ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

2015年の想い出(5)

2015-12-25 21:31:51 | 旅日記

5月~7月の旅の想い出です。

5月1日 初めて郡山からJRで宇治平等院へ行きました。

阿字池に影を落とす朱色の鳳凰堂は、極楽浄土の宮殿をイメージしたと言われるだけに、優美で荘重な感じです。しかし入堂は「2時間30分待ち」と聞いて、今回は池の向かい側から本尊の阿弥陀様のお顔を拝んだだけで諦めました。



鳳翔館で国宝の鳳凰や雲中供養菩薩像など参観。頼政の墓や、最勝院の建物や庭園の石灯籠などを観て帰りました。藤とツツジが満開でした。

5月 8日   甲子園の対広島戦。



試合は藤浪が乱調で3-8で敗れました。


5月14日 天ヶ岳から長い下り道を大原へ歩き、寂光院を見学しました。15年前に心無い人の仕業で全焼した本堂に参拝したあと、美しい庭園や資料館を見て大原バス停へ歩きました。

5月19日 何度となく訪れた高野山

「開創1200年を迎える高野山で末広がり八つの体験」という惹句に初めてツァーで行きました。
(1)持明院  西国八十八ヶ所お砂踏み体験。(2)金剛三昧院 国宝の多宝塔 (3)金剛峯寺 16年ぶりに御開帳「秘仏ご本尊・弘法大師座像」。蟠龍庭 白砂の雲海の中で 140個の蒼黒い花崗岩の竜が奥殿を守っているように配置されている。(4)金堂で創建1200年で初の御開帳の「伽藍金堂」、根本中塔の内陣で16本の柱に描かれた堂本印象の16大菩薩と本尊・大日如来拝観

(5)宝善院 金剛山最古の庭園を鑑賞 (6)赤松院 秘仏・羊年守り本尊、重文の掛け軸や寺宝・左甚五郎の木彫りの虎 (7)奥ノ院 燈籠堂御廟、空海・弘法大師が入定している窟屋のある地下へ初めて下り、間近でお大師さんを拝む。(8)女人堂
ツァーとはいうものの単なる観光気分では済まされない、有意義な一日でした。

5月23日 初めて「まほろば365」(この時はまだ名称が決まっていませんでした)に二人で参加して、柳生街道を歩きました。



滝坂の道を登り、首切り地蔵前で昼食。新池、春日山石窟、鶯滝を見て

若草山の鶯塚へ登り、北登山口へ下山しました。近鉄駅前の店、スナックとハシゴして23時まで過ごしました。FB仲間のお蔭でたくさんの新しい知己を得て、楽しく過ごせた一日でした。

5月25日 明神山に登る前に王寺の達磨寺へ行きました。

念願の雪丸に対面して、見どころの多い境内をゆっくり拝観しました。

6月13日 「まほろば365」 大仏蛍を見る会 

二月堂 の回廊からは曇り空で夕陽を見る事は出来ませんでした。裏参道を下って大湯屋の近くでホタルを見ました。二月堂の石段の紋様や、お水取りの由来、鬼子母神の話など、増田さんの詳しい解説で新しい見聞もあり、とても有意義でした。

6月24日 大阪の八幡屋公園へジャガランダの花を見に行きました。

花は桐に、葉は合歓に似ています。少し遅きに失した感はありましたが、青空を背に美しく咲いていました。

6月27日「まほろば365・八つの位橋を渡って心身を浄化する会」に二人で参加しました。参加者30名近く。熊木さんの説明を聞きながら歩きました。



春日大社
は既に4月に特別参拝を済ませているが、沢井禰宜の軽妙洒脱な説明で、充実した参拝が出来ました。

続いて若宮十五社巡拝。さらに一言社などの摂社を巡って、最後は春日原生林の北入口から洞の仏塔石、日月磐を見て解散しました。

7月7日 大和高田市の「れんげの道バスツァー」に参加。

奥田の蓮取りを見て役行者誕生の地、福田寺(行者堂)へお参りしました。

午後は吉野蔵王堂で蓮華会のあと、念願の蛙飛び行事を最前列で見ることができました。


2015年の想い出(4)

2015-12-24 20:57:13 | 旅日記

国内の旅も8月を除いて毎月のように楽しみました。
しかし、目を悪くしてから出来るだけマイカーの運転を控え、公共交通機関を利用するように、また腰痛のリハビリも兼ねて、なるべく長い距離を歩くようにしています。そのため遠出では、ツァーバス利用が多くなりました。

1月24日 若草山山焼き 

公会堂前の広場から見ました。600発の豪壮な花火打ち上げのあと、山焼きは10分ほどであっけなく終わりました。

2月7日 

バスツァーで「白川郷ライトアップ二日間」の旅に。



「水とおどりの城下町」郡上八幡を約90分間、自由散策。博覧館で「踊り」を見る時間はありませんでしたが、宗祇水や「やなか水の小径」など水の町の風情はたっぷり楽しめました。



白川郷
に着くや城山に登り、飛騨牛入り朴葉味噌の夕食。展望台からライトアップ点灯を見て、自由行動。



出合橋で庄川を渡って明善寺へ行き、神田家の先まで行って引き返しました。21時、金沢駅前ホテル泊。

2月8日 近江町市場を見て兼六園へ。雪が全くなくて雪吊りが寂しそうでした。金箔工芸館を見学して駅中の加賀屋で和食お膳の昼食。途中、雨から雪になりました名神に入ると雨も止みました。

2月14日 最終日になった奈良瑠璃絵へ。



興福寺~東大寺大仏殿~鏡池~新公会堂裏のメイン会場~春日野園地で花火を見る~



春日大社(着到殿で夜神楽・桃俣の獅子舞)

2月16日 大阪城公園梅林 



一、二ヶ月に一度、大阪医療センター眼科に通院しています。公園を抜けて森ノ宮まで歩くときも多いのですが、この月は梅が見事でした。

2月25日 郡山散歩 



東岡町から西岡町の遊郭建築をカメラに収め、川本家(↑)から「大和な雛巡り」で洞泉寺、源九郎稲荷、薬園八幡さんなどのお雛様を見せて頂きました。

2月28日 春のイタ友会を奈良でするので、下見を兼ねて鹿寄せを見に行きました。



そのあと浮見堂~片岡梅林~浅茅ヶ原~大乗院庭園~



元興寺(↑)~奈良町~もちいどの通り~東向通り~近鉄駅前で昼食、予約をして、小西通り~興福寺~きたまち通りを奈良女子大前まで往復と一日歩き回り、16,000歩強になりました。

