ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

私の関西百山(55) 山上ヶ岳

2014-04-29 10:34:33 | 私の関西百山

55 山上ヶ岳(1719m) <大峰山脈>

(さんじょうがたけ)吉野郡天川村。大峰山脈の主峰。別称大峰山、金峯山。広義の大峰山は吉野山から山上ヶ岳を経て弥山付近までをいうが、狭義にはこの山を指す。役行者が開いたとされる西日本修験道の根本道場で、今なお「女人禁制」を守り続けている。「山上」は吉野山の「山下」に対応した名前で、「大峰山」は山頂にある大峰山寺からきている。谷文晁は「日本名山図会」の冒頭に「金峰山」の名でこの山を掲げている。なお名山図会の「大峰山」は広島県三原市の仏通寺山である。関西の若者にとって「サンジョウサン参り」は昭和になっても成人式を兼ねた重要な行事であった。 私の住んでいた河内でも青年団の先輩などから「西の覗き」での修行の様子や、下山時の「精進上げ」の話などを聞かされたものである。

 弥山国見八方睨から

登山対象としての山上ヶ岳は、大峰山寺本堂近くの湧出岩の横に一等三角点(1719m)を持つことでも分かるように展望にも優れた山である。主な登山道には吉野道、洞川道、柏木道の三つがあるが、「柳の渡し」(近鉄吉野線六田近く)を起点とする吉野道<47.吉野山参照>は距離が長いので、吉野郡天川村洞川からの洞川道が最もよく使われている(約2時間)。

1975年6月7日、町内の仲間4人で洞川(どろかわ)から入山。美しいシャクナゲの大日岳から稲村ヶ岳に登り、稲村小屋で一泊。担ぎ上げた一升瓶を空にして明日への活力とした。

8日は女人禁制結界の大きな門があるレンゲヶ辻へ。門を潜るとすぐ岩の登りとなり、ぐんぐん高度を稼いで山上ヶ岳直下の稜線に飛び出した。笹原に腰を下ろし眺望を楽しんだ後、行場巡り。本堂の前では、行者の人たちが護摩を焚き、真言を唱えていた。胎内くぐり、蟻の戸渡り、平等岩と、ちょっとスリルを味わう。このときは西の覗きはできなかった。吉野口への分岐から快調に飛ばして清浄大橋に下った。

 

2003年8月24日、千日山歩渉会11名のリーダーで洞川から登る。28年ぶりで男性だけの例会である。発菩提心門を潜って表参道に入り、一本松茶屋を過ぎ、まさに甘露の味のお助け水で火照った体を冷やし、最後の急坂を登り切って奥駆道が通る稜線に出る。

すぐ先の洞辻茶屋を抜けたところに出迎え不動が立っていた。陀羅助茶屋を過ぎると表行場が始まる。道は二つに分かれ、右は下山道である。岩に鎖がかかる油コボシの行場、次の小鐘掛も難なく通過して鐘掛岩の下に来る。桟敷のような見晴らし台があり、正面に大岩が立ちはだかる。

Bさんを先頭に登りだすと、岩の上から顔を見せた人が次々と足がかりを指示する。「この岩を登るにはお金が要ります」といわれ、私が最後に岩の上に出ると役行者像の横に賽銭箱があった。梵字に朱印の押してある鉢巻き代と併せて一人800円を納める。岩の上から見ると眼下の陀羅尼助茶屋の赤い屋根から大天井岳、四寸岩山、さらに吉野の山に続く奥駆け道が通る稜線、左に視線を動かすと稲村ヶ岳がすぐ近くに見える。法螺貝の音が風に乗って流れてくる。

岩の反対側には簡単に下れ、鎖で囲まれた「お亀石」の横を通る。この岩根は熊野まで続くといわれている。三番目の修行門、等覚門からは右手の山裾を捲くように行く。鞍部から少し登ると有名な「西の覗き」の行場である。次々に肩に掛けた命綱に身を任せ、絶壁から身体を乗り出し両手を併せて「捨身の行」を体験する。向かい側に見える絶壁は、かって「剣の山」といわれ覗きが行われていたが、「諸人多く落ちて死したる事、三百人に余るを以て、今の西ののぞきに替えたり」と「和州吉野郡群山記」に出ている。

