「私の関西百山」。ようやく五合目まで登ってきました。
50山を選ぶことから初めて、これまでの山日記を読み返したり、写真を探したり、時間をかけながら自分の足跡を確かめてきました。
いよいよ台高、大峰の核心部に入ります。これからもよろしくお願いします。
なお、ホームページhttp://mountainpenguin.web.fc2.com/Mykansai100/index.htmlではよりコンパクトに編集して20山目になりました。こちらもよろしくお願いします。
「私の関西百山」。ようやく五合目まで登ってきました。
50山を選ぶことから初めて、これまでの山日記を読み返したり、写真を探したり、時間をかけながら自分の足跡を確かめてきました。
いよいよ台高、大峰の核心部に入ります。これからもよろしくお願いします。
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薊 岳(1406m)<台高山脈>
明神平下より
(あざみたけ)台高北部の国見山から西に派生した尾根上にある双耳峰。山腹にアザミが密生しているのでこの名があるという。
1997年8月9日、大又林道終点(標高780m)から明神平を経て往復した。雨模様で傘を差したりすぼめたりしながら行動時間:5時間25分、休憩時間1時間5分の山行だった。山頂では気温20℃。無展望だった。
明神平では10数頭の鹿の群れを見る。増水した沢を逃れた大きなガマガエルにも何度も出会ったが、人には最期まで逢わず、淋しいくらい静かな、しかし避暑気分で楽しい山行だった。
2004年11月2日にも二人で、今度は麦谷林道の登山口から「木ノ実ヤ塚」という珍しい名の山を経由して登る。以下はその時の記録抜粋である。
林道が稜線にでたところが登山口で、すでに標高は1100m。ヒノキ、スギ林のなだらかな道を行く。ときどき霧が流れ、その中に木々の梢が黒々と浮かぶ夢幻的な景色が展開する。短い登りとなだらかな道を何度か繰り返すと、林の中の二階岳頂上に出る。東に千石山から池木屋山に続く稜線が見えるが、これといった特徴のない頂きである。行く手に、木の枝越しに木ノ実ヤ塚が見える。林の中をゆるく下って枯葉を踏んで歩き、急な登りでピークを一つ越えると、しばらくなだらかな道を行く。もう一度急坂の短い登りが終わると三等三角点と山名板のある木ノ実ヤ塚だった。
山頂部はブナに囲まれ展望はないが、広く明るい感じである。少し休んで薊岳に向かう。急な坂道を水溜まりのような池がある鞍部に降り、しばらく岩混じりの暗い痩せ尾根を登る。すぐに尾根が広くなると、ブナ、ヒメシャラ、オオイタヤメイゲツなどの林の中、気持ちの良い稜線歩きとなる。
右手の梢越しに美しく紅葉した明神岳から笹ヶ峰、千石山と続く稜線が見える。真っ青な空を背にした薊岳の山頂部に雲が流れている。傾斜が強まり、岩角や木の根を掴んで登るようになると、間もなく雄岳山頂の東端にでた。
岩稜とシャクナゲの間に登山路が通る狭い山頂で岩の上に腰を下ろし、大展望も肴のランチタイム。雲が流れ去ると、すばらしい光景が展開した。四囲に遮るものがないので、まさに360度の展望台である。池木屋山は二本の木の枝に囲まれて、額縁に入った絵のようだ。北に伊勢辻山、その右の赤ゾレ山との間に高見山、その奥に曽爾の山々。伊勢辻山から国見山、水無山に続く懐かしい尾根道。明神岳からの尾根が池木屋山を過ぎて低くなると、その上に七ツ釜高から日出ヶ岳、経ヶ岳へと続く大台ヶ原が浮かんでいる。経ヶ岳の下に見える二階岳がちょうど南になる。木ノ実ヤ塚の円頂に続く、二階岳から辿ってきた稜線が見える。南西には釈迦ヶ岳、仏生ヶ岳、特異な山容の大普賢岳から山上ヶ岳、大天井岳と大峰の山々が居並んでいる。さらに右、西から北西にかけては岩湧山、金剛山、葛城山、生駒山まで望むことができた。
