55 山上ヶ岳(1719m) <大峰山脈>
(さんじょうがたけ)吉野郡天川村。大峰山脈の主峰。別称大峰山、金峯山。広義の大峰山は吉野山から山上ヶ岳を経て弥山付近までをいうが、狭義にはこの山を指す。役行者が開いたとされる西日本修験道の根本道場で、今なお「女人禁制」を守り続けている。「山上」は吉野山の「山下」に対応した名前で、「大峰山」は山頂にある大峰山寺からきている。谷文晁は「日本名山図会」の冒頭に「金峰山」の名でこの山を掲げている。なお名山図会の「大峰山」は広島県三原市の仏通寺山である。関西の若者にとって「サンジョウサン参り」は昭和になっても成人式を兼ねた重要な行事であった。 私の住んでいた河内でも青年団の先輩などから「西の覗き」での修行の様子や、下山時の「精進上げ」の話などを聞かされたものである。
弥山国見八方睨から
登山対象としての山上ヶ岳は、大峰山寺本堂近くの湧出岩の横に一等三角点(1719m)を持つことでも分かるように展望にも優れた山である。主な登山道には吉野道、洞川道、柏木道の三つがあるが、「柳の渡し」(近鉄吉野線六田近く)を起点とする吉野道<47.吉野山参照>は距離が長いので、吉野郡天川村洞川からの洞川道が最もよく使われている(約2時間)。
1975年6月7日、町内の仲間4人で洞川(どろかわ)から入山。美しいシャクナゲの大日岳から稲村ヶ岳に登り、稲村小屋で一泊。担ぎ上げた一升瓶を空にして明日への活力とした。
8日は女人禁制結界の大きな門があるレンゲヶ辻へ。門を潜るとすぐ岩の登りとなり、ぐんぐん高度を稼いで山上ヶ岳直下の稜線に飛び出した。笹原に腰を下ろし眺望を楽しんだ後、行場巡り。本堂の前では、行者の人たちが護摩を焚き、真言を唱えていた。胎内くぐり、蟻の戸渡り、平等岩と、ちょっとスリルを味わう。このときは西の覗きはできなかった。吉野口への分岐から快調に飛ばして清浄大橋に下った。
2003年8月24日、千日山歩渉会11名のリーダーで洞川から登る。28年ぶりで男性だけの例会である。発菩提心門を潜って表参道に入り、一本松茶屋を過ぎ、まさに甘露の味のお助け水で火照った体を冷やし、最後の急坂を登り切って奥駆道が通る稜線に出る。
すぐ先の洞辻茶屋を抜けたところに出迎え不動が立っていた。陀羅助茶屋を過ぎると表行場が始まる。道は二つに分かれ、右は下山道である。岩に鎖がかかる油コボシの行場、次の小鐘掛も難なく通過して鐘掛岩の下に来る。桟敷のような見晴らし台があり、正面に大岩が立ちはだかる。
Bさんを先頭に登りだすと、岩の上から顔を見せた人が次々と足がかりを指示する。「この岩を登るにはお金が要ります」といわれ、私が最後に岩の上に出ると役行者像の横に賽銭箱があった。梵字に朱印の押してある鉢巻き代と併せて一人800円を納める。岩の上から見ると眼下の陀羅尼助茶屋の赤い屋根から大天井岳、四寸岩山、さらに吉野の山に続く奥駆け道が通る稜線、左に視線を動かすと稲村ヶ岳がすぐ近くに見える。法螺貝の音が風に乗って流れてくる。
岩の反対側には簡単に下れ、鎖で囲まれた「お亀石」の横を通る。この岩根は熊野まで続くといわれている。三番目の修行門、等覚門からは右手の山裾を捲くように行く。鞍部から少し登ると有名な「西の覗き」の行場である。次々に肩に掛けた命綱に身を任せ、絶壁から身体を乗り出し両手を併せて「捨身の行」を体験する。向かい側に見える絶壁は、かって「剣の山」といわれ覗きが行われていたが、「諸人多く落ちて死したる事、三百人に余るを以て、今の西ののぞきに替えたり」と「和州吉野郡群山記」に出ている。
