今年の「大和路の花」の想い出をまとめました。
今年も古都奈良の夜を彩る様々なイベントに出かけました。その思い出を綴ります。
13年前の今日(2001年7月29日 )、中国四川省にある太姑娘山(タークウニャンシャン 5025m)に二人で登りました。四姉妹になぞらえられる四峰のうち、末娘は6250mで最も背が高く手が出せませんが、長姉のタークウニャンシャンは技術的な難しさのない5025mで、しかも途中の道はブルーポピーやエーデルワイスを始め、色とりどりの花の乱れ咲く雲上の楽園とききました。
言語上の制約もあって二人だけでは無理なので、AT社のグループツァーに参加して、この魅力的な山域に向かいました。22日に関空を発ち香港経由で成都へ。ツァーリーダーを含めて20人のパーティのうち14人が女性で、この時66歳の変愚院が最年長でした。
23日は臥龍へ向けて出発しましたが、トンネル事故があって引き返し、改めて路線バスをチャーターするなど前途に不安を抱かせるアプローチでした。
24日は、あこがれのブルーポピーなどの美しい花々を見ながら巴郎山峠を越え、日隆へ。25日、高度順応日で往復6時間のラマ教寺院を訪ねました。
26日、日隆を発ちBCへ。なだらかな尾根の向こうに四姑娘山が覗いています。
やがて色とりどりの花が咲き乱れる草原状の尾根道になりました。エーデルワイスは足の踏み場もないほどで、まさに天界の花園です。
昼食も花園に点在する石の上に座って食べました。足元の花を踏まないようにするのが大変でした。
ヒイラギに似たチンカンスウの林を抜けると、目の下に草原に流れる川と何張ものテントが見えました。高度3,600m、老牛園子(ラオニューエンツー)というカルカ(夏季だけの放牧地)にあるベースキャンプです。歓迎の夕食は松茸御飯でした。
27日は2度目の高度順応日で、雨の中を高山の湖・海花海子を訪ねました。
28日、雨の中を登り、4300mにある前進キャンプに入りました。テントの周りの岩礫地に、青いケシや珍しい苔の花などが咲いていました。
7月29日(日)「何とか止んでくれ」の願いもむなしく、待望の登頂日は無情の雨に明けました。6時、標高差700mあまりの頂を目指して登高を始めます。ガレ場の急登からスレート状の岩が積み重なったような不安定な所になり、雨で緩んだ足場に、落石をしないように注意して高度を上げます。
5000m近くなると、高度の影響が現れてきました。いつの間にか、パーティは3つほどのグループに分かれていて、私たちは先頭集団でTLから4,5番目にぴったりついて、ゆっくり高度を上げます。
目の前の岩の勾配がなくなり、やや広い台地にでるとそこが頂上で、思ったよりも楽に登ることができました。
下山は一気にBCまで下ります。夕食はビールや紹興酒も出て豪華な宴になりました。その後は中国側の若い男女スタッフも加わって、日中歌合戦に踊合戦。楽しいよテント生活最後の夜を過ごしました。
30日はパンダの故郷・臥龍(ウォロン)に下りました。「大熊猫保護研究中心(センター)」で「いつまで見ていても飽きない」と言っていた♀ペンは、100元(\1500)でパンダを抱かせて貰って大喜びでした。31日、成都に滞在し8月1日、関空に帰りました。本当に楽しい山旅でした。
6年前の今日(2008.07.26 )、当時在籍していた日本山岳会関西支部の海外トレッキング山行で、カムチャッカに29ある活火山の一つ、アバチャ山(2741m)に登頂しました。
夏だけチャーター便が飛ぶことになり、これを利用しました。24日、搭乗したツボレフ機はどうもかなり使い古された感じでした。しかし関空から僅か4時間のフライトでペトロハバロフスク・カムチャッキー空港に着き、パラトゥンカ温泉郷で一泊しました。
25日、カマスという軍用トラックを改造した6輪車で標高800mのベースキャンプへ。緯度が高いので、BC周辺でも美しい高山植物がいっぱい咲いていました。
またBCには地リスくんも遊びに来ました。
遅めの昼食後、通称ラクダ山という双耳峰へ足慣らしのトレッキング。雪渓を登ったコルから槍の穂先へ登るような感覚の岩場へ…
