ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(121)大所山

2016-03-30 16:21:48 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(121) 大所山(おおどころやま)<1346m>「美しい自然林と渓谷」

別称・百合ヶ岳。大峰奥駈道の五番関と今宿跡の間から東へ派生する支尾根の末端にある。吉野川支流の下多古川と高原川と挟まれるが、下多古側は植林だが高原側は深い自然林が残っている。山頂付近もブナの自然林の中で、冬の落葉期には大峰山系の展望が得られる。初夏のころはヤマザクラ、ミツバツツジなどが新緑に彩りを添え、南側の下多古谷は弁天岩から琵琶滝、中ノ滝と素晴らしい渓谷美を見せる。

 

一般的な登山路は川上村下多古より下多古林道に入り、徒歩1時間で登山口。車の場合は登山口まで進入できる。2004年2月、日本山岳会関西支部8名で登った。登山口から村有林を過ぎ、涸れた谷を何度か渡り返して、二段になった小滝の前に出る。

ジグザグの登りで明るい疎林から伐採跡に出ると視界が開け、正面に白鬚岳の美しい三角錐、その左に池木屋岳、右には日出ヶ岳が望め、更に右に勝負塚山が近い。

小さなピークを越えて雪の稜線を行くと、美しいブナ林の中にぽっかり開けたような頂上に着いた。南には大普賢岳から山上ヶ岳、弥山、稲村ヶ岳へと続く稜線が指呼の間に、また反対側には四寸岩山の穏やかな山容が望まれる。

下山は殆どの人が登路を引き返すようだが、私たちは南西に延びる稜線を下った。
 2009年5月、山友の女性二人と私たち夫婦で同じコースを辿った。頂上から尾根を下るとシャクナゲ林になり、それが疎らになるところが一番の難所で、大岩の横に危なっかしい木の梯子がつけられている。次の難所、長い岩場の下りにはマダラロープが張ってあった。植林帯に入ると膝が悲鳴を上げるような急坂の連続で、木の幹を頼りに下る。

登山口から琵琶滝に続く水平道に出たときは正直ほっとした。あまり登られていない不遇の山だが、大峰の前衛にふさわしい深山の趣があった。


奈良の山あれこれ <余録~山女のお話>

2016-03-21 11:10:12 | 四方山話

紀州藩士畔田翠山(くろだすいざん)は19世紀中頃の文政から弘化年間にかけての幕末期に、20数年間にわたって大和国吉野郡を踏査して、見聞した自然、民俗などを写生図を含めて書き記しました。うち『和州吉野郡群山記』六巻は吉野山をはじめ大台、大峰およびその周辺の民俗や歴史を含む山岳誌であり、『和州吉野郡中物産志』二巻は動植物、鉱物についての博物誌です。『物産志』は上巻が薬草の部、諸草の部に、下巻が木の類、竹類、果類、穀豆菜類、虫類、魚類、禽類、獣類に分かれて、それぞれ非常に詳細に、時には図を入れて科学的な解説がされています。ところが最後の獣類で、こんな面白いものを見つけました。

<この「奈良の山あれこれ」シリーズでは『1998年東海大学出版会発行・御勢久右衛門編著『和州吉野郡群山記~その踏査路と生物相』を参考・引用させて頂いていますが、私なりに現代文にしてみました。以下<>は御勢グループの註、()は原文の註です。なお下の図は 鳥文斎栄之・画『模文画今怪談』より、下野那須野(現・栃木県)で討ち取られた山女 で本文とは関係ありません>

山女[ヒト?]
釈迦ヶ
岳の山中にヤマオンナというものがいる。美しい服を着ていて、人に逢えば後姿を見せて顔は表さない。これは年老いた蟒(ウワハミ)<大蛇>が化けたものだという。花瀬村<現、十津川村花瀬>の人のことだが、花瀬の奥、佛倉というところに佛像の立ったような形の15、6mの高さの巌がある。この岩に石茸(イハタケ)がたくさん生えるので、よくここに来る。ある日、岩の上から降りてイワタケを採っているところに、美しい服装の一人の女が来て後ろを見せて顔を隠して岩の上に立っている。すぐに山刀(ヤマカタナ)を抜いて、女を背後から討ち取ると、女は岩の上より落ちた。その音は百もの雷が一時に落ちたようであった。その後、家に帰ると病気になり、臨終のときにこの事を語して死んだ。十津川の猟師にこの蛇のことを訊ねると、その身体は五色の錦の衣を着ているようだということだ。『木草時珍』の説に、『録異記』、「蟒蛇大なる者、五、六丈、回り四、五尺。小なる者、三、四丈を下らず。身に斑紋あり、胡錦纈の如し」とある。

