ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(61)~(65)

2015-07-21 21:27:38 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

<宇陀高原エリア>

(61)大平山 
「山麓に日本茶発祥の寺」

<手前中央、背後は貝ヶ平山・額井山>

宇陀市榛原区高井にある山。山麓にある仏隆寺は榛原から続く伊勢街道に近く、嘉祥三年(850)、堅恵(けんね)の創建と伝えられる真言密教の古刹です。堅恵は空海の高弟で、師が唐から持ち帰った茶の種をこの寺内に播いたのが日本での茶栽培の始まりと伝えられ、堅恵が茶を挽いた石臼は寺宝となっています。また門前の望月桜(もちづきさくら)は県最古の巨樹といわれ、天然記念物に指定されています。

仏隆寺から車道を下り、井戸杉の手前で林道・室生ダム開路線に入ると、100m程で大平山への登山口があります。マツやヒノキの林を登り、苔蒸した石がごろごろする涸沢からヒノキ林の急登で稜線上の峠に出ます。痩せ尾根を過ぎ、ピークを一つ越すと胸を突く急坂で大平山頂(711.5m)です。

狭い山頂は木に囲まれていますが、南側だけがほんの少し開けて、田圃の中に民家の点在する赤埴方面、遠く雪を被った薊岳あたりの台高の山が見えました。 

急坂を下り、やや顕著な岩稜を少し登りかえして尾根上の倒木を避けながら山腹を捲いていくと高峰山(802m)。

山頂は深い樹林の中でまったく展望はありません。

急坂を下り、ヒノキ林の中の758.8m四等三角点を過ぎて「明治百年記念造林」の碑が立つ峠から南に下ると、役行者像が祀られた唐戸峠にでました。

(62)三郎ヶ岳
「三兄弟の末っ子の山」

陀市榛原区曽爾村にある倶留尊山を太郎山、曽爾村と宇陀市の境の住塚山を次郎山、この山を三郎ヶ岳(879m)と呼び、古くは佐武良ヶ岳とも記しました。

遠望すると頂上部はなだらかな円形で優美な姿です。北山麓を室生寺に通じる室生古道、南麓には伊勢参りで賑わった伊勢本街道が通っています。旧室生街道(室生古道)は室生寺への参詣道で、高井宿で伊勢街道と分かれ、仏隆寺、唐戸(からと)峠を経て室生寺に至ります。また、伊勢本街道は高井宿から諸木野(もろきの)関、石割峠を越えて伊勢へ続いています。難波と伊勢を結ぶ伊勢街道は、他に阿保越と呼ばれる北街道、高見越と呼ばれる南街道がありますが、本街道と呼ばれるこの道はその中間を通っています。 

  明開寺奥ノ院

三郎ヶ岳への最短コースは伊勢本街道石割峠からです。峠近くにある石割山明開寺は日蓮宗の小さな、山に抱かれたような寺で、本堂と住居の間を通り抜けるとすぐ山道になります。奥ノ院を経て急坂を登ると山頂に着きます。

北東に住塚・国見・倶留尊山

東に局ヶ岳、栗ノ木岳、三峰山

南東に迷岳、大きく高見山、右端に遠く白髪岳、南に大峰・台高の山々、西は金剛・葛城と素晴らしい展望が得られます。高井から仏隆寺、高城山を経て三郎ヶ岳へ登り、石割峠へ下るのが一般的なコースです。

(63)高城山(たかぎさん)
「神武天皇国見伝説」



三郎ヶ岳と稜線
伝いに西に隣りあう山で標高は810。赤埴山(あかはにやま)の別称をもち、神武天皇の国見伝説が残ります。

三郎ヶ岳からしばらくは急な下りで慎重に降ると、後は道もはっきりしていて、のんびりと稜線歩き。小さなピークを越してまた急降下、最後に急坂を登ると四阿のある高城山頂上に着きます。

