ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

高円山(滝坂道~大文字火床~三角点~火床~谷道~樋之口池)

2015-11-30 11:58:03 | 奈良散歩

【登山日】2015.11.03
【メンバー】芳村嘉一郎、和子
【コースタイム】滝坂道入口11:05‥演習林入口11:15‥大文字火床第二画下部11:55‥火床最上部12:00~12:15…三角点12:15…最初の分岐12:40…樋之口谷池横登山口13:03‥歴史の道標識13:13



滝坂道から演習林に入る地点に目印の赤紐をつけ、



火床へ向けて直登。快晴で気温が高く、半袖シャツ一枚で登る。
<この写真は、2008年の同じ時期に
撮影した登山道の様子です。ご参考に入れました。>



御蓋山展望地点から見ると、紅葉はまだ始まったばかりだった。



右へ初めての分岐があり、いったん緩やかになった道は再び急坂で第二の分岐へ。暗い林の中をジグザグに登ると三つめの分岐があり、頭上の青空に向けて笹原の急坂をこなすと、大文字火床の第二画下部に着く。今日も素晴らしい展望だった。日隠を求めて最高点へ登り、芝生に腰を下して水分とエネルギー補給。山慣れた格好の人がスタスタ下って行った。



15分ほど休憩して三角点に登り、



すぐ引き返してそのまま下山。最初の急坂を降りた分岐で左へ、初めての道に入る。



大きな樹の幹にビニールが巻かれているのは、シカなどの食害を防ぐためだろうか。所々、木に巻かれた赤ビニールや小さな「火床へ」の矢印型標識がある。



落葉で滑りやすい道を15分ほど下ると、やや平坦な処に出た。支那油桐の木が何本も立っている。まだ青い実や、すでに黒くなった実が無数に落ちて、新しい若い木が育ちつつあるのを見ながら行く。小川の流れに沿うようになり、青い屋根が見えると思うと小さな池の水面に青空が写っているのだった。もう一つ大きな池を右に見る頃から、獣除けの金網が続き、やがて広い道に出会う。



金網に樋之口谷池と小さな大文字登山口の標識が付けてあった。舗装路を右に行くと白毫寺の上に出るが、道を横切ってさらに両側に金網の続く道を行く。



左手は墓地が続き、やがて石燈籠が立ち「歴史の道」の標識のある広い道に出た。あとは町歩きで高円高校前、女子大付属中前、紀寺町、奈良町を経て近鉄奈良駅へ歩いた。


高円山(白毫寺~樋之口池~尾根道を火床へ往復)

2015-11-30 11:02:28 | 奈良散歩

【登山日】2015.11.28
【メンバー】芳村嘉一郎、和子
【コースタイム】白毫寺11:00…樋之口池登山口11:15‥火床第三画下部11:50~12:25‥樋之口池登山口13:00

『白毫寺横手の道をしばらく登ると広い道に出合い大きな霊園がある。正面の幅広い階段を登る。偵察のつもりでどんどん登っていくと、墓地が山に接して終わり、右手の斜面に踏み跡があった。雑木林の中、落葉を踏んで登ると尾根にでて、赤ビニール標識があったので、登ってくるよう後に声をかける。尾根の上で全員が揃ったので前進する。真っ赤なヤマナシの実がたくさん落ちている。ところどころ倒木はあるが、それほど歩き難くはない。やがて笹原になり、右からややはっきりした道が合して大文字火床の下に出た。草地の中にコンクリートブロックが点々と「大」の字形に置かれ、その第二画「ノ」の左下地点である。』 
   これは2002年6月、千日町ハイキング同好会例会で初めて高円山に登った時の記録である。その後、二人で何回か登ったが、いつも滝坂道からだが、今日は「まほろば365」1月例会の二度目下見で、13年ぶりにこのルートを歩いて見るつもりだ。

名鉄の北山辺の道ハイキングがあるらしく、白毫寺横で大勢のグループに出会った。上の車道に出て霊園の中を登ったが、すっかり様子が変わり踏み跡が見当たらない。どうも廃道になったようで、もし見つかっても「まほろば」の例会で踏み込むのは無理と判断して、前回の下山地点へ歩く。