二人きりの山頂でゆっくりと展望を楽しんで元の道を帰った。好天の下、のんびりと紅葉と大展望を楽しめた山歩きだった。
(コースタイム)麦谷林道登山口10:40…二階岳11:00…11:40~11:50…薊岳(昼食)12:20~13:05… 木ノ実ヤ塚13:35~13:45…二階岳14:20…麦谷林道登山口14:35
その翌2005年7月、千日山歩渉会例会に15名で登った。この時は大又の笹野神社前から大鏡池、小屋ノ頭を経て雌岳、雄岳へ登り、明神平を経て林道終点から笹野神社近くの駐車地点に帰った。全く風がなく湿度も異常に高く、たまらなく暑い日だった。かなり体力を消耗したが、休憩を含めて7時間半、歩行距離約15㎞、標高差約1000mの行程は次月の槍ヶ岳行きに備えて格好のトレーニングとなった。
檜 塚(1420m)
(ひのきつか)台高山脈北部、明神岳より東に派生した尾根上にある。手前の奥峰(三重県側より見た名であろう)1420mは三重県最高峰になる。名前の由来は定かではないが、かって山頂周辺がヒノキの原生林であったためとも言われている。主な登山道は、奈良県側では前項の明神岳より約1時間20分。
三重県側はマナコ谷登山口(木屋谷川林道)から所要時間約2時間15分で達する。どちらかの登山口から明神岳と桧塚の二山を周回することも可能である。以下は2001年11月初旬に、二人で三重県側から登ったときの記録より抜粋した。
高見トンネルを抜けて奥香肌峡近くから木屋谷川沿いの千秋林道に入る。しばらく地道の林道を走り植林小屋の横に駐車。ここから5分ほど歩いてマナコ谷左岸の登山口に着く。杉林の中の細く急なジグザグ道で、小さい滝を見下ろしながらグングン高度を稼ぐ。15分ほどで勾配が弱まると道幅も広くなり、大きく山腹を捲くように進む。折り返して沢音が遠ざかると、しばらくクヌギやコナラの落ち葉を踏む道を行き、再び植林の中で道が細くなる。何度か作業道を横切るが、その都度、ビニールテープの標識が導いてくれる。登山口から半時間で半壊した作業小屋を過ぎる。広い道を横切るところからやや急坂になり、更に二、三回、作業道と交わった後に広く緩やかな道に出会う。山腹を左に捲いていくと、切り株や倒木に薄緑色のコケが付着していて、ようやく台高らしい感じが漂う。やがて、別の林道脇に新しい作業小屋が立つ千秋峰にでる。
小屋の前で林道を右に折り返し、50mほど行って再び登山道に入る。少し登ると植林の境界になり、すぐ横まで林道が延びてきている。ここからはススキと丈の低い笹原で、頭上が大きく開けて気持ちまで明るくなる。右背後にせり上がってくる水無山、国見山の斜面が真っ白な霧氷に彩られている。
行く手左の檜塚、右の奥峰の斜面に並ぶ木立も白い花が咲いたようだ。小さな岩稜を過ぎて再び笹原を登ると、檜塚と檜塚奥峰の分岐に出た。先に奥峰に向かう。雲間から青空が覗き、暖かい陽光が降り注いできた。溶け始めた霧氷が、風に飛ばされて頬を叩く。
笹原の中を15分ほど登って奥峰の頂上に出る。まばらな灌木に囲まれて、木の間から白い霧氷の帽子をかぶった檜塚や、大峰の山々が望まれる。
引き返して檜塚に向かう。分岐を過ぎて緩く下ると、笹原の中に白い岩が散らばっている鞍部に出て、登り返して頂上に着く。まばらな灌木に覆われた小台地に、三等三角点と山名板が何枚かあった。
すっかり青空になったが依然として風が強く、バラバラと音を立てて霧氷の破片が飛び落ちてきて、とても落ち着いていられない。分岐手前の岩のあるところへ降りて、ゆっくり展望を楽しむ。檜塚奥峰の左(南西)に勝負塚山から千石山に続く稜線、その上に大峰山脈がくっきりと見える。
