伝説(3)生田伝八郎の墓

2014-09-20 06:00:02 | 四方山話

 *既に投稿している(1)矢田の大石、(2)歌ヶ崎御廟に続けて、シリーズにしていきます。

(3)生田伝八郎の墓(大和郡山市千日町)



私の町にある常称寺は、もと矢田千日寺といいました。ここに芝居にもなった生田伝八郎の墓があります。



郡山藩で本田忠直の家来だった伝八郎は、家中の遠城治左衛門、喜八郎兄弟の義弟・宗左衛門を
兵学の争論から謀殺し出奔します。遠城兄弟の仇討は尊属でないため藩の認可が下りず、やむなく脱藩して敵を探します。遂に大阪生玉神社で伝八郎に巡り合い、約束の日に崇禅寺馬場(現阪急崇禅寺駅前)に行くと、多数の助っ人に囲まれて返り討ちにあってしまいます。

後、慙愧に絶えない伝八郎は千日寺の門前で切腹し、この寺の尼僧であった姉が遺骸を葬り、遠城兄弟とともに冥福を祈りました。…以上、門前にある説明文の要約です。



墓はご覧のように立派なもので、六地蔵が横に並んでいます。


私の関西百山(80) ポンポン山

2014-09-19 15:49:18 | 私の関西百山

 80 ポンポン山( 679m 

すぐ近くを東海自然歩道が通る山頂に、次のような標識が立っている。「この山は正しくは加茂勢山といいますが、標高 679m の頂上に近づくにつれて足音がポンポンとひびくことから通称ポンポン山と呼ばれています。京都市の西端にあたりますがこのすぐ東の地域に善峰寺、三鈷寺、光明寺などの古刹が多く、平安中期以来、仏教の地としても重要な位置を占めています。東海自然歩道」
 山名の由来については、この説が有力だが異説もある。確かに山頂付近では音がする気がするが、その理由は地層に由来するとも、空洞があるためとも言われている。
 登山道は南側の本山寺(高槻市)から、北側の善峯寺(京都市)、出灰(高槻市)、大沢(島本町)から釈迦岳を経ての各道がある。
 始めて登ったのは 1969 4 月、山友と二人で神峰山寺口から登った。雨とガスの中で展望全く効かず寒かった。善峰寺の新緑が美しく、沿道にはタケノコが無数に顔を出していた。
 
 
1985 3 月は町内のハイキング同好会で神峰山寺に車を置き、明るい尾根筋を行く。遠く神戸の港を見下し、本山寺に着く。山門には、縄の長さでその年の農作の出来を占うという精進掛けがあった。山道らしくなるが、しばらく登りが続くとなだらかな尾根道や捲き道があるという繰り返しで、全員快調に登り続ける。最後の尾根筋へ出、木のハシゴ道を少し登り、二等三角点のある山頂に飛び出す。周囲 360 度の大展望で京都タワーが小さく見えた。下りも同じ道を辿る。全行程15.6km
 
1991 3 月、本山寺の駐車場まで神峰山寺から 1 時間のショートカット。本山寺迄、八丁の石標がある。五丁に「役行者衣掛け松」があり、祠の中に根元の部分だけが残っている。大峯、葛城の遥拝所だけあり見晴らしが良い。遠く生駒、葛城が霞み、眼下に淀の流れが白く光っている。宝筐印塔のある三丁、一丁に勧請掛がある。寺域に入り本堂に詣で、本堂横から山道に入る。 1 時間足らずで頂上に着き、同じ道を帰った。
 
 
1994 年同じ会で善峰寺から登った。七曲がりの林道を登ると 30 分で山間の長閑な集落・杉谷に入り、舗装路が切れてようやく山道らしくなる。流れに沿って杉林の中を行くと勾配が強まりジグザグの登りになるが、自然歩道だけあってよく整備されている。急登が終わると緩い尾根道を行き、釈迦ヶ岳への分岐を過ぎて最後に短い登りで頂上に着く。下山は釈迦ヶ岳( 631M 三等三角点)を通る。北側だけが開けて愛宕山がよく見えた。杉の植林の中の小暗い急坂を下り、捲道になると道もはっきりして善峰寺の屋根が眼下に見えた。
 