3月3日 矢田地区社協主催「健康ウォーキングで盆梅展を観に」参加して



登彌神社、大職冠鎌足神社と歩き、城址の盆梅展会場で入場券を貰って自由解散。



帰りもバスが出たばかりで、家まで歩くと15,000歩を越えました。

3月12日 高取山に登った帰りは、岩屋不動に寄り道したりしながら砂防公園に下り、後はのんびり高取町家のお雛様を見て回りました。



今年はジャンボ雛二つ、ミニジャンボ雛二つ、



里親館の今年の企画は「古都の雛」でした。

3月13日 修二会 のお松明。

18時25分境内に着くと、すでに人で埋まり、去年の石段は立ち入り禁止になっていました。人垣の後ろからビデオを撮りました。1時間以上待って観るのは20分ほどで終わりました。

4月4日 奈良でのイタ友(11年イタリヤ旅行の同窓)会。



氷室神社~浮見堂~荒池~~元興寺~奈良町~猿沢池と花見の散策。午後は飲み放題の宴会(11人)。さらにカラオケ。



帰りがけには郡山城址のライトアップされた桜も楽しみました。

4月18日 春日大社 



「第六十次式年造替記念」で二十年に一度拝める国宝ご本殿や、初公開の「磐座」を参拝しました。



万葉植物園では緑のサクラ「御衣黄」が満開でした。

4月26日  9時の開門を待って唐招提寺の瓊花を見ました。



鑑真和上の故郷・中国揚州の名花です。その後ゆっくり広い境内を歩き回って伽藍を見学、薬師寺の三蔵宝院への通路でボタンを見て帰りました。


2015年の想い出(3)

2015-12-24 15:51:07 | 旅日記

2015年は山行回数こそ減ったものの、外へ出かけることは例年同様でした。まずは3月下旬の「ヨーロッパ三ヶ国の旅」をふり返ってみます。

3月21日 「びっくりヨーロッパ9日間」ツァーに出発。20人のグループでした。22時40分、関空発カタール航空でドーハへ。

22日
 乗り継ぎでフランクフルトへ。初めてドイツの地を踏みました。リューデスハイム・アム・ラインで雨は止み、青空になりました。



記念碑の立つニーダーヴァルトの丘からライン川をみて、



「つぐみ横丁」の散策。



お好み焼き感覚の「クルトス」という、ぐるぐる巻いたパンを賞味しました。ルードヴィッヒスハーゲンのホテル泊。



ソーセージ料理の夕食。




23日 
「学生の街」ハイデルベルクへ着き、崩れたまま残された古城を見た後、旧市街を散策しました。



ローテンブルグでロールキャベツの昼食。午後は城壁、マルクト広場やセントヤコブ教会など



中世の面影を残す街の散策。ロマンチック街道をフュッセンへ走り、20時を過ぎてホテルに着きました。



夕食後、21時からライトアップされた城や市庁舎を見に行きました。




24日
 ヴィースの巡礼教会。世界遺産に指定されたロココ式の装飾、特に美しい天井画で有名な教会です。



舗装の坂道を歩いて、ノイバインシュタイン城へ登りました。



昼食は名物のマウルタッセン。午後はバイエルンアルプスを見ながら、スイスインターラーケンへ。



夕食は陽気なオーナーのもてなす西駅前の居酒屋風レストランで楽しく飲みました。




25日
  ユングフラウヨッホ駅に着く頃から雪になり、スフィンクス展望台では15年前より激しく吹雪かれました。



2012年に100周年を迎えたヨッホ駅は様々な趣向を凝らして様相を一変させていました。



クライネシャイデック駅のレストランで昼食。ジュネーヴ郊外のトアリーへ。


26日 ジュネーヴ発のTGVでフランスへ入国。パリへ。



ヴェルサイユ宮殿
で雨が降り出し、



傘を差して庭園を巡りました。パリに帰り、凱旋門やシャンゼリゼ通りを車窓見学。



セーヌ川クルーズは約1時間ほどでしたが、雨が止み、デッキからの展望が楽しめました。夕食はノートルダム寺院近くのレストランで、



「エスカルゴ」と「ビーフブルギニョン」


27日 モンサンミッセルへ往復。まるで日帰り観光です。



オムレツがメインの昼食後、シャトルバスに揺られて島へ。城内に入る頃から、今日も雨になりました。詳しい説明でゆっくり見学し、パリへ帰り昨日のホテルで連泊。



28日
 
ルーブル美術館 3度目でしたが、日本人ガイドの詳しい説明で今までのルーブルとは違った、興味深い見学になりました。

1時間半ほど過ごし、土産を買う時間もなく急いでバスに帰り、空港へ向かいました。29日 20時過ぎ無事帰宅しました。


2015年の想い出(2)

2015-12-23 12:48:09 | 山日記

7月27日 『アイヌ語でヌタプカムウシュペ(川が巡る上の山)と呼ばれた大雪山塊。50kmにわたって2000m級の山々が連なる、広大な北の山地である。一帯はまたカムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)という名にふさわしく、夏は色とりどりの高山植物の咲き乱れる雲上の楽園でもある。今回、丸屋夫妻とともにCT社のツァー「高山植物の宝庫・黒岳と北海道最高峰・旭岳3日間」に参加して、今まで機会がなかったこの山に、ようやく登ることができた。』参加者20人、ゆったりしたバスで天人峡温泉に着きました。例年、不要ということで冷房がなく、寝苦しい夜を過ごしました。

7月28日  大雪山最高峰の旭岳 へ。スタート地点の旭平ですでに標高1600m。



残雪の残る「姿見の池」周辺のお花畑から地獄谷の噴煙を見ながら登ります。私が最高齢ということで一番前を歩かせて貰いました。霧がだんだん濃くなり、最後の登りでは気温が高く、ダラダラ流れる汗を拭いながら登りました。