無事に日本三大荒行の一つを終えて、林の中に立ち並ぶ供養塔を見ながら進む。五つの宿坊(江戸時代には六坊)が並ぶ場所から参道を進んで妙覚門をくぐると本堂の建つ広場である。本堂横のお花畑からは大普賢、弥山、稲村ヶ岳などの大峰の山々を望むことができた。三角点(一等1719m)はすぐ上の湧出岩にあり、岩の周りを石の囲いが巡っている。

大峯山寺本堂(かっての山上蔵王堂)は日本山嶽志に「本堂 堂宇壮麗、屋ヲ覆ウニ青銅ヲ以テス。役行者ガ登山ニ用ヒタリト称スル鉄錫杖及ビ鉄製ノ日和下駄アリ」と記されている。本尊蔵王権現と役行者を祀った日本最高所の重要文化建造物である。

裏行場は難所が多く事故を防ぐため、必ず宿坊に案内を乞うことになっている。私たちは喜蔵院に案内をお願いした。行は、仏の子として生まれ変わるための胎内潜りに始まり、いくつかの岩場を経て東覗き岩の横にある飛石岩にくる。核心部の蟻の戸渡り、ついで平等岩となる。スタンスもホールドも十分あるのだが、岩登りの経験のない人にはやはり鎖が頼りで、どうしても足運びの順序を教える先達が要るところだ。

案内のKさんはそれぞれの行場での技術指導?はもちろん、行場のいわれも分かりやすく解説して、周囲の山の名前なども教えてくれた。晴れた日には平等岩の上から白山や富士山まで見えるということだ。最後に全員で「平等岩廻りて見れば阿古滝の捨てる命も不動くりから」と歌を詠み、「南無神変大菩薩・南無アビラウンケンソワカ」と真言を唱えて行を終え、本堂前に出た。ちょうど1時間かかった。

下山は女人結界の五番関から五番関トンネルに下り、それぞれの感慨を胸に山岳霊地を後にした。

大峯山寺の本尊・金剛蔵王権現は役行者が感得したと伝えられるが、空海も金峰山(吉野山)から高野山へ修行をしている。修験道の開祖は伝説では役行者だが、実際には理源大師・聖宝であり、当初は真言宗(当山派)が勢力を持っていた。しかし、平安時代中期以降、朝廷の熊野信仰が盛んになるにつれて熊野から大峰山への修験道が開かれ、天台宗系の本山派が勢力を持つようになる。そのため、熊野から大峰山を経て吉野に至る修行の道筋・奥駆道を「順峰」、吉野から熊野への順路を「逆峰」と呼ぶ。奥駆道には1番の熊野本宮から75番の「柳の渡し」に至る、75の「靡(なびき)」という拝所・行場が設けられている。

2004年3月から始まった日本山岳会関西支部の奥駈山行第三回目(2004年6月12 日)は、靡六九番の五番関から六二番の笙ノ窟まで、山上ヶ岳を経て大普賢岳に至る20㎞に及ぶ行程だった。この山行は男性に限ったが会員外も含めて16名の参加があった。

洞辻茶屋までは前年に下った同じ道である。トンネル入口から沢沿いの急坂を五番関に登る。大天井岳からきた吉野古道は、ここ五番関の女人結界の門を潜って稜線の左(東)側を捲いていく。殆どの人がこちらを通るようだが、私たちは門の右横から忠実に尾根通しに登る古道を行く。すぐ昔の蛇腹坂(寺及坂)にかかる。やや平坦になると、新道と合流して大きな鉄鍋と百五十五丁石がある鍋冠行者堂に着く。

現在の蛇腹坂に来て、ロープが下がっている急な岩場を通過する。飢え坂ともいうそうだが、朝早かったので少し空腹を覚えた。「吉野百八十丁、洞川八十丁」の石標が立つ洞辻茶屋まで、トンネル入口から2時間だった。


春うらら松尾山(2014.04.26)

2014-04-26 18:05:16 | 矢田だより

連休初日は素晴らしい青空で明けました。道路の混雑を予想して、近場の矢田丘陵を歩きます。

 シロバナのタンポポ

斑鳩町営駐車場を9時半に出発。畑の中の道を歩いていくと「タケノコ持って帰るか?」とオジサンが言ってくれましたが、「これから山へ登るので…」とご辞退しました。火葬場の横から、墓地の横へと夜分にはあまり歩きたくないような道が難点ですが、ちょうどよい足慣らしのアプローチです。暑いほどの日差しを背中に受けながらゴルフ場を抜けて山道に入りました(09:45)。