明神平は割愛して、元の道を帰る。木梶山から梅尾に続く山の斜面は、赤や茶や黄の多彩な色で飾られている。その右手には曽爾の山々。
さらに右、檜塚の稜線から顔を出した迷岳を見納めて、檜林の中に入る。どんどん下って1時間ほどで登山口に帰る。今年初めての霧氷と大展望に加えて帰りには香肌湖で名残の紅葉と、自然の美しさを満喫できた一日だった。
【コースタイム】マナコ谷登山口9:15…植林小屋10:15…檜塚奥峰11:10~11:15…檜塚11:25~12:30…植林小屋13:05…登山口13:25(2001.11.7)
明神岳(1432m) <台高山脈>
(みょうじんたけ)この山の名は、かって山頂に穂高明神を祀る祠があったことによる。現在も国土地理院地形図に「穂高明神」と表示されているが祠はない。
東吉野村大又から、大又川に沿った林道は魚止滝や石ヶ平谷、三度小屋谷、アベ山谷などいくつかの支谷を見送り、かなり奥まで通じている。40分近くかかって林道終点に着く。
旧あしび山荘の手前でロープ伝いに沢を渡り、すぐに渡り返して短いハシゴを登る。
冬には美しい氷瀑と化す明神滝をみて、じぐざぐに急坂の樹林帯を登り、傾斜が緩むと林道終点から約1時間半で明神平に着く。
新しい「あしび山荘」の西側から台高山脈主稜線にかけての笹原は、かって雪質のよいスキー場として知られたところである。頭上に見える稜線に登りきったところは三ツ塚と呼ばれ、北は水無山、国見山へ、南は千石山を経て池木屋山、西は薊岳への三叉路となっている。
三ツ塚から南へ10分ほどで檜塚への支稜が分かれるが、明神岳はここ(国土地理院地形図には山名の表記はなく、前述の穂高明神と記されたところ)に位置している。周辺は美しいブナ林で、展望は主稜線を少し南に下った笹ヶ峰(1367m)の方が優れている。
大又バス停から林道終点までは歩くと1時間15分ほどかかる。薊岳から明神岳へ1時間強。
47 吉野山(858m)<吉野>
【よしのやま】吉野川南岸から大峰山脈に続く一連の山並みの総称で、上に記した標高は最高峰の青根ヶ峰(あおねがみね)のものである。古来、桜の名所として知られ、多くの詩歌や文芸作品を生み、また古くは壬申の乱の際の大海人皇子の隠棲、頼朝に追われた義経の逃避行、更には芭蕉の門弟、支考の「歌書よりも軍書でかなし吉野山」の句で知られる太平記の舞台ともなった。また熊野へと続く大峰奥駆道の起点であり、桜の木が多いのも修験道の開祖・役小角が修行中に感得した蔵王権現を桜の樹で彫ったことで以後、神木として大事に育てられてきたことによる。
山麓の「柳の宿」は大峰奥駆道の七五宿のうち、逆峯(熊野から吉野に向かう順峯に対しての呼び名)では最初の宿となる。2004年、ここから熊野本宮まで七回に分けて踏破したが、第一回の青根ヶ峰までのコースhttp://mountainpenguin.web.fc2.com/kiisanchi/okugake1/okugake1.html を別項で記している。ちょうど桜の時期で素晴らしい眺めだった。
青根ヶ峰の頂上近くには、「従是女人結界」の文字の両側に「左・蜻蛉瀧、右・大峰山上」を示す大峯奥駆道の結界石とお地蔵さんが立っている。この結界石は慶応元年のものだが、第二次大戦後の1970年に結界の位置が五番関に後退するまで、長らくここから先が大峯山の女人禁制区域だった。
ここから木の階段道を登ると青根ヶ峰の三等三角点があるが、樹木の中で展望は得られない。この石標の少し手前、金峰神社を過ぎたところに「峰入りや一里遅るる小山伏」の句碑がある。ここの辺りが大峰七五靡き(なびき)の第七十番「愛染(あいぜん)宿」跡であるが、この地名は明治初年の廃仏毀釈まで安禅寺の愛染宝塔があったためという。
