1979年1月14日 葛城山(職場の家族会、我が家からも4人参加)
総勢28人で新春の葛城へ。10時、駐車場着。2日ほど前から暖冬の正月と打って変わった寒さとなっており、震えながらバスで来るパーティをロープウェイ駅で待つ。10時40分頃出発。A先生を先頭に子供たち中心でゆっくり登る。ときどき強風が木の雪を吹き飛ばし、頭から粉をかぶったようになる。やがて後発の0、Y等が追いついてくる。天神森でロープウェイ組と合流、賑やかな頂上へ12時30分着。国民宿舎前でホェーブスを興し豚汁を作る。子供たちは元気に凧揚げヤソリ遊びに興じた。
1990年1月14日 芳 山(千日町ハイキング同好会)
高畑駐車場に車を預け、春日大社の裏参道入口から右に折れて滝坂の道に入る。妙見宮分岐の少し上で、路傍に横たわる仔鹿の死体を見る。外傷は無いので、かわいそうに群れからはぐれ凍死したのだろうか。石畳の道は能登川沿いに次第に登りとなり、苔蒸した大木の下を潜ったりして歩く。石仏はまず路傍の寝仏、次に左手の斜面を上って三体仏、夕日観音と続く。
川べりの朝日観音を過ぎると道も緩やかになり石畳も終わって、赤い前垂れの首切り地蔵の立つ広場に着く。
休憩所やトイレがあり明るい感じの分岐点になっている。新池の右側へ出る道を選ぶ。池は金網が巡らされすっかり風情がなくなった。昼食には早いので、ドライブウェイを横切って地獄谷の石窟仏へ向かう。線刻の摩崖仏を見た後、山腹を巻き気味に下り、小川を越えて階段状の急坂を上って、石切峠近くの東海自然歩道に出る。相当気温が低いと見えて、登りでかいた汗が直ぐ冷えて肌寒い。
甘酒で暖まろうと峠の茶屋に入る。江戸時代からある古い茶店だそうで、のんびりしていて甘酒一杯飲むのに30分もかかってしまう。店を出て誓多林集落入り口の神社横から芳山を目指す。入り口に標識も無く、竹林を抜け茶畑を横に見て、山間の田圃の畦を通り、行きつ戻りつうろうろ道を捜す。草に埋もれるような小さな道標を見付けやれやれ。胸を突く急坂を登り稜線に出て、展望のない518Mの芳山頂上に立つ。
また石仏を捜しにかなり稜線を歩いた後、穏やかなお顔の石仏を見付け、前の台地で湯を沸かし昼食。ゆっくり1時間を過ごし、雪でも落ちてきそうな空になってきたので円成寺への予定を変更して、途中、穴仏を見て春日林道を下る。例年の初歩きに比べ歩き甲斐があったが、低山でも地図と磁石は必要な事を再認識した。
【コースタイム】千日町発 9:00…高畑駐車場 9:30…夕日観音10:30…首切地蔵10:57…峠の茶屋11:4~12:16…芳山頂上13:10…芳山石仏13:30~14:30…妙見宮15:47…高畑駐車場16:30…千日町帰着17:00
2012年1月14日 平群・仁王山(OSR)
大阪と奈良を隔てる生駒・金剛・和泉山脈の北部。西の生駒山地、東の矢田丘陵に挟まれた小盆地の間を南北に竜田川が流れています。ここは平群谷と呼ばれ古代の豪族・平群氏の本願地でした。今も古い寺社、古墳などが残された歴史の薫り高いところですが、最近は大阪のベッドタウンとして急速に変貌しつつあります。曇り空の土曜日、この平群(へぐり)にある椿井山城址を巡るウォーキングにお誘いを受けました。平群神社の近くSさんのお宅に余計な荷物は置かせて頂いて、総勢9名でスタート。最近はご無沙汰していましたが、皆さん古い顔馴染みの山仲間です。楽しく語り合いながら15分ほど歩いて協和橋で竜田川を渡り、椿井集落に入ります。
椿井線刻石仏 頭に平らな石を乗せているので笠石仏と呼ばれています。地元では弥勒菩薩と伝わる右向きの仏像が彫られていますが、顔から胸の辺りにかけては信仰する里の人が撫でさすって擦り減っています。また昔はこの石仏に牛馬をつないだらしく、引き倒されて胸のところで折れた跡が見られます。鎌倉時代のものと思われます。ここから集落の中の坂道を登り、途中、右手にある古い墓地に寄り道しました。石仏から300mほどで常念寺の横に来ます。左上に椿井春日神社が見えます。
見下ろすと平群の里がもう下に、正面に信貴山の特徴的な姿が見えます。