 シロバナヘビイチコ

早くから松尾寺へお参りした人が下って来るのに出合い、挨拶を交わします。私たちと同じように空身か軽装で、遠方からの人はしっかりした山支度です。

ミツバツツジはすでに散り、モチツツジにはまだ早くて道脇ではほんの数本だけが花を開いていました。単調な山道をゆっくり登り続けるうちに、ザックを担いだ人に追いついてしまいました。

ようやく汗ばんでくる頃、松尾寺南門をくぐります。

参道の両側に紅白のシャクナゲが咲いていました。階段を登り参詣を済ませて松尾山に向かいます。境内のベンチには10人たらずの人が腰を下ろしていましたが、三重塔から修行道に入るとまったく人影を見なくなりました。

無人の頂上(10:30)から国見台(10:45)まで行ってみましたが、モチツツジはまだ蕾でした。いちばん早く咲く株でこんな様子です。

尾根道で見たヤマツツジです。

松尾寺に帰り、霊泉の水を汲んで今日二度目のお参り。

本堂下にシャガの大群落がありました。

シャクナゲの花に見送られながら、南門を出ます(11:10)。

思いがけずギンリョウソウがたくさん顔を出していました。

ゴルフ場を過ぎた休耕田で春の花と遊びました。

最近めっきり少なくなったレンゲ畑です。

ハハコグサもたくさん咲いています。のんびり遊んで正午、駐車場に帰りました。緑のそよ風の中、13,170歩の気持ちのよいハイキングでした。


晩春の三上山(2014.04.23)

2014-04-25 13:48:19 | 山日記

【三 上 山】432m。湖東平野に浮かぶ独立峰で往事から街道を行く人の目印であった。守山付近から見ると美しい円錐形で近江富士と呼ばれるが、実際は雌雄のピークを持つ双耳峰である。頂上部には巨大な磐座があり、古くから西山麓にある御上神社の御神体山とされてきた。俵藤太氏郷が「瀬田の橋下に住む大蛇の願いで、三上山に棲む山を七巻半する大ムカデを退治した」という蜈蚣退治の話から「ムカデ山」という俗称がある。

 御上神社より

【コースタイム】表登山口09:45…妙見堂址9:55~10:00…割石10:20~10:25…山頂10:50~11:05…近江富士花緑公園11:50~12:25…御上神社13:00

今年になって初めての丸さん夫妻との山行は、丸さんのご希望で三上山になった。私たちにとっては2001年以来、13年ぶり3度目である。ここ二、三日ぐずついていた天候も、今朝は抜けるような青空で明けた。名神高速道を栗東で降り、8号線に入って間もなく御上神社に着く。ちょうど同じころに到着した丸さん車の隣りに車を入れる。駐車場では遠足に来た中学生たちが腰を下ろして、先生の話を聞いていた。国道を渡って目の前のローソンで弁当を仕入れて出発する。 

集落を抜けて登山口にくる。石の階段を登りイノシシ除けの柵を開けて山道に入ると、はるか上の方で生徒たちの声が聞こえる。

 

 (1989年撮影)

神が岩上から釣りをしたという魚釣岩は崩壊が進んだためか、1989年に撮った写真にはない金網が掛けられていた。

岩の左手から登り出し、壊れた茶屋跡を過ぎて妙見堂跡の広場に来る。

八重桜が一本、美しく咲いていた。林の中、ジグザグの道をゆっくり登っていくと、「二越・20m」の標識が右手を指していたので行ってみる。露岩があり展望が開けて、僅かに登っただけなのにかなり下に田園風景が見える。引き返して少し登ると、また登山道を離れて右へ「割岩」を指す標識がある。少し登り気味に行くと鎖のかかった大岩があり、右手をまくと割れ目の上に来る。

前も潜ったことを懐かしみながら、身体を横にして割れ目に入り写真を撮り合う。岩の上の説明板のところで登山道と合流する。

次第に勾配が強まり、ところどころに手摺の設けられた姥ヶ懐の岩場にくる。ミツバツツジの花越しに眼下の近江平野が美しく眺められる。時々、降りてくる人と出会う。男子生徒、しばらく上では女子生徒がバテて座り込んでいる。先生と少し話を交わして登ると、展望台と名の付いた頂上の大岩の上に出た。

