ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

この日・あの日 (1月11日)

2017-01-11 09:38:21 | 奈良散歩

2005年1月11日 鳥見山(和子と)

今年の初歩きは遅くなった。今頃になって、やっと「干支の山」に出掛ける。今日はまほろば湖から東海自然歩道を歩くことにする。今にも白いものが落ちてきそうな暗い空の下、湖畔から榛原に続く舗装路を行く。トンネル手前から口ノ倉に登り、集落を抜けて水利施設の前に来る。ここから緩やかな山道になり、やがて石畳道の急登になる。登りきったところに「高束城址」の説明板がある。ここは道標によると、まほろば湖から2.9㎞、鳥見山公園へは2.7㎞で、ほぼ中間点になる。自然歩道を離れ、目の前に見える小ピークへ踏み跡を辿ってみる。尾根は滑りそうな砂地の急傾斜なので、右手の松林の中を登る。

頂上はそれほど広くない小台地で、貧弱なヒノキ林の中を探したが城址の礎石も見当たらなかった。少し下ると砂地との境に大きな岩(馬乗岩という)があり、ここから正面に初瀬山や天神山が、右手は木枝越しに鳥見山や貝ヶ平山が見えた。

峠から東に折れると、いかにも自然歩道といった趣のなだらかな道になる。木の階段を少し下って枯れたススキや野菊の原っぱにでて、振り返ると台形の高束山がもう遠くなっている。舗装路に変わって宮垣内集落を抜け、榛原に向かう広い林道を行く。ビニールハウスの中に咲き残ったバラが寒そうに揺れ、外には雪が残っていた。鳥見山公園の勾玉池の水面には薄い氷が張っている。

赤い鳥居の横から「2000年の森」を抜けて展望台に登る。この森は、多くの人が結婚、子ども誕生、入学、退職、還暦、金婚など思い思いの記念に植樹したもので、今は苗木だが将来は緑あふれる人生の森になることだろう。展望台からは眼下に榛原の町、正面に竜門岳、音羽三山が見えるが、ゆっくり展望を楽しむゆとりもないほど風が強かった。

強風にあおられるように吹き曝しの稜線を頂上に向かう。

小さなコブを越してコルに降りると、林床や倒木に少しだけ雪が残っていた。雄岳三角点で写真を撮って公園に引き返し、四阿で湯を沸かしラーメンで暖まる。

イカー登山の泣き所で、駐車場所まで同じ道を引き返さなければならないが、下りが多いせいか意外に早く感じた。途中、雪が舞ったり止んだりしたが、幸いたいした降りでなかった。長谷寺門前で名物の「やき餅」を土産に買って帰る。今日は農作業や林業の人以外には誰にも出合わず、二人だけの静かな山里歩きだった。 

*過去の今日はどこの山に登っていたかを振り返ってみました。このシリーズは新しい山行報告ではなく、かなり古い記録や写真も含んでいます。山行の際には、必ず最新の情報をご参考ください。* 


奈良の山あれこれ (137) 伯母子岳

2016-06-13 08:09:40 | 奈良散歩

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(137)伯母子岳(おばこたけ) <1344m>  「熊野古道古辺路の最高点」

高野山から東南20キロほど、吉野郡十津川村と野迫川村の境にある展望の良い山である。山頂の東に伯母子峠があり、熊野古道・小辺路が越えている。かっては南高野街道ともいわれ、高野山と熊野を結ぶ重要な峠越え道で、二つの霊場に詣でる人々で賑わった。この峠はまた、昭和5年4月初旬、郡山中学(現郡山高校)生二名と教諭一名が遭難した悲劇の舞台でもある。

1977年、妻と二人で歩いた。護摩壇山の手前で「十津川温泉へ40キロ」の標識がある(奥千丈)林道に入る。登山口から整備された「護摩壇山伯母子岳遊歩道」を尾根通しに行く。口千丈山から標高差80mほどガラガラの急坂の下り。ついで1322mピークを越す。二、三のアップダウンで分岐があり「伯母子岳登山道。800m」という標識からやっと山道になり、標高差わずか100mの急坂を登る。最後は灌木帯を抜けミヤコザサの中を登ると草地の頂上についた。一面のカヤトの原で、東に遠く大峰の山々、特徴ある行者還、大普賢、八経ヶ岳…。南の果無山脈、今辿ってきた尾根道の向こうに護摩壇山が見える。登山口から5キロ、1時間45分だった。

