ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

大和郡山盆梅展

2012-02-29 13:08:04 | 今日の大和民俗公園


2月28日「大和な雛まつり」を見た後、郡山城址で開かれている「盆梅展」に行きました。
毎年見に行く盆梅展ですが、第9回目になる今年は寒さのために開花状況が遅れています。中央に見える追手門の両脇にも大きな盆梅が置かれていますが、まだ咲き始めたばかりでした。



会場は城址に復元された追手門、追手門向櫓、多門櫓ですが、室内に入ると馥郁としたウメの香りに包まれます。



市内の造園業者が丹精込めて育てた「盆梅」約120鉢が櫓の中に展示されています。



そして一鉢一鉢には名前が付けられています。これは、いかにもこの時期にふさわしい「早春」







「聖」



「悠妃」一鉢に紅白のウメが見られる、この盆梅展の代表的な盆栽です。たしか樹齢400年?!



小ぶりながら美しい「霧氷」。私たちの大好きな名前のウメ。



盆梅には、このように小さい鉢植えにしたものと…



先の「悠妃」やこの「瑞光」のように、大きな鉢に植えて長い期間育て続けたものがあります。



最後に大和郡山に関係の深い名のウメを見て頂きます。「順慶」
筒井順慶は戦国時代の武将で大和筒井城主(現大和郡山市筒井町)でした。1580(天正8)年、織田信長に大和の支配を許され、郡山城に入ります。同時に大和の国の郡山城以外の城の破却が命じられたので、筒井城を廃して当時は「館」程度の規模だった大和郡山城を戦国城郭とするため大普請を行って整備しました。この時、奈良中の大工を集め、多門城から巨石を運んだという記録が残っています。



「秀長」このBLOGでも再三、登場する豊臣秀吉の弟、大納言。
筒井順慶が築城後3年で没し、二代目定次も秀吉の命令で伊賀に国替えとなります。天正13年(1584)秀長が大和・和泉・紀伊三ヶ国百万石の大大名として入城します。秀長は城下町を整備すると同時に、より本格的な城造りを目指します。城門は紀州根来寺の大門を運び、石垣の石は大和国内の石地蔵・五輪塔までも集めて転用されました。その様子は今も石垣に「さかさ地蔵」があることで残っています。

外に出ると城内の枝垂れウメなどは、ようやく蕾が色付き始めたばかりでした。いつもなら屋外と室内、両方の花が楽しめるのですが…。
今年の「盆梅展」は寒冷な気温のため、終了日が3月11日まで延期されました。



歩いて家に帰る途中、菜の花が咲いていました。緑の葉と黄色の花のコントラストが美しく、本格的な春が近いことを知らせているようでした。

大和な雛祭り2 (2012.02.28)

2012-02-28 16:22:55 | Weblog
前回の城下町散策から早や10日。寒の戻りの昨日から一変、すっかり春めいたお天気になりました。
10時前からWalkingを兼ねて旧市街地へ行きました。近鉄郡山駅前商店街から柳町へ入ります。新聞などで紹介されたためか、前回よりもカメラを提げた人などが多く、あとでは団体の観光客にも出会いました。



柳楽屋。元黒田ガラス店を改造した天井の組木、古いガラス戸が特徴的な建物です。市商工会青年部の皆さんや奈良佐保短期大学の学生さんが共同で運営し、地元産の野菜や駄菓子などを販売しています。25日からシネマサンシャイン大和郡山で先行ロードショー中の、郡山を舞台にした映画「茜色の約束」(中村獅童他)のロケも行われました。



柳楽屋のお雛様です。



菊屋。柳町商店街の北突き当り左角にあります。木造厨子(つし…物入れを持つ)二階建。江戸後期の建築で県下最古の老舗和菓子屋さんです。表の床几は折り畳み式です。



店先に古い茶釜がでんと座る店内の様子です。



壁だけでなく天井にも干菓子の木形が所狭しと並んでいます。



菊屋のお雛様



右(東)に折れて今井町に入ります。山和タンス店のお雛様。



藺町線に出て北へ。火の見櫓の下を通り「まいどホール」(大和郡山市商工会館の愛称)に来ました。



ふだん1階は市の名産・特産品を紹介・展示するコーナーですが、この時期は各会員店舗やお寺からも古いお雛様を出展しています。











市内で「大和で雛まつり」に参加している店舗・事業所は63店。とても全部は見て回れません。
この辺りで切り上げて、次は大和郡山城址で開催中の「盆梅展」に向かいます。