ここで奥駆道と離れ、奥千本に向かうと「西行庵」がある。西行が隠棲した桜の名所で、「吉野山やがていでしと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」と詠んだところ。芭蕉の「露とくとく試みに浮世すすがばや」の句で知られる苔清水が滴り落ちている。
近鉄吉野駅より上千本を経て2時間30分。川上村大滝からは、林道沿いに2時間。途中には落差30mの「蜻蛉(せいれい)の滝」がある。音無川沿いに登り、愛染宿跡とは反対側の車道にでると鉄階段で山頂に登る。
高取山(584m)<大和平野>
たかとりやま。西国三十三カ所第六番札所・壺坂寺の東方にある。この山の天嶮を利用して南北朝時代に越智氏(南朝方)が城を築いた。のち戦国時代の本多氏を経て、江戸時代寛永年間に植村氏が大改修を行い、明治の廃藩置県まで高取藩二万五千石の居城であった。現在も山頂部に大手門や二の丸などの建物跡や石垣が残っている。
いくつかの門を過ぎて上り詰めた広場が本丸跡で、展望方位板などが設置されている。ここから西に金剛・葛城、南には吉野・大峰の山並が望まれる。周辺にはサクラの大木が多い。
三角点は天守跡の石囲みの上にある。
桜の時期はもちろん秋の紅葉も素晴らしかった。
主な登山道は壺坂寺経由のものと、高取町土佐街道から大手道を登るものの二つがある。いずれも起点は近鉄吉野線壺阪山駅である。壺阪山駅から国道を越え直進してT字路で右折する。
20分ほどで「札ノ辻」の石標に出る。右折してバスの通る国道に出て船戸橋を渡り、昔の参道である山道を登る。最後に急な階段を登ると壺阪寺駐車場にでる。
壺阪寺(南法華寺)は大宝三年(703年)弁基上人の開山。『枕草子』に「寺は壷阪、笠置、法輪」と記されている。古くから眼病に効験があるとされた観音信仰の寺で、浄瑠璃「壺坂霊験記」の舞台として名高い。近年はインド渡来の大観音石像、涅槃像などや、障害者への配慮、支援活動で知られている。
寺からはしばらく車道を歩き、分岐から壺坂寺奥の院・香高山(こうこうざん)の五百羅漢石仏群を経て尾根道を1時間強で頂上の本丸跡である。
下山は北側へ15分で猿石。荒れていた道は現在も補修が続けられ、驚くほど良い道になった。上子島砂防公園からは広い舗装路になり、元高取藩家老屋敷・植村邸を経て札ノ辻に帰る。猿石から徒歩1時間で壺阪山駅である。
*この項の文章には、日本山岳会編「新日本山岳誌」(ナカニシヤ出版)の変愚院執筆個所からの引用があります*
今朝も春本番を思わせる暖かさです。2年ぶりに三輪さんへお参りしました。大神神社は大物主命を祭神とする大和国一の宮、三輪明神とも呼ばれて古くから信仰を集めたお社で、朝から沢山の人が参拝しています。
手水舎で手を洗い拝殿へ。正面の三輪山そのものが御神体ですので本殿はありません。
祈祷殿前の広場では23,24両日に行われる講社崇敬会大祭の準備が始まっています。その中を通り抜けて狭井神社に続く「くすり道」に入ります。砂利道の両側には、いろいろな薬草や薬木が植栽されています。登り切って左に行くと摂社の磐座神社があります。山麓にいくつかある「辺津磐座(へついわくら)」を神座とする社殿のない神社ですが、祭神は「薬の神様」少彦名命です。
