ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

秋めく葛城山(2011・08.30)

2011-08-30 16:08:31 | 山日記

【コースタイム】青崩07:20…中間ベンチ08:20~08:30…山頂09:20~09:30…ツツジ園(下山開始)10:00…中間ベンチ10:40…10:50…青崩11:40

 

 快晴の朝、いつもの駐車場所に来ると驚くほど車の数が少なく、ざっと数えて10台程しかない。殆どが公衆トイレ近くに駐車して金剛山に登る様子で、水越峠へ登る車道の側壁沿いには私たちの車だけだ。近頃、駐車できるようになったトンネルを見下ろす空地は数台でほぼ満車。身支度を終えた夫婦が水分橋を渡って太尾道から金剛山へ向かったのを見送って、反対方向の葛城山に向かう。空は高く、晩夏というより初秋の気配が漂っている。青崩集落の一番上の民家を過ぎ、急坂の舗装路が終わり植林帯に入ると、ひんやりした冷気が身体を包む。しかし、どういうわけか体が重く、いつもの調子がでない。

 

暗い樹林帯が終わり、道が細く急になる辺りはヤブミョウガ、ベニバナボロギク、フシグロセンノウ、クサアジサイ、ツユクサ、ブタクサ、キツリフネ、ミズヒキ、ヤブミョウガ…夏の名残りの花と開き始めた秋の花の競演だ。流れを小石伝いに渡り、木の階段や岩交じりの急坂になる。この谷沿いの道はずっと日陰で涼しいので助かる。ただ、ここもアブが多く、ウチワで払いながら進むのが煩わしい。

 

シギンカラマツや、咲き残ったイワタバコを見ながら鎖の付いた岩場を過ぎて、再び流れを渡り谷を右手に見ながら水場に出る。冷たい水で顔を洗ってしばらく休む。

やや体調を取り戻し、ゆっくり登り続けて中間ベンチに着く。少し手前から感じていた風はここでは冷たいくらいに吹き過ぎ、火照った身体をたちまち冷やしてくれる。



腰を上げるのが惜しいような自然のエアコンの中で、しばらく休んで木の階段道を登りだす。ここは来る度に整備が進んでいるように思う。右手が開け金剛山が見える地点から明るい尾根に出る。伐採作業が続いていて、この早くから電動ノコギリの音が響いていた。ヌスビトハギの咲く短い植林帯の登りを過ぎ、水平の捲き道に入って♀ペンがヤマジノホトトギスが咲いているのを見つけた。よく見ると斜面にいくつも咲いている。堰堤を越えて五つ辻への旧道を分けて左に折れる。クサアジサイとフシグロセンノウが競うように咲く草地から、ショウジョウバカマの群落の中を登る。体調は完全に回復し、この登り道はいつもより短く思えた。キャンプ地を過ぎて何時も人通りの絶えないロープからの道へ出ても、不思議なほど誰にも出会わない。やっと高原ロッジの宿泊客らしい小母さんが一人、下って行った。


 まだ締まっている白樺食堂の前から山頂への途中で
、コオニユリにアゲハが羽を休めていた。その後ろにはススキの穂が出始めている。山頂の広場も全くの貸切状態で、ただ爽やかな風だけが吹き抜けている。せっかくなので展望盤の下に腰を下したが、日陰がないので花を探しながら山頂南西部の笹原を歩く。





 金剛山を背にオミナエシが秋らしい色彩を見せ、ススキの穂が風に揺れていた。その下のナンバンギセルは残念ながら見つからなかったが、シラヤマギク、ヒヨドリバナ、カワラナデシコ、ワレモコウなどおなじみの花がたくさん咲いている。松の木の下のベンチから高原ロッジの前へ下る。中に数人の観光客の姿が見えたが、裏手からツツジ園の方へ行ってみると、ここも全くの無人。戸を閉めた売店の横に空の自動販売機が二台、ポツンと立っていた。売店の裏の木陰のベンチでしばらく休む。前にきた
5月はツツジの時期で、休み場所を探すのに苦労したことを思い出す。

 