少し先の三角点と祠のある所の方が見晴らしよく、展望図も備えられています。左手にはここから見ると鋭さにかける高見山、そして特長ある袴ヶ岳の上に伊勢辻山。

ずっと右手に大平山、その上に鳥見山、貝ヶ平山、額井岳が並んでいます。

下山はちょっとした露岩にも真新しい鎖が取り付けられていて、安全に林道まで下ることが出来ます。山頂から仏隆寺まで約40分でした。

宇陀市のHPによると、仏隆寺は「室生寺の南門、すなわち正面の門として極寺と末寺の関係にあり、室生寺の宿坊または住職の隠居寺として重要な役目があった。』お寺だそうです。

(64)袴ヶ岳(はかまがたけ)
「美しい円錐形の山」

伊勢本街道を挟んで北の三郎ヶ岳、高城山と向かい合う四等三角点816.7mの低山ながら、高城山から見ると美しい円錐形で登行欲をそそられます。

2008年冬、この山に登りました。高井で仏隆寺への道を分け、赤埴(あかばね)から細い道を諸木野川沿いに遡ります。埴(はに)は土器や瓦に使われる粘土のことですので、おそらく水銀を含んだ赤い色をした土が採れた土地と思われます。

諸木野の集落を抜け、峠に向かってしばらく走った地点に駐車。急な道を30分ほどで内牧から登ってきた林道と出会い、ジメジメ山道を峠らしいところに登り着きました。

テープに導かれて尾根道をいくと、780mピークからはしっかりした山道になり、鞍部から登り返して露岩を越えると、狭い頂上でした。

展望は松と灌木に遮られる真北を除いてほぼ360度で、更に遠く伊勢の山が霞んでいました。下りは780mピークから左の石割峠に続く尾根から谷に出て、しばらくで伊勢本街道に出ました。

(65)室生山(むろうさん)
「女人高野山」
かなり前(78年5月)になりますが、仏隆寺から室生寺まで室生古道を歩いたことがあります。カラト池の峠に来ると、室生川を隔てて緑の室生山が姿を現しました。それまで退屈な広い道を歩いてきただけに、この眺めは強く印象に残っています。この峠はカラミタ峠と呼ばれ、空海が室生山を開くとき、この峠からの景色を「唐(カラ)を見たようだ」と絶賛した所といいます。またカラト池は室生火山帯の古い火口の跡にできたと聞いたことがあります。

室生山は東西二峰あって、東の焼山(652m)の方が標高が高いのですが、普通は室生寺奥の院のある如意輪山を指していいます。

境内から奥の院への参道途中、無明橋のかかる谷間周辺にはシダの大群落があり、「室生山暖地性シダ群落」として天然記念物に指定されています。

400段の長い石段を登ると奥の院です。ここから如意輪山頂(621m)へは、はっきりした道はなく、薄い踏み跡を探して登りますが、山頂は深い樹林の中で、無展望です。

室生寺は、寺伝によると役行者の開山、空海の再興とされ、「女人高野」として名高い真言宗の古刹です。国宝五重塔をはじめ、本堂、金堂(いずれも国宝)はじめ重要な建築物が多く、境内にシャクナゲが多い花の寺でもあります。

北西の室生ダムに続く竜鎮渓谷の竜鎮神社や、南東1キロに室生竜穴神社など、周辺には室生開山に竜神が関係することを示す旧跡が残っています。


奈良の山あれこれ(56)~(60)

2015-07-20 21:52:20 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(56)額井岳(ぬかいたけ)<2>

「万葉歌人伝説の山」

南山麓を東海自然歩道が通っています。

「山辺三」は、『田子の浦ゆうちいでてみれば真白にぞ 富士の高根に…』の万葉歌で有名な山辺赤人の出身地と言われ、彼の墓と言われるものが残っています。

「額井」の名については、『大和志』宇陀郡の「村里」の項に記載されていますが、「山川」の項に「額井岳」には見当りません。一方、香酔峠を挟んだ西の香酔山(こうずいやま)(800m)については「香水山。赤瀬村の西北に在り、城上山辺の二郡に跨る。山巓に竜王祠有り。旱(ひでり)の年に雨を祷(いの)る」とあります。香酔峠の近くにはスズラン自生の南限地、吐山(はやま)があり、山と峠の名はこの花の芳香からきています。

額井山麓の十八(いそは)神社は神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと・神武天皇)を祭神とし、今は廃寺となった極楽寺の鎮護社を地元の産土神として祀った神社で、春日作りの神殿が建つ境内からは室生の山並みが一望できます。