わが家のお雛さま

2012-02-24 07:00:00 | 我が家の歳時記


♀ペンの持ってきた古式床しい?七段飾りのお雛様はお隠れになったので、今年も各地の郷土玩具のお雛様がお出ましです。



「淡嶋神社のお雛様」
和歌山県加太町。境内一円には人形供養で奉納された2万体ともいわれる人形があり、流し雛の風習が残っています。昭和54年(1979)に参拝した時がたまたま千七百年祭にあたり、その際の難波~加太間記念乗車券です。



「鳥取の流しびな」
赤紙の衣に金の袴、烏帽子姿の白い模様で青竹に十組の夫婦が挟んであります。3月の桃の節句に買い求めて去年買った雛を「おしき」に乗せて、菱餅や桃の花などを添えて厄除けとともに願いを乗せて川に流す風習があります。



「赤膚焼のお雛様」
豊臣秀長が大和郡山城主の時、五条村赤膚山(現在は奈良市赤膚町五条山)に開窯したと伝えられ、大和郡山市内に窯元が点在しています。これは中でも有名な小川二楽窯のものです。



「古代吉野雛」(土鈴)
奈良県吉野町。大海人王子(天武天皇)が吉野離宮におられた頃、吉野の豪族が桜の樹で人形を作り献上したのが始まりと言われています。また南北朝時代には吉野行宮で不遇をかこつ後醍醐天皇をお慰めしたと言われています。



「古代吉野雛」(立雛)
古式床しい衣冠束帯に身を包み、衣装にサクラの花模様が入っているのが特徴です。これも土雛。



「紀州雛」
和歌山海南市特産の紀州漆器のお雛様。室町時代に紀州木地師によって渋地碗がつくられたことが始まりとされています。この盃は木製の木地に漆を刷毛塗りして筆で蒔絵を施した「宗家寺下」のもの。盃の内面は赤地で金色の葵の紋が入っています。



「大内雛」
山口県。室町時代周防と長門の国は大内氏が治め、中国との貿易などで栄えました。大内人形は24代大内弘世が、京の三条家から嫁に迎えたが都を恋しがるののを慰めるめるために、京から呼び寄せた人形師に人形を作らせて屋敷中を人形を飾ったという話から生まれました。商品化されたのは大正時代からのようです。丸顔におちょぼ口、切れ長の目もとが特徴とか…。



「佐土原人形のお雛様」
宮崎県。日向の国佐土原に島津藩主が陶工を迎え入れて始まったとされています。様々な土人形のうち、代表的なものは「饅頭喰い」でこの人形も我が家にあります。



「陶器製のお雛様」



「和紙のお雛様」



他にもまだありますがこの辺で…オマケに今年の干支「辰さん」三題です。

2月23日は富士山の日

2012-02-22 15:56:11 | 読書日記
昨2011年12月、静岡県と山梨県が毎年2月23日を「富士山の日」とすることを条例で制定しました。世界遺産への登録を目指して、単なる語呂合わせから本格的なイベントへと動き出したようです。昨年は私たちの登った「ふるさと富士」を見て頂きました。
今年はわが家にある「富士山をテーマにした本」の一部を、発行年の古いものからご紹介します。