山頂(2291m)は残念ながら濃い雲霧の中で、晴れていれば利尻山まで見えるという大展望は望むべくもありませんでした。
下山後、層雲峡温泉へ。この日もエアコンがなく、おまけに窓が開かず、蒸し風呂のような部屋でした。

7月29日 黒岳 ガスが去来するもののまずまずのお天気。ロープ、リフトを乗り継いで七合目からスタート。急なジグザグ道の連続でしたが、ゆっくりと465mの標高差を登り切って1984mの山頂に立ちました。霧が晴れて、昨日登った旭岳が右手遠くに、その横に北鎮岳、北海岳が並んでみえました。



下山後、ロープ駅でエゾシマリスに出会ったのも楽しい想い出です。

9月29日 天理竜王山

今年の夏は異常な高温で低山に登る気にならず、なんと大雪山以来2カ月ぶりの山歩きになりました。蒸し暑く、虻やブヨを払いながら登りましたが、楽しい半日の山歩きでした。

10月3日 



宝山寺へ参詣したあと、岩谷滝から生駒山へ登り、暗峠、鳴川峠を経て千光寺に下りました。



万歩計の数字は24,000歩を数え、二つの古寺を尋ねて満足のハイキングでした。

10月8日 河内飯盛山 室池園地へ車を置いて、蟹ヶ坂コースを下りました。



沢沿いの急坂を桜池へ登りかえすと、近くにお目当てのシュスランの大群落が二つあり、思ったよりの数の多さに感激しました。



山頂に登り楠公寺、権現の滝を見て車を置いた園地に帰りました。


11月5日 来春の「まほろば365」行事の下見で高円山へ。



滝坂道演習林入口から大文字火床、三角点に登り、引き返して谷道を樋之口谷池に下りました。ここから奈良町を経て近鉄奈良駅へ歩きました。

11月28日 二度目の高円山下見 白毫寺からの登り道は廃道になったらしく、前回降りた樋之口池横から尾根道を登り、大の字の第三画下の地点に出ました。



軽食のあと元の道を下り、白毫寺からは久しぶりに東山緑地の紅葉を楽しみ、元興寺塔址から猿沢池経由で近鉄奈良駅に歩きました。

数度の矢田丘陵(松尾山、矢田山)を除くと、今年の山行はたったこれだけです。恒例にしていた秋の富士にも登れず、2000mを越える山は旭岳だけ。10年前の2015年は海外のキナバルに始まり、夏山で槍と白山へ、秋は大山、他の月は奥駆道始め近畿の山々へと、登りまくっていたことを思うと淋しい限りです。来年はどんな年になるか楽しみですが、まあ歳相応に無理をせず、ゆっくり歩き続けて行こうと思っています。


2015年の想い出(1)

2015-12-21 17:13:19 | 山日記

2015年の正月は義父の喪中で、孫たちが帰ってくることもなく、二人だけで淋しく迎えました。
 三ヶ日が過ぎて間もなくの6日、私が右目の緑内障と白内障の手術で大阪医療センターに入院、幸い早目の治療で経過は順調で、15日に退院することができました。また、
4月には大腸検査の結果、3mmのポリープを一個摘出。また腰痛が再発して、6月初旬から11月中旬まで整形外科へ治療とリハビリに通うなど、加齢による体力の低下を自覚させられる一年でした。しかし、二人とも、まだまだ山歩きは止められません。ここで、この
1年の山歩きを振り返ってみます。

今年の初登りは3月5日になりました。丸さんの車に乗せて貰って、ウメの咲く長岳寺門前に駐車。いつもの道を竜王山へ登りました。



南城跡の山頂からの展望は、春霞か黄砂か、残念ながらぼんやり霞んで、今一つでした。下りは長岳寺奥ノ院へ寄り道してお不動さんを拝んだり、竜王古墳群の穴を覗いたりしながら、湿っぽい道を下って山辺の道にでました。笠蕎麦で遅い昼食後、笠山荒神へ参拝。



そのあと、奇岩の白山(しろやま)にも寄りました。遠来の山友には、狭い山道をあちこち走って貰って本当に悪かったと思っています。

3月12日は壺阪寺から高取山に登りました。前年は一日違いで雪の道でしたが、今年は壺阪門址を過ぎて木の階段を登ると、僅かに一握りの雪が残っていただけでした。



最高所の三角点は「日本三大山城」の一つ、高取城址本丸の一角にあります。



下山は二ノ門址の池と猿石を見て、岩屋不動にも寄り道した後、砂防公園に下って「雛めぐり」を楽しみました。


4月23日、音羽三山。1979年以来、実に36年ぶりの山です。不動滝に車を置き周遊しました。観音寺では十一面千手千眼観音を拝んだ上に、お寺の来歴などのお話を聞き、ゆっくり休ませて頂きました。



展望台から林の中の観音山を経て、



経ヶ塚山、熊ヶ岳と縦走。



山に入っている間は誰にも出会わず、二人で貸し切りでしたが、大峠からの下りの林道は長くて少し消耗しました。

4月28日は丸さん夫婦と比良の打見山から蓬莱山







小女郎池まで往復しました。お目当てのミズバショウは見つかりませんでしたが、青空の下、楽しいハイキングでした。

5月14日も丸さん夫妻と、鞍馬から天ヶ岳へ登りました。



大原の里十名山に数えられる山で、シャクナゲ尾根の名を持つ花の道もありますが、この日は鞍馬から山頂を経て大原の里に下る自然林のコースを歩きました。



 山頂近くの送電線鉄塔の建つ場所からは、竹生島の浮かぶ琵琶湖が霞み、



その左には武奈ヶ岳がくっきりと望めたました。シャクナゲには出会えませんでしたが、不安だった足や腰も痛くならず、ツツジが彩りを添える新緑の中、山歩きの楽しさを満喫することができました。

5月25日は王寺の達磨寺で聖徳太子の愛犬「雪丸」に対面後、2004年以来の明神山へ登りました。三角点は風神社の北側にあり、前とは少し形が変わっていました。



南北二つの展望台から周囲の山々や大和平野をゆっくり眺めて下山しました。


6月17日、 丸さん夫妻と観音峰へベニバナシャクヤクを見に行きました。私たちには4年ぶり8回目になります。



展望台付近は太いロープが張ってありましたが、ベニシャクヤクは数を増やしていました。



三等三角点の埋まる観音峰に登りましたが、無展望の上に霧の粒が大きくなり、肌寒さを感じるほどになったので早々に山頂を後にして、観音岩屋に寄り道して帰りました。駐車場所に着くのを待つように雨‥。

