ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

早春・大和民俗公園(2015.02.27)

2015-02-27 17:24:08 | 今日の大和民俗公園

明後日からは弥生三月。午後から大和民俗公園へウォーキングに行きました。

正面入口から園内に入ると、枝垂れ梅が迎えてくれます。

向こうに見える白壁は町屋集落の移築民家群。

臼井家では古いお雛様が飾られています。

民俗博物館では四季折々の催しがありますが、今は「山の神への供え物」と

博物館所蔵品の他、奈良県下のご家庭から寄託された貴重なお雛様が展示されています。

御殿飾りや屏風飾りのお雛様の中には、古くは江戸末期から明治の頃のものもあります。

また民俗資料として貴重なお雛様も展示されていました。左上・石切劔箭神社の「夏越祓(なごしばらい)人形」、右上・淡島神社(和歌山加太)の流しびな、左下・奈良一刀彫りの豆雛、右下・木目込み雛<以上の館内展示物については撮影許可を得ています>

梅林のウメも次第に見頃になりました。

熊五郎狐さんのお墓の前に咲く白梅に見送られて公園を後にしました。


奈良の山あれこれ(11)~(14)

2015-02-24 21:30:48 | 四方山話

大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。

(11)高峰山   「天理市の最高峰」



同じ名前の山は桜井市にもありますが、ここでご紹介するのは大和高原にある一峰で、国道25号(名阪国道)の天理東インターチェンジ付近から正面に見える天理市で一番高い山です。この辺り、西側は春日山断層崖と呼ばれて急激に奈良盆地に落ち込んでいますが、東側は割合になだらかな地形になっています。



322.2mの頂上には2基の電波塔と三角点がありますが、 ヒノキ林の中で展望は得られません。奈良盆地からよく見える赤白まだらの鉄塔(高峰中継所)が建つ別のピークは、小さい谷を隔てて三角点ピークの北側にあり、別の林道が頂上まで通じています。中継所横からは城山や春日の芳山が望めました。

(12)国見山(国見岳)「地図に載らない<元>奈良市のエベレスト」
国見の名を持つ山は全国に数知れず、奈良だけでも何山かあります。ところが奈良市矢田原町と天理市福住町の境にあるこの山は、私の知る限り、どんな地図にも載っていないのです。標高は680mですが生駒山よりも40m高く、近年までは奈良市の最高峰だったので「奈良市のエベレスト」と呼ぶ人もいました。しかし2005年、都祁村が奈良市に併合されたため最高峰の座を貝ヶ平山(都祁村と宇陀市の境にある)に譲りました。



天理市別所から登ると塔ノ森の十三重塔(奈良時代のもの)を見て、666mの三等三角点(点名・長谷)を過ぎて1時間ほどで登れます。

山頂は広場でベンチやテーブルもあり、展望も良いところです。北側の登山口・矢田原の近くには古事記の編纂者・太安万侶の墓があります。

(13)大国見「平城京のあった大和国原を望む山」という意味の山名ですが標高は498m。





山頂に神名を刻んだ石と小さな祠があり、山腹にも大きな石が点在しています。山頂付近のものは古代信仰の磐座跡と考えられます。

山麓の桃尾滝(ももおのたき)は落差23m。大和名所図会では「滝」と記され「桃尾滝ともいふ」と書き添えられています。この辺りは古来「石上(いそのかみ)」と呼ばれ、布留川の上流に架かるので新古今集では「布留の滝」の名で、「今はまだ 行きても見ばや 石の上 ふるの滝津瀬跡をたづねて 後嵯峨天皇」と歌われています。現在も行場として打たれる人が多く、毎年「滝開き」の行事が行われています。

(14)竜王山「恨みのじゃんじゃん火」

竜王(竜神)は水の神様で、天理市と櫻井市の境にあるこの山も、国内に数多い同名の山と同じように、昔から雨乞いのために登られてきました。

頂上近くには、それぞれの登り口の地名を冠した「藤井竜王社」と「柳本竜王社」があります。この山は奈良盆地と大和高原を扼する要衝にあり、戦国末期の天文年間に土地の豪族・十市遠忠が山城を築きましたが、遠忠の子・遠勝のとき(永禄十一・1568年)、松永久秀に攻められ落城しました。「それから、今にも雨の降りそうな夏の晩に、城址に向かってホイホイと叫ぶと、城址の方から火の玉がジャンジャンと音を立てて飛んでくるという。」(天理市の説明板より)これは戦死した十市方の武士の人魂と恐れられました。