泉 晶彦著 「富士霊異記」-湖・山頂・樹海の神秘  昭和49(1974)年 白金書房 B5判
「富士山は天孫降臨の聖地であった」にはじまり「河口湖の小島には古代人がいた」(第1章 富士山を巡る人と伝説)、「富士山のクマは葬式をする」「フジギツネは尻尾から火を出して人を騙す」(第2章 富士山に棲む生物たち)「UFOは富士に集中して飛来している」「富士五湖には河童がいるという噂がある」「富士山麓にはウロコ人間がいる」(第3章 富士山の超科学現象)と目次のごく一部を列挙すると、興味本位のいい加減な本のように見えます。
 しかし、著書の本当に書きたかったのは、第4章の「富士山の地質と気象」だったのは明らかです。過去の富士山噴火の歴史から近い将来の大噴火を警告し、大沢崩れや砂走りに富士山崩壊の予兆を見、「富士山の自然破壊は東海の水産資源を壊滅させる」が最後の節になっています。すでにプロローグで「富士山信仰の衰退は日本を滅ぼす」と語った筆者の「(これまで)必要以上に富士山から奪うことをせずに自然を保全してきた」畏敬の対象・富士山への思い、「富士山に慈悲を」の悲痛な自然保護の訴えとして、この本読みました。



朝日新聞社編 「富士山全案内」All About Mt.Fuji 昭和60(1985)年 A4変形
山麓一周のウォーキングに始まり、サイクリング、ドライブ、各登山口からの登頂コースなどのガイドから、植物・動物・気象・地質の自然、文学・芸術・宗教の文化面など様々な角度から富士山を紹介しています。
富士山周辺のビューポイントも参考になりますが、私には特に「富士山の好展望台50山」が興味深かったです。この本のお蔭で青笹、浜石岳、竜爪岳、パノラマ台、足和田山、大菩薩嶺、石割山…など、いくつかの山の名を知り、登頂することができました。



大貫金吾著「限りなきオマージュ『富士山』400回までの登頂記録」 2001年 ごま書房 B5判
1930年生まれの著者は25歳の時、初めて富士山に登ります。65歳のお母さんが「生きているうちに富士山に登りたい」と言われたことがきっかけでした。その後400回を数えるまで47年間の登頂の様子を毎日克明に記録。本書には、そのうちの約4割が掲載されています。気象条件によって同じ季節でも異なった顔を見せる富士山に、バリエーションルートを含む様々なコースから登頂することで、「ひとつとして同じ顔のない感動のドラマ(帯の推薦文より)」が展開します。11回に及ぶ元旦登山、田子の浦から剣ヶ峰往復…とにかく凄い記録の連続です。
大貫さんには2004年10月、富士宮口登山道の七合目で立ち話をして以来お目にかかっていませんが、今も元気で登り続けられていることと思います。



NATIONAL GEOGRAPHIC  特集「日本のシンボル」富士山 平成14(2002)年8月号 雑誌
表紙写真の元となった特集最初のページの写真には、上部の富士山に「日本を象徴する神聖なる山」、下部の人形に「-そしてその世俗的な面」の文字が入っています。娯楽施設(これは前年既に閉園になっていたテーマパークのガリバー)が神聖な山の周辺にあることを揶揄しているような写真です。
 しかし全体の内容は、富士を愛する日本人の心を見事に伝えています。世俗的というのは、富士ゼロックスや富士フィルムのような大企業を始め数百の会社、商品のロゴに使われていることの他、富士急ハイランドや富士サファリパークなどの商業施設が周辺にあること…などですが、これも「地元の雇用維持に欠かせない役割」と好意的です。写真もこの一枚を除けば、「富士山御神火まつり」「積雪期の上空からの火口」「午前2時山頂を目指す人の列」などみな美しいものでした。
筆者は二度目の富士登山を果たし、ご来光を見る人たちの万歳を聞き、小児ガンの人々の富士登山イベントを取材して、記事の最後をこう締めくくっています。「『富士に二度登るバカ』という言葉を改めるべき時ではないか。私は富士に登る機会を再び与えられたおかげで、気がついたのだ。多くの人々が日本の象徴である富士と対峙して自分を見つめ直すことで、精神的にひとまわり大きくなるということを」。
それだけに、この表紙は返す返すも残念です。