近江平野に浮かぶ菩提寺山、その向こうに阿星山、金勝アルプス、湖南アルプス、千頭岳、音羽山…比叡山と、これまでに歩いた懐かしい山々が居並んで迎えてくれる。しばらく腰を下ろして眺めていると、小さい子供を連れた家族が姿を見せたので場所を譲る。

すぐ上には注連縄を捲いた岩を前にして石の鳥居が立ち、その奥に小さい社があった。拝礼して裏側に回ると山名板のある小広場でベンチも置いてある。最高点らしいので三角点を探したが見当たらなかった。まだ昼には早いので昼食は少し先にして、写真を撮りあっただけで下山する。

若い女性二人が降りて行った後を追うように下っていくと、裏参道へ道を指す標識があったが、健脚向きと示された急坂の道に入る。次の分岐でも「一般向き」と分かれて「健脚向き」に入る。「花緑公園へ1.5km」の標識が現れた。裏参道へは戻れないと気付いたが、面倒なので、ゴロゴロの急坂を下り続ける。

水平な道に降り立って地図板を見ると、東山麓の近江富士花緑公園上部にでている。「一般向き」を行った先ほどの女性二人が降りてきた。聞くと地元の彼女らも御上神社へ帰るそうだ。ミツバツツジの咲く広い道をいくと、今は通行禁止になっている湿原入口を過ぎて、緑の芝生が拡がり満開の八重桜が咲き誇る美しい場所にでた。

何棟かのバンガローや付属のバーベキューができる設備もある。女性たちは木の間越しに見える車が走る道へ出た様子だ。私たちは芝生に腰を下ろして弁当を食べる。怪我の功名ながら、思いがけず最後の花見ができた。

公園のゲートを出て県道325線沿いの広い歩道を南へ歩く。右手は公園の湿原で木道が続いている。歩道と車道を隔てる低い石積に濃い紫色のスミレがずっと並んでいた。

公園が終わると様々な緑色が織りなす田園風景が広がり、タンポポや菜の花の黄色が彩を添える上にすっくと立つ近江富士の姿がある。西に回り込むように歩くと右手に若宮神社があるところで県道27号線にでて、ここからは北西に歩く。今まで三上山主峰の左に見えた女山が次第に右に移り、やがて国道8号線の御上神社前に出た。

御上神社は天照大神の孫神・天之御影之神を祭神とする古社である。楼門は国の重要文化財で入母屋造の檜皮葺きで二層になっている。

国宝の本殿も檜皮葺だが、神社では珍しい入母屋造りである。参拝後、ゆっくりと境内を参観して今日の山行の締めくくりとした。雲一つない青空の下、爽やかな気候で汗もかかず快適なハイキングだった。  


私の関西百山(54)子ノ泊山

2014-04-23 15:52:26 | 私の関西百山

子ノ泊山(907m) <大峰山脈>

熊野市と紀宝町の境にある三重県最南端の山。山名の由来としては「熊野灘から新宮に向かう舟が、子(北)の方角にあるこの山を目印にしたことによる。

1996年5月11日、千日町ハイキング同好会月例会で「干支の山」へ一泊登山した。169号線で紀伊半島を縦断、しばらく海岸を走って新宮を過ぎ、再び熊野川の支流沿いに遡って目指す山へ。桐原の集落から舗装林道となり、中の谷橋を渡ったところの路側に駐車する。 いきなり雑木林の中の厳しい直登が始まる。地図の等高線から覚悟はできていたので、焦らずに胸を突くような急坂をゆっくりと登る。炭焼き窯の跡を過ぎ、さらに踏み跡程度の細い道を行く。シイの落ち葉が敷き積められ、滑りやすく歩き辛い。30分ほど稜線に出てやや傾斜が緩む。むせるような若葉の中にコメツツジの柔らかなピンク色が優しく感じられる。ブナやケヤキの大木はしっかりと根を拡げて、たくましい生命力を主張している。ふと見上げた頭上に薄紅色のシヤクナゲの花が夢のように浮かんでいた。

稜線へ出たものの相変わらず雑木林の中で視界は開けず、少しなだらかな所があるかと思うと急坂が現れたり、結構しんどい山だ。左手からの道を合わせる分岐からは道らしくなり、かなり歩きやすくなる。さらに急坂を登っていい加減うんざりする頃、林を抜けて小広い台地に飛び出すと一等三角点のある頂上だった。