 次第に気温が上がってきたので下山を始める。帰りもゆっくり花を眺めながら下ることにする。天狗谷道の下りに入ってすぐ、今日初めての若い登山者に出会う。あとはまた、二人きりの静かな山になる。暑くなったせいかアブが増えて困る。ウチワで追いながら歩くと、バンバンあたる音がするほどの多さだ。ベンチでもゆっくり休んでおれない。水場で汗を拭っていると、さっきの登山者が下って行った。凄い速さでのピストン登山だ。入れ替わるように、今度はゆっくりしたペースの男性が登ってきた。今日、出会った登山者は結局、頂上のトイレ前にいた山ガールと合わせて三人だけだった。歩き始めどうなるかと思った体調も次第に回復して、静かな山をゆっくり花を愛でながらマイペースで登れてよかった。


今日の大和民俗公園(2011.08.28)

2011-08-28 10:48:00 | 矢田之花暦(やたのはなごよみ)

朝から真っ青な空。暑い中にもやや秋の気配が漂っています。
キササゲが名前の通りササゲに似た細長い実をつけました。

6月初旬はこんな花でした。

ヘクソカズラ
いつも思うのですが、可哀相な名前です。よく見ると可憐な花なのに…。

帰り道で発志禅院門前のハス。きれいな色の実ができています。

このハスも7月にはこんな姿でした。「諸行無常」「花の命は短くて」…
しかし、こうして実になってまた新しい生命が生まれてくる。ここにも自然の大きな力を感じます。


御在所岳(2) 中道を下る

2011-08-26 17:04:40 | 山日記

しばらく腰を下して休んだ後、広い舗装の道を西に歩く。表道分岐付近は整備工事が進んでいるが、その先では道脇にミヤマママコナが群れ咲いていた。武平峠への道を分け、広い石段を登ると西公園の最高点に着く。山上公園駅からこの近くの西駅までリフトが通じているので、ここも家族連れなど観光客が多い。しかし、気の毒にもガスが濃く展望は全くない。滋賀・三重県境の標識の前で記念写真を撮る子供たちに、琵琶湖や比良など、ここ夕陽台からの展望を見せてあげたいものだ。



 懐かしい1212m三角点標識の前でしばらく待ったが、晴れる見込みはなさそうなので引き返す。山上ロープ駅の下を通って東の朝陽台へ。ここも大勢の人で賑わっている。中道への降り口にあるベンチで昼食を済ませ、富士見岩へ行ってみる。



 足元にイノシシを従えた古い石仏は健在だったが、ここも展望はゼロだった。雑誌のグラビアから抜け出したような山ガールが、挨拶をして颯爽と下っていく。



 私たちも樹林帯の急坂を下りだすが、すぐに若いペアが登ってきて道を譲る。登りの一ノ谷新道と違って、ここ中道は登山者が多い。この後は何度も道を譲ったり、あとから来た人と前後したりした。特に新しいウエアや靴の若い人が多い。中にはレジャー気分でちょっと危なげな人も見かけたが、ともあれ一時は中高年に占領されていた山に、若い人の姿が増えたのは喜ばしいことだ。



じめじめして水の流れている岩場を慎重に下って、大きな岩峰を登り返すと「八合目1100m」の標識があった。



急坂を下り六合目でしばらく休む。岩の間にミヤマママコナが咲いていた。



 樹林帯を抜けると開けた鞍部でここからキレットの登りになる。鎖も付いているが階段状のしっかりした岩場で、ここは登りの方がぐんと楽だ。

 

 再び林の中の急坂を下ると「地蔵岩」の上に出る。国見尾根がかすかに見えるが釈迦ヶ岳は雲の中だ。午後のこの時間になっても、まだ登ってくる人が何組もいる。少し下の大岩の上に「五合目・ロープウエイ展望」という立札があり、何人かが休んでいた。



そのまま進むと二つの岩が斜めに重なった「おばれ石」がある。地蔵石といい、おばれ(負ぶわれ)石といい、見るたびに自然の造形の巧みさに驚かされる。



中道の通る尾根には他にも花崗岩の巨石がごろごろしている。その横を捲くように下っていくと右手が開け、いつもなら鎌ヶ岳の鋭鋒が見えるところに来る。ロープウエイの下を潜り過ぎて再び樹林帯の下りになる。
 
傾斜がやや緩み、涼しい風が吹き上げてくる頃に裏道への分岐がある。この先は崩れた花崗岩の砂地で急傾斜の溝状になっている。ザックの背に差していたストックを引っ張り出していると、先ほど五合目の岩の上で休んでいた山慣れた服装のペアが裏道の方に、単独行の男性はすたすたと先に下って行った。