畠堀操八著 「富士山村山古道を歩く」 平成18(2006)年 風濤社刊 B5判
「村山道」は1000年前の平安末期に開かれた最古の富士山登山道です。海抜0メートルの田子の浦から村山浅間神社、さらに旧三合石室を経て新六合目・現在の富士宮登山道まで。かって村山修験と呼ばれた人だけでなく、江戸時代には英国公使・オールコックを始め、多くの人がこのルートを辿っています。100年前に廃道になっていたこの古道を、地元・村山の人とともに復活させたのが畠堀さんです。
この本が出版された年の9月、いつもお世話になる富士宮新六合目の宝永山荘でたまたま隣り合わせに寝ることになり、そのとき売店に置いてあったこの本にサインして貰いました。彼は多くを語りませんが、後で本を読んでみて、生い茂るスズタケやブッシュ、倒木と戦いながら道を切り開いていく様子に大きな感動を覚えました。
昨(2011)年9月、仲秋の明月の夜に数人のパーティで古道を登ってきた畠堀さんと山荘で再会。月光の下で「村山古道」に対する行政の動きへの不満など、いろいろな話を聞かせて頂きました。
*「村山古道」に対する行政の動き=1.静岡森林管理署は「国有林への立ち入り禁止」を主張し、地元民の立てた道標の撤去を求めている。 2.世界文化遺産の登録を前に。「修験道遺跡」の保護と調査を理由に、地元住民を含めた村山古道への立ち入り禁止を求めている。など…詳しくはこちらをご覧ください。




小林朝夫著 「富士山99の謎」   平成20(2008)年  彩図社  文庫
副題に「知れば知るほど魅力が増す富士山の秘密」とありますが、「謎」というには大げさなほど常識的な話題が多い、いわゆる雑学本です。たとえば「富士山にはゴミが溢れている!」「ブーム必至?富士山ナンバー!?」「富士山がよく見えるのはいつ?」「富士登山に必要なものは?」「山頂お鉢巡りとは?」。!や?は付いていますが、謎でもなんでもないでしょう。1~2ページのコラムの集積で、最後の99番目の謎は「山頂ラーメンのお値段は?」でした。
BOOK OFFで105円で買った本ではありますが、拾い読みしてみると新しい発見もあります。「富士山の日」を最初に制定したのが、富士河口湖町であることを始めて知りました。



実川欣伸著「富士山に千回登りました」 平成23(2011)年 日本経済新聞出版社 日経プレミアシリーズ

この本については昨年9月4日に、このBLOGでご紹介しました

その最後に「今年も宝永山荘で、この素晴らしい笑顔に出会えることを楽しみにしています。」と書いたのですが、その通りに昨年の富士山登山で偶然、別のルートから下りてきた実川さんにバッタリ出会い、一緒に宝永山荘に入りました。奇しくも彼の「1111回目」の記念すべき登山の後でした。(この時の様子はこちらで…)。その後も、着々と記録を更新中と思います。またエベレストへの挑戦も楽しみにエールを送ります。

古民家でひな祭り(2012.02.21)

2012-02-22 07:00:00 | 今日の大和民俗公園


今年も大和民俗公園の旧臼井家で「古民家でひな祭り」が開かれています。



ウォーキングの途中に見せて頂きました。



今年のウエルカム・ボードはタイサンボクの実で作られた「鶴とウリ坊」



これは木にあった頃の実(2011.11月)



そして芳香を放っていた花です。(2011.6月)



竹のお雛様はお顔を隠しているよう…(写し方が下手なだけですが)



お雛様を見たあと公園内を一周。旧松井家では屋根の葺き替え中でした。

なにこれ- 駅の中に墓

2012-02-21 08:49:53 | 今日の大和民俗公園


19日、河内飯盛山に登った帰り、野崎観音前から近鉄バスに乗りました。バスは昔住んでいた村(今は立派な町)を通り、東高野街道を南へ進みます。終点の瓢箪山駅前で下車。ここから近鉄奈良線に乗ります。駅のホームに、こんなものがありました。ン、この朝、小楠公御墓所に詣うでたばかりなのに、ここにもお墓?
不思議に思って「往生院」の文字をたよりに少し調べてみました。