上の文章の最後の「胡錦纈 」については、手元にある辞書やネット検索では見つかりませんでした。「胡」中国の辺境部族、「纈」は絞り染めのことですので、斑紋のついた他国産の美しい布を想像する他ありません。また、ウワバミは大酒飲みの代名詞として使われますが、これはウワバミがかなり大きな動物でも丸飲みすると言われ、また神話のヤマタノオロチが八つの甕の酒を飲むことから来ていると言われます。連れ合いは山も酒も、いつも喜んで付き合ってくれますが…ひょっとすると


奈良の山あれこれ(119)~(120)

2016-03-18 00:00:30 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(119) 弥山(みせん) 「大峰修験の中心的な山」



今こそ南側にある八経ヶ岳が登山者の人気を集めていますが、古くは八経ヶ岳、明星ヶ岳を含めた「山上」の中心でした。仏教の世界観を表す須弥山から名づけられた山名が示す通り、大峰修験の中心的な山で、御山、深山(いずれも読みはミセン)とも書かれました。「吉野郡群山記」の「弥山の記」で釈迦ヶ岳から弥山への道(大峯通り)を記す中で、山の様子、宿、弁財天奥社、伝説まで詳細に紹介しています。
同書に『この所は天の川弁財天の奥の院といふ。山は平らなる大お山なり。余りそびえ、けはしからず。頂に樹木生い茂りて、四方見えず。』とあるように、現在も、奥宮(弥山神社)と200人収容の弥山小屋が立つ山頂台地はモミやトウヒに囲まれています。



小屋の前には御手洗池という木の柵で囲まれた水たまりがあり、昔は貴重な水源となっていたようです。



小屋のすぐ前が弥山神社で、最高所に三角点(1895m)、南側の一段低いところに行者堂があります。神社裏手から北に延びるなだらかな尾根は「香精山」と呼ばれる「御留山」で樹木の伐採が禁止されていました。現在は酸性雨などの影響か、この原生林の霜枯れ現象が痛々しく眺められます。



展望は小屋から200m足らず東の「国見八方睨み」からがよく、台高山脈、大普賢、山上ヶ岳が間近に眺められます。

 
1970年代に山友達と二人で弥山谷を遡行したことがあります。桟道や橋の崩壊箇所が多くて体力を費やし、双門ノ滝を見上げるところまで来て引き返しました。一般的な登山路は行者還トンネルの東西の出入口から始まります。



94年はオオヤマレンゲを見に行者トンネル西口からふたりで登りました。谷沿いの道から直登して奥駆道の通る稜線にでて、理源大師像の立つ聖宝ノ宿跡からは聖宝八丁と呼ばれる急な登りで弥山小屋に着きます。



(120)八経ヶ岳(はっきょうがたけ)
 <1915m> 別名・八剣山、仏教ヶ岳 「近畿より西の本州最高峰」



大峰山脈の中央部、弥山の南側にあります。大峰の盟主であり、近畿地方より西(本州)の最高峰です。山頂(1915m)に役行者が法華経八巻を埋めたといわれ、奥駆第五一番行所となっています。弥山から八経ヶ岳、明星ヶ岳にかけてはシラビやトウヒの原生林が多く、また弥山と八経ヶ岳の鞍部周辺には「天女の花」オオヤマレンゲの自生地があり、天然記念物に指定されています。


八経ヶ岳は前項(119)で記したように、弥山に比べるとそれほど重要視されていませんでした。例えば『吉野郡群山記』では『弥山の記』で釈迦ヶ岳から弥山への道(大峯通り)を記す中で、「鉢経 弥山辻にあり。道、左右に分かる。右(東)、山に登れば弥山に至る。左(西)、山を下れば川瀬村に出る。その分れる辻に金剛童子の小社あり。」と記載されているだけです。記述の中心はあくまでも「弥山」で、現在でも両山の位置関係などもあって、殆どの場合は弥山とあわせて登られています。登山道は弥山から稜線のすぐ下を捲くように八経ヶ岳に通じ、奥駆道もこの間に頂鮮岳遥拝所(靡53番・朝鮮岳)、古今宿(52番)を経て頂上の51番八経ヶ岳に至ります。しかし古来の奥駆道は、当時はオオヤマレンゲの密生していた山腹の更に下を次項の明星ヶ岳に通じていたようです。