梅雨の晴れ間の僅かなタイミングで旧知の美しい花に出会えて、本当に幸運でした。 <続きます>


奈良の山あれこれ(110)山上ヶ岳

2015-12-21 09:55:11 | 四方山話

「サンジョウサンで大人の仲間入り



吉野郡天川村。広義の大峰山は、吉野山から山上ヶ岳を経て弥山付近までを含めて呼びますが、狭義にはこの山を指します。



登山対象としての山上ヶ岳は、大峰山寺本堂近くのお花畑にある湧出岩(わきで、ゆうしゅつ)横に一等三角点(1719m)を持つ展望にも優れた山です。



ここからは大普賢、弥山、稲村ヶ岳などの大峰の山々を一望することができます。




山上ヶ岳への主な登山道には吉野道、洞川道、柏木道の三つがありますが、「柳の渡し」(↑)近鉄吉野線六田駅近く)を起点とする吉野道は距離が長いので、吉野郡天川村洞川からの洞川道が最もよく使われています(約2時間)。柏木から伯母谷覗き、阿弥陀森、小笹の宿を経て山上に至る柏木道(約5時間)も、かっては良く利用されていたと聞きますが、私は歩いていません。


山上ヶ岳は、神道と仏教の混淆した民俗信仰から発展したとみられる修験道の聖地です。伝説では役行者(小角)が開いたとされていますが、実際の開祖は理源大師・聖宝であり、当初は真言宗(当山派)が勢力を持っていました。 しかし、平安時代中期以降、朝廷の熊野信仰が盛んになるにつれて熊野から大峰山への修験道が開かれ、天台宗系の本山派が勢力を持つようになりました。そのため、熊野から大峰山を経て吉野に至る修行の道筋・奥駆道を「順峰」、吉野から熊野への順路を「逆峰」と呼びます。




修験道の聖地として、山上ヶ岳は今なお「女人禁制」を守り続けています。女人禁制の結界は、吉野側では吉野金峰神社から500m南の大滝への降り口にありますが、現在は五番関(↑)まで通行できます。


2004年4月に柳の宿(靡七五番)をスタートし、2005年6月の熊野本宮証誠殿(一番)まで、日本山岳会関西支部70周年記念行事の一環として、奥駈道を7回に分けて歩きました。(他にこの期間に世界遺産・紀伊山地参詣道の殆どを踏破しています。)この奥駈山行第三回目は、靡六九番の五番関から六二番の笙ノ窟を経て大普賢岳に至る20㎞に及ぶ行程でしたが、山上ヶ岳を通るので参加できなかった妻は今も残念がっています。




山頂にある大峰山寺(↑)の本尊・金剛蔵王権現は役行者が感得したと伝えられています。また弘法大師・空海も、金峰山(吉野山)から高野山への修行をしています。大峰山寺周辺には表行場・裏行場と呼ばれる、合わせて18の行場があり、また奥駆道には一番の熊野本宮から75番の「柳の渡し」に至る、75の「靡(なびき)」という拝所・行場が設けられています。関西の若者にとって、「サンジョウサン詣り」は昭和になっても成人式を兼ねた重要な行事であり、 私の住んでいた河内でも、青年団の先輩などから「西の覗き」での修行の様子や下山時の「精進上げ」の話などをよく聞かされたものです。


この行場に初めて入ったは奈良に来てからで、1975年6月に近所の仲間たちと洞川表行場で修行したあと、稲村ヶ岳へ向かいました。また2003年には町内の山の会で洞川の発菩提心門(↑)から入山して、表行場、裏行場を巡拝しました。行場の様子の一端を古い書物から引用しますと‥
 
平等岩について、天保9年(1838)年に土佐藩士・安田相郎が著した『大和巡日記』に、『扱吉野奥ノ院より女人禁制也』‥いよいよ行場に入って七十九文を払って先達を頼み、「…ビヨフト岩、石の腹を廻る。手足の掛り壱寸ばかりの岩角あり。先達エリツボを取りて引き上げる。夢の心地す。危きことの至極也」と記されています。



また「吉野郡群山記」には各行場の様子が詳しく記されています。一番有名な「西の覗き」(↓)については『 鐘懸岩(↑)を過ぎて、のぞきなり。

西ののぞきは、西南にむかへり。左の方、岩のはなに、山先達足を組み坐してのぞかしむ。のぞく岩の前に、水の少し溜れるはざま有り。そこを越えてのぞかしむ。岩のはな、さがりたるに、はらばひして、先達くびすぢを捕へ、下を望めば、底は深く彼の杉菜のごとき大木の梢を見るに、内のかたにそりし巌なれば、眼くらめきていとすさまじ。』とあります。『かの杉菜の…』というのは鐘掛岩のところで『下は底いと深き谷にて、幾年経しとも知らぬ杉の、ここより見おろせば杉菜といえる草のごとく梢のみ見ゆるにぞ、その深きことを知るべし』と記述したことを受けています。

古い書物からの引用が続きましたので、裏行場の様子は私の山日記(2003年8月24日)と写真でご覧ください。この日は千日山歩渉会11名(もちろん全員男性、L.芳村)で、洞川の清浄大橋から発菩提心門を8時に潜りました。陀羅尼助茶屋から鐘掛岩、西の覗き、日本岩など表行場を経て山上ヶ岳頂上には11時35分に着きました。

昼食後、『下山の前に裏行場巡りをする。難所が多く事故を防ぐため、必ず宿坊に案内を乞うことになっている。

私たちは喜蔵院に案内をお願いした。

 

行は「不動の登り岩」(↑)に始まり、 「押し分け岩」の隙間を通り、



「護摩の窟」(↑)にくる。仏の子として生まれ変わるため、真っ暗な「胎内潜り」を終えて、



笈掛け・衣掛け、袈裟掛けの巨岩に囲まれた通路を通り、



更にいくつかの岩場を経て「東覗き岩」(↑)(危険なため現在は行が行われていない)の横にある「飛び石」にくる。

ここからが核心部の「蟻の戸渡り」(↑)、ついで「平等岩」となる。スタンスもホールドも十分あるのだが、岩登りの経験のない人にはやはり鎖が頼りで、どうしても足運びの順序を教える先達が要るところだ。
 