無事に日本三大荒行の一つを終えて、林の中に立ち並ぶ供養塔を見ながら進む。五つの宿坊(江戸時代には六坊)が並ぶ場所から参道を進んで妙覚門をくぐると本堂の建つ広場である。本堂横のお花畑からは大普賢、弥山、稲村ヶ岳などの大峰の山々を望むことができた。三角点(一等1719m)はすぐ上の湧出岩にあり、岩の周りを石の囲いが巡っている。
大峯山寺本堂(かっての山上蔵王堂)は日本山嶽志に「本堂 堂宇壮麗、屋ヲ覆ウニ青銅ヲ以テス。役行者ガ登山ニ用ヒタリト称スル鉄錫杖及ビ鉄製ノ日和下駄アリ」と記されている。本尊蔵王権現と役行者を祀った日本最高所の重要文化建造物である。
裏行場は難所が多く事故を防ぐため、必ず宿坊に案内を乞うことになっている。私たちは喜蔵院に案内をお願いした。行は、仏の子として生まれ変わるための胎内潜りに始まり、いくつかの岩場を経て東覗き岩の横にある飛石岩にくる。核心部の蟻の戸渡り、ついで平等岩となる。スタンスもホールドも十分あるのだが、岩登りの経験のない人にはやはり鎖が頼りで、どうしても足運びの順序を教える先達が要るところだ。
案内のKさんはそれぞれの行場での技術指導?はもちろん、行場のいわれも分かりやすく解説して、周囲の山の名前なども教えてくれた。晴れた日には平等岩の上から白山や富士山まで見えるということだ。最後に全員で「平等岩廻りて見れば阿古滝の捨てる命も不動くりから」と歌を詠み、「南無神変大菩薩・南無アビラウンケンソワカ」と真言を唱えて行を終え、本堂前に出た。ちょうど1時間かかった。
下山は女人結界の五番関から五番関トンネルに下り、それぞれの感慨を胸に山岳霊地を後にした。
大峯山寺の本尊・金剛蔵王権現は役行者が感得したと伝えられるが、空海も金峰山(吉野山)から高野山へ修行をしている。修験道の開祖は伝説では役行者だが、実際には理源大師・聖宝であり、当初は真言宗(当山派)が勢力を持っていた。しかし、平安時代中期以降、朝廷の熊野信仰が盛んになるにつれて熊野から大峰山への修験道が開かれ、天台宗系の本山派が勢力を持つようになる。そのため、熊野から大峰山を経て吉野に至る修行の道筋・奥駆道を「順峰」、吉野から熊野への順路を「逆峰」と呼ぶ。奥駆道には1番の熊野本宮から75番の「柳の渡し」に至る、75の「靡(なびき)」という拝所・行場が設けられている。
2004年3月から始まった日本山岳会関西支部の奥駈山行第三回目(2004年6月12 日)は、靡六九番の五番関から六二番の笙ノ窟まで、山上ヶ岳を経て大普賢岳に至る20㎞に及ぶ行程だった。この山行は男性に限ったが会員外も含めて16名の参加があった。
洞辻茶屋までは前年に下った同じ道である。トンネル入口から沢沿いの急坂を五番関に登る。大天井岳からきた吉野古道は、ここ五番関の女人結界の門を潜って稜線の左(東)側を捲いていく。殆どの人がこちらを通るようだが、私たちは門の右横から忠実に尾根通しに登る古道を行く。すぐ昔の蛇腹坂(寺及坂)にかかる。やや平坦になると、新道と合流して大きな鉄鍋と百五十五丁石がある鍋冠行者堂に着く。
現在の蛇腹坂に来て、ロープが下がっている急な岩場を通過する。飢え坂ともいうそうだが、朝早かったので少し空腹を覚えた。「吉野百八十丁、洞川八十丁」の石標が立つ洞辻茶屋まで、トンネル入口から2時間だった。