(57)戒場山(かいばやま)

山麓に「お葉付きイチョウ」の戒長寺

額井岳の北東の峰続きにある山です。山名の由来は、読みから「家畜の飼料を取った所、飼い場」とか、字義から「仏教の戒律を守るところ」とか言われています。

南山麓には戒長寺があります。寺伝では用明天皇の勅願による聖徳太子の建立で、空海も修行した寺といいます。質素な佇まいですが、境内のお葉付きイチョウと十二神将を鋳出した重要文化財の梵鐘で有名です。

イチョウは目通り4m、高さ30mの大木で樹齢500年。ごくまれに葉に実が付くという珍しいもので、県指定文化財に指定されています。2008年に行った時、境内は、ぎっしりとイチョウの葉で埋め尽くされて黄金色の絨毯を敷いたようでした。

その中から妻が何個か見つけましたが、和尚さんは「寺でも焼酎に漬けておいて参拝者に見せている」ほどで、数が少ないとおっしゃいました。普通のギンナンは正月の参拝者に配るそうです。

この戒長寺境内を通り抜けた右手から山道になり、クマザサの中を登ると稜線の小さいコルに出て、左に行くと寺から40分程で山頂に着きます。樹木に囲まれた平坦地で展望はありません。別に、山部赤人墓から北へ登ると、奈良市都祁小川口に通じる戒場峠があります。ここから左(西)に行けば額井岳、右すれば戒場山で、峠から約30分で山頂です。私たちはいつも秋の紅葉の時期に、隣りの額井岳から稜線を辿っています。

(58)城山 

櫻井市と宇陀市榛原区の境にあって長谷寺から正面に大きく見える山ですが、2万5千図には山名も山頂への道も記されていません。城山という名の山は、名阪国道近く(別名・椿尾塁)、大和高原の馬場、白石、吐山、室生の竜口などにもあります。

 いずれも山城が築かれていたことから付いた山名です。この榛原の城山は戦国時代に宇陀三将の一人、秋山氏の出城があったところと考えられています。岳山という別名もあります。

新陽明門院笠間山陵右手の道を北へ登ると、15分ほどで鉄塔の下に出て、しっかりした踏み跡が左から延びてきていました。さらに20分登るとNHK宇陀中継所のTV塔のある平坦地。東西に延びる稜線上のT字路で、ここが宇陀松山の出城のあった場所と思われます。

西へ100m程、深いクマザサを漕いでいくと、草の茂みの中に山名板と三角点(525.5m)がありました(笠間山稜から45分)。

59)伊奈佐山(いなさやま)

宇陀市榛原(はいばら)区一帯はもとの伊那佐郷でした。その南の郊外にある山で『大和志』には「一名山路山、山路村の上方にあり」と記されています。

記紀にも登場する古くから知られた山で、『日本書紀』神武天皇即位前紀に、吉野から宇陀に入ろうとした神武軍が連戦に疲れたとき、天皇が墨坂で「御謡(みうた)を為(つく)りて将卒(いくさびと)の心を慰(やす)めたまふ」として「楯並(な)めて伊那瑳(いなさ)の山の 木の間(このま)ゆも い行き瞻(まも)らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒(とも) 今助(す)けに来(こ)ね」の歌を詠まれたと記しています。伊那佐文化センターの前にこの歌碑があります。

伊那佐文化センターから山頂までは十八丁を示す江戸期の石標に導かれて、スギやヒノキの植林の中を登ります。古来、日照りが続くと「だけのぼり」と称して、降雨祈願に登った道でした。

山頂には式内社の都賀那岐(つがなぎ)神社が建ち、三角点は社殿裏にあります。

伊那佐山から南西の稜線上、標高約525mピーク(城山)に沢城址があります。14世紀後半に宇陀地方の將、沢氏により築城され、後のキリシタン大名高山右近が幼時を過ごしたところです。

(60)日張山(ひばりやま)