立派な山名板に「十二年後にまた会いましょう。紀宝町」とあり、スタンプ台や記名帳を入れたポストも設けられている。正月頃はさぞかし賑やかだったろうと思わせるが、今日は我々だけの静かな山頂だった。東から南にかけて大きく熊野灘が拡がり、北から西には大峰、熊野の山並みと360度の展望台なのだが、残念ながら薄墨を流したような曇り空の下で、すぐ近くの山が頂を見せるだけ。海のほうも辛うじて海岸線が見分けられる程度だった。

下山は、よくこんな所を登ってきたと我ながら感心するほどの急坂を頑張り、分岐からは右にとり直降下すると最後に金属の梯子があり、朝の林道の上部へ飛び出した。駐車スペースもあり指導標も立派で、どうも最近はこちらの方が登山口として定着しているらしい。のんびりと林道を降りていくと、右手下にU字形に大きく中ノ谷が開けた。まだ時間があるので、「落打ノ滝」の道標に誘われて谷に降りる。苔むした石を飛んだり、流れを渡ったり、けっこう沢歩きの気分を味わいながら登ること300m、谷筋を曲がると目の前に大きな飛瀑が現れた。期待していなかっただけにその豪壮さに度肝を抜かれた。高さも幅も十分に大杉や、赤目の滝に匹敵する美しい姿の滝である。しばらくは全員、言葉もなく流れに見入り、登頂の満足にさらに感激を加えて勝浦温泉の宿に向かった。

<コースタイム>仮登山口9:52…稜線に出る10:30…分岐11:05…12:10子ノ泊山頂(昼食)13:15…14:20林道登山口14:45…15:30落打ノ滝15:40


晩春から初夏へ(2014.04.20)

2014-04-20 20:31:55 | 今日の大和民俗公園

今日は穀雨。季節は確実に移っていきます。「百穀を潤す」雨が降る前に大和民俗公園へ歩きました。

公園の南入口近くにはツツジが咲き始めています。

ミヤマキリシマより色が濃い真紅のキリシマツツジです。

カラタチの花は鯉幟の矢車のような形をしています。

サクラのシーズン最後に咲くサトザクラの並木道。

「関山」という品種です。

モチツツジも咲き始めました。

民家群の庭で咲いていた白い色のヤマブキ。

ハナズオウ。花弁の色が蘇芳(マメ科の植物)で染めた色に似ているのでこの名が付いたそうです。

公園で咲く花も次第に初夏の花に移っていきます。


里山の花だより(2014.04.19)

2014-04-19 18:01:23 | 矢田だより

春ウララ。じっとしていられず9時半から矢田山へ行きました。

今日の一番のお目当ては、このオドリコソウ。ようやく咲き始めました。

最近は外来種のヒメオドリコソウに押されて、めっきり数が減りました。
純粋の日本の舞姫。清楚な美しさです。

こちらはヒメオドリコソウ。花はホトケノザに似ていて踊り子らしさはあまりなく、葉が美しいのが特徴です。

東明寺には、いろんな種類のツバキが咲きますが、その一種です。

やっと顔を出したギンリョウソウが数株ありました。

尾根道に群落して咲いていたチゴユリ。

ガマズミ

ツバキ散り敷く道を山頂へ向かいます。

いつもとは違う場所で♀ペンがウワミズザクラを見つけました。少し下にある樹をズームアップ…

いったん尾根を下り、すぐ近くまで行って花を見上げます。白い花が青空に映えてそよ風に揺れていました。

山畑に植えられていた花梨(カリン)の花。他にもいろいろな野の花、山の花に出会いました。ゆっくりと花を愛でながらの矢田歩きを、ちょうど正午に終えました。


私の関西百山(53)白鬚岳

2014-04-19 08:52:10 | 私の関西百山

53 白鬚岳(1378m)<台高山脈>

(しらひげたけ)別称・朝倉山 吉野郡川上村のほぼ中央、池木屋山北西野赤倉山から南西に延びる稜線上にある。山頂に白髭大明神の祠があったことで山の名がついた。西側山麓の神之谷にある金剛寺には南朝の遺跡がある。