 ←聖宝八丁(1994年) 
天女の花と言われるオオヤマレンゲは、梅雨の時期に弥山と八経ヶ岳の間に美しい姿を見せ、この自生地は天然記念物に指定されています。この花には1994年、ふたりでトンネル西口から登り初めて対面しました。清楚な白い花が、蕾から半開、満開、落花寸前のものと様々な姿を見せてくれ、幻の花を心行くまで鑑賞できた山行でした。



11年後の2005年秋、日本山岳会の山友と新しくなった弥山小屋で一泊し、頂仙岳から八経ヶ岳へ巡りました。



聖宝八丁の道はなだらかな新道に変わり、旧道と合流した後も幅広い木の階段や鉄梯子で歩き易くなっていました。しかし、酸性雨の影響か弥山の縞枯れ現象は一段と目立ち、オオヤマレンゲ自生地にはシカの食害を防ぐためのネットが張り巡らされていました。この網は奈良県、と環境庁が1996年から設置したもので、2008年に日本山岳会「大峯・弥山周辺~明星岳のオオヤマレンゲの保護状況と観察」会に参加した時も工事が続けられていました。

この時は特別許可を得て弥山西尾根の保護区域にも入りましたが、斜面一面に咲くオオヤマレンゲの姿はまさに天女の群舞を思わせ、時の経つのを忘れました。



山頂からの大峰、台高の大展望だけは昔と変わらず、雄大そのものでした。


奈良の山あれこれ (117)~(118)

2016-03-15 09:16:09 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。

(117)栃 尾 山 (とちおやま) 地元でもあまり名の知られていない山」



天川坪内から栃尾辻、頂仙岳、狼平を経て弥山に登る道の途中、栃尾辻から西に派生する尾根上にある1256.9m峰ですが、2万5千図には山名が記載されていません。2006年9月下旬、妻と二人で登りました。ハンディGPSを使いながら歩きましたが、道が分かり難く、何度か行ったり来たりして道を探しながら歩いています。

 


スタート地点の天河神社は「日本三弁天」として有名な神社で、弥山頂上にはこの神社の奥宮があります。林道坪内谷線で出会った男性は、栃尾辻への登山口を丁寧に教えてくださいましたが、栃尾山の名はご存じありませんでした。「弥山へ」の標識がある登山口から、頭上に見える送電線鉄塔に向けて林の中の急坂を登ります。登山口から30数分ほどで木材運搬用のモノレールの横に出ると、殆ど水平な遊歩道のような道になり、次第に高度を上げていきます。



植生が植林、混成林、自然林と変る美しい樹林帯を歩き、林を抜けたあたりから「左は弥山、右は坪ノ内」の標識がある尾根に出るまでが、最初の分かり難い道でした。



何度か緩いアップダウンで背の低い笹原を行くと、林の中に三等三角点と小さな山名板がありました。登山口から2時間余りでした。



山頂は灌木に囲まれて無展望でしたが、少し手前の大岩のところからは西に送電線の並ぶ尾根上の1287mピークとその右の天和山。遠く陣ヶ峰、水ヶ峰が霞んでいます。北には天狗倉山の右に金剛・葛城の山々が遠望されました。下りの大原への道も分かり難く、赤テープ標識を頼りにしましたが、当時の2万5千図の点線路ではありませんでした。GPSのトラックは弱受信で残っていません。帰ってからネットで見ると、他にも何人かがこの辺りで戸惑っていました。『13時半、登山口に帰り、弁天様に無事下山のお礼をして家路に着く。登りの10時頃、弥山から下りてきた二人組の男性に出会った他は、日曜日なのに誰にも会わない静かな山だった。』


(118)頂 仙 岳(ちょうせんたけ) 「朝、鮮やかに見える山」



頂仙岳 (1717.4m)は昔、仙人が住んでいたといわれ、昭和初期からこのように書きます。古くは朝鮮岳と書き(興地通志、大和名所図会)、「大和志」には「朝鮮嶽、在稲邑嶽西南、山脈相連、喬木陰森、怪石奇争聳、早旦望之、山色鮮明」とああります。「朝早くは山が鮮やかに見える」という意味で、朝鮮岳と名づけられたようです。