実は楠正行のお墓と伝えられているところは他にも何か所かあり、近くの額田(ぬかた)に首塚がある他、宇治や遠くは鹿児島県甑島(こしきじま)にもあるそうです。

そのうち河内往生院(瓢箪山駅の東南、約1.5km)は、正行が幼少期をここで過ごし学問、武芸に励んだ処であり、また正平3年(1348)の戦いではこの寺に本陣を置いて高師直と対したと言われています。

わたしは中学生の頃から自分の住んでいる「四条村」の南、やはり東高野街道沿いの当時の中河内郡(現東大阪市)に「四条」「縄手」という地名があるのを、なんとなく不思議に思っていました。飯盛山の下にある「四条畷」は古くは「讃良(さんら)郡」に属していました。ついでですが、私は戦後の学制改革でできた新制中学校の一期生で、その時の学校名は「大阪府北河内郡学校組合立讃良中学校」でした。(二年生の時は四条村立中学校にかわりましたが…。)

「四条畷」の戦いは讃良四条畷ではなくて、「四条縄手」の戦いであったのかも知れません。それにしても駅の中に何故こんな墓があるのでしょう?

故郷の低山-河内飯盛山に登る(2012. 02. 19)

2012-02-20 17:28:33 | 山日記
飯盛の山を仰げと襟にゆかし楠の香りよ…母校(高校)の校歌である。

私(変愚院)の生まれは大阪市内だが、国民学校(小学)5年生のとき北河内郡四条村(現大東市)に疎開して、小、中学校と終戦前後の多難な時代を過ごした。その後も高校、大学、そして就職と、新婚時代の2年間を除くと1969年まで25年間をここで暮らした。飯盛山には数え切れぬくらい登っているが、2003年に♀ペンと一緒に登ったときは東側(室池)からだったので、今日は久しぶりに正面の四条畷神社から登る。

四条畷でバスを下りて少し北に歩くと、小楠公御墓所と四条畷神社を東西に結ぶ商店街にでる。左に折れてJR片町線の踏切を渡り、まずは商店街の突き当りにある小楠公御墓所へお参りする。



「吉野をいでてうち向かう 飯盛山の松風に…」(唱歌・四条畷)

「小楠公」とは河内の郷士・楠木正成(大楠公)の嫡子である楠木正行の尊称である。
兵庫湊川で戦死した父・正成の遺志を継いで、南朝方として足利幕府軍と戦った楠木正行は、正平三年(1348年)に河内国四条縄手の戦いで足利方の高師直の大軍と戦って敗北し、弟の正時と刺し違えて自害した。



戦死した地とされている此処(異説あり)には当初、小さな石碑があったが、ほぼ100年後にその両脇に植えられた楠が今は合体して樹齢550年の大楠となった。60年前の私は毎日、この前を通って高校へ通学していた。学校の門を入ったところにも大きな楠が植えられていた。さて参拝をすませて、すっかり様相の変わった商店街を引き返し、踏切を渡って直進して正面に見える飯盛山へ。高校の帰りに寄った喫茶店、成人したあとでよく行った立ち飲み屋…なじみの店が一軒も残っていないのが淋しい。



東高野街道(国道170号線)を渡り鳥居を潜って広い参道を約600m、緩やかに登っていく。両側に続いていた筈の松並木はところどころに面影を残しているだけ。変わって新しい住宅が目に付く。



ここが神社の入口。階段を登ると左手が境内、社殿は南を向いている。墓地は東向きなので正対していない。



拝殿。主祭神は楠木正行、弟正時以下一族の将士24人を配祀している。明治23年、別格官幣社として創設された神社で戦意高揚にも利用されたが、私たち近辺の住民にとっては「なんこうさん」として親しんだ神社である。左手には正行の母・久子を祀る御妣神社がある。



境内東側の「桜井の別れ」像
湊川の戦いに臨む正茂(右)が、従軍を願う正行に天皇から贈られた短刀を渡し、「父なきあとわが意志を継いで天皇を守れ。それが汝の孝行だ」と諭す場面。「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕間暮れ…正成涙を打ち払いわが子正行呼び寄せて…」この唱歌「桜井の訣別」もよく歌った。