柏木で吉野川を渡り、神之谷集落から峠を一つ越した東谷出合(530m)まで車で入る。地道の東谷林道を10分ほど歩くと終点となり、ここが登山口である。右手の谷へ下り、3度ほど沢を渡り返す。薄暗い谷の奥に細長い滝を見上げ、左の山腹の道に入る。右手下の谷にかかる滝と壊れた小屋を見て、道が谷に近づくところで水流がなくなった谷を離れる。ジグザグの登りから、手入れの行き届いたヒノキの美林の中を急登する。やがて頭上が開け、ホトトギスやウグイスの声を聞きながら、コアジサイの花の中を行く。思ったより楽に登り切って稜線に出ると、神の谷コースとの分岐である。腰を下ろすと、涼しい風が頬をなで、降るようなセミの声に包まれ、恐ろしいほど山深い感じがする。

尾根通しに雑木林の中を登り、コル状になった処で右手が開け、真下に不動窟の赤い屋根と幟が見えた。静まりかえった中で突然、激しい物音がして大型の鳥が羽ばたきの音高く飛び立って、斜面沿いに滑空して行った。タカのように思えた。大きな岩を捲き、露岩混じりの痩せ尾根を行く。

やがて北側のヒノキ植林の切り開きから薊岳から明神岳、桧塚、迷岳へと続く稜線が一望されるようになる。行く手には鋭い頂を天に突き上げた白髭岳が見える。

緩く登って低い笹原の中の明るい小台地、小白髭に着く。北側の集落では、ここを白髭岳とか粉尾(そぎお)峠、これから登る白髭岳をアサクラ山と呼ぶそうだ。

小うるさいほどの痩せ尾根のアップダウンがあり、目立つピークだけでも4つを越していく。50m近く下るところもあるが、ブナやヒメシャラなどの木影を行くので思ったより涼しい。三つ目のピークは大きな岩の右手を捲いて、まだらロープが取り付けてある急坂を登る。四つ目のピークに立つと、目の前にすっくと白髭岳が立ちはだかっている。緑の山肌に一群の真っ赤なヤマツツジが鮮やかである。



最後の急登を終えて白髭岳山頂に立つ。山名の由来となった白髭大明神の祠は今はなく、三角点の前に「今西錦司先生1500山目の山」の小さい石柱がある。側面には「一山一峯に偏らず。一覚一私に偏らず。錦司」とある。展望は南側が日出ヶ岳から三津河落山と続く大台ヶ原、その右(南西)に孔雀岳から弥山、大普賢、山上ヶ岳へと続く大峰の山々。その右に丸い小白髭のピークが低く見える。展望を楽しみながらのランチタイムを終え、東へ少し下ると、露岩が散在し、迷岳、赤山、池木屋山など東から南にかけての展望が大きく開ける。ゆっくり展望を楽しんで、元の道を帰った。

天候に恵まれ、誰一人にも出会わない静かな山を楽しむことができたが、流石に登り応えがあった。帰り道で白屋岳の登山口を探しに行って、そこの小母さんに「白髭岳には白い鷹がいる」と聞いた。私たちが小白髭の手前で見た大きい鳥は、白ではなく茶色だったが、やはりタカだったのだろうか。

【コースタイム】東谷出合(530m)8:15…水場8:55…神の谷コース分岐(1080m)9:55~10:05…小白髭(1282m)10:30~10:40…白髭岳(1378m)11:35~12:20…小白髭13:15~13:25…東谷出合14:55 


私の関西百山(52)日出ヶ岳<続>

2014-04-15 20:15:19 | 私の関西百山

 

西大台はより豊かな自然の趣を残している区域である。しかし、2007年9月からの入山規制で安易には歩けなくなった。(一日の入山人数が制限され、事前に入山申請をしたうえ許可されれば入山料1000円を支払い、自然保護のレクチュアを受ける)。何度か歩いたが、規制を一か月後に控えた2007年8月初旬に二人で歩いたのが最後になった。

大台教会(ここの田垣内政一さんの怪談話も懐かしい)横から急坂を下り、ナゴヤ谷の流れを渡る。

右手200m上に幕末の北方探検家・松浦武四郎の顕彰碑がある。流れに沿う道は、以前は踏み跡を探してさまよう感じだったが、現在では迷いようもない。枯れ沢を三つほど渡り、中ノ谷の河原に出て対岸に渡り、尾根を登る。