樋之口池横に、万葉集第六巻一〇二八「ますらをの 高円山に迫めたれば 里に下り来る むざさびぞ これ」を記した立札があり、その横から山道に入る。



すぐに左は3日に降りてきた谷沿いの道、右は尾根道とY字型に分かれる。



尾根道が池を見下ろすようになると荒れた竹林の中を行く。次第に傾斜が強まると倒木もあり、潜ったり越えたりして上る。



雑木林の中、更に傾斜が強まると落葉で滑りやすく、下りでは注意が必要だろう。



数理院地図の標高320m地点には、茅の輪潜りのような形になった面白い木の枝があり、輪を潜るとしばらくは傾斜の緩い道になった。背の低い笹が現れると再び急な登りになって、ひょっこりと明るい火床の草原に飛び出した。



大の字の第三画下の地点である。風が冷たく、慌てて薄手のダウンジャケットを羽織る。今日も見晴らしが良く、ランドマークを探してしばらく楽しんだ。



「今日は、三角点はいいでしょう」という和子の言葉で最上部まで登って引き返す。風を避けて下降点付近まで降りて、暖かいコーヒーで軽食をとる。考えてみれば朝から初めて腰を下ろしたことになる。帰りは元の道を下った。



案の定、落ち葉の急坂は滑りやすく、ストックを持って来なかったのが悔やまれた。それでも谷へのゴロゴロ道の下りよりは楽で、30分ほどで登山口に帰った。白毫寺からは久しぶりに東山緑地の紅葉を楽しみ、元興寺塔址から猿沢池経由で近鉄奈良駅に歩いた。


奈良の山あれこれ(96)~(100)

2015-11-25 17:41:23 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
*吉野周辺エリア* 

(96)高城山(たかしろやま) 「昔は展望がよく山城もあった?」
乗鞍岳から東へ、西吉野町と天川村を北と南に分ける稜線は、国道309号線の通る新川合トンネルの上に達します。この大峰支稜はさらに東の大天井岳へと続いています。乗鞍岳から新川合トンネルの間には西から天狗倉山、高城山、武士ヶ峰と三つの山が並んでいます。高城山は私たちにとって、奈良県選定の『奈良百遊山』の中で唯一登り残していて、気になっていた山です。
 2007年5月、山友二人が一緒してくれることになり、天川村川合から県道を天ノ川沿いに西南へ走ります。当初は一台を西之谷に配置して、五色谷から天狗倉山を経て周回するつもりでいましたが、今にも降り出しそうな空模様でもあり、西之谷林道を登れるところまで登ってピストンすることになりました。道は谷に沿って北へ向かい、ぐんぐん高度をあげてやや広くなった処で舗装が切れると、真新しい切り開きで稜線を横切る峠に着きました。
 


車を降りると北風が吹き過ぎ、初夏とは思えぬ肌寒さです。正面に金剛・葛城、五條市街、ずっと右手に音羽三山など、曇り空ながら展望はまずまず。峠の標高はすでに約915m。高城山までは標高差約200mですが、途中大小のコブを三つ、四つ越していきます。最後のピークは霧に包まれて神秘的な雰囲気でした。



滑り落ちそうな急坂を登って、二等三角点の埋まる高城山頂に着きました。



1973年発行の奈良山岳会編『大和青垣の山々』では「北部大峰の連山が手に取るように見える。大峰の前衛の山にふさわしい展望台である。」と記されていますが、残念ながら成長した樹木に覆われて全くの無展望でした。峠から僅か40分、あっけない「百遊山」最後の山でした。


(97)武士ヶ峰(ぶしがみね) 「近くに武士の往来した峠が…」
高城山と同じ支稜上で約2キロ西にある双耳峰です。南北朝の頃や天誅組が活躍した時代などに、近くの峠を武士の往来が多かったので名付けられたそうです。その峠と同じではないと思いますが、西之谷林道が稜線の鞍部を越えています。2007年には開通から間もなかったようで、両側が切り通し状に開かれた状態になっていました。稜線の登山路が林道で完全に分断されているので、高城山の帰り鞍部に降りたって4人で登り口を探し回りました。



