ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

月末の作業(01.31)

2009-01-31 19:35:20 | パソコン日記
毎月末には二台のPCのバックアップをします。
XPの方は外付けHDD、VistaはポータブルHDDにバックアップしていますが、ソフトはどちらもフリーソフト…XPは「WtBackup」、Vistaは「BunBackup」を使っています。
どちらも、HDDに付属しているメーカー製のソフトよりもずっと軽快に作動しますし、ソフトを起動するだけで自動的に作業を始めるように設定しているので、全く手がかかりません。

それにしても、バックアップ先のメディアの進歩には驚きます。
PC(NECのPC9800)を使い始めた頃は、データの保存先はまるでドーナツ盤(古い!)のような7インチのフロッピーディスクでした。
3.5インチのディスクが出た時は便利になったと喜んだものですが、今やAドライブの付いているPCは見当たらなくなりました。
720MBのMOも過去の遺物になり、今やUSBフラッシュ・メモリでも何GBが普通の時代…。
しかし逆に不便なことも多く、昔のワープロ(単能機)のデータは使えなくなっています。(コンバーターを使えばいいのですが、読みこむリーダーがない)
去年から、ぼつぼつ紙媒体のアナログデータをいったんスキャンして、OCRでデジタル化しています。

GoogleDeskTOPを使っての検索や、データベース作成のために必要なためですが、なんだか、いいようにPCに使われているような気がしないでもありません。

コンピラについて (NOTE) 

2009-01-30 09:16:38 | 四方山話
牛松山を「丹後のカイラス」といった人があるそうです。


近在の信仰を集めた神の山の故でしょうか。
頂上の金毘羅神社に舟が奉納されていることで分かるように、かって保津川は物資や人の重要な運送路で、舟運に携わる人から尊崇されいたようです。

 コンピラの語源はサンスクリット語のクンビーラ、宮毘羅(クビラ・十二神将)、金毘羅(コンピラ)はその漢訳で、ヒンズー教の神・クンビラがガンジス河のワニ神であることと関連がありそうに思えます。


エジプトでもナイル河のワニ神・セべクを崇める信仰がありました。


これはコム・オンボ神殿のご神体。ワニのミイラです。
  
牛松山金毘羅神社の祭神(讃岐の金比羅宮もそうですが)は大物主命(大国主命)です。
金毘羅神と同一視されていますが、そういえば大黒様の助けた因幡の白兎とワニ(ザメ)の話を思い出します。


ネパールではクンビラはシェルパ民族の最も尊敬する神で、ナムチェ近くにある標高5673mのクンビラ山は聖なる山として、登ることを許されません。
 私なら、牛松山はカイラスというより「丹波のクンビラ」と呼びたいと思います。


また…下山地点の国分にある愛宕神社は元愛宕と呼ばれ、愛宕山上の愛宕神社は和気清麻呂の請願でここから移されたといいます。
 ここも火伏せの神として軻遇突智<カグツチ>神(火産霊神)が祀られていますが、他に伊邪那美神と大国主神が祀られています。
 継体天皇の時に神殿が建立されるまでは、山そのものがご神体であったようですが、そう聞くと、また大物主とゆかりの、大和の三輪山が連想されるのです。

丹後富士・牛松山

2009-01-28 19:33:29 | 山日記

亀岡の市街地から保津橋を渡り、明智越えの道を分けると福性寺の近くに登山口があります。
左下の茶色の標識は、保津町自治会が立てたQRコード付きの立派な「道しるべ」。
「牛にゆかりの 牛松山登口(のぼりぐち)」とあります。


鳥居をくぐると頂上の金毘羅神社の参道、十八丁の町石道です。
これは二丁に立つ、文化年間の文字が見える美しいご神塔。


三丁からは松の木が並ぶ快的な尾根歩きになります。歩き始めて20分ほどで、右手の展望が開け、霧に包まれた亀岡盆地の上に北摂の山々が頭を出しています。


少し急な勾配と緩い登りの繰り返しで快調に高度を上げて、全く疲れを感じずに金毘羅神社に着きました。
絵馬堂の天井に、保津川下りの安全を願って奉納された舟二艘が吊るされています。


656mの山頂で昼食を済ませ、正午に下山を始めました。
三角点は5分ほど下った林の中にありました。


ジグザグの急坂の連続で足が疲れる頃に、愛宕神社に着きました。
ここは愛宕山にある愛宕神社の元宮とされています。


山麓の府道を歩いて、駐車してあった登山口に帰りました。
今日は二人ともとても快調で、昼食時以外は腰を下ろして休むこともありませんでした。
写真は、保津川下りの船乗り場から振り仰ぐ牛松山の整った姿です。
黄色い車の左に保津川下りの舟がずらりと並んでいます。

(詳しい山行記はHPでレポートします。)

牛松山に登りました(1.27)