もう一つのピークを越した別のコルからは、先程通った二つの岩峰の上に明日辿る長い稜線が見えました。
登頂当日は頂上までの標高差1900mを一日で往復しなければならず、加齢(当時73歳)もあって苦しい登山になりました。ザックに雨具、防寒具、配給されたビニール袋の食料(チーズとサラミのサンドイッチ各1、ナッツ小袋、アンズ小袋、チョコレート2、リンゴ、キャンディー数個、サクランボのジュースパック2)と水1.5Lを入れて、午前8時BC発。
あいにくの曇り空で辺りは霧に覆われていましたが、雲の上に出ると火山礫の荒涼とした風景が拡がり、昨日のラクダ山を目の下にするようになりました。
推定2000m地点で昼食後、下山道を支尾根を過ぎると「悪魔の指」と呼ばれる奇怪な岩峰の下をトラバース。ここからが標高差500mの正念場で、まずは崩れやすい砂礫帯のジグザグの登り。ロシア人の下山者が頻繁に落石を起こし「バニ(石)」と叫びます。
直登道に変わり、最後の100mは細いロープに縋って登りました。
登り着いた山頂は火口壁の一角で、富士山で言えば各登山口の頂上で浅間神社のあるところです。赤茶けた地面に腰を下ろすと暖かく、火口壁から噴煙が流れてくると硫黄の匂いが鼻を突きます。富士山でいえば剣ヶ峰の最高峰へお鉢巡りをしたあと、下山しました。
下山後は登頂お祝いパーティです。同じ会員で今回のツァーリーダーのSさんが心を込めて準備してくれました。ビールとウォッカで乾杯。最後は、イクラとタラバガニとサーモンに刻み海苔とワサビ、醤油を添えた豪華な海鮮丼で満腹すると、ようやく登頂できた喜びがジワジワと沸いてきました。
翌日はフラワートレッキング。気心の知れた仲間たちと残雪の山に登り、たくさんの花たちにも出会えて忘れられぬ5日間の山行でした。このときお世話になったSさんも、今は若くして鬼籍の人となりました。いろいろとありがとうございました。合掌。
もう16年前になりますが、1998年7月10日から2週間、友人5人とホームステイをしながらカナディアン・ロッキーのトレッキングと周辺の旅をしていました。
7月13日はトレッキングはお休みで、まず有名な観光地・コロンビア大平原へ。325平方キロもある大氷原からいくつも流れ出す氷河の一つ、青白く輝くアサバスカ氷河を雪上車で登り、
氷河の上に降り立ちました。さすが観光名所だけに、いろんな国の人のカラフルな防寒着が白い氷河の上に散らばっています。
氷河の舌端まで登って見ました。
スプルースの森に囲まれた静かなキャンプ場でランチの後、アサバスカ滝を見に行きます。豪快に水飛沫を上げる滝の下流へ歩き、アサバスカ川の急流下りに挑戦。
年寄りだから漕がなくてもいいフローティングかと思っていたら、アレンジされていたのはグレードⅡのホワイト・ラフティングでした。ウェットスーツの上に救命具を付けて川辺で練習した後、いよいよ6人でゴムボートに乗り込みます。私とTさんは一番前で、すぐに泡立つ激流が迫ります。ガイドが船尾で何とかしてくれるとは思うものの、全員必死でパドルをふるいました。
大きな波に突っ込んで頭から水を被り、たらふく飲みました。流れが静かになるとゆっくり漕いだり、自然に流されたり、 周りの美しい景色を眺める余裕も出てきます。エディス・キヤベルの峰が見事と見とれていると、また瀬がせまり懸命に漕ぐ。こんな繰り返しで、練習込みの2時間があっという間に過ぎました。<線画は「写真加工.com」で作成しました>
北東北の旅のお土産の一部。「もちもち三角」は初めて食べたバター餅です。
我が家の郷土玩具に「なまはげ」を加えました。赤と黒の面が表裏になっていて「この生はげを持っていると 貴方と貴方が思っている人に よりよい幸福と健康を もたらすことでしょう」と書いてあります。
1989年12月の富士山麓一周ドライブは実は二度目でした。最初は1986年夏、義父と3人で初めて富士山に登った帰りです。お鉢巡りを終えて11時に新五合目に下山後、まず白糸の滝で遊び、ついでに時計回りで山麓を一周しました。この日は清水で泊まり翌日は清水次郎長生家や菩提寺、三保松原、日本平、最後に登呂遺跡まで回って帰りました。75歳だった義父のタフさには今の私は到底敵いませんが、残念ながら富士は最後まで姿を見せてくれませんでした。