案内のKさんはそれぞれの行場での技術指導?はもちろん、行場のいわれも分かりやすく解説して、またカメラマンでもあるだけに周囲の山の名前なども詳しく教えてくれた。晴れた日には平等岩の上から白山や富士山まで見えるということだ。



最後に(不動明王と蔵王権現の銅像のある)「本結払い(モッテンバライ)」(↑)の前で全員が「平等岩廻りて見れば阿古滝の捨てる命も不動くりから」と歌を詠み、「南無神変大菩薩・南無アビラウンケンソワカ」と真言を唱えて行を終える。本堂前に出るまでちょうど1時間かかった。』

 

山上ヶ岳については、まだまだ語り尽くせませんが、割愛して次の山に向います。


奈良の山あれこれ(106)~(109)

2015-12-19 09:19:22 | 四方山話

 (106) 勝負塚山(しょうぶつかやま) 「水争いの勝負か?聖宝か?」
上多古谷の上にそびえる大峯の前衛峰。吉野郡川上村と天川村の境に位置し、点名・鳴川山の三等三角点(1,246m)を持ちます。
  山名は、元は「しょうほうつか」で理源大師聖宝が毒蛇や獣をここに閉じ込めたのが由来といわれています<同じ伝説は(102)百貝山でもご紹介しました>。
また、この山を巡っては、昔、川上村と天川村の間で30年に及ぶ境界争いがあったと言われていますので、このことが山名に関わりがあるのかも知れません。



2008年7月、梅雨の晴れ間に上多古林道の伊坪谷出合から二人で登りました。(登山口の様子から見ると、われわれ登山者は地元の方からあまり歓迎されていないようです。)



 七合目

急登の連続で3時間半かけて頂上にたどり着きましたが、暗い林に囲まれた山頂は僅かに南側が開けているだけでした。吉野川の支流・上多古谷を隔てて山上ヶ岳と対峙しているので、頂上からは山上ヶ岳の宿坊が見えると言われますが、靄がかかっているようでよく見えませんでした。全身汗まみれで記念写真を撮り、早々に元の道を下山しました。



一日中、誰にも会わず、心配した雨にもクマ、マムシ、ヒルにも遭わずに済みましたが、下りも3時間近く、標高差850mのかなりシンドイ山でした。それだけに登り終えたあとの達成感は大きく、二人とも大満足で帰宅しました。


(107)観音峰(かんのんみね) 「南朝の天皇、観音様に助けられる」
この山の名は後村上天皇が観音の夢告げで難を逃れたことに由来します。南朝の後醍醐天皇が吉野行宮で崩御のあと、大塔宮護良親王、後村上天皇、長慶天皇らは天川郷を南朝最後の砦として潜行していました。この峰は南朝守護の観音信仰の場所でした。

「みたらい渓谷遊歩道」が通る虻峠近くが登山口です。



展望台までは遊歩道になっていて、途中の観音平休憩所まで6か所に「南朝物語」の説明板があります。



休憩所からは林の中の急登、水平道、ジグザグの急登で観音峰展望台(1208m)に着きます。



展望台からの眺めはまさに360度。東南には大日岳、稲村ヶ岳からバリゴヤ谷の頭に続く岩稜、さらに鉄山、弥山、八経ヶ岳、頂仙岳と大峰の山々が続きます。西には天狗倉山と高城山、その左に双耳峰の武士ヶ岳。遠くは護摩壇山、荒神山、生石ヶ峰、陣ヶ峰、そして高野三山、龍門山…数えきれぬ山々の饗宴です。




一帯は初夏には緑の笹原にベニバナヤマシャクヤクが紅を点じ、秋にはススキが銀色の穂をなびかせる楽園です。目の前の1285m峰へ急登して尾根道を行くと、展望台から1時間で観音峰(1347m)の三角点です。ここは灌木に囲まれて展望は全くありません。



  おすすめの下山路は、法力峠から洞川(どろがわ)への周遊コースです。稜線の最高点・三ツ塚(1380m)を通り、左手が開ける痩せた岩稜帯を急降下で法力峠に下ったあとは、母公堂へ降りてもいいし、五代松鍾乳洞を通って行くのも面白いでしょう。洞川には日帰り温泉もあります。


(108)大日山(だいにちやま)かかる聳えたる山は近国にはまれなり」



大峰山脈主稜線上の釈迦ヶ岳南にある大日岳とは別の、稲村ヶ岳を双耳峰とみた時に南峰にあたる岩峰です。昔はこの山が稲村嶽と呼ばれ、雨乞いの山として知られていました。

 キレットより

「和州吉野郡群山記」の「稲村嶽記」に『稲村嶽は、高山の上に直立せる奇峯にして、遠くよりながむれば、山上嶽の西に細く尖りて、山上嶽と相並びたり。かかる聳えたる山は、近国にはまれなり。近くして山体を見れば、南西の方、山半ばより土なく、大なる巌石なり。周廻六丁、高さ三丁なり。』と記されています。



また蟷螂の窟から登り、虎丸嶺(現在の法力峠)、山上辻(現在の洞川辻)を越える登山路が紹介され、虎丸の『「辺り、石楠花極めて多く、林をなして、四月中下旬の頃、花をひらく。外の石楠花に勝れ、紅色うるはしくして美なる事、枝頭に紅絹を引きかけるがごとし。その樹大は柱のごとく、高き事、一、二丈ばかりなり。」と称賛しています。

 


確かに花の頃は美しく岩壁を彩り、絶景です。現在は山上辻近くのキレットから登りますが、『坂極めて急にして、梯をたてたるがごとし。木の根を取らへて登る(群山記)』」ことは昔に変わりません。



山頂(約1700m)には大日如来を祀る祠があります。


(109)稲村ヶ岳(いなむらがたけ)
 「稲叢の形をした山」

山上ヶ岳から西に延びる支脈上にあります。古くから女人禁制ではありませんでしたが、大峰山(山上ヶ岳)と峰続きのため、女性の登山は忌まれていました。「女人大峰」として正式に禁制が解かれたのは戦後のことです。洞川から法力峠を経て登る現在の登山道は、昭和初年に赤井五代松が独力で開いた登りやすい道です。