境内を出て神社南端から山に入る。笹原の中に続く旧登山道は「法面崩壊のため通行禁止。新登山道を…」の表示がある。どうも無視して歩かれているようだが、新しい道にも興味があるので標識に従って左に入る。道はまず南北に走る主稜線の西側斜面を等高線に沿うように北東に進む。左手斜面が開け梅林が造成中である。2003年に登った北の御机神社からの道(ほぼ主稜線沿い)に出合うまでには少し距離があるようだ。少し先にある分岐で右の雑木林をジグザグに登る踏み跡に入る。私たちの後から来た人があり、そのまま直進して行った。踏み跡はすぐにしっかりした登山道に合わさって、下りてきた人に出会う。毎日登る人が多いようで、どちらも軽装である。道は何度も分岐するが、ともかく高みを目指して登る。ときどき林が切れると展望が開け、下の町が次第に低くなっていく。



神社の登山口から35分で格好の展望台に出た。
南北の尾根上に並ぶ飯盛山城遺構のうち北端にあたる「二の丸廓」の一角である。見渡すと大東・四条畷の市街地の向こうに大阪のビル群。遠く六甲から北摂にかけての山々が霞んでいる。昔に比べると周囲の建物が増えたので、母校を探すのにやや手間取った。左右に一直線に伸びる白い線は第二京阪道路で、これは初めて見る眺めであった。
少し先の大きな岩塊が積み重なったところには「登山200回記念碑」が立っている。ここが「二の丸御体塚廓」。ここを下ると小さな石垣が残り、左は楠公寺へ200mの標識があった。山頂へは直進300mで、ここから先が本丸になる。三本松廓、蔵屋敷廓と少しづつ登っていき、



木の階段を登ると、展望台があり数人のハイカーが休んでいた。



さらに一段上が本丸高櫓廓のあった山頂で、楠正行の銅像が立っている。314.3mの三角点は周囲を探したが見つからなかった。小楠公銅像は背に太陽を背負って完全に逆光なので、横から写真を撮った。少し風があり汗が引くと寒さを感じたので南ヘ進み、ロープの下がっている急坂を下る。鞍部からも楠公寺へ下る道があり、舗装路を登っていくと右手にNHKと802のFM送信所がある。ここは本丸千畳敷廓。飯盛城は南北朝時代に始まり、室町時代の三好長慶が畿内経営の本拠として全盛期を迎えたが、信長によって廃城となった。南北1200mに及ぶ山稜に70もの廓が並ぶ巨大な山城であった。(以上、山頂に設置された大東市教育委員会の「飯盛城」案内板を参照した。)送信所を過ぎると南丸、城の入口「虎口」で城跡は終わる。市民植樹が行われている広場では、大グループのハイカーが食事中だった。私たちもしばらく腰を下ろしてコーヒータイムにする。



昼が近くなったためか南側から登ってくるハイカーが多くなった。こちらからの人はしっかりした装備の人が多い。桜池、尻池への道を左に分け「大東の杜ハイキングコース」に入る。さらに分岐があるが、右へ「竹林コース」を下る。林の中の緩やかな下りから次の分岐で急な坂道となり、美しい竹林の中を行く。清らかな流れに小さな水車を回す「ちくりんの水」が三か所あり、山神の祠を過ぎると右から下ってきた「絵日傘コース」と合流する。左手の流れに沿って下り、車道が登ってきているところで橋を渡って左の山道に入る。ここから少し登ると観音峠の標識があった。右に展望台らしい所が見えるので登ってみる。



展望広場には「野崎城址」の表示があった。飯盛山南西の尾根上にあり、眼下に東高野街道を見下ろす軍事上の要衝であったらしく、太平記にも登場する南北朝の頃築かれ、飯盛城が栄えた16世紀には出城の役割を果たしたという。この野崎城については初めて知った。展望台のある廓の下にも二つの廓址があり、それぞれ展望が良い。眼下にかって学んだ小学校(今は統廃合されてコミュニティセンターへ衣替え中)、その向こうに大東市街、さらに向こうには「なみはやドーム」や大阪のビル群が見える。大阪城はしばらく探しても見つからなかった。最後の廓址には九重石塔が立っている。100mほど先に吊り橋があるというので見に行ったが短いものだった。石塔に帰り少し下りると、野崎観音境内の鐘楼横にでた。