閑話休題「富士を見る旅」を続けます。1990年3月、西伊豆へ一泊旅行のとき、田子の浦からフェリーに乗りましたが富士は頭しか見えませんでした。土肥から南下して恋人岬を経て堂ヶ島で島めぐりの船に乗り、松崎で泊まりました。翌日は鏝絵で名高い長八美術館や岩科学校など見学して帰途につきました。三津浜まで来てようやく、ボンヤリと頭の部分を見せた富士です。
海の次は湖からの富士。翌年暮れも富士を見る旅で箱根から伊豆へ出かけました。写真はかなり裾まで白い衣をまとった芦ノ湖からの富士です。
1994年12月10日は30回目の結婚記念日でした。恒例になった「富士を見る旅」はスカイラインを走って忍野へ。御殿場登山口を過ぎた頃から雲が切れ、青空を背にした富士がくっきりと姿を現しました。
忍野で、太陽が富士の肩に隠れるまで飽きずに富士を眺めました。山中湖で泊まり、翌日は石割山に登りましたが小雨の中で、富士は顔を見せませんでした。
95年12月は青笹山に登る前日に三保ノ松原や
日本平で遊び、堪能するほど富士を眺めました。
他にも富士の写真がありますが、最後に一番新しい昨2012年の「富士を見る旅」をご覧ください。4月上旬、里帰り中の娘、孫と4人でCT社のバスツァーで駿河路へ向かいました。前日(3日)は春の嵐が日本列島を走り抜けて各地に被害をもたらし、この日も曇り空の空模様。蒲郡で休憩した時は雨でした。しかし、バスが静岡に近づく頃には車窓前方に雪を被った富士が青空をバックに姿を見せ、清水ICを出る頃には快晴になりました。清水港で遊覧船に乗りました。
操縦士さんによると、昨日の雨は富士山では雪。「ちょっと厚化粧ですが、この時期には珍しくくっきり姿を見せています」という話でした。僅か40分ほどの港内クルージングでしたが素晴らしい景色でした。
大展望に満足して再びバスの車窓から富士を見ながら箱根へ…。御殿場IC近くからの富士です。宝永山がはっきりと見えます。
ロープウェイで大湧谷に登り最高所から帰る途中で、絶好の富士ビューポイントがありました。頭に雲の帽子を載せた夕暮れの富士がにこやかに私たちを見送ってくれました。
*長い間の富士山の想い出を振り返って、改めて山から見ても麓から見ても、遠くから見ても近くから見ても、やはり「富士は日本一の山」であると思いました。世界遺産に登録されても、この神聖で美しい山がいつまでも人間の手で汚されることのないように祈りつつ、この項を終わります。*
ともかく♀ペンは富士山が大好きです。一時期、富士山を見るために展望の良い冬に富士山周辺の山歩きをしていたことがあります。しかし、五百円札の図案で有名な鴈ヶ腹擦山では雲の中、有名な展望地三ツ峠は凄い降雪で登頂できず小屋から下山しました。
そんな中で、この浜石岳(707m)は予想外に歩かずに富士の展望が楽しめた山です。歩いて3時間のハイキングコースもあるのですが、夕方の遅い時間だったので車で登りました。東名高速を由比で降り、阿僧というところで教わったミカン畑の中の道をくねくね登ります。『林道の終点には電波中継所があり、小広場になっていて正面に大きく富士が立ちはだかっている。すぐ南に浜石山頂が見え「頂上まで100m」の標識がある。カメラだけ持って広々と明るい山頂に登る。ジャスト16時。』1997年1月23日、この夜は静岡に泊り、翌日は「クマ出没注意」の看板のある道を竜爪山(薬師岳1,051m、文殊山1,041m)に登りましたが、富士はベールを被ったように霞んでいました。
東名を走っていて静岡が近づくと富士の表情が気になります。ここは富士のビューポイントとしても有名な由比PA。これもある年の12月10日に写したものです。
富士山へ登るときは最後のトイレ休憩になる富士川SAからの富士。これは1991年11月「富士を見る旅」の途中、少し若い頃ですが私の誕生日の22日でした。