三角点(586m)のある山頂はその南城跡で、今は公園風に整備されています。大和平野を見下ろし、竜門山系や金剛、葛城、生駒の山並み、遠くは明石大橋まで望むことができます。

やや離れた標高521mピークにある北城跡には、土塁や石垣、竪堀などが残っています。

また、この辺りは古墳の多いところで、竜王山の登山道の途中にも「柳本古墳群」があり、円墳・方墳300基が残されています。

西山麓には我が国最古とされる「山辺(やまのべ)の道」が通り、道沿いの古刹・長岳寺は「釜口(かまのくち)の御大師さん」と呼ばれ、弘法大師の霊地として親しまれています。


56年前の今日(1959.02.22)

2015-02-22 10:07:27 | 過去の今日

56年前の今日、1959年2月22日。伯耆大山にいました。前夜、2尺4寸のキスリングを背負ったNと私は、卒業試験の教室からそのまま大阪駅に直行して、夜行列車に乗りました。

「0705 大山口。0745 大山寺で朝食後、08:40 発。細かい雪。2合目で雪止み快晴。正面登山道を登る。」

 九合目で監視員か指導員か知らぬが、腕章をつけた人が私たちを待ちかまえていて、「お前らは山を知らんのか。ここは雪崩の巣だぞ」とこっぴどく叱られました。

「1230 頂上小屋(‐2℃)。ラジュウス(コンロ)の調子が悪く、漏れた石油に引火」慌てて雪のいっぱい詰まったバケツを被せました。結局、何を喰ったのかは覚えていません。ガスが出始めたので、縦走は諦めて夏山道を下りました。

二人ともイライラして、つまらぬこと(これも理由は忘れてしまった)で口論し、お互いに意地を張りあって別々にラッセルをして二本のトレースを付ける始末。所々ヘソの上まで雪があり、時間は徒らに経過するし、疲労困憊の挙げ句いつの間にか交代で先に立って、仲良く背を接して下りました。

17:45 大山寺着。夜行で行き夜行で帰るという、しんどい山でした。

Nは大阪ではちょっと知られた会を主宰し、海外遠征などで活躍しましたが2007年、先に逝きました。改めて冥福を祈ります


54年前の今日(1961.02.19)

2015-02-19 05:00:00 | 過去の今日

もう半世紀以前になりますが、この日、職場の先輩や同僚と5人で伊吹山に登り、頂上からスキーで下りました。
以下は当時の山日記からの抜粋です。(左から二人目が私)

山麓の民家で一泊した翌朝、小雪をついてリフトで三合目まで上がる。シールを着け、途中、一、二ヵ所よく滑る所があったが、大した苦労もなく八合目に着く。閉ざされた小屋の前でスキーを脱ぎ、アイゼンに代え、スキーを担い急斜面に息を切らす。しかし思ったより早く九台目に着き、ここからは緩い登り。

山の家で昼食後、頂上へ。積雪4m60cm。

測候所は一面エビノシッポで覆われて、まるでおとぎの国の城みたい。 14 ~5m の西風は強いが、ときどきガスが晴れて素晴らしい眺望に満足。記念撮影の後、滑降に移る。九合目を過ぎて急傾斜にかかるころ、靖先輩のバッケン折れ、山根先生と実さんが応急修理。見事成功して出発。五合目まで斜滑降、キックターンの連続。一度転倒したが、見事に空中転回して立ったりして楽しく滑る。長い斜滑降の連続で、少し膝がガクガクする。五合目を過ぎるころより快晴となり快適に滑降を続ける。

三合目ゲレンデなど一寸遊んでいきたいところだが、帰りのバスの時間にあまり余裕がないので、残念ながら横目で見て一路下る。(*この日、名古屋の人が山頂より 800m 転落、奇跡的に生還したと後で知った)