 

最後の難場の溝状の下りには長いロープやハシゴもあり、結構長く続く。うんざりする頃に川の音が聞こえだし、木製ハシゴを下ると目の前に国道が見えた。

年相応にタイムは気にせずに歩くように努めたが、それにしても特に下りは足元が見え難くて少し時間がかかった。涼しさを求めて行った山だが、頂上付近の他は湿度も気温も高く、おまけにここにもアブなど羽虫が多くて決して快適とは言えなかった。しかし岩場の登降では何の不安も感じず、心配した足も膝も全く痛まなかったので、少し自信を回復できて収穫のある山行になった。


御在所岳(1) 一ノ谷新道を登る

2011-08-25 17:19:18 | 山日記

【登山日】 2011824

【コースタイム】一ノ谷新道登山口(御在所山の家)0830…展望台09551005…御在所山上公園11201130…頂上三角点11451155…中道下山口12151230…キレット1335…中道登山口1435

 

 富士山のトレーニングのため、高見山の次に選んだのが御在所岳である。この山には様々な思い出がある。最初は1962年、冬山の訓練に藤内壁の1ルンゼ、3ルンゼなどの氷瀑を登った。夫婦で中道を登った90年は、4月というのに霰が降り、そのあと凄い風雨に見舞われて難渋した。60年は年号では平成12 年で、標高の1212mにちなんで、12121212分に頂上で低山俳諧派のオフ会があった。美しい白銀の世界だった。他にも紅葉の時期や夏には家族でも何度か親しんだ山である。さて、今回はどこを登るか、迷った末に武平峠に車を置いて鎌ヶ岳と御在所をピストンしようということになった。久しぶりに鎌が岳にも登ろうという欲張りで安直なプランである。

 どんよりした曇り空の下、四日市インターから湯の山温泉に走り、鈴鹿スカイラインに入るとすぐ「土砂崩れのため国道477号線通行止」の標識にであう。この道は、滋賀県と三重県を結ぶ重要な国道でもあるのだ。武平峠まで車で登ろうという目論見はもろくも崩れた。ともかく行けるところまで行こうと、裏道登山口を見送って蒼滝トンネルをくぐる。通行止めの柵の手前、広い路肩にはすでに20台を越す車が停めてあった。身支度をして裏道へ降りていく人もあったが、私たちは一ノ谷新道を登り中道を下ることにした。国道歩き200m足らずで中道登山口を見送る。

 

  

「御在所山の家」の前に「一ノ谷新道(中級者)」の標識があり、山の家の横からすぐ左の薄暗い樹林帯に入る。ここで早くも下山してきたかなり年配の方に出会った。この道は私たちには初めてで、ガイドブック(山渓アルペンガイド「鈴鹿・美濃」)にも最初に『足腰に自信のない中高年にはあまり薦められない』と書かれている。また、途中の行程でも『膝の悪い中高年の人は難渋しそうだ』と記述されている。ゆっくりなら私たちにも登れるだろうと考えて、ともかく尾根に取りつく。最初からかなりの急勾配で掘割様の溝になったところが多い。木の根や幹を掴んでぐいぐい高度を上げる。湿気が高く、たちまち全身から汗が噴き出してくる。



15分ほど登ると、マッタケ岩という標識があった。なるほどとうなずける自然の作った奇石である。暗い樹林の中に時々大きい岩が現れる。足元はイワウチワの群落で、花の時期にはさぞやと思わせる多さの葉が、つややかに光っている。

 

 

尾根の右を巻くように登っていくと「展望所」の表示があった。右手(北側)が大きく開け、大きな露岩の上の見晴らし台である。残念ながら、濃い霧に包まれていて無展望である。

 

しばらく腰を下して水分を補給していると、急にガスが晴れて白いロープウェイの鉄塔が見えた。上下するゴンドラや頂上部もかすかに望めたが、すぐにまた白いヴェールに包まれてしまった。

 

ここからまた樹林の中の急登が続く。ときおり右手本谷側が開けるがガスで何も見えない。尾根の広くなるところには樹幹に赤丸印が付けてあって、道は細いが迷うところはない。傾斜の緩む所はすぐに終わり、また急登が始まる。