途中に彼の偉業をしのぶ名を残す「五代松鍾乳洞」があります。小屋やトイレのある山上辻で山上ヶ岳への道を分けると大日キレットで、周辺と稲村ヶ岳南斜面にかけてシャクナゲが群生しています。



山頂には大きな展望台があり、目前の山上ヶ岳をはじめ大峰山脈北部を中心とした大展望が得られます。

 


初めて訪れたときは、五代松鍾乳洞を見学後、山上辻にでて南面のシャクナゲ鑑賞路から登頂。稲村小屋に一泊して翌日、山上ヶ岳へ登りました。78年は10歳と8歳の子供たちと洞川の蟷螂窟前にテントを張りピストン。



シャクナゲ鑑賞路は鎖場やトラバースがあるのに子供たちも頑張ったものです。下山後、ローソクを灯した子供の案内で蟷螂窟を見学しました。その後も何度か登りましたが、五代松鍾乳洞か母公堂経由の道ばかりです。清浄大橋からレンゲ谷を詰める道は、一度下りに使ったことがあります。


奈良の山あれこれ(101)~(105)

2015-12-18 11:18:57 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

<吉野山周辺>

(101) 青根ヶ峰(あおねがみね) 「吉野山の最高峰」
前項で「吉野山は周辺のいくつかの峰の総称」と書きましたが、その最高峰が青根ヶ峰です。昔は青折嶽、金の御嶽とも呼ばれました。



頂上近くには、「従是女人結界」の文字の両側に「左・蜻蛉瀧、右・大峰山上」を示す大峯奥駆道の結界石とお地蔵さんが立っています。この結界石は慶応元年のものですが、第二次大戦後の1970年に結界の位置が五番関に後退するまで、長らくここから先が大峯山の女人禁制区域でした。



ここから木の階段道を登ると青根ヶ峰の三等三角点(858m)がありますが、樹木の中で展望は期待できません。

 この石標の少し手前、金峰神社を過ぎたところに「峰入りや一里遅るる小山伏」の句碑があります。ここの辺りが大峰七五靡き(なびき)の第七十番「愛染(あいぜん)宿」跡ですが、この地名は明治初年の廃仏毀釈まで安禅寺の愛染宝塔があった処といわれています。



ここで奥駆道と離れ、奥千本に向かうと「西行庵」があります。西行が隠棲した桜の名所で、「吉野山やがていでしと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」と詠んだところ。近くには、芭蕉の「露とくとく試みに浮世すすがばや」の句で知られる苔清水(↑写真)が滴り落ちています。

  近鉄吉野駅より上千本を経て2時間30分。川上村大滝からは、林道沿いに2時間。途中には落差30mの「蜻蛉(せいれい)の滝」があります。

音無川沿いに登り、愛染宿跡とは反対側の車道にでると階段で山頂に登ります。

(102) 百貝岳(ひゃくかいたけ) 「法螺貝の音で大蛇退治」
吉野山奥千本の西南にあって、奈良県吉野郡黒滝村に位置する山。名称には次の伝説があります。役行者が大峰山を開いて200年ほど後、山中に大蛇が棲み、村人や参詣人に危害を加えたので信仰は途絶え、山は荒廃していました。宇多天皇の勅命を受けた理源大師が先達(せんだち)の「餅飯殿(もちいどの)」箱屋勘兵衛を伴い、法力によって大蛇を退治しました。その時、大法螺貝(ほらがい)を吹き祈祷しましたが、其の音は百の法螺貝を一時に吹き鳴らしたようだったといいます。その後、大峰修験道は復興し、理源大師は中興の祖とされています。
  
大師ゆかりの百螺山鳳閣寺は、寛平七年(895)建立と伝えられます。花崗岩作りの理源大師廟塔は国重要文化財で、台座の浮き彫りの亀に吉野朝時代の正平二四年(1369)の銘があります。

吉野郡黒滝村寺戸から川沿いに東へ脇川に向かいます。ここから県道48号を地蔵トンネル手前まで行き、左の谷沿いの道を地蔵峠に登ります。峠からは東に林道を歩き、鳥住集落の林道終点から坂道を登ると鳳閣寺(寺戸から1時間30分)。本堂横から松林の中の廟塔を経て踏跡を登るとTV塔の立つ尾根に出ます。



急坂を登り詰めると如意輪観音の祠がある百貝岳頂上(860m)。



樹木に囲まれ無展望です。



吉野山からは、奥千本から大峰奥駆道への分岐、西行庵への分岐を経て山腹をからむ道を行きます。45分ほどで左手の斜面に山頂への踏み跡の分岐があります。直進しても鳳閣寺からの登路に合します。

*いよいよ奥駆道の走る大峰山脈主稜とその周辺の山に入ります。*

(103)四寸岩山 「四寸の岩の隙間を通る」



大峯奥駆道は、青根ヶ峰から林道吉野大峰線を少し歩いた四寸岩山登山口で、新旧の二道に分かれます。尾根通しに四寸岩山の頂上を通る古道は、江戸時代から明治末まで歩かれた奥駈道で「大天井越え」と呼ばれました。その後は廃れていましたが、林道開通後に金峯山寺が復旧しています。



山名のいわれは、昔は四寸しかない岩の隙間を通ったからだそうですが、この岩も今は山道脇にある平凡な石に過ぎません。二等三角点(1,236m)の頂上はこの石から少し登ったところにあり、山頂からは大天井岳が高く、その左に山上ヶ岳が微かに望めました。この山の東山麓の集落・高原は「木地師の村」として知られています。

 私たちは大峯奥駆道をたどりました。青根ヶ峰下の大滝分岐から一里茶屋跡、心見茶屋跡、守屋ノ茶屋跡、新茶屋分岐を経て1時間30分。他の道としては中戸から(柏原山経由で3時間30分)、高原から高原山経由の道などがあります。