狭井神社の鳥居を潜ります。小さく見える赤い鳥居の向こうには市杵島姫神社のお社と辨天池があります。正面に見える石段を登って拝殿にお参りします。正式な神社の名は「狭井坐大神荒魂神社」といい、祭神は大物主命の「荒魂(あらみたま)」。災害の折に荒ぶる神として猛々しさを発揮し、祭祀によって「和魂(にぎみたま)」に変じるといわれます。崇神天皇のとき全国に疫病が流行したので、大物主命を祀ったところ疫病は終焉したことから「薬の神様」として信仰され、今も毎年4月18日に「花鎮祭」(俗に「くすり祭り」)が本社とともに行われています。
石段を登り切った広場正面の拝殿に参拝、社務所で初穂料300円を収め白い襷をお借りします。拝殿右手の登拝口にある御幣で自ら御祓いをして、注連縄の下を潜り登山道に入ります。後で知ったのですが2月14日の大雪で登山道が壊れ、3月8日になってようやく復旧、入山できるようになったところでした。
山内の様子は撮影禁止ですので、頂いた「登拝案内図」でご推察ください。上の写真に見る急な階段道がしばらく続き、平坦な尾根道を行くと 1.丸太橋を渡り、水呑谷沿いの岩の道を登ります。3.三光の滝の脱衣所の前からは木の根道や木の階段の急坂が続き、注連縄で囲まれた 5.中津磐座にでます。ここで標高364.5m。さらに急坂を上り少し傾斜が緩むと 6.烏山椒林。大きなサンショウの樹に目を見張ります。うっそうとした林の中を登り、8.高宮神社に参拝します。ここから100mほどで9.奥津磐座(467.1m)に着きます。さらに奥に「神津磐座」があると1988年の山日記に書いていますが、その時も今もここから先へは入れません。お天気が良くて次第に気温も上がり、額の汗を拭いながら、ゆっくり休まずに登り着きました。磐座の前でスポーツドリンクを飲み、チョコレートを食べて数分休んで下山します。
登下山の途中で小さい子供もからご年配の方まで大勢の人に出会いましたが、白装束で裸足の方が何人もおられました。高宮神社では20人近いグループが祝詞をあげていました。さすがに下りは楽で、どんどん歩いて往復1時間45分で登拝口に帰りました。
万病に効験のあるという「狭井」の御神水を頂きます。空になったペットボトルにも頂いて帰りました。
「大美和の杜」に登り、背後の三輪山を振り仰ぎました。白いアセビの花が満開です。
目の前は大和盆地。大和三山が浮かび、三輪の大鳥居も見えます。背後の金剛、葛城から二上山、生駒山までの山並みは霞んでいましたが、ここからの眺めは「奈良県景観資産」に登録されています。またこの展望台は「恋人の聖地」だそうです。
しかしながら昔の恋人は「早く帰ってビール飲もう」と、ナンテンやツバキが咲く道を、どんどん降りて行ってしまいました。
額井山(823m) <大和高原>
【ぬかいたけ】別称:大和富士。奈良市都祁吐山町と宇陀市榛原区の境。大和高原の南端に位置するこの山を中心に、西にある貝ヶ平山(かいがひらやま)、香酔山(こうずいやま)、東の戒場山(かいばやま)などを額井(ぬかい)火山群と呼ぶが、その主峰である。別称の通り富士山型の秀麗な山容を持ち、南の榛原や室生ダムからは、左右に支峰を従えた「山」の字形に見える。南の山麓を東海自然歩道が通っている。
「額井」の名については、『大和志』宇陀郡の「村里」の項に見られるが、「山川」の項に「額井岳」の記載がない。一方、香酔峠を挟んだ西の香酔山(こうずいやま)(800m)については「香水山。赤瀬村の西北に在り、城上山辺の二郡に跨る。山巓に竜王祠有り。旱(ひでり)の年に雨を祷(いの)る」とある。香酔峠の近くにはスズラン自生の南限地、吐山(はやま)があり、山と峠の名はこの花の芳香からきている。
額井山麓の十八(いそは)神社は、今は廃寺となった極楽寺の鎮護社であり、春日作りの神殿が建つ境内からは、室生の山並みが一望できる。