 

一息つきたくなる頃、大きな岩が何本か直立していて「鷹見岩」の標識があった。初めて後から登ってきた単独行の男性に出会う。かなり山慣れた感じで、あっという間に姿が見えなくなった。恵比寿岩の標識からは、さらに厳しい登りになる。長い鎖場やロープ、ハシゴも出てくる。木の根や幹も頼りにぐいぐいよじ登っていくと、ようやくクマザサが出てきて頂上部も近いかと楽しみになる。

 

左に尾根を捲いて少し下り、最後の急坂を上っていると子供の声が聞こえ、すぐに山上公園の一角、レストランの前に飛び出した。捕虫網を持った子供たちが元気に走り回っている夏休みらしい微笑ましい光景を眺めながら、汗まみれの顔を拭った。霧が流れると目の前の建物も見えなくなるが、ひんやりとした空気に山の気配が漂っている。


処暑の大和民俗公園(2011.08.23)

2011-08-23 10:28:51 | 矢田だより

 

今日は二十四節気の処暑。
『暑さが峠を越えて後退し始めるころ。暦便覧に「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」とある』 (Wikipedia)

朝夕は少し過ごしやすくなりました。いつもの公園歩きへ行く途で朝日が昇ります。

昨夜の雨に濡れたヒルガオの花

七二候では「綿柎開(めんぷ ひらく)」の季節で、木綿の花の萼(がく)が開き綿毛を生じる候だそうです。
公園の河内木綿は毎日新しい花が開いています。その中に真っ赤な花が咲いていました。

ケイトウ…ニワトリのトサカに見立てて鶏頭とは、本当によく名付けたものと思います。
「人の如く鶏頭立てり二三本」 前田普羅という人の句です。

サンゴジュの実も真っ赤になりました。
この木の名も、赤い果実が珊瑚のように見えることから付けられたものです。

 


第17回全国金魚すくい選手権大会(8月21日)

2011-08-21 12:30:17 | 矢田だより

断続的に雨が降るあいにくの天候の日曜日。大和郡山市の総合公園施設「金魚スクェア」で「全国金魚すくい大会」が開かれました。

夏の風物詩「金魚すくい」を競技規則によるスポーツとして始めてから今年で17回を数え、すっかり市の行事として定着しました。

ルールはかなり厳格で、金魚の大きさも4センチの和金と決まっています縦、横、深さの統一された水槽に、水深は10センチ。ポイ(和紙で作った掬い網)の丸い部分に手をかけるのは禁止です。そのポイも何年か前、こっそり自作のものを持ち込んだことが発覚し、以後は認定証入り。

個人戦(小中学生の部、一般の部)、団体戦に分かれ、「ポイ」で3分間に何匹すくえるかを競います。優勝の副賞はハワイ旅行です。今年も遠く北海道からの挑戦者も参加され、熱戦が繰り広げられました。

タージンさんの軽妙な司会で競技は進行していきます。
Y-Tube でご覧ください。(1分30秒ほどです)

さあ、今年の優勝者は何匹すくうのでしょうか?

会場近くの市民球場付近にも姉妹都市や同じ金魚の産地の店をはじめ、さまざまなお店で賑やかでした。
左奥に見えるのは山口県柳井市の巨大「金魚ねぶた」。全長5メートルあるそうです。 


わが家の花(2011.08.17)

2011-08-17 12:06:54 | 我が家の歳時記

花の少ないこの時期に、健気に咲いている白いムクゲ。
赤い花より一か月近くも遅く開くと、間もなく夏も終わります。

こちらはひっそりとリュウノヒゲ。冬にはきれいな青い実に変わります。

種がこぼれて自然に生えたユリの花

これも何処からか飛んできた種から咲いたペチュニア。

手入れの行き届かない我が家の庭では可哀相に枯れていく花も多いのです。そんな中、鳥や風が運んできた種から自然に育つ植物を見ると、生命のたくましさや不思議さを感じます。


エヴェレストの初登頂は?