[ コースタイム] 起床 05:15 …出発 06:15…宮下リフト乗り場 06:30…三合目07:05~08:15 …リフト終点08:30 …五合目08:45 …八合目 09:40~10:00 …頂上山の家10:35~11:30 …頂上11:30 ~12:00…スキー修理 12:15 ~ 12:45 …三合目13:05…一合目 14:00~14:30…宿舎帰着15:00


奈良の山あれこれ(7・続き)~(10)

2015-02-17 20:58:48 | 四方山話

大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。

(07)矢田山-2

 

「矢田の大石」 アジサイで有名な矢田寺の北西、境内から矢田山へ向かって町石道を登っていくと高さ約8mほどの花崗岩の丸い石が、今にも転げ落ちそうに斜面から突き出しています。王石とも足形石ともいいます。壬申の乱(672年)の時、大海人皇子(のちの天武天皇)が戦勝を祈願して矢田山の上から馬にまたがったまま飛び降りたとき、馬の足形がついたためと伝えられています。またこの石を割ろうとすると血が流れ、その跡が根元に見られるとも言われています。駒井保夫「郷土の伝説」(昭和55年)によると、負け戦で矢田の地に逃れた皇子が矢田山の頂上に瑞光を見て登ると、一つの石が光を発していた。『現在もこの石は御祈念石とか、きつね石とか呼ばれ残っています。』皇子はこの石の前で戦勝を祈って白馬に乗って飛び降りたと書かれています。私は御祈念石を探してみましたが、それらしい岩はまだ見つけられません。また肝心の馬の足跡も、血の筋も見ることは出来ませんでした。

(07) 矢田山-3

「地獄を見てきた上人」矢田山中腹にはアジサイの寺で知られる矢田寺が建っています。このお寺は「矢田の地蔵さん」として知られ、味噌舐め地蔵はじめ様々な伝説を持つ地蔵さんが安置されています。建立当時の本尊は十一面観音でしたが、平安時代に矢田寺に入った小野篁(おののたかむら)の師匠・満慶上人が、身体は朝廷に仕えながら魂は閻魔王宮にあったという篁に乞われて、地獄に行って閻魔王に菩薩戒を授けます。このとき人々に代わって数々の地獄の責め苦にあう地蔵菩薩に、娑婆に帰って人々に仏縁を結ばせることを誓い、仏師に地蔵さんを作らせて安置したのが「矢田の地蔵」の始まりとされています。

また閻魔王から、うるし塗りの箱を一つ受けとりました。帰って開けてみると箱には白米が入っていて、いくら使っても、すぐまた一杯になります。それ以後、満米上人と呼ばれるようになりました。今は「矢田へんろ道」の最高所で私たちを見守っておられます。

(08)松尾山

「中腹に日本最古の厄除け寺、山頂にはTV中継所」山名は尾根に松の木が多いことに由来したという説がありますが、確かにアカマツ林が目立ちます。30数年前まではマツタケも採れました。東山腹に建つ松尾寺は718年、日本書紀編纂者の一人・舎人親王(天武天皇皇子)の発願。書記の編纂が始まった時の年齢が42の厄歳だったため、日本書記の完成と厄除けを祈願して建立されました。「日本最古の厄除け観音」として特に二月の初午の日には多くの参詣者で賑わいます。

また春のバラ、初夏のユリなどの花園も解放され、夏には小学生の「一休さん」修行体験も行われます。山頂(315m)は寺の10分ほど上で、NHKと民放TVの無人放送局と電波塔が立っています。

山頂北側の松尾湿原は、ハッチョウトンボやモウセンゴケなど貴重な動植物の生育地でしたが、今は絶滅の危機に瀕しています。ここだけでなく矢田丘陵の動植物は、近年になって急激に種類も数も減少しています。普通に目にしたキジやウサギも滅多に見かけなくなり、代わりにイノシシやアライグマが出没しています。豊かな里山の自然が消えて行くのは本当に淋しく思います。

(09)神野山(こうのさん)