 森沢義信氏の「奈良 80山」によれば「弥山から出発することを弥山駈出という」。現在のように弥山から八経ヶ岳へ直接登る道が開かれたのは明治になってからで、それまで「山伏は午前4時に駈出し、弥山から狼平に下って頂仙岳に登り、次の古今宿を経て八経ヶ岳へのぼったという」(前掲書)
「修験」(大正15年)によると、「以前は八経へ登らず、朝鮮ヶ嶽に回り、八経の横を迂回して明星嶽に出たが、明治十九年楠本真成行者が、八経頂上へ直行する道を発見したとの事である」。 「修験」は京都の聖護院門跡の機関誌で、宮城信雅師は当時の執事長(前掲書の著者・森沢義信氏のご教示による)。現在の奥駆修験者の殆どは弥山より直接、八経ヶ岳へと辿り、頂仙岳は途中の「頂仙岳遥拝所」(靡第五三)から拝むだけです。ただし、ここからは頂仙岳は見えず、もう少し先の古今宿近くになって初めて山容を現します。
 2004年10 月、森沢氏と私を含む日本山岳会の有志4人と妻の5人パーティで大峰に入り、前日は弥山小屋で一泊、森沢氏の案内で上記の「弥山駆出」コースを歩きました。

弥山小屋から大黒岩を見て、弥山川に沿って長い木の階段を狼平↑に下ります。



吊り橋を渡ると高崎横手と明星岳への分岐で、ここから踏み跡を辿って山頂に登りました。



頂上台地から西に天和山、東北に稲村ヶ岳↓が見えました。(弥山小屋から約90分)



  
なお、直接この山に登るには、天川村川合から栃尾辻をへて山頂まで約3時間50分。2008年8月、弥山でのオオヤマレンゲ観察会の帰途、明星ヶ岳からこのルートを下っています。


奈良の山あれこれ (114)~(116)

2016-03-10 10:28:28 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

大峰山脈と周辺の山々

(114)行者還岳(ぎょうじゃがえりたけ、ぎょうじゃかえしたけ)<1547m> 「役行者も引き返した峻険な山」



七曜岳から鞍部にくだった奥駆道が、次に登り返すのが行者還岳です。大台ヶ原から見ると烏帽子型の峰が、南に倒れかかったような特異な姿をしています。これは山頂の南側が垂直の断崖となって落ち込んでいるためで、その険しさに役行者でさえ引き返したという言い伝えが山名の由来です。西行の『山家集』に「屏風にや心を立てておもひけむ行者はかへりちごはとまりぬ」の歌があります。この歌の前に「屏風立て」という地名がでてきて、この難所を思い悩むであろう「宿」として「ぎょうじゃかえり」と「ちごとまり」の名を記しています。「屏風立て」は七曜岳から弥勒岳にかけての岩場を指すのでしょうか。
 天川村と上北山村を結ぶ道は、かっては行者還岳を南に下った「北山越」(天川辻)で大峰山脈を越えていたましたが、現在は国道309号線がさらに南の「行者還トンネル」で両村に通じています。



1998
年9月、天川村側の神童子谷と布引谷の合流点・大川口から関電巡視路を登りました。吊橋を渡りヒノキ林の中を急登。ジグザグを繰り返して4つ目の鉄塔の立つ小さなコブから尾根を登り、右に捲くように進んで涸れた沢を三つほど越します。



苔むした岩や倒木が多く、深山幽谷の趣でした。危なっかしい桟道をいくつか通り、尾根を緩く登ると、自然林の中に行者還小屋の青い屋根が見えました(その後、2002年改築)。大峰奥駆道(縦走路)に出て北へ行くと、すぐ岩盤に細い滝のかかる水場があり、その右の長短3つのハシゴを登り、笹原の急坂を登ります。



林に囲まれた小台地に三角点(1546m)と大きな錫杖の形の山名板がありました。正面に弥山などが見える筈でしたが、この日は小雨模様で無展望でした。2005年、奥駆山行のときも雨の中で、つくづく展望にはついていない山です。


*しばらく大峰の主稜を離れて周辺のピークをご紹介します。*

(115)鉄 山(てっせん)<1563m> 「大峰の大展望台」



弥山北方支稜に連なる岩稜の山。雌雄二山からなり、雄岳は別名・三ツ塚と呼ばれています。山頂は樹林に囲まれていますが、弥山への縦走路を南へ歩き、小さなピークを二つ越した台地は大峰山系の大展望台です。2002年10月、日本山岳会の先輩、同僚の6人でこの山に登りました。