稜線の右側から北西の矢筈峠の方に向けて、ブルーのネットが張り巡らしてあるので、いったんネットに沿って西側に回りこんだあと、頭上に見える稜線に向かって直登しました。



稜線の登山道に出ると、ひと登りで武士ヶ峰(北峰1014m)頂上。樹木に囲まれていますが北側が切り開かれていて、矢筈峠に向かう林道が見え、左に1007.5m峰から乗鞍岳へと稜線が続いています。



振り返ると高城山が見えました。ミズナラやブナの道を南へ進みましたが、南峰山頂は全くの無展望なので、写真だけをとって北峰に帰りました。



下り道はしっかりした道で、最後は林道鞍部の高い土止めの上に出ました。小さなプラスチック板に、「すぐ上、武士ヶ峰登山口」とマジックで書かれていました。


(98)乗鞍岳(のりくらたけ) 「ここのキツネは人を化かしません」



乗鞍岳は吉野郡西吉野村と天川村の境に位置し、標高994m、二等三角点があります。馬の背に似て小さい起伏があるのが山名の由来でしょうか。「日本山名辞典」では、義経が熊野に逃れるとき、ここに愛馬を捨てたことにより山名が生じたといいます。孫引きになりますが『宮本常一先生の吉野西奥民俗探訪緑に、むかし、源義経が白馬に乗って、キツネ40匹と天狗47人を連れてここに落ち延びてきたとある。そしてこの山頂に白馬を乗り捨てて天に上がったという。またこの山にいるキツネは、いまも人を化かしたりはしないという。』(奈良山岳会「大和青垣の山々」)

 


もう20年近く前になりますが、西吉野の天辻から植林帯を富貴辻に登りました。謂われを記す立派な標示板と、横に石柱があり、左面に「右 五條、下市、左ふき はし本」、正面に「二の声は 何国の華そ ほととぎす 武蔵坊南岳」の文字が記されていました。



正面にゆったりした乗鞍岳を見ながら稜線を進み、短い急登を二度、最後クマザサの中を登るとあっけなく頂上に着きました。周囲を樹木に囲まれ、木の枝越しにチラチラと遠くの山や町が見えるだけ。二等三角点横にブリキ板が倒れていて、起こすとこんな文字が記されていました

『ここがご案内の「乗鞍岳」頂上で「海抜九九三米」周囲杉、檜山となり眺望が悪るいですが、「記念写真」でも撮して「頂上」征服の気分を満きつしてください』(原文のまま「」内は赤字)
名前の割に展望の悪いのは、地元でも気にされているようでした。

(99)大日山(だいにちやま) 「目出度い名前は富貴辻」
標高897.1m。天辻峠を挟んで乗鞍岳の反対側にあります。頂上近くに大日如来を祀る祠があり、登山道は地元の人により参道としてよく踏まれています。前項「乗鞍岳」の帰り、富貴の辻へ下りました。

標示板には「富貴辻の道標」について詳しく記されています。少し長いですが書き写します。
『ここ天辻は、江戸幕末の頃より天川・富貴・五條方面からの物資の集散地として栄え、峠付近は旅館、問屋など一時は100戸をこしほどの賑わいをみせた所であった。天忠(まま)組がこの地に本陣を構えたのはそう言った交通の便や、地形上、要塞の地として有利な地にあったためと言われている。
 この「富貴辻」は、北方の五條・下市方面、西方の富貴・橋本方面、そして東南の天川方面の丁度三叉路にあたり、街道を往来する人々の道案内としてこのような道標が建てられた。道標には歌が詠まれており、この種のものは吉野路においては唯一とされている。尚、施主の南条治郎左衛門は建立年である1846年に五條代官陣屋にて勤務し、武蔵坊南岳とは彼の号である。
(正面)二の声は 何国の華ぞ ほととぎす  (右面)弘化三丙午年正月 日 
(左面)右 五條 下市  左 ふきはし本 (裏) 施主 五條陣屋  南条治郎左衛門』