「天狗の喧嘩でできた奇景」 昔から「神の山」として崇められた大和高原の奥にあるなだらかな山容の山、619m。一等三角点の山頂(展望台があります)からの展望は素晴らしく、5月に山頂付近を彩るツツジの群生も見事です。この山の中腹にある鍋倉渓は大小の真っ黒な石(角閃斑れい岩)が 600 mにわたって谷を埋め、その下を伏流水が流れている奇観で、天然記念物になっています。

昔、神野山の天狗と伊賀・青葉山の天狗が喧嘩をして、伊賀の天狗が投げた石が鍋倉渓になったという伝説があります。神野山の天狗はわざと負けたので、伊賀の山は石がなくなったとか。また「ナベクラの水を見た者は百万長者になれる」「正直ものが岩の間を覗くと死んだ親の顔が見られる」と言われたそうです。

(10)城 山

「山頂を削って城に?」 名古屋に向かう名阪国道(25号線)は天理から東へ五ヶ谷インターを過ぎたところで鋭くカーブします。その頂点の北側にあるのが城山で、頂上部分は小さな台形をしています。これは元の山頂を削り取って城塞にしたものと考えられています。戦国時代には筒井順慶の一族であった椿尾氏の山城があったところで、別名「椿尾塁(つばおるい)」と呼ばれています。南椿尾の集落から荒れた林道、さらに草深い道を探り行くと、赤い鳥居が並ぶ奥に神号を彫った石碑が五つ。真ん中に大宮姫大神、横に光吉、光姫、高城、高宮の名が見えました。

529mの三角点はすぐ左上、数mのところにありました。現在、山頂付近はかなり荒れている様子です。 


なら瑠璃絵(2015.02.14)

2015-02-15 21:02:13 | Weblog

8日に始まった今年の「しあわせ回廊なら瑠璃絵」も今夜まで。暮れなずむ奈良の町へ出かけました。

行基さんの立つ近鉄奈良駅前から興福寺五重塔の前を過ぎると、国立博物館講堂の裏に去年なかった新しいアート「竹の庭」がありました。

新館の前にはこれも初顔のミラーボーラーが堀の水に影を落としています。

東大寺大仏殿へお参り。南大門を潜って参道を進むと、中門の両側にライトアップされた兜跋毘沙門天(右)と持国天が立っておられます。

観相窓が開いていて大仏様のお顔を拝むことができました。

鏡池には噴水のスクリーンに刻々と移り変わる美しい色彩の映像が投射されて、夢のような光景でした。

しばらくは、このウォーター・プロジェクションを鑑賞したあと、浮雲園地へ。様々な光のオブジェが通路を飾り、満開の冬桜もライトアップされていました。

奈良県新公会堂前のオフィシャルブースで本クズ入りの「しあわせココア」で暖まったあと、

公会堂庭園の「光のオブジェ」を鑑賞しながら

春日野園地へ歩きました。

ここでは大勢の人たちが花火の上がるのを待っていました。少し離れたところではライブが行われていて、バレンタインデーにふさわしく女性からプロポーズされる幸せな男の声も聞こえてきました。待つこと30分近く、19時30分を過ぎて花火が上がりました。

山焼きの時とは又違ったたくさんの花火が終わり、春日大社へ歩きます。

着到殿の夜神楽は終盤を迎えていましたが、御杖村桃俣の獅子舞や

宝来家玉之助さんの締めの「四方鎮」を鑑賞できました。

本殿にお詣りした後、回廊の万灯篭を少し眺めて家路につきました。夢のように美しい光の中を彷徨い歩いた、今年3度目の老人の夜遊びでした。


一足早いお雛様(2015.02.07~08)

2015-02-12 09:32:34 | 旅日記

白川郷ライトアップの行き帰りに出会ったお雛様です。

郡上八幡「宗祇水」への角のお店の雛飾り

「サンプル工芸館」のお雛様。全国の食品店の店頭を飾る食品サンプルは大部分が郡上八幡で作られ、この土地の重要な地場産業になっています。

「郡上八幡旧庁舎記念館」のお雛様

上と同じ「旧庁舎記念館」で

金沢・金箔工芸館のお雛様


白川郷ライトアップ(2015.02.07)