 
2006年3月、 ML 低山徘徊派のメンバーで初めて北西側から登った。大原野森林公園事務所前をスタート。谷に入るには許可証が要る竈ヶ谷を遡る。
 
 
二人とも初めてゴム長靴での山歩き。軽いし、ジャブジャブ川を渡れるし、昨日の雨で少しぬかるんだ道も平気で、なかなかのものだった。野生のクレソンの葉を口にしてみると、ちょっとほろ苦い春の味がした。
 
 
ヤマシロネコノメソウの大群落を見ながら緩やかな流れに沿って行く。枝谷から西尾根に登る途中、監視員さんが頑張っていて許可証をチェックされる。
 
 
少し下った斜面一帯に黄金色のフクジュソウの花が群生していた。ロープに沿って一方通行で一周するようにコースが作られている。写真を撮り終え、元のチェックポイントから少し登ると西尾根に出た。
 
 
最後の急坂を登り切ると、人で埋まるような頂上だった。帰りは西尾根を下った。少し開けた所で、カタクリの群生地があるという小塩山、その左にぼんやり霞んだ愛宕山が見えた。
 
  

私の関西百山(79) 六甲山

2014-09-16 16:48:46 | 私の関西百山

79 六甲山(931m)<六甲山地>

(ろっこうざん)神戸市街の背後に連なる六甲山は、関西の登山愛好者にとって「心の古里」である。日本最初の社会人山岳会「神戸徒歩会」(1920年)、加藤文太郎も所属したRCC(1924年、藤木九三)もこの地で生まれ、この六甲山系を舞台に活躍したのを始め、以後、幾多の岳人がこの山から世界に大きく羽搏いた。この地方は古くから「むこ」と呼ばれてきて、享保年間の摂津志書には「武庫山一名六甲山」の記述があるという(Wikipedia)。六甲は宝塚市、西宮市、芦屋市、神戸市にまたがる長大な山系の総称で、大小多くの山を含み、最高峰は六甲最高峰と呼ばれる。

最高峰から西の麻耶山にかけては、多くのホテル、会社の保養施設を始め日本最高所の六甲山小学校まである「山上の街」で、神戸市街を見下ろす夜景の美しさは言葉に尽くせない。

数え切れぬほどの登山道があり、私たちもいろいろな道を歩いたが、一番思い出の多いのは全山縦走路である。

須磨浦公園から始まり宝塚駅に至る約56kmの道では毎年「六甲全山縦走大会」が開かれているが、私たちが所属していた社会人山岳会・大阪山友クラブでは男性30kg、女性20kgをノルマにしたボッカ訓練を三度に分けて、この縦走路で行った(冬は更に10kg増える)。うち二度に参加しなければ北アなどでの夏合宿に参加できないルールだったが、殆どのメンバーが完走した。♀ペンと知り合ったのもこのボッカ訓練である。

また9歳年下の弟と宝塚を午前 0 時にでて、西へ向かったことがある(1962年)。月明かりに懐中電灯も点けずに、ひたすら急いで市が原で 7 時。少し仮眠のつもりが 11 時まで寝込んでしまい、調子を崩した。暑さで水やコーラを飲みすぎ、ついに高取山でダウン。六甲山脈の西の果てが海に消えていくのを目前にしながら、何とも残念だったが、どうにも足が言うことを聞かなくなっていた。この高取山は毎日登山の人で今も賑わっている。

 風吹岩

最もポピュラーなのは、芦屋から高座滝、ロックガーデンを経て最高峰へ登り、有馬温泉に下るコースー魚屋道(ととやみち)である。

山を始めた年にもこの道を最高峰へ登り、東六甲を縦走して宝塚へ降りている。

幼い子供たちとも何度か一緒に歩いた。 

徳川道

他にも石切道、徳川道、トゥエンティクロス、シュラインロードなど良く歩いたが、

 地獄谷

 西山谷

大小の滝を連ねる地獄谷、西山谷の遡行も忘れがたい。

宝塚に近い座頭谷、仁川、道場などでは一時、毎週のようにロッククライミングの練習をした。お腹に子供のいた♀ペンがきて、落ちたりしたのによく無事だったものだ。

昨年、5 年ぶりに 六甲山へ登った。東お多福山口までバスで行ったが、ここからの道は最高峰への最短コースとしてよく利用されているようだ。 蛇谷の浅瀬を渡り、ひとしきり急坂を登って平坦な道になると、すぐ横まで舗装道路が来ていてユートピア芦屋の住宅横を歩く。再び抉れた道の急登になり、勾配が緩むと低い笹原の中を歩くと東お多福山の頂上に着いた。まずまずの展望で西宮港の向こうに大阪湾が光っていた。急坂を下って土樋割峠にでた。六甲最高峰に向かう道が黒岩谷と出会うところで、東谷との間の尾根(西尾根?)に取り付く。