2011-08-14 17:33:22 | 読書日記

エヴェレストの初登頂は1953年。初めて世界最高峰(4,884m)の頂きに立ったのは、エドマンド・ヒラリー(この功績でのちにサーの称号を与えられました)とシェルパのテンジン・ノルゲイの二人ということは、歴史上の定説になっています。

しかし、それより30年も前の1924年にふたりの英国人が頂上に到達していた「かも知れない」という、これも歴史上の事実があります。
二人が頂上近くまで登っていることは別の隊員に目撃されていますが、その後、高所キャンプC6に帰りつかずに姿を消しました。彼らの遭難は登頂前か、それとも下山中か?これは山岳史上の大きな謎になっています。



二人の名はジョージ・マロリーとアンドルー・カミン・アーヴィン。マロリーは1924年隊の登攀隊長であり、彼が選んだ若い隊員が弟子ともいえるアーヴィンでした。

「え?マロリー?そんな人の名前、知らん」…という人も「なぜ山に登るのか」という問いに「そこに山があるからだ」と答えた人といえば、「ああ、その人か」と思い出すかも知れません。
<マロリーはそんないい加減で投げやりな返答をする性格の人ではないと思います。その前の遠征後、アメリカでの講演会での記者とのやり取りの言葉の一端を、別の記者がそのように捉えたというのが真実のようです>



この1924年のエヴェレスト登頂にまつわる謎を小説にしたのが本書です(原著は2009年刊)。
著者のジェフリー・アーチャーは、彼自身の生涯が小説になりそうな波乱万丈な人生を送る人。イギリスで最年少の下院議員、それを辞めざる得なくした詐欺事件、娼婦とのスキャンダル…その一方、ミステリ作家としてはベストセラーの連発。変愚院も「大統領に知らせますか」「百万ドルを取り返せ」など何冊か読んでいます。

その彼が「エヴェレストに消えたマロリー」を小説にした本著は、文庫裏の惹句「山岳小説の白眉(上)」「冒険小説の頂点(下)」というには一寸…と思います。しかし構成の巧みさはさすがですし、愛妻家であった彼の側面もよく描かれています。理想とする男性像(もちろんジョン・ブル的な…)をマロリーの生涯を通じて表現する試みは見事に成功したと言えるでしょう。



「遥かなる…」を読んでいるうちに何か所か確かめたいことが出てきて、本棚に眠っていたこの本を再読しました。オビにあるように75年ぶりにマロリーの遺体を発見した、登山隊のレポートです。
これが下手な小説(「遥かなる…」のことではありません)よりもずっと面白い。

マロリーの謎に取りつかれたドイツ、アメリカ、イギリスの男たちがチームを編成して、エベレストへ向かい、マロリーが姿を消した地点(そして最後は頂上)まで登る様子を、随所で1924年マロリー隊の足取りと対比させながらレポートしていきます。

そしてついに75年ぶりに遺体発見。しかし登頂の決定的な証拠となるカメラが見つかりません。そこで「謎は残った」のですが、遺品から当時の状況を科学的に再現していく様子は、非常に興味深く読みました。

「二人が登頂したか」どうかよりも、二人が当時の貧弱な装備、食料、情報で世界最高峰に挑んだ、体力、精神力、登山技術…「仮に登頂していなくても彼らを畏敬する心がいささかも損なわれることはない」というのが読み終わった変愚院の感想でした。

*蛇足1 1953年のヒラリーらの登頂は南のネパール側から。1924年隊、と1999年遺体捜索隊は北面のチベット側からの登頂

*蛇足2 「遥かなる未踏峰」の原著名は「Path Of Glory」  栄光への途
     「そして謎は残った」の原名は「Ghosts Of Everest」エベレストの亡霊

*蛇足3「そして謎は残った」の日本版発行は1999年12月10日。変愚院夫婦がカラパタールからエベレストを仰いだ旅から帰って5日後のことでした。年末に購入して翌2000年初読み?の本でした。


夜の花・朝の花(2011.08.11~12)

2011-08-12 09:52:18 | 矢田之花暦(やたのはなごよみ)

今宵は一つの鉢に4輪の月下美人が開きました。

全員集合の写真を撮るのは難しく、一輪はソッポを向いていますが…。
蒸し暑いし、タイガースが連敗してムシャクシャする夜に、一服の清涼剤です。

花菖蒲園の周囲はサルスベリが満開。

河内木綿の花も咲いています。

朝から照り付ける強い日差しに、今日も暑くなりそうな予感がします。