小さい尾根を越すとトウヒやブナの原生林になり七ツ池の標識を見る。左手の尾根の上に湿原があるが今は鹿除けのネットなどで入れない。

この辺りは倒木や岩に付いた苔が、鮮やかな緑色に輝いて、神秘的な雰囲気を醸し出している。

カツラ谷をロープに頼って渡り、しばらく沢沿いに行くとやや広く平坦な場所に「開拓」の案内板がある。「明治の頃、この地、高野谷で開拓したが…大根、馬鈴薯のみ生育し、他は結実せず廃す。そのため現在地名として残って居る。」高野谷を飛び石伝いに渡り、少し行くと開拓分岐に来る。次はワサビ谷をロープ伝いに渡り、木の階段を登り、雑木林を抜けて展望台に着く。

東ノ川を隔てて正面に大蛇クラが見える。滝見尾根左下の千石クラ、岩壁に飛沫をあげる中の滝、尾根の奥には日出ヶ岳に続く稜線と素晴らしい眺めである。

開拓分岐に引き返し、逆川を吊り橋で渡ってガラガラの石ころ道を登る。しばらく行くと大岩壁の下から「弁慶の力水」が流れ落ちている。ナゴヤ谷の美しい流れに沿って歩き、最後に少し急坂を登って大台教会下の分岐に帰る。

ドライブウェイに沿って大和岳から日出ヶ岳に続く稜線上にも、あまり目立たないが静かな山が続く。西端の経ヶ峰(1529m)は、慶長年間に西上人(丹誠上人)が道を開いた山である。ドライブウェイから踏み跡を行くと、上人が変化を封じ込めて経を埋めたという経塔石を経て往復45分ほどだった。山頂は樹木に囲まれて殆ど展望がない(2007年7月)。

ここから大和岳(1597m)、日本鼻を過ぎると三津河落(さんずこうち1600m)で尾根がY字型に分かれる。ここは紀ノ川(吉野川)、熊野川(北山川)、宮川(大杉谷)の三河川の分水嶺である。

三津河落山最高点(1654m)の如来月(写真手前のピーク・三津河落より)はY字の下軸を南に行ったところにある。次のナゴヤ岳で再び尾根を分けて東に行くと川上辻で、ドライブウィと合する。ここから北へ筏場、入之波(しほのは)温泉に下る道があったが、今は通行できない。
 
次のピーク・巴岳を過ぎると日出ヶ岳までは30分強で達する。倒木やバイケイソウの群落の中、シカには遭えても殆ど人には出会わなかった。この静かな踏み跡を探しながらの稜線歩きも、今はできなくなっている。

日出ヶ岳から巴岳(左手前)、三津河落山へ続く山稜


私の関西百山(52) 日出ヶ岳

2014-04-14 09:35:27 | 私の関西百山

日出ヶ岳(1695m)<台高山脈>

(ひでがたけ) 別称 秀ヶ岳。 三津河落山、巴岳なども含めた総称・大台ヶ原山の最高点である。熊野灘に臨み、日の出を見るのに相応しい山としての名を持つ。大台ケ原周辺は年間雨量500ミリを超える日本有数の豪雨地帯で、そのためトウヒ、ブナなどの鬱蒼とした原生林に緑のササやコケが生育し、美しい自然の宝庫である。春のシャクナゲ、秋の紅葉、黄葉の素晴らしさでもよく知られている。

  正木ヶ峯より日出ヶ岳

私たちにとっての大台ケ原山は、マイカーで気軽にアプローチできることもあって、非常に馴染み深い山である。子供たちが小学生の頃は夏休みにバンガローで泊まったり(1972年8月)、大迫ダムの下の河原でテントを張って満点の星空に花火を打ち上げたりもした(1973年8月)。二人で、また山仲間たちとの様々な山行の想い出は尽きない。殆どの場合、最高点の日出ヶ岳山頂に立っているので、以下では大台ヶ原山全域の想い出を振り返ってみる。

山頂駐車場からコンクリートの展望台が建つ山頂までは、コンクリートの階段道や木道を登って40分で到着できる。



山頂からは大峰山脈の主要な山々を一望にし、冬季の晴れた日には富士山や御岳も見えるという。

山頂から東に下ると、冠松次郎が「関西の黒部」と絶賛した大杉谷がある。

大杉谷・七ツ釜滝

大小の瀑布と深い淵を連ねた9キロにわたる美しい渓谷である。しばらく登山路の崩壊で通行不能となっていたが、昨2013年秋から再び通れるようになった。1967年9月中旬、職場の同僚二人と東大台を周遊して大台山の家で泊り、大杉谷を下ったのが、私の初めての大台行きでもあった。その後も数度訪れたが、もっとも印象に残っているのは近所の山仲間との92年11月の山行である。