急登が続き大きな岩の横を通ったり、痩せ尾根を上下したり、斑らロープが付いている急坂を登ったりと、実に変化に富んだ楽しい道だ。緑の松と白い岩が散在していてアルペン的な感じもする。林を抜け深いクマザサの中を上下して一軒茶屋にでた。最高峰に登り昼食後、東六甲縦走路に入り、昔とは別の場所の感じがする「石の宝殿」から蛇谷北山を経て土樋割峠に降った。蛇谷北山は二度目だが、また一つ新しいルートを歩いて六甲の良さを再発見した。こんな素晴らしい「品格・歴史・個性」を持つ山が深田「日本百名山」に選ばれなかったのは、唯一、標高が彼の選定基準1500mに満たないためだが、「山高きが故に貴うとからず」惜しいことだ。


初秋の金剛山(2014.09.12)

2014-09-13 09:54:04 | 山日記

【コースタイム】水分橋07:00…セト08:27…国見城址09:05~09:15…葛木神社09:27…大日岳09:55…太尾塞跡10:20…水越峠分岐11:00~11:05…水分橋11:40

水越トンネルを抜けて旧国道に入ると、トイレ周辺には車の列が出来ている。いつも葛城山に登るときに使うトンネルを見降ろす台地にはまだ一台も見えないので、こちらに駐車。北尾根と太尾のどちらを登りに使うか迷ったが、予定通り北尾根に入る。トイレ前で一人、北尾根入口で犬を連れた人ら二人の男性が早くも下山してくる。昨夜から急に涼しくなり、半袖シャツでは肌寒いくらいだが、最初の階段道の急登ではや汗ばんでくる。

身体が慣れるまで、ゆっくりと登り続けるうちに調子がでてきて、案外早く山腹の道に出た。「セト⇔青崩」の標識のある、大きく左にカーブする地点で初めて休憩。降りてきた人と挨拶を交わすと「上は寒いほどで、晴れていて見晴らしがいいですよ」と話してくれた。3連休の前日のためか降りてくる人に出会ったのは、この人でまだ3人目、静かな金剛山だ。夫婦連れが登ってきたのを汐に出発する。少し登ると平坦な道になりピッチが上がる。坊領山への分岐を過ぎセトへ下るが、先ほど休んだばかりなので登りの階段道に入る。

イヌショウマやツルニンジンの花の写真を撮りながら、しばらく階段道を登ったところで先の夫婦が追いついてきたので道を譲る。

国見城址の下にくるとトリカブトの大群落やシシウドが美しい。城跡には僅か5人しか人影がなく、PLの塔はくっきり、ハルカスは少し霞んで見えた。大時計の横にいた若いペアの男性にシャッターを押して貰う。犬を連れた夫婦連れとしばらく話を交わして、行者堂から転法輪寺へ詣で、

葛木神社に参拝して仁王杉に下る。途中のブナ林からは葛城山が美しく眺められた。一ノ鳥居への道と分かれ、ロープの張ってある崩壊地から鎮宅さんの横を通って大日岳へ。

ススキが波打ち、キンミズヒキが満開だった。六道ノ辻から太尾塞跡へは厳しい下りが続く、元気に声をかけて登ってくる人や走り降りる人など、ここも毎日登る常連さんが多い道だ。ずっと植林帯の中で、足を休めて写真を撮る花が全くない。

さらに急降下を続けて水越峠への分岐で一息入れ、ここから山腹を捲くなだらかな下りになる。最後の階段道で、しっかりした装備の若いペアが登ってきた。どこか大きな山に行くトレーニングだろうか。若い頃を懐かしみながら登山口に帰る。涼しくなったお蔭で、あまり汗もかかずに楽しく歩けた初秋の金剛山だった。