「中将姫所縁の山」

奈良県宇陀郡菟田野町にある標高595.1mの低山ですが、この地方では中将姫伝説でよく知られています。

『大和名所図会』に「日張山また鶬山と書す。宇賀志村にあり。山中に青蓮尼寺あり。鶬雲庵は中将姫法如尼の閉籠の地なり」とあります。継母によりこの山に捨てられた中将姫は、嘉藤太に助けられてこの寺で念仏三昧の生活を送っていました。たまたま狩りに来た父・藤原豊成に対面し奈良に帰った後、再び出家して当麻寺に入り、蓮葉の糸で当麻曼陀羅を編み上げます。のちに19歳でまたこの地に帰り、青蓮尼寺に自分と恩人・嘉藤太の像を刻んで安置したといいます。

現存の青蓮寺の開創などは詳しくは分からず、「ひばり山」は「火祝り山」が語源とする説もあります。2008年5月、宇陀市菟田野宇賀志から宇賀志川に沿って上流に向かいました。

源流の無常橋を渡り、つづら折りの道を登ると、中将姫の歌碑を過ぎて青蓮寺に着きます。

宇賀志から約4km、1時間でした。

墓地の横から山道に入ると20分で頂上三角点ですが、樹木に囲まれて展望は得られませんでした。


蛙飛び

2015-07-12 06:00:24 | 奈良散歩

蛙飛び  

7月7日、吉野山金峯山寺蔵王堂で行われた蛙飛び

白河天皇の時代、不心得な男が山伏を侮辱したので鷲の窟にさらされ、その後、男は後悔したので、金峯山 寺の高僧が男を蛙の姿にして救い出し、蔵王権現の宝前でその法力によって人間に立ち返らせたという伝説」(吉野町HP)を再現した行事です。


ホームページ更新しました(2015.07.06)

2015-07-06 17:00:51 | 旅日記

「ペンギン夫婦お山歩日記」ペンギン22海外の旅、今春の「ヨーロッパ三ヶ国の旅」の続きです。

3月26日、ジュネーヴからパリへ新幹線で移動。ヴェルサイユ宮殿を見学したあと、夕暮れのセーヌ川クルーズを楽しみました。

27日はモン・サンミッセルへ日帰りバスツァー。最終日の28日はルーブル美術館を見学しました。下のリンクをクリックしてご覧ください。

http://mountainpenguin.web.fc2.com/Europe3/France1/France1.html


ホームページ更新しました(2015.07.05)

2015-07-05 13:02:00 | 旅日記

久しぶりにホームページ「ペンギン夫婦お山歩日記」を更新しました。

3月下旬に、CT社のツァーで回ったヨーロッパ三ヶ国(ドイツ、スイス、フランス)9日間の旅
http://mountainpenguin.web.fc2.com/Europe3/Germany/germany.html 
のまとめです。

まずは、私たちにとっては初めてのドイツ…ニーダーヴァルトの丘、ローデンブルグ、ハイデルベルグ

ヴィースの巡礼常会、ノイバインシュタイン城などと、スイスのユングフラウヨッホの旅をご覧ください。


春日大社新発見と若宮十五社巡拝(5)

2015-07-01 11:30:33 | 奈良散歩

若宮十五社巡拝を終えましたが、この日(6月27日)の「新発見」は、まだ終わりではありませんでした。



ご本殿の方へ帰ると、本殿北西側に桂昌殿があります。寄進者の徳川綱吉の母・桂昌院の名で呼ばれますが、天下国家の安泰を祈る祈祷殿です。



その前にあるこの建物は春日大社関係者の祖先の霊を祭る、いわば葬祭場です。同じような仏教系の建物が出雲大社にもあったことを思い出しました。



その左手に「天の原ふりさけ見れば春日なる…」の阿倍仲麻呂望郷の石碑が立っています。遣唐留学生として吉備真備とともに唐に渡る前に壮行の儀式が行われた場所でした。



北の若草山の方に広い道を行くと、私たちに欠かせない衣食住のうち「住い」を司る総宮神社。
平安時代の創建で明治維新までは興福寺境内にありました。



続いて、これも興福寺から移された一言主神社。ここへは何度かお参りしたことがあります。
今日も願いを一つ叶えて頂こうと、たくさんの絵馬が置かれていました。小さな鳥居は願いが叶った人がお礼に収めたものです。