椿井井戸 ここの地名の由来になった井戸です。聖徳太子が物部守屋を征伐した時、太子軍の将軍・平群神手が椿の杖を突き立て戦勝祈願をしました。すると一夜にして杖が芽吹いて葉が茂り、その下から清らかな泉が湧き出したといいます。この水を聖徳太子以下の将兵が飲んで意気大いに上がり、物部軍を打ち破ったという伝説の地です。
平成の今も、底の見えるほど美しい水が滾々と湧き続けています。
左に折れ春日神社の下を行くと、白石畑を経て松尾寺に続く古い松尾詣りの道にでますが、今日は直進して宮表山古墳の下を登ります。椿井城址に続くこの道は、二年以上にわたって地元有志の方々が整備され、昨年11月に完成したばかりです。以前のBLOGを見ると、城跡に登るのに踏み跡すら判っきりせず、藪漕ぎなどで大変だった様子がうかがわれます。今では途中の分岐に真新しい標識も設置されて、迷うこともなく尾根に出ました。左に少し登ると南廓址の標識がある平坦地(地図上の標高205m地点?)に出ました。
椿井城はもと土豪・椿井氏の山城で、のち島左近(大和の戦国大名・筒井氏、後に石田三成に仕えた戦国武将)が城としての体裁を整えたとされてきました。しかし、それを実証する史料はなく、最近では信貴山城の出城として松永弾正久秀との関わりを唱える説も出ています。南郭跡から北の主廓址まで約350mにわたって、尾根の上に点々と郭や横堀や土塁や土橋などが設けられていました。現在では所々に石垣の址が見られるだけで、辛うじて表示板で「郭」のあとが分かるだけでした。
尾根を北へ進んでいくと、何か所かこのような「堀切」に出会います。「縄張り図」によると全部で五ヶ所の堀切で遮断し、敵の侵入に備える防御線としていたようです。
新しいロープが取り付けられたおかげで、冒険ごっこのように楽しく登り降りしながら標高243mの北廓址に来ました。小広い平地になっていて、右手(東側)に小さな谷を挟んで矢田丘陵の最南端部が見えます。目の下には「じんあい焼却場」の白い建物と塵埃を保管するトタンの囲み。建物前の車道を左(北)へ行くと、谷間の集落白石畑にでます。ここまでは以前、道を探しながらきたことがあります。白石畑から松尾寺の切通しまでは、それほど遠くありません。
こんな木の瘤がありました。コアラが寝ているような形をしています。ネットで調べると、やはりコアラに見えるようで「コブリン」という綽名までついているとか、知る人ぞ知る人気者です。この北廓址で道はぷっつりと途絶えました。右も左も切り立った絶壁で降りられそうもありません。唯一、北に続く雑木林の小尾根を灌木を手掛かりに遮二無二下ります。地図によると椿井春日神社から白石畑に抜ける「松尾道」(近畿自然歩道になっています)に出るはずです。灌木に縋りながら急坂を下ると、次は密集したササ藪漕ぎ。なんとか下りきって水の流れる沢に下りましたが道はありません。対岸の斜面をトラバース気味に下ります。フユイチゴの実が赤く艶やかに光っていました。北廓址から藪漕ぎ30分あまり、
この写真の少し上部で「松尾道」に出ました。先ほどの沢は大きな岩石が重なっていて通過はまず不可能。斜面のトラバースは正解でした。ふわふわの落ち葉を踏んで降っていくと「近畿自然歩道」の標識がありました。
さらに下って平等寺の集落に入りました。「右 松尾寺」への古い石の道標のある場所から振り返ったことろです。電柱の上のピークが北廓址(243m峰)、南廓址は右に続く稜線のさらに右になります。北廓址の左、Ⅴ字形の切れ込みから下ってきました。国道を渡って「道の駅」に立ち寄ったあと、Sさんのお宅にお邪魔して大宴会。山の話で盛り上がり、可愛いお孫さんと遊んだりして、日が暮れるまで時間の経つのを忘れて楽しく過ごさせて頂きました。竜田川駅への途中、ふと見ると信貴山の上に空鉢堂の灯りがぽつんと一つ、星のように輝いていました。
*過去の今日はどこの山に登っていたかを振り返ってみました。このシリーズは新しい山行報告ではなく、かなり古い記録や写真も含んでいます。山行の際には、必ず最新の情報をご参考ください。*