由比PAの写真の時は山に登らず「富士を見る」ことが目的のドライブ旅行でした。沼津から1号線を箱根へ。松並木を走り抜け箱根峠から芦ノ湖スカイラインへ入りました。これは箱根・十国峠付近からの富士です。この日は御殿場のホテルで一泊。
快晴で明けた朝、ホテルの部屋から見える筈の富士が見えません。驚いて見直すと、すぐ間近に首が痛くなるような高さに聳えているのでした。富士山一周ドライブに出発。雪の残る籠坂峠を越えて山中湖へ。山中湖ママの森から見た絵葉書のような風景です。
忍野を散策して富士の湧き水を飲みました。何度か訪れましたが、やはりここから見る冬の富士は絵になります。吉田の浅間神社に参拝して、河口湖へ。
河口湖ではロープウェイで天上山に登りました。山上は公園になっていて目の前に大きく富士が見えました。
鳴沢風穴に潜り、樹海の中を走り抜けて朝霧高原へ来るとまた富士が全容を見せてくれました。
【蛇谷ヶ峰】比良山系北部・滋賀県高島郡高島町と朽木村の境にあり、標高902m。山頂東側から高島郡富坂に落ちる谷が蛇谷で、西の朽木側からは、足利時代に造園された周林(秀隣)院庭園の借景として小椋栖山と呼ばれた。
【登 山日】2001年5 月20日
【コースタイム】入部谷越下駐車場所9:35…朽木スキー場入口9:45…817m地点10:50…蛇谷ヶ峰(901.7m)11:00~11:20…817m地点(昼食)11:25~12:05…スキー場リフト終点12:30…駐車場所13:00
「京は遠うても十八里」といわれた鯖街道、国道367号線を北へ走り、市場から右入部谷沿いに県道を登る。朽木スキー場からが山頂への最短コースで、かって比良の秘境といわれた山も便利になったものだ。スキー場への入口・入部谷越えの右手になだらかな斜面が拡がっている。売店や管理棟のあるところからリフトの右側を登っていく。ススキ、ヨモギ、ネコハギなどが繁る「さわらび草原」に「標高485m・ 蛇谷ヶ峰へ2.2㎞」の標識があり、遊歩道が雑木林の中に伸びている。
道はジグザグの繰り返しで、次第に山道らしく急な登りになる。気温が高いが、木陰が続くのでありがたい。スキー場から1時間ほどで、左手に琵琶湖、リトル比良を見下ろす稜線に出る。ここからは傾斜の緩やかな道だが、木が疎らになり丈の低いクマザサの中を行く。まともに陽光を浴びるが、空気が乾燥しているのでそれほど暑さを感じない。地図の817m地点でスキー場へ下る別の道を分けて、500mも行くと「いきものふれあいの里」への分岐がある。クマザサに囲まれた小広場で、正面に山頂部が見える。
最後は急な200mの登り。案外簡単に登りついた頂上には、数人の人が休んでいた。真ん中に三角点のある広場で、やや霞んでいるものの素晴らしい展望だ。
北にマキノ方面、東に琵琶湖、リトル比良(↑)。
南は釈迦ヶ岳、無線中継塔の立つカラ岳、コヤマノ岳、ひときわ高く武奈ヶ岳…。全く木陰がないので、記念写真だけ撮って昼食場所を下山途中に求める。
日陰を探しながらスキー場の分岐まで下り、登ってきた道と分かれて雑木林に入る。広い場所がないので、クヌギやブナの木が疎らに立つ斜面に散らばって弁当を拡げる。急坂の道は、登りに使った道と比べるとあまり歩かれていないようで、落ち葉が堆く積もっていた。木の高いところに布が結わえ付けてあるのでスキーの道らしい。ところどころイワカガミの群落があり、つややかな葉が名前通り鏡のように光っていた。何度もジグザグを繰り返して、スキー場の上部、朝とは別のリフト終点に飛び出す。リフト横のカンカン照りの斜面を、うんざりしながら歩く。所々に松の木があり、その下だけが涼しい陰を作っている。ここもベニウツギの花が鮮やかである。
変化に乏しい山と感じたのは、最短コースを選んだので行動時間も短く、簡単に登れてしまったからかも知れない。まだ午後も早いので、朽木の古刹・興聖寺を訪れ、本堂で釈迦如来を拝んだ後、旧秀隣院庭園を拝観する。12代足利将軍義春が三好長基反乱の京から難を避けたとき、管領・細川高国が将軍を慰めるための築庭といわれている。正面に蛇谷ヶ峰を仰ぎ、谷水を引いた池を持つ石庭は思ったより小規模だった。美しい緑の中を走り、坊村の近くで鯖寿司と浜焼きを買って帰った。