(104)柏原山 「造林帯の中の山」
四寸岩山から西に派生した尾根末端にある三等三角点(943m)のピーク。
 奈良山岳会『大和青垣の山々』に「新茶屋からの尾根道の他に、北方の槇尾からと、南方の赤滝からそれぞれ登る道がある…」。昭文社の山と高原地図「大峰山脈」では中戸からの尾根道、赤岩から迫ノ谷に沿う道が記載されています。2004年、妻と二人で森沢義信氏の『奈良80山』に記された柏原谷からの道を登りました。車を置いた「きららの森赤岩」から2時間ほどでした。
 


登山口には地名通りに川の中には赤い岩が点在し、その間を澄み切った水が渦を巻いて流れていきます。対岸に前登志夫の「みなそこに 赤岩敷ける 恋ほしめば 丹生川上に 注ぎゆく水」の歌碑がありました。上平のバス停前で橋を渡ったところが登山口。このルートは、登山口から頂上近くまで、道標はおろかテープ標識も殆どありません。このときは沢から稜線に出たところで林道の工事が行われていて、尾根道が分断されていました。



その先で、はっきりした登山路が続いていて「柏原山」の大きな標識がありました。この標識は上中戸への下山路では要所で何カ所か設置されていました。山頂直下で踏み跡に変わり、稜線の一角に出て数分で山頂に着きました。



植林の中で展望は全くありません。



東へ関電巡視路を少し行くと、関電鉄塔下の広場で、すぐ目の前の四寸岩山から大天井に続く稜線、その左遠くに稲村ヶ岳などが展望されました。

(105) 大天井岳(おおてんじょうだけ) 「五番?碁盤?御番?」



五番関トンネル横の急坂を登って、稜線に出ると女人結界門があります。



右に門をくぐると山上ヶ岳への道で、左へは大天井岳への登路である吉野古道と山腹を捲く水平の新道に別れます。頂上を通る道は「山上参りの難所」で知られ、山名の「大天井」も「非常に高いところ」を表しているようです。

『和州吉野郡群山記』には「杉その外、諸木の根の蟠れるを道として、その上を越え行く。吉野より参諸多きゆゑ、この処道中広くなれり。いづれも蟠根の上を行くなり。大天井嶺有り」「洞辻よりこの辺まで、樹木生ひ茂り、日光を見ざる所多し」と記載されています。頂上からの展望は北側が開け、四寸岩山から百貝岳に延びる尾根の上に青根ヶ峰、遠く金剛葛城の山々が見渡せます。

  


五番関近くの御番石茶屋跡には碁磐石という名の大石があります。『群山記』には「この辺に石多く、四方なり。紫色にて、白く糸のごとき筋有り。碁盤の目のごとく十文字をなせり」とありますが、五番関の五番の意味は、御番でしょうか碁盤でしょうか?

 


99年に二人で南の五番関から登りました。山腹を貫く五番関トンネルの西口から1時間15分ほどで1439mの山頂に立てました。04年はJAC関西支部の奥駆山行で、青根ヶ峰から四寸岩山、大天井岳を経由して五番関に下りました。他に洞川から尾根道で大原山を経て登る道があります。


奈良の戦争遺跡を訪ねて(5)

2015-12-15 16:43:54 | 奈良散歩

現在は奈良教育大学になっている奈良聯隊敷地跡では、吉川先生から聯隊の施設や練兵場の様子など、とてもここでは書ききれない多くのお話を伺った。糧秣庫の隣りには需品庫が続く。需品とは軍で必要な物資を扱うことで、その任務を担う輜重(しちょう)兵は、負傷して厳しい軍務につけなくなった兵隊が当たったので、他の兵たちからは蔑視された。『輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々・トンボも鳥のうち』こんな歌を覚えている。



このような様々な歴史をずっと見続けてきたのが「吉備塚」の大ケヤキである。樹下の碑によると「この古墳は、吉備真備の墓地と伝えられ、古くから奈良の名所として親しまれてきました。吉備真備は若き日は遣唐留学生にえらばれ、在唐十九年、長安の都においても、その学識が高く評価されたといいます。帰国の後は春宮太夫として皇太子の教育にあたり、大学寮の整備や、東大寺の造営に尽くすなど、天平文化の一翼をにないました。」この後の「私たちも、学問や研究の深さと、世界に向かう心の広さを学びたいと願っています」という結びの文章が、平和への祈りを表しているようで強く印象に残った。

 


正門を出て白毫寺に向かう途中、奈良衛戍病院(陸軍病院)の跡を通る。現在は国家公務員高畑合同宿舎の敷地だが、宿舎は使われていないようだ。土堤に残るカラタチが当時を語っている。カラタチは鉄条網の代わりか、教育大北側の土手にも植えられていた。

大阪では堺市金岡に陸軍病院があり、田辺国民学校3年の時、慰問に行った。戦場で怪我をして帰国した兵隊さんを慰めようと、みんな一生懸命に唱歌を歌い、寸劇をした。私は紙芝居を披露した。絵は市販のもので、枠は親父が段ボールで作ってくれた。題目は芥川の「蜘蛛の糸」で『或る日のことでございます。お釋迦樣は極樂の蓮池のふちを、ひとりでぶらぶら御歩きになつていらつしやいました。』の書き出しの部分など今も暗唱できるほど、懸命に覚えた。裏に文章は書いてあったのだが…。終わると大拍手だった。白衣姿で顔や手足に包帯を巻いたり、松葉杖を小脇にした兵隊さんの中には、歌を聞いて涙を流す人もいた。

 


高円山の西麓にある白毫寺へは五色椿の時期などに何度か訪れたことがあるが、本堂に上げて頂いて重文の仏様を間近に拝するのは初めてである。ゆっくり拝観してお堂を出ると、今日の会を企画してくださった幹事の方たちが、大きな世界地図を壁に掲げて下さっていた。(下の写真は室 典良さん撮影)

この地図は奈良聯隊が使用していたもので、現在は白毫寺に所蔵されている。小さいカードに、「(地図には敵国語である)英語が一切使用されていない、文字は右から左へ書かれている、国名は全て漢字」であるとの、ご住職の説明が記されていた。
 