2009-01-27 19:52:55 | 山日記
今年の干支の山、亀岡の牛松山に登ってきました。


保津峡下りの船乗り場からみた牛松山。
丹波富士の名にふさわしい、美しい山容です。


636mの山頂で。


三角点は少し離れたところにあります。


今日のコースのGPSトラックです。珍しく全く途切れることなく採れました。
水色の字の「福性寺」に車を置いて、時計と逆回りに歩きました。
<コースタイム>福性寺10:00…金毘羅神社11:25~11:35…牛松山11:40~12:00(昼食)…愛宕神社12:55~13:05…13:45福性寺

私たちの登った「ウシ」の山

2009-01-25 12:03:42 | 四方山話
12年前の丑年に登った二つの山をご紹介します。

牛草山は、伊勢(三重県度会郡度会町)にある「干支の山」です。
1月8日、この年の初登りの山に選びました。
【コースタイム】(自宅発7:25) 五里山橋(20m)10:00-10:20…岩伏場橋(100m)10:45-10:50…林道終点(160m)11:05-11:10…稜線の分岐(466m)11:52…二つ目の小ピーク(520m)12:13…元の分岐12:30…頂上三角点(550.3m)13:00-13:30…稜線分岐14:00…林道終点14:30-14:50…五里山橋15:30(自宅着18:03)


林道の途中まで車で登るもくろみは、工事中の車両が道を塞いでいてもろくも破れ、一時間以上も林道を歩きました。虎ヶ岳林道と名を替えた林道の終点がやっと山道の始りです。沢沿いに暗い檜の植林の中を登り、沢の源流のような所から尾根に上がります。
 二人ともすこぶる快調で「山渓」のガイドでは1時間になっている登りを40分強でこなして、もう楽勝と油断したのがいけませんでした。道を探して、かれこれ30分ロスして、ようやく小さい岩がごろごろした山頂に立ちました。正面に五所ヶ浦の眺めが拡がります。
 風が強く、。おまけに午後になって、かえって気温が下がってきたので震えながら食事を終えて、写真を2、3枚撮り、追われるように頂上を後にしました。迷った時間込みで歩行4時間10分、休憩60分。結構よく頑張りました。
 終日誰にも出会うことのないウィークデーの、高年夫婦二人だけの静かな山でした。

牛回山
(うしまわしやま)奈良県吉野郡十津川村永井から西川沿いに東へ、国道425号線が和歌山県田辺市の竜神温泉に通じている。この「十津川往来」が両県境を越すところを「牛廻越え」という。また十津川村平谷からは上湯川に沿って龍神村丹生ノ庄に抜ける道がある。この道が両県境を越える辺りは「引牛越え」と呼ばれる。いずれも、両村の間で成牛、仔牛などの交易が行われた名残りという。牛だけでなく、紀州と和州物資交流の道、高野山と熊野を結ぶ信仰の道でもあった。牛廻山はこの二つの峠の間にある。


97年5月10日に歩きました。
 十津川から425号線を西に25キロ、十津川村最奥の迫西川の集落を過ぎて県境が近くなる辺りが「牛廻越え」、峠の地蔵が立つところが蟻ノ越である。大峰南部から熊野に続く山々が紫に霞んでいる。急勾配の林道を南に歩く。
 牛廻山はこの尾根とほぼ直角に交わる別の尾根(蟻ノ越からさらに北へ続く県境尾根)との交点のすぐ西の隆起である。尾根上の古い登山道に登り、山腹を捲くと1177mピーク。ここが二つの尾根の交差点で登山道は右(西)に直角に折れる。
 のんびり尾根道を歩き、ゆるく下ったコルがヒヨキノタワで小さな石の導き地蔵さんが立っている。しばらく先で左に小径を辿ると、あっけなく展望のない頂上に着いた。(蟻ノ越<760m>10:45 … ヒヨキノタワ<1145M>11:10 … 牛廻山<1206.8m>11:25)
 ここから竜神へは踏み跡に近い道になる。イバラのからむ植林帯を抜け大峠山を越す。密集した丈の高いヤブを漕いでいくとミノ又山である。南斜面の倒木帯を過ぎるとなだらかな大久保山。ここから林道と登山道が何度か複雑に交差する。赤テープに助けられながら植林帯の急坂を下り、小又川に架かる橋を見たときは、間違いなく目的地に着けたと正直ほっとした。(牛廻山 12:30 … 大クボ山<905m>14:05~14:15… 小又川 15:30)