大日山を目指して石標の「左ふきはし本」の道を進みます。ほんの10m林道を進んだ所に大日山を示す小さい標示があり、NTT鉄塔の建つ台地に出ると乗鞍岳や唐笠山らしい整った山容が見えました。さらに林の中を登ると祠のある台地で、頂上の三角点はその上にありましたが暗い林の中で無展望でした。



天辻に下ると天誅組の遺跡(本陣跡)は、小さい小学校の校庭隅にありました。

(100)吉野山(よしのやま) 
「これは これはとばかり 花の吉野山」貞室



古くから桜の名所として知られ、多くの詩歌や文芸作品を生み、また古くは壬申の乱では大海人皇子の隠棲、頼朝に追われた義経の逃避行、更には芭蕉の門弟、支考の「歌書よりも軍書でかなし吉野山」の句で知られる太平記の舞台ともなった吉野山。

『大和名所図会』には「そもそも吉野山は満山桜樹にして、花時には積雪の朝のごとし。騒人墨客ここに遊賞し、その名中華に聞こえて天下の名勝なり。」と記されています。ここは熊野へと続く大峰奥駆道の起点であり、古くから山岳修験者にとって重要な山でした。



全山にサクラの木が多いのも、修験道の開祖・役小角(役行者)<写真・桜本坊にて>が修行中に感得した蔵王権現を桜の樹で彫ったことに始まり、以後、神木として「一枝を伐るものは一指を切る」と言われたほど、大事に育てられてきたからです。



金峰山修験本宗金峰山寺の本堂・蔵王堂はその蔵王権現を本尊として祀っています。この名からも分かるように昔は吉野山とは呼ばず、「金峰山」または「御金(みかね)の嶽」と呼ばれました。この名称は吉野川南岸から大峰山脈に続く一連の山並みの総称で、特に一つの峰を指すものではありません。よく知られるように、桜の開花は麓から下千本、中千本と進み、上千本、奥千本に至ります。



この間に点在する歴史的な建造物や、それにまつわる物語はあまりにも多いので、ここでは割愛します。


「雲を呑んで 花を吐くなる 吉野山」蕪村

*お陰様で100回を終えました。これから大峰山脈に入ります。引き続きよろしくお願いします*

奈良の山あれこれ(91)~(95)

2015-11-09 11:25:43 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
*吉野周辺エリア* 

(91)栃原山(とちはらやま) 「吉野三山の黄金岳」



この山と南に並ぶ銀峰山、櫃ヶ岳を吉野三山と呼びます。どの山も登山口から短時間で楽に登れる里山です。栃原山は吉野町栃原にあり、標高531m。『大和名所図会』に「黄金嵩(こがねだけ) 栃原村にあり、奇峰高く聳え、山色蒼々たり」と記された山です。頂上には『大和志料』に「金ヶ岳の宮」と記された波比賣(はひめ)神社があります。社頭の説明板によると「天平2年11月11日に創建されたと伝えられおり、水の神・雨師の神である『弥都披比賣神』が祀られて」います。



下市から車を栃原へ走らせると、山頂に大きな鉄塔が立つ山が近づき、以前に櫃ヶ岳、栃ヶ山に登ったとき見覚えのある「一の鳥居」の前に出ました。車道が鳥居を潜って続いているので、そのままもう少し上までと車を進めるうちに、NHK栃原中継所の建物と二本の高い鉄塔、見晴台などのある広場に着きました。



石段を登ると、すぐ波比賣神社の境内で、結局、歩かずに山頂まで来てしまいました。



三角点を探して境内や裏手の広場も歩くが見付かりません。おそらく金剛山の葛木神社のように神域周辺にあるのでしょう、あえて深入りはしないで、展望台から大淀や五條の市街地、金剛・葛城の山並みを眺めて、「金の嶽」をあとにしました。