神社横の登山口から林道を少し行き、ジグザグの登りは香酔峠への分岐で大きく右に折れ、さらに急登して額井岳山頂に着く。神社から山頂まで1時間足らずである。
この山も大和に多い雨乞いの山で、頂上に水神の祠がある。近年、頂上台地の南側が切り開かれて展望台が設けられた。
龍門山系を初め、遠く大峰、大台の山々が望まれ、榛原や大宇陀の町並みは眼下である。また頂上北側からは西方に鳥見山、貝ヶ平山と見事な展望が開ける。香酔峠のやや北からも登路があり、同じく1時間ほど。
額井岳から戒場山への稜線歩きは、ところどころ虎ロープが張ってある急坂の下りで始まる。登り返し、しばらくはなだらかな道になる。岩が並ぶ間を通り、林が途切れると電波反射板が立つ見晴らしのきく場所にきて正面に戒場山が見える。再び下ると、右へ山辺赤人墓への道を分けて林の中の登りになり、傾斜が弱まると間もなく三等三角点の埋まる戒場山山頂に着く(額井岳から1時間20分ほど)。
戒場山(かいばやま)の名の由来は、字義から「仏教の戒律を守るところ」とか、読みから「家畜の飼料を取った所、飼い場」ともいわれている。山頂は雑木林の中で無展望である。少し稜線を進み、南にじめじめした谷間を下ると30分強で戒長寺に降りる。寺伝では用明天皇の勅願による聖徳太子の建立で、空海も修行した寺という。質素な佇まいだが、境内のお葉付きイチョウと十二神将を鋳出した重要文化財の梵鐘で有名である。また隣接する戒場神社にはホオノキの巨樹がある。
「お葉付イチョウ」は目通り4m、高さ30mの大木で樹齢500年、ごくまれに葉に実が付くという珍しいもので県指定文化財、かって秋には境内は黄色い絨毯を敷きつめたような光景だった。しかし2008年には落葉も疎らで、大黒さんが「ここ二、三年は気候のせいかお葉付銀杏を見つけるのが難しくなりました。今年はギンナンもこれだけ…」と笊に入ったわずか二、三個の実を見せてくださった。
戒長寺から額井岳の麓を通る東海自然歩道わきに、山部赤人墓と伝えられる五輪塔がある。この辺りを山辺三というので、それから生まれた伝承とも考えられる。正面に額井岳、左手に広がる曽爾の山々や三郎ヶ岳などを眺めながら約1時間で十八神社に帰る。
矢田歩きの帰りに大和民俗公園に寄り道して、一周歩いてきました。
コヒガンザクラの蕾が膨らんでいます。
梅林のウメが満開になって…
大勢の人が花と香りを楽しんでいました。
わが家の庭にも春の色が…ヒマラヤユキノシタ
スミレも満開
アオキの実の赤い色が鮮やかです。
毎日遊びにくるメジロくんに、ウグイス嬢が仲間入りしていい声を聞かせてくれます。
城下町高取の「町家のひなめぐり」も今年で8回目。私たちは第二回の2008年、第三回の2009年に訪れていますので、今回は5年ぶり三度目になります。訪れる人も増えている様子で、ウィークデーの今日も大勢の人がお雛様との出会いを楽しんでいました。
高取山を下り、ウメの花が美しい砂防公園に着いたのは13時過ぎ、橋のたもとに「77番」を指す案内がありました。ちょうど登ってきた男性とご一緒に、少し上にある梅本家へ登っていきます。
声をかけて玄関の戸を開けるとご主人が出てこられて、高取城や周辺の美しい写真も見せて下さいました。この辺りは上子島といい高取山の西北山麓にあたり、私たちが降りてきた城址からの道は、高取の町からお城に上る「大手道」になります。
水車小屋を横に見て、緩やかに下っていくと大きな馬のお雛様が見えてきました。上小島元気広場です。左に見える黒い馬も模型です。
係りの人の説明によると、いわゆる「ジャンボ雛」は三か所にありますが、ここ上子島が最初で今年で4年目とのこと。「これからも地域のみんなが力を合わせて、干支に因んだ動物のお雛様を作っていく」と話されました.