地図の制作年代を探したが見つからなかった。私は地図の赤く塗られた範囲から、恐らく太平洋戦争勃発以前か直後のものと推測する。終戦の翌年頃まで「日本」の国号は「大日本帝国」だった。そして大日本帝国の領土とされたのは 内地(ほぼ現在の日本国土)の他、 台湾、 樺太、 朝鮮(現在の北朝鮮と韓国)が含まれていた。太平洋の広い範囲を赤線で囲ってある南洋諸島は、国際連盟の委任を受けた「委任統治区域」である。地図ではここまでが赤色で国土とされている。しかし、戦争が始まって半年ほど経った1942年には、大日本帝国はいわゆる南方作戦でフィリピン、ビルマ、インドネシアなどを占領して領土とした。その頃の地図なら更に赤い色の部分が増えていると考えられるからである。ともあれ、地図に「大日本」の文字を久しぶりに見た。

 今日最後の戦争遺跡は古市町の奈良県護国神社である。「高円の杜」と言われる鬱蒼とした森が見えてきた頃には少し遅くなり、佐保短大のある北側から境内に入る。

まず戦没者慰霊碑に参拝。側面には戦没された場所が記された地図が付けられていた。神社には明治維新から太平洋戦争までの間に戦争の犠牲となった奈良県の軍人、軍属3万柱と満蒙開拓殉難者、消防で殉職した人たちが祭祀されている。

本殿にお参りし、石段を降りて神社正面の大鳥居から出た。



「戦国時代古市氏の山城址」の説明板があり「奈良縣護国神社」の社号石標が立っている。「裏に回って見てください」と先生にいわれて、ツバキの木をかき分けるように裏から石標を見ると「高圓神社」の文字が彫られている。なんとこの神社、敗戦後のGHQ占領時代は「高円神社」に名前を変えていたのだった。神社存続のためとはいえ、占領軍に忖度するところがなかっただろうか。奈良の戦争遺跡を訪ねた最後に、敗戦後のあの惨めな時代が思い出された。近くにあった松下無線工場は進駐軍に接収され、そこで働く人たちは米兵に阿って僅かな食料を手にし、私たち子供はジープに群がってチョコレートをねだり…嫌な思いはこれ以上記すに忍びない。

 
 この日の「奈良の戦争遺跡巡り」では戦争について改めて色々なことを考えさせられました。現在、安保法案や集団的自衛権を巡って様々な論議が盛んですが、単に「戦争は悪いことだ」「戦争は嫌だ」「平和が大切だ」といった感情論だけでなく、「前の戦争から何を学ぶか」が大事だと思います。とても貴重で有意義な企画に参加出来たことに、改めて深く感謝します。
 


奈良の戦争遺跡を訪ねて(4)

2015-12-14 12:09:01 | 奈良散歩

様々な感慨を胸に奈良ホテル本館を出て、旧大乗寺庭園を見下ろしながら入口へ歩く。大乗院は興福寺の門跡寺院で、足利義政の命を受けた善阿弥が手掛けた庭園は国の名勝になっている。



門の手前の守衛室の屋根も苔むして風情がある。
 
次の遺跡を訪ねて赤い鳥居の瑜伽神社の前を通り、高畑町の垢かき地蔵、清水町の弘法大師爪かき地蔵、笠屋町の鎧地蔵と巡って、教育大前の県道に出た。この通りは通称・連隊通りと呼ばれるだけに、周辺には軍人会館跡など戦争遺跡が多い。
 

現在は奈良第二地方合同庁舎がある場所には、「奈良聯隊区司令部」があった。奈良県の青年たちは20歳になると全員、ここで徴兵検査を受けたのである。因みにWikipediaなどの資料によると、私たちがよく耳にした甲(身体頑健~健康)・乙(健康)・丙種(極めて欠陥の多い者)の他に丁(目・口が不自由な者、精神に障害を持つ者)、戌(病中、病後)の5種の判定区分があった。春に徴兵検査で甲、乙種に合格した人は翌年1月に入隊した。戦争が激しくなると現役兵だけでは足りず、予備兵(入隊期間を終えた人や丙種合格者など)も動員されることになる。この招集令状を発行するのも区司令部だった。令状には、「赤紙」と呼ばれてよく知られている「臨時招集令状」だけでなく、青紙(防衛)、白紙(教育)もあったという。

道路に面した敷地の南西隅には、昭和44年(1969)建立の「奈良聯隊記念碑」が建つ。頂いた資料を後で読むと碑文には、(以下抜粋)『この兵営に駐屯した将兵の数は延べ七萬に及び…支那事変に引き続き、太平洋戦争に参加し…赫々たる戦果を挙げた。また当時の兵営は…進んで国難に赴き従容として死につく大和魂の練磨と武技の鍛錬に精進した誠に異議深きところであった。‥』と四記されている。残念ながら、先の戦争への反省や亡くなった人たちへの思いは一切記されていない。その歴史認識や建立の意義を考えると、時代錯誤というよりも「またあの時代に…」後戻りしていく恐ろしさが、ひしひしと迫ってくる。 





奈良聯隊の跡は現在奈良教育大学の敷地になっている。中庭で昼食、小憩の後、構内に残る戦争遺跡を吉川先生のご説明で見学する。まず敷地南西隅の弾薬庫跡へ。周りに土堤を造り、屋根の鬼瓦には陸軍の徽章である一つ星を付けてあったが、ごく最近に屋根は葺き替えられ、建物の前の部分も撤去されている。(写真上は昨年、金田充史氏撮影)。
 


元衛兵所のあった守衛室横を右(東)へ曲がり、右手前方に高円山を見上げながら歩く。突き当たりは銃工場があった処で、左に兵器庫、右に酒保(下士官兵への食品、日用品の売店)や下士官集会所があった。古い桜の木の残る中営庭(兵営の中の広場)を通り、球技をしていた障害児たちと挨拶を交わしながら、東北隅の広場にくる。ここは将校の集会所があったところで、前に生駒石が散乱して泉水庭園の面影を伝えていた。
 


左に折れて付属小学校校舎横を西へ歩く。煉瓦積みの構造物があり、危ない足取りで急な階段を登ってみたが、狭い最上部には何もない。高射砲が据えられていたともいわれるが、実際のところは用途不明だそうだ。兵営への商人が出入りした北門は当時のまま残されている。

その西側にある美しい煉瓦作りの建物は元糧秣庫。糧は軍用の食料、秣(まつ)は「軍馬のまぐさ」のこと。

その内部は教育資料館として改装されているが、外観は往時の面影をそのまま残している。

一風変わった煉瓦の積み方が興味深かった。