正しくは福聚山慈眼寺という禅寺だが、東海林太郎の「野崎小唄」や落語の「野崎詣り」、新版歌祭文~野崎村の段「お染久松」有名である。幼い頃から「のざきのかんのんさん」で親しみ、5月1日から10日までの「のざきまいり」は参道にずらりと屋台が並び、特に8日の無縁経法要の日は「ようかび」といって小・中学校が休校だった。新制中学ができたばかりの1年生の頃、図書館の本の費用捻出のために、工作の時間に造った屋形船を境内で売ったことがある。また本尊の十一面観音は行基作と伝えられ、縁結び・安産・子授けのご利益があるといわれている。息子が生まれる前の安産祈願に行って腹帯を頂いたのもこの寺である。



お染久松の墓。前の池の畔にウメの花が綻び始めていた。
山門を出て参道を下り東高野街道のバス停で、懐かしい故郷の低山歩きを終えた。様々な思い出とともに新しい発見もあり、短いが充実した山歩きだった。

<コースタイム> 四条畷(近鉄バス)09:33…小楠公御墓所09:40~09:45…四条畷神社10:00~10:10…二の丸廓址10:45~10:50…飯盛山11:00~11:20…竹林コース入口11:30…野崎城址12:00~12:05…野崎観音12:20~12:30…野崎観音前(近鉄バス)12:35

至る所に金魚が…(城下町散策2)

2012-02-18 17:57:12 | Weblog


郡山市街地を南北に貫く道路・藺町(いのまち)線。昨年、拡張工事が行われ道路両側の家屋も城下町らしく統一されて、見違えるようになりました。これは北端に近い「火の見櫓」です。



箱本館「紺屋」から藺町線に出たところから少し南に歩きます。この歩道上の道標のあるところの交差点角に源九郎餅本舗「中嶋」があります。



昔ながらの美味しい焼き餅。ちょっと待って焼き上がったばかりを買い求めました。



「源九郎餅」の名はすぐ近くの「源九郎稲荷」から来ています。頼朝に追われた義経が吉野山に逃れたとき、佐藤忠信に化けた白狐が静御前を守りました。静御前の持っている鼓がこの狐の親の皮でできていたためでしたが、その心を愛でた義経は自分の名「源九郎」を許したといいます。(写真は2007年の同神社「白狐お渡り」の様子)



それでは藺町(いのまち)線を北へ歩きます。「金魚の町」大和郡山だけに、どこでも金魚だらけ。
電柱に埋め込まれた金魚は名物の赤膚焼です。





電柱ごとに変わるデザイン



足元にも金魚



箱本十三町観光案内所。ここで頂いたパンフレットによると、秀長は城下の商工業を振興するために地子免除などの自治特権を記した文書を御朱印箱に納め、各町を一ヶ月ごとに持ち回らせて「箱本」と呼び、その代りに火消、伝馬などの義務を担わせました。ちなみに内町十三町は「本町・今井町・藺町・柳町・堺町・茶屋町・豆腐町・魚塩町・材木町・雑穀町・綿町・紺屋町」です。
この入口にも金魚が置いてあります。



案内所の中ではボランティアの方が、懸命に紙のお雛様を作っておられました。パンフレットとともに渡されて、「孫が喜びます」というと「お孫さんは何人ですか」と聞かれて三対も下さいました。



横の蔵を開けて見せて下さったお雛様です。



本町の通りを左に折れると、国の登録有形文化財の大正期の建物があります。屋根の尖塔が特徴的なドイツ風の建物は、娘が子供の頃にお世話になったことのある「杉山小児科医院」です。



この通りをまっすぐ西に歩くと郡山城址です。今、「盆梅展」が開かれていますが、受付で聞くと「まだ咲き始め」だそうで出直すことにしました。外堀の散策路を通って帰りました。途中で激しく雪が舞いましたが、家に帰り着く頃には暖かい陽射しが戻ってきました。12,000歩あまりの城下町ウォークでした。