ここから5分ほどで長屋門に着きました。高取藩の城代家老の屋敷で、門の両側に4軒づつ中間部屋がありました。白いナマコ壁が江戸時代の武家屋敷表門の面影を伝えています。現在は旧藩主・植村氏の居宅になっています。
すぐ前が土佐町(土佐街道)から壺坂道への分岐点「札ノ辻」。右手奥が長屋門になります。鳥居のように見えるのは復元された「松の門」。囲みのなかは児童公園です。ここは武家と町家との境界だったそうです。当時さまざまな「御触れ」の高札が掲げられたので「札ノ辻」。石柱に「右つぼさか」の文字が残り、公園角の石柱にも「右 観音院道 是ヨリ十六丁」とあります。前の石畳の道がメインの土佐街道ですが、私たちは右の壺阪寺へ通じる道に入ります。
「お里沢一の墓」がある信楽寺に詣り、緩い登り坂になっている町並みを行くと清水谷絆広場、今日の「雛めぐり」で是非とも見たかった「貝合わせジャンボ雛」です。60歳以上の地域の方15人が一か月かかって作り上げた高さ5mのお雛様。「この世でぴったり合う貝は一つしかない」と最愛の人に巡り合う願いが込められています。
広場と通りを隔てたお家の軒に「見上げてご覧ください」という札がありました。二階からお雛様が並んで覗いています。ここが93番で99番が朝に通った壺坂口バス停になります。
「札ノ辻」に引き返す途中で今回も増本家のお雛様を見せて頂きました。金屏風を背にしたお雛様とご家族で丹精込められた手作りの品がマッチしています。今年はお嬢様が嫁がれるとのこと、本当におめでとうございます。
「札の辻」から北へ歩くと「雛めぐり」のメイン会場「雛の里親館」があります。会場に入って左側にある「天段のお雛様」は徳島県勝浦町から預かった雛人形と聞いていますが、天に届けと段上に飾られている数百体のお雛様は圧巻です。
右手には今年の企画展「ジャンボ雛とミニ雛」。奈良の伝統工芸「一閑張り」のお雛様です。
そして見上げると無数の「吊るし雛」。ていねいな説明をして下さった上、記念写真まで撮って下さった係りの人に感謝して会場をでました。
次の広い通りの辻(黒い牛と幟の最初の写真の場所)を少し左に入るとギネス広場です。名前の由来はこのビールの空き缶で出来た高取城。淡麗グリーンラベルの石垣を始め35679本のキリン缶ビールによるオブジェで、ギネスブックで認定されました。後ろのテントの中に企画から制作、完成に至るまでの住民の皆さんの姿が紹介されていました。
それぞれのお家の雛飾りをすべてご紹介できませんが、このような御殿飾りや…
竹から生まれたようなお雛様(高取にも竹取物語に因んだ伝説が残るそうです)、古くからそれぞれのお家に伝わってきた大切なお雛様、手作りの愛情のこもったお雛様と、各お家ごとの様々な趣向が見られます。
陽が西に傾いた頃、「観覚寺なかよし広場」の三つめのジャンボ雛に会いました。カメラを向けていると、横のお家から出てこられた若い女性が「午前中は光線の具合が良かったのに…逆光だからここから撮れば」とお家の影を勧められました。
楽しい「雛めぐり」もそろそろ終わりです。この催しに町を挙げて取り組んでおられることに、また出会った町の方々の皆さんが、私たち訪問者になにかと話しかけて下さる「おもてなし」に深い感銘を受けて、壺阪山駅に向かいました。