(92)銀峯山(ぎんぷさん)
「吉野三山の白銀山」



大峰山脈前衛峰で甘南備山でもある吉野三山のうちで、五條市に位置しています。近在の人からは尊敬と親愛をこめて「岳さん」と呼ばれています。『大和名所図会』では「白銀岳。古田荘夜中村にあり。銀(しろがね)ヶ岳は南にして、金(こがね)ヶ岳は北にあり、吉野将軍の宮合戦ありしよし太平記に見えたり」とあります。『太平記』には「銀嵩軍事云々。四月二十五日、宮之軍勢二百余騎、野伏三千人をめし具し賀名の奥銀嵩といふ山に打ちがり…」の記事があります。



山頂には古田荘12ケ村の氏神である波宝神社が建っています。『吉野郡群山記』に「御社、道の左に有り。鳥居は、額に神蔵(カンノクラ)大明神と記す。」と書かれています。



山麓の賀名生は吉野に侵攻された南朝が皇居を移したところで、藁葺の堀家住宅が皇居跡として今に残っています。冠木門の扁額「賀名生皇居」は維新の志士・天誅組吉村寅太郎の筆によるものです。文久3年(1863)、高取城攻撃に失敗した天誅組は、白銀岳に本陣をかまえて追討軍に備えました。堀家には天誅組関係の資料も数多く残っています。



賀名生は梅林としても有名で、急傾斜の斜面に一目一万本といわれる紅白の梅が咲き誇ります。


(93)櫃ヶ岳(ひつがたけ)  「吉野三山の銅岳」



山名の通り、お櫃のような形で吉野町と五条市にまたがる標高781mの里山です。黄金岳、白銀岳の南にあり「銅岳」と呼ばれました。ここにも山頂に誉田別命を祀る八幡神社があり、里人の信仰を集めました。『吉野郡群山記』に「上笠木(現・吉野郡黒滝村笠木)より峯伝ひに行けば櫃ヶ嶽にでる。この辺、酢の木多し。ふしの木(ヌルデ)極めて多し。土俗も、女の歯を染める(お歯黒)に用ゆ。‥櫃嶽『興地通志』曰く「櫃岳在貝原村、以形名」(形をもって名とす?)」とあります。



この笠木からの尾根道や十日市から尾根伝いに登る道があるといいますが、私たちは森林公園「やすらぎ村」に車を置いて登りました。山腹を登っていくと櫃ヶ岳への標識があり、貝原地区の最後の民家を過ぎると舗装が切れ林道らしくなります。見晴らしのよい丘の上に「あずまや」があり、行く手に櫃ヶ岳の頂が見え、振り返ると丹生川を挟んで銀峰山から吉野の方の山々が見えます。左手遠くには金剛・葛城の峰々。林道を離れて鳥居をくぐり、ヒノキ林の中の急坂を少し登ると神社の拝殿前にでました。





社の後ろの小高い所に小さい祠とケルンがあり、東側の木の開から、思いがけぬ近さに行者還岳から大普賢岳に続く峰々、疎らに雪を付けた弥山の大きな山容が正面に見えました。



帰りにお隣の栃ヶ山に寄り道しました。



杉林の中、無展望の山で、途中で山仕事をしている人に訊ねても、「名前は知らぬが、この上にある山に登る人が時々ある」というほどの不遇な山でした。


(94)龍王山 「ここも水乞いの山?」



銀峯山から南西の尾根上にあり、途中、大峰山脈の展望がいい山です。

銀峰山の波宝(はほ)神社参道を下ると、正面に龍王山が見えます。賀名生へ下る分岐から道は細くなり、左手に大峰の連山を見ながら行くと杉林に入り、一本の木に「竜王山へ」の標識がありました。



踏み跡を辿っていくと倒木が連続していて、潜り、乗り越え、迂回しながら高みを目指します。やや道らしくなるとNHK中継所のある山頂でした。



標点名「夜中」の618.8m二等三角点がありますが、周囲はヒノキ林に囲まれて全く無展望の山頂でした。少し右側の明るく開けた柿畑からは和泉山脈、金剛山地の眺めが美しく、眼下には五條の町並み、手前に拡がる緑の田園風景の中に「柿の博物館」の屋根の朱色が鮮やかでした。ここへは急な舗装路が登ってきていて、西側へ下ると山腹を水平に横切る道に出会い、テープ標識のある登り口に帰りました。