ついこの間と思っていたのに、もう次のウシ年が巡ってきました。
近いうちに亀岡の「牛松山」にでも登りたいと思っています。

朝熊ヶ岳に登りました

2009-01-23 11:16:10 | 山日記
伊勢志摩国境に位置する朝熊ヶ岳(555m)は神宮の鬼門鎮守、また死者の鎮魂の場とされた信仰の山です。
「伊勢に参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と言われ、低山ながら日本名山図会にも描かれました。
一等三角点は最高峰の経ヶ峰山頂より西650mにあります。
<コースタイム> 金剛証寺駐車場13:33…冠木門13:43…経塚群13:55…朝熊ヶ岳山頂(555m)14:05~14:20…朝熊峠14:30~14:35…三角点14:40~14:45…分岐15:00…極楽門15:13…奥ノ院15:20…金剛証寺駐車場15:45


大きな冠木門を潜って、右手下に卒塔婆の群れを見下ろしながら山道に入ります。


ごろごろした小石の転がる急坂を登ると「左100mで経塚群、直進は岳道」を示す道標があります。
この岳道は古くからの金剛証寺への参詣道で、峠までは各山麓の村からいくつかの岳道が通じています。


経塚群を経て行くことにしました。
「国史跡・朝熊山経塚群」の柱が立ち、枯れたススキの穂の中に五輪塔や多宝塔などさまざまな形の石塔が散在しています。
この冬の枯れ野の風景は、あまりにもうら寂しく、もの悲しく、不気味でさえあります。


石塔群を抜けてしばらくでいったん舗装路にでて、山頂まで300mの標識があるところから再び山道に。
急坂をひと頑張りで山頂の八大竜王社横に出ました。
その西側に山頂碑が立っています。地元有志の浄財赤色石製の立派なものです。
広場の反対側には無線中継所の建物と電波塔があります。
ベンチに腰を下ろし、東に拡がる伊勢湾を見下ろしながら午後のコーヒーを楽しみました。


 少し歩き足りないので、予定通り一等三角点まで往復します。
広場西側の小径を下っていくと、左に踏み跡が何箇所か分れるが、ともかく直進。舗装路と合流して、すぐまた林の中に入り、再び舗装路に合流したところはT字路になっていて、右手から「朝熊岳道」が登ってきています。


ここは朝熊峠で「二十二丁」を示す町石とお地蔵さん、その上の台地には竹製のベンチが置いてあり、北側の展望が大きく開けます。
湾に流れ込む河口や点在する近くの町が見えましたが、帰ってから調べてみると、川は五十鈴川で二見ヶ浦辺りの景色のようでした。


更に真西へ続く、今度は宇治岳道を進みます。
所々で古い石垣に囲まれた森もあり、内宮から続く道と聞くと、思いなしか神々しい雰囲気が漂います。
地図にはない電波塔の立つ小広場にでました。地図の三角点は確かにこの辺りで、その先は下り道になります。
うろうろ探すうちに、♀ペンが右手の小高い処に登って三角点を見つけて、少し鼻を高くしました。
一等三角点ですが無展望の殺風景なので、記念写真を撮って元の道を帰りました。


朝熊山金剛証寺

2009-01-22 20:04:01 | 旅日記

伊勢志摩スカイラインの途中に金剛証寺があります。
欽明天皇の時代の創建で、中興の祖・空海が堂宇を整えた古い寺です。


仁王門をくぐり、蓮間の池の横を通って


もう一段上に登ると左にこの「撫で牛」…


右に「撫で虎」が置かれた小広場の正面に本堂が立っています。


本堂右手の明星堂を過ぎると、左手に朝熊ヶ岳への登り道があります。
山頂に登った後、奥の院へ向かいました。参道入り口の極楽門です。


門をくぐると奥の院までずっとこんな光景が続きます。
マイペディアによると、『江戸期以降、宗派を問わず葬儀ののちに朝熊山に登り、金剛證寺奥の院に塔婆を立て供養する「岳参り」「岳詣(たけもうで)」などと呼ばれる風習』があるそうです。


今もこの風習は受け継がれ、今年に入ってからの日付(まだひと月経っていない!)のものもありました。
人形や帽子など故人の愛用の品、花束などが供えられた風景はちょっと不気味で…


早々に奥の院にお参りして、引き返しました。

伊勢志摩の旅から帰りました

2009-01-21 18:14:53 | 旅日記
一泊の伊勢志摩の旅から帰りました。


今回の一番の目的は伊勢参宮です。
外宮に参拝後、内宮にくると、五十鈴川に架かる宇治橋が新しくなるのもあって、凄い数の参拝者でした。


「おはらい町」や「おかげ横丁」をぶらぶらしたあと…


伊勢志摩スカイラインを鳥羽へ。
途中、金剛証寺に車を置いて…


朝熊ヶ岳(555m)へ登りましたが、ちょっと物足りないので…


一等三角点まで足を延ばして往復。下山後、奥の院へもお参りしました。


鳥羽からパールラインを走り、途中からわざわざ海沿いの曲がりくねった細い道を相差のホテルへ。
海の幸を堪能して、たっぷり朝寝をして…


二見浦に寄った後、雨が降る前に帰宅しました。
金剛証寺や朝熊ヶ岳は次に詳しくレポートします。