山の家で泊まった夜に降雪があり、翌朝は思わぬ雪景色の中を大杉谷へ下った。

 雪景色の日出ヶ岳山頂

紅葉と白い世界の両方が楽しめた贅沢な山だった。

山頂から大杉谷に向かって10分ほど下ると、シャクナゲ平という処がある。1995 年、東大台周遊の前に義父母をここへ案内した。思えばこのとき、義父84歳、義母80歳。(ちなみに現在は103歳と98歳で健在である。)私たちもまだまだ負けていられない。

2011年6月、二人でここへ往復してみた。花期には遅いかと思っていたが、待っていてくれたような花に出会えて満足して山頂に帰り、周回コースへ入った。

東大台周遊は元の道を少し下り、登ってきた道を右に分けて直進する。



以前は山頂から正木ヶ原にかけて、立ち枯れたトウヒの白骨林が特異な景観を見せ、イトザサのなかにシカが遊ぶ楽しい道だったが、

鹿による食害と登山道保護を名目に木の階段道が設置され、人工的な空中回廊の様相に一変している。

美しい笹原の正木ヶ原から神武天皇の銅像が建つ牛石ヶ原(写真)を経て大蛇クラに向かい、

切り立った岩頭で展望を楽しむ。ここからシオカラ谷に降りる道もシャクナゲ林の中である。

シオカラ谷吊橋から急登で駐車場へ帰る。4時間半ほどで一周できる。 (この項続きます)


丹波の正倉院・達身寺(2014.04.11)

2014-04-12 09:55:40 | 旅日記

清住の「カタクリの里」から700mの距離に曹洞宗の古いお寺があります。

両側にスミレ、タンポポ、ヒメオドリコソウ、イヌノフグリ、ハコベ…いろいろな春の野草の花が咲き、あちこちで桜の花が咲く道を、のんびりと歩いていくと、茅葺の本堂と白い壁のお寺がだんだん近づいてきます。

お寺の前からみた美しい丹波の春の風景です。

スイセンで有名なお寺だけに門から本堂への道にも花が並んでいます。
達身寺は寺伝では行基菩薩の開基とされていますが、歴史的には不明な
ことも多いそうです。平安から鎌倉にかけての木彫仏がたくさん残されているので「丹波の正倉院」とも呼ばれています。

本堂に入ると大黒さんと思しい女性が裏の収蔵庫に案内して、このお寺や仏像について詳しく説明して下さいました。
写真は撮れませんので、頂いたチケットとパンフレットをご覧ください。上の写真の毘沙門天と十一面観音の二体はいずれも国の重要文化財で
、後ほど案内されたコンクリート造りの宝物殿に保管されていました。

このパンフの右上の写真のように、木彫仏像が多いのですが殆どが一木作りです。右下の本尊・阿弥陀如来は寄木作りで江戸時代末期に修復された美しい彩色が残っています。作りかけの仏像なども拝観しましたが、このことからこのお寺が「仏師の工房ではなかったのでは?」との説もあるというお話でした。パンフレットにもある通り、謎の多いお寺です。ゆっくり拝観して宝物殿を出ました。

建物の裏側に小規模ですがカタクリの自生地がありました。

本堂の方に帰り、お庭の方へ回りました。スイセンを始めユキヤナギ、ミツマタ、クロモジなども咲いています。由緒ありげな大きなツバキの樹もありました。この建物は毘沙門堂で仏様は宝物館の方に移られています。このお寺には何故か毘沙門天が16体もあり、そのことも「仏師の里」説の根拠になっているようです。

庭園を登っていくと、先ほどの写真に映っている鳥居の神社へ続く道になり、一帯は達身寺公園になっています。

鳥居を潜って石段上にある神社にもお参りしました。鳥居の横にはシャクナゲが真紅の蕾を開き始めていました。

いろいろな仏様と花に出会えて、ゆったりとした癒しのひと時を過ごせたことに感謝して家路につきました。