大和な雛祭り(城下町散策1)

2012-02-18 17:16:56 | Weblog


大和郡山市で今年から始まったイベントです。2月11日~3月4日の間、市内の商店、町屋、観光施設などに飾られた雛人形を町を巡りながら楽しみます。今日は散歩を兼ねて、まず柳町商店街へ行きました。
これは宝石・眼鏡店の店先。



魚屋さんの店先のお雛様。



少し先で紺屋町に入りました。郡山の代表的なお土産屋「こちくや」さん。「こちく」は大和郡山城主であった豊臣秀長(秀吉の弟)の幼名です。左のビニールで囲ってある奥は「金魚すくい道場」。ここで腕を磨いた子供たちは夏の「全国金魚すくい選手権大会」で活躍します。



こちくやさんのお雛飾り。



箱本館「紺屋」江戸後期の元藍染屋「柳宗」の建物です。
「箱本」とは町中の自治組織のこと。治安、消火、伝馬などの任務を課せられる代わりに地子(土地に対する課税)を免除されていました。ここ紺屋町を含め「内町十三町」で始まりました。



藍染に使われた大きな甕(かめ)



この土間を通り抜けると奥に藍染工房があり、藍染の体験もできます。



大きな藍染の金魚の下に飾られた…



「紺屋」の雛飾りです。町歩きはまだ続きます。

芥川賞受賞作を読む

2012-02-17 08:57:55 | 読書日記
2月14日の毎日新聞によれば田中慎弥の芥川賞受賞作「共喰い」が20万部を売り上げる大ヒットになっているようです。

田中さんは4度の落選のあと、5作目のこの作品で受賞。記者会見での発言…
「(受賞を)断って(石原氏が)倒れたら都政が混乱する。都知事閣下と都民各位のためにもらってやる」が話題になりました。

会見内容詳細はこちら→産経新聞1月19日号

下関の工業高校卒業後、職に就かず自宅でカレンダーの裏などに下書きしたものを、パソコンを使わずすべて手書きで仕上げたといいます。

今年の受賞作は二編でもう一つは、円城 塔の「道化師の蝶」。こちらも受賞決定からわずか2週間で電子書籍化されるという人気です。
円城さんは東北大理学部卒業後、東大大学院総合文化研究科博士課程修了。受賞者インタビューによると「お金が欲しくて投稿した」「趣味は編み物」という変わった方です。



この二作を同時に読めるのはこの雑誌。新刊書を書棚に並べることはあまりないので、直木賞作品を読みたいときは、これで済ませています。
さて読後の感想ですが…

「共喰い」…「川辺」といわれる狭い地域の範囲で繰り広げられる男女の営み、荒々しい性と暴力の生々しい描写。私のあまり好きでないタイプの小説です。しかし九州弁のおかげか、ユーモアのスパイスもあって救われます。並々ならぬ筆力でぐいぐい最後のクライマックスまで引っ張られていきました。特に溝川の匂いが紙面から漂うような描写で、鎖に繋がれた赤犬、巨大な虎猫、鷺、船虫、蝸牛…そして釣り上げた鰻、これら小道具的な動物たちが印象的でした。

「道化師の蝶」…確かに難解な小説です。「私」が章ごとに入れ替わり、また立ち替わりして、まるで夢の中か迷宮をさまよう感じです。しかし無理に全体の構成や筋道を理解しようとせずに、その章ごとの文章を楽しんでいれば飛び抜けて難しいというほどでもありません。もっと難解な文学作品は無数にありますし、訳の分らないSFもたくさん読みました。選考委員の川上弘美さんが、この作品を「シュレーディンガーの猫」を引き合いに出して推奨していましたが、私は表と裏が判然としない「メビウスの帯」を思い浮かべました。あとで筆者のインタビュー記事を読むと、円城さんは喫茶店でメビウスの輪を作ってみたりするそうです。やっぱりな~。ともかく奇妙な読後感の残る小説でした。



ちなみに表紙のイラストはポタラ宮。この地下に理想の仏教国「シャンバラ」への入口の一つがあるというお話をご存知でしょうか?(2006年撮影)