河合から行者還林道に入り、川迫川に沿いに登った神童寺谷出合が登山口です。水位観測塔に架かる橋の途中から左の山腹に取り付き、壊れかけた木の梯子や朽ちた桟道を30分ほど登ると明るい台地に出ました。目の前にバリゴヤノ頭が大きく、眼下の川迫川を挟んでトサカ尾山が左に頭を傾げています。尾根に取り付くと再びブナやヒメシャラ林の中の急登。急な岩稜を今にも切れそうな古いロープや岩を頼りに登りました。やや勾配が緩み、二度、大きな倒木を越えていきます。再び急登になり、1251mピークを知らない内に通過すると、展望が開け広い台地に出ました。背の低いクマザサの中に白い岩が散在し、まるで公園のよう。川迫ダムの上に金剛・葛城の山並みが青く浮かんでいます。

バリゴヤノ頭の背後には、ずらりと大峰の山々。行く手には目指す鉄山の雌雄二峰、その左には弥山が手の届く近さに望まれます。シャクナゲやモミの木の根が網の目のように絡み合ってたところを、梯子代わりに登ると雌岳のピークです。少し下り、支点がぐらぐらする急勾配の鎖場を登り切って雄岳(三ツ塚)の狭い頂上に立ちました。



樹林の中で、展望は僅かに稲村ヶ岳周辺だけでした。南の弥山への縦走路に入り、急傾斜を10分ほど降って正面に見える薄緑色の台地を目指します。コルに降り、背の低い小笹の道で小さなピークを二つ越し、更に緩く登ると、ヒカゲノカツラや芝のような草の生えた開けた台地に出ました。振り返ると、紅葉した林の上に鉄山がほぼ此処と同じ高さに見え、その背後に大日岳、稲村ヶ岳、山上ヶ岳、大普賢岳、行者還岳から弥山に続く稜線、その上に大台ヶ原がくっきりと浮かんでいます<最初の写真>。期待以上の大展望にすっかり満足して、元の道を引き返しました。

(116)天和山(てんなさん)<1285m> 「大展望ながら不遇の山」



大峰山系支脈にあるこの山の名前は、森沢義信氏の「奈良80山」(青山社刊)で初めて知りました。日本山岳誌(日本山岳会編)では選出されず、コンサイス版日本山名辞典には所在地(天川村と大塔村の境)の他は「大峰山脈の西斜面にある」と記されているだけです。「奈良80山」には『天和山は既刊書でも紹介されているが、登る人は多くない』と記されていますが、私の知る限り、殆どのガイドブックには触れられていない不遇な山です。「80山」には『しかし(中略)山頂に至れば、そこは谷一つ隔てて弥山・八経・明星ヶ岳がせまる絶好の展望台で、その景観には誰もが圧倒される。』と記されています。

2002年11 月、日本山岳会の4人で登りました。9時半、天川村和田の発電所の前から天川支流にかかる小橋を渡り、杉林の中に伸びる木材搬出用モノレールの横を登ります。やがて軌道を離れジグザグの登りとなり、数えて三番目の鉄塔を過ぎると、左に川瀬峠に通じる山腹を捲く道が分岐しました。この道は帰りに通ることにして、右の尾根上に出る急坂を登ります。



四番目の鉄塔が建つ展望場所から振り返ると、紅葉が美しい五色峰の向こうに、大天井岳あたりの稜線がくっきりと浮かび上がっていました。ここまでちょうど1時間、しばらく展望を楽しんで尾根道を行きます。左



手が深く切れ落ちたガレ場があり、ロープが張られていますが、足幅だけの崩れやすい踏み跡で、やや緊張しながら通過しました。1183mのピークは疎林の中で展望も少ないので、左に90度折れて自然林の中、クマザサの気持ちのいい尾根道を辿ります。川瀬峠過ぎてしばらく登ると、天和山の頂上で、ちょうど正午に着きました。



少し東側の台地からは、『頂上では木の間からチラホラ見えていた景色が、ここでは遮るものなく展開する。大日岳、稲村ヶ岳の右に頂仙岳、頂上付近に白く雪を付けた弥山、八経ヶ岳、さらに釈迦ヶ岳へと続く稜線が見渡せ‥(山日記より)』期待に背かぬ大展望に満足しました。


奈良の山あれこれ(111)~(113)