(95)扇形山(おうぎかたやま)  「扇を拡げたような形の山」

吉野から洞川への道は、江戸時代から大峰山への「山上街道」と呼ばれ、広橋峠からいくつもの峠を越えていきます。



小南峠はその最後の難所で、先達に率いられた白装束の人たちが喘ぎながら登ったところです。『あまりにも苦しい峠道なので貴重な米すら投げ捨ててしまう「米投げ」が転訛して「こみなみ」となった…「ひだる神」に憑かれ、歩行不能になった者も多かったことが伝承の由来かもしれない。(Wikipedia)』 

この峠から西に延びる尾根上に標高1053mのこの山があります。稲村ヶ岳の方から見ると、扇を拡げたような美しい形をしています。尾根が峠から東、さらに東南に回り込むと大天井岳に至ります。 

私たちは大天井岳に登る前に、今はトンネルが抜ける小南峠に車を置いて2時間ほどで往復しました。トンネルの上を通る尾根の中腹を捲いて行き、黒滝川沿いの集落を見下ろしながら緩く登り、15分で送電線鉄塔の下に来ます。左手には稲村ヶ岳と大日岳が見えました。コルに降り、しばらくはヒノキ林の中、殆ど水平の道を進みます。



やや登りになると笹原の中に立つ2本の送電鉄塔の下を通り、少し急坂を登ると扇形山の頂上でした。二等三角点が埋まっていましたが、樹木に囲まれて展望は全くありませんでした。


奥信濃/秘境の旅 (2015.10.29~30)

2015-11-02 17:10:23 | 旅日記

 CT社のバスツアー「奥信州絶景・秘境の紅葉巡り 秋山郷、松川渓谷2日間」に参加しました。
10月29日9時、郡山を出たバスは途中、予期せぬ渋滞などもあって、目的地の松川渓谷へ着いたのはすでに16時半!



渓谷入口の真っ赤な高井橋と紅葉の写真を車窓から撮って、
雷滝へ急ぎました。



落差30mの滝は
階段を下りると、滝の裏を潜って展望台へ通じる道があります。耳を弄するような轟音から「雷滝」の名があり、



すぐ裏側から滝の流れを見る事ができるので「裏見の滝」ともいいます。



少し後戻りの格好で
八滝に来て、展望台から対岸にかかる八段・180mの滝を見ているとと薄暗くなってきました。松代のホテルに入ったのは19時前になりました。



30日、ホテルの窓から見る夜明けの1000m級の山々です。
マイクロバス二台に分乗して、若き日が懐かしい志賀高原の丸池、発哺スキー場横を通り、曲がりくねった細い道を秋山郷へ。



平家の落人伝説が残る、確かに個人では行きにくい秘境です。



まずは切明で下車、
河原の温泉を見に行きました。



次は
高さ30メートル、幅4メートルの「蛇淵の滝」。
説明板によると『
その昔、秋山郷の熊取名人・善吉さんが熊を追ってきて、川に掛けられた丸太をわたり終え、ふりむいたところ、それは丸太ではなく大蛇だった。恐ろしさのあまり一目散に山道を逃げ帰ったということで、以来この滝を「蛇淵の滝」と呼ぶようになったといわれています。』
長い階段を降りて紅葉・黄葉の中を落ちる滝を展望台から眺めました。



帰り道にみた蛇淵大権現碑。明治の頃に川を汚したので水神に詫びると大蛇が昇天したとか、昭和になっても巨大な蛇の白骨が見つかったとか、先ほどの展望台まで生臭い匂いが漂っていたとか、素朴な水神信仰が微笑ましい説明が横にありました。



柱状節理の岸壁と中津川渓谷にかかる赤いアーチの前倉橋を見ながら昼食をすませ、松代で奈良からのバスに乗り替えて帰路に着きました。



鳥甲山を見られなかったのが残念でしたが、バスの旅では時間的に致し方ありません。機会があれば、新潟県側からもアプローチしてみたい処です。