燈籠の並ぶ道の両側に、たくさんの鹿たちが群れていました。今年生まれたばかりと思われる小鹿が母鹿にお乳をねだる微笑ましい光景を見ながら、



水谷(みずや)神社に来ました。水谷川に沿うこの摂社は平安から明治までの神仏習合時代は祇園精舎の守り神、医薬の神様でした。現在はスサノオノミコト他ニ神をお祭りしています。



このお社の床下に、先程ご本殿で拝観した磐座と同じ様な磐座が置かれています。ご本殿は撮影禁止でしたのでこちらでご想像ください。

赤い橋を渡り、広い交差点に出ました。真っ直ぐ行くと手向山八幡宮から二月堂への道ですが、右に折れて若草山と御蓋山の間になる道を歩きます。春日遊歩道の標識を見て、緩い登りながら汗ばんで来る頃、右手の沢に降りて「仏塔石」に出会いました。



増田さんのお話では仏塔石は室町中期のもので、六角柱のそれぞれに観音様と狛犬が刻まれています。手前にある平べったい石は「洞の地蔵」で、よく見ると地蔵さんが線刻されています。残念ながら谷間のことで薄暗く、いい写真が撮れませんでした。

さらに上へ歩くと御手洗川の源流に近くなります。緑に苔蒸した岩は「日月磐」で日輪と月が刻まれています。

対岸の少し上には苔むした石燈籠と、池の跡とも思われる窪地がありました。

今日のイベントのフィーナーレを飾る静かな春日奥山に夕暮れが迫ります。
急いで元の道を下り、山あいを抜けると下界はまだ明るく、そぞろ歩きの観光客が行き交っていました。
今日一日、春日神社やその周辺について、数多くの新しいことを教わりました。これからの春日神社参拝や周辺の散策が、より一層充実したものになることに違いありません。
準備の段階から、当日のご案内、解説まで心を砕いてお世話下さった熊木さん・増田さん・金田さんに深くお礼申し上げます。
ありがとうございました。


春日大社新発見と若宮十五社巡拝(4)

2015-07-01 10:14:08 | 奈良散歩

春日大社南門を出たところに、回りを低い柵で囲まれた石があります。殆どの人は気付かずに通り過ぎるようですが、宝亀三年の雷火で焼け落ちた南門の額を埋納した後に石を置いたところから「額塚」と呼ばれる、由緒のあるところです。

他にも、神様の依代として祀られた磐座、あるいは赤童子(若宮御祭神)の出現石などの説があります。

南門から若宮神社の間の道は「御間道(おあいみち)」と呼ばれて、古来、数え切れぬほどの神官が往来した道です。道には御間型燈籠が並んでいます。本宮神社遥拝所で浮雲峰山頂の本社を拝みます。

夫婦大黒社は我が国唯一の夫婦の大黒様を祀る神社で、平安時代に出雲大社の神霊をお迎えして夫婦二体の大黒様をお祀りしたことに始まります。
夫婦和合や良縁を願うハート形の願い札がずらりと並んでいますが、近頃目立つのが英語、中国語、ハングル文字…。    

受付で玉串札の入った布袋を授かり、十五社巡りに出発します。(写真は上下とも若宮神社)

春日大社には摂社・末社が61社ありますが、そのうち若宮神社周辺15社を巡拝して様々な願い事をします。
第一番収札所は若宮神社。

若宮本殿横のナギの木に巻き付いている「八房藤」。記録から樹齢は500年を越えていると推定されるそうです。

写真の2~3番、そして4番の3社は少し引き返したところにあります。

5番から南東の11番紀伊神社に続く緩い坂道は奥ノ院道と呼ばれます。

この辺りの山(東)側一帯はナギの原生林で、国の天然記念物に指定されています。

9番納札所・春日明神遥拝所は社殿はなく磐座が鎮っています。



最奥の紀伊神社から御間道を引き返す形で、

伊勢神宮と元春日枚岡神社遥拝所を拝み



14番の金龍神社へ参拝。

最後は夫婦大黒社の拝所へ上がって大黒様に十五社満願の報告をしてお札を収め、袋をお返しして御徴(記念品)を授かりました。
これで若宮十五社巡拝は終わりましたが、今日の「新発見」の行動はまだ続きます。