2015-02-11 11:09:59 | 旅日記

 

先週末、JTBのツァーで白川郷ライトアップを見に行きました。

城山山頂にある萩城跡のレストラン「天守閣」で早目の夕食を済ませ、寒さを堪えて待つこと30分余り…

ようやく暮れなずむ17時30分、眼下の合掌造りの家々に灯りが点り始めました。

淡い灯りが柔らかな暖かい感じで周りの雪を照らします。18時にはバスの出発時間になり、「せせらぎ公園」駐車場へ移動。80分の自由時間になりました。

出合橋で荘川を渡って萩町の中心部へ。突き当りが明善寺鐘楼門です。

軒先に大きなつららの下がる明善寺の庫裏。江戸末期に建てられた5階建ての合掌造りは萩町最大です。

内部は前に見ているので先を急ぎます。

大勢の観光客が行き交う東通りを、城山展望台が見えるところまで歩いて引き返します。ボンボリやカカシなどのモニュメントもあり、雪ダルマのカップルが見送ってくれました。


奈良の山あれこれ(05)~(07)

2015-02-06 20:44:31 | 四方山話

大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。

(05)高円山(たかまどやま)「奈良の大文字焼き」

近年まで山頂(460m)には高円山ホテルがあり、夜景を眺めながら飛鳥鍋(牛乳をベースにした鳥鍋)で一杯やるのは最高でした。

前に展望台があり大伴家持の「たかまどの 秋野の上の朝霧に 妻呼ぶ牡鹿いで立つらむか」の歌が、犬飼孝書の万葉仮名で刻まれた万葉碑が立っています。

旧ホテル裏側の山頂へは、ドライブウェイから簡単に行けますが、三角点は道路の反対側を下った雑木林の中の高みにあります。登山の対象としては、ツバキやハギで有名な白毫寺から(または滝坂道の途中から)中腹にある奈良大文字焼きの火床に登ります。

大文字焼きの歴史はまだ浅く、戦没者慰霊と世界平和を祈願して昭和35年から始まったものですが、「大」の大きさは一画目が109m、二画目が164m、第三画目が128mで日本最大級です。ここから古都奈良の展望を楽しんだ後、急坂を登って林に囲まれた点名・白豪寺432mの二等三角三角点に登るのがお勧めです。

(06)一体山(いつたいざん)「天狗の足跡」
一台山とも書きます。笠置山地(大和高原北部)にありますが、行政区分上は奈良市に属します。北には柳生の里があり、南麓を東に行くと御影(ごえい)を経て観梅で名高い月ヶ瀬に至ります。

西へ行けば柳生から忍辱山(にんにくせん)を経てくる道と合流して、誓多林から石畳の滝坂道が奈良に通じています。この付近は何故か仏教的な地名の多いところです。(写真は柳生街道石切峠の峠茶屋)

下誓多林の中ほどに、岸壁に大きな二つの足跡があります。昔、天狗が誓多林堂の太鼓を盗み出し、一台山の松の木にかけて鳴らした時の足跡だそうです。



595mの山頂には関西電力無線中継所と塔が立ち、二等三角点標横には役行者像がありました

(07)矢田山 「飛行機の神さんと邪馬台国」

信貴・生駒山地と奈良盆地の間に並行して連なる矢田丘陵で一番高い山(といっても)340m。饒速日命が天から降臨して住まいを定めるに先立って、天神から三本の天羽々矢を授かり天磐船(あまのいわふね)から射た矢が落ちた所がこの山麓です。

最初の矢は一の矢(矢田町の小字)に、

二の矢は北北東の矢田座久志玉比古神社に…(ヤタニイマスクシタマヒコ神社は別名・矢落明神と呼ばれ、楼門に木製プロペラが付けられ「航空祖伸」の文字が記されています

三の矢はさらに北北東の字飛具谷字宮所に落ちました。それぞれの場所に小さな塚があります。ニギハヤヒノミコトを物部氏の始祖と考え、三の矢の場所を邪馬台国伝承地と想定する説も生まれました。