2016-03-08 09:07:58 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

大峰山脈と周辺の山々

(111)大普賢岳(だいふげんたけ)<1780m> 「普賢菩薩の山」



大峯奥駆道は山上ヶ岳から東へ約2キロの小笹宿で女人禁制区間が終わります。次の阿弥陀ヶ森近くで南へ方向を転じて、3キロで大普賢岳に至ります。



奥駆道は山頂西側の山腹を捲いていますが、5分ほどで到着する頂上からは、山上ガ岳の宿坊まではっきりと望めます。さらに稲村ヶ岳の間には金剛・葛城の山々、南には奥駈道上の行者還岳、弥山、八経ヶ岳、行仙岳、笠捨山…と見飽きることがない大展望です。奥駆行所(第六三番普賢岳)の勤行は本峰北にある小普賢岳で行われています。普賢岳の名は、ここでの礼拝対象の普賢菩薩からきています。

 


大普賢岳山頂から東に延びる尾根は笙ノ窟尾根といわれ、伯母峰峠に続いています。笙ノ窟尾根の山腹には、鷲ノ窟、笙ノ窟↑、朝日窟、指弾ノ窟などが連続していますが、中でも笙ノ窟は平安時代から冬籠り修行の場として知られるところです。『吉野郡群山記』に「窟の内広き事、二十畳ばかり。水湧き出る処有り。修行の僧、九月九日山止りの節より、飯菜等を用意し、来年四月八日まで籠るを、冬籠りの行と云ふ。冬に至れば、巌谷の外は白雪積りて、往来なしがたし。…」とある笙ノ窟は六二番靡(行所)でもあります。




 

これまでに5度(和子は3度)登りましたが、2度は奥駆山行の途中でした。他3度は和佐又ヒュッテから笙ノ窟、石ノ鼻(岩頭の展望台)↑を経て登りました。この登山道は年々、整備が進められて鉄梯子や桟道が増えていますが、かえって登り辛く危険な気がします。

(112) 和佐又山 (わさまたやま)<1344m> 「岩壁と森林の山」



吉野郡上北山村。大普賢岳から笙ノ窟を通り南西に延びる尾根上にあります。大台ケ原ドライブウェイから大普賢岳手前に見える、整った三角形の山です。山麓の和佐又高原には和佐又ヒュッテや和佐又スキー場があり、夏の林間学校、冬のスキー客で賑わいます。国道169号線の新伯母峰トンネルを出たところから、高原に向かって谷沿いに林道が走っています。この谷が和佐又谷で、「大和青垣の山々」には『天然ワサビを産することからワサビ又谷の転訛したものだといわれる』と記されています。

車でヒュッテまで林道を登ると、あとは標高差約200m、わずか30分ほどで山頂です。







山頂からは弥山、大普賢、孔雀岳などを望むことができます。1994年、大普賢へ登る途中に立ち寄りました。2006年には奥駆けの途中、七曜岳で奥駈道と別れて、標高差およそ600mを下って水太谷の河原に降り立ちました。

右岸の石灰岩にうがたれた上下二つの洞穴、無双洞↑から流れ落ちる水は水太谷の支流と合して、高さ20mの水簾ノ滝↓となって落ちています。

水太谷源流部の涸れ谷からアングルが打ち込んである急勾配の岩壁を登ると、ぽっかりと底なし井戸が開いていました。ほぼ水平になった夕暮れ近い山道を歩くうち、梢越しに見える和佐又山の円い頭が次第に近づいて、和佐又分岐に出ました。七曜岳から4時間半かかりました。

(113)七曜岳(しちようだけ)<1584m> 「国見七曜の大展望」


 
天川村と上北山村との境に位置する奥駆道の通る山です。大普賢岳を過ぎて水太覗(みずふとのぞき)の絶壁を過ぎると、しばらく笹原の平坦地を行きます。

やがて弥勒岳(行所六一番)があり、ここから「内侍落とし↑」「薩摩ころび(薩摩こけ)」の岩場の難所を通ります。

急斜面を下った稚児泊↑から国見岳、七つ池(山中の窪地)を過ぎて、岩場を登ると第五九番行所がある七曜岳山頂です。

ここは「国見七曜」とも呼ばれる通り、素晴らしい展望が得られます。「吉野山群山記」では「国見嶽」として『この所、大和国中(くんなか・大和盆地)能く見ゆるにより名づく。この外、諸方見ゆ』と記しています。特にここから見る西方の稲村ヶ岳やバリゴヤノ頭は絶景です。畏友・森沢義信氏の名著「大峰奥駆道七五靡」によると、七曜岳の名が初めて現れるのは「大峰細見記」で、「北斗七星ノ多和」の添え書きがあり、北辰(妙見菩薩)を祀る儀式が行われたことが山名の由来となったと考えられます。