9年後の2006年3月、高野山から小辺路を歩く途中、大股から杉林の中を小一時間登って、小広い平地になっている萱小屋跡に来る。道は自然林の中を行くようになり、ふわふわの落ち葉を踏んで行く。

檜峠は「弘法大師が捨てた箸が檜になった」という伝説の残るところである。平坦な道になって夏虫山分岐を過ぎると、目指す伯母子岳のなだらかな山容が近づいてくる。

「護摩壇山遊歩道」の標識を直進して、10分あまりで「小辺路での最高点・伯母子岳山頂」に着いた。大股から2時間30分。


二月堂へ竹送り(2016.02.11)

2016-02-13 11:28:18 | 奈良散歩

 大和路に春を呼ぶ行事として名高い東大寺の修二会。正しくは十一面悔過(けか)といい、二月堂本尊の十一面観音に、私たちが日々犯す様々な過ちを懺悔する法会である。俗にお水取りと言われるが、若狭井からお香水(おこうずい)を汲み上げて二月堂のご本尊・十一面観音にお供えするのは3月13日の午前1時半。行は2月22日の前行(別火)に始まり、本行は現在は3月1日から二週間にわたって行われる。この行を務める練行衆の足元を照らす道明かりに使われる大松明は、期間中の毎日使われて総数は141本に上る。(一日10本、12日だけ11本)



松明に使われる真竹は古来、大和の月ケ瀬、高山などの他、山城からも多くの人の手によって運ばれてきたが、その風習を復活されて今年で39回目を数えるのが京田辺市の「山城松明講社」である。
 

行事は京田辺市の大御堂観音寺近くの竹林で根付きの真竹を掘り起こす作業に始まり、観音寺の十一面観音の前で道中安全を祈願したあと、大八車などで奈良坂瓦道まで運ばれてくる。ここから3本が人の肩で二月堂に運ばれるのだが、私たち夫婦は途中の転害門から参加させて頂いた。



快晴の真っ青な空の下を歩き、10時、転害門前に着くと、お迎え式の太鼓やお接待のゼンザイなどの準備で、たくさんの人が忙しく立ち働いておられた。「きたまち観光案内所」を見学したりするうち、11時前、太鼓の演奏が始まり、大勢の人に担がれた竹が到着した。



門前に竹が並べられ、ここで休憩して再び出発。





私たも、ここから担がせて頂いた。しかし身長が低いので肩が竹に届かず、実際は手で捧げる格好で歩く。旧京街道(般若坂越)を南へ向かい、県庁を迂回して県庁東交差点で地下道を潜って東大寺へ。快晴で気温が高く汗をかくほどだった。







何カ所かの階段を登って二月堂の前へ運び上げて奉納したあと、湯屋の西側へ立てかけた。



これまで修二会には何度か参会したが、この竹がその歴史的な行事に使われると思うと、本当に貴重な体験ができて感無量である。来月は例年とは違った気持ちでお詣りさせて頂けるだろう。


奈良の戦争遺跡を訪ねて(5)

2015-12-15 16:43:54 | 奈良散歩

現在は奈良教育大学になっている奈良聯隊敷地跡では、吉川先生から聯隊の施設や練兵場の様子など、とてもここでは書ききれない多くのお話を伺った。糧秣庫の隣りには需品庫が続く。需品とは軍で必要な物資を扱うことで、その任務を担う輜重(しちょう)兵は、負傷して厳しい軍務につけなくなった兵隊が当たったので、他の兵たちからは蔑視された。『輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々・トンボも鳥のうち』こんな歌を覚えている。



このような様々な歴史をずっと見続けてきたのが「吉備塚」の大ケヤキである。樹下の碑によると「この古墳は、吉備真備の墓地と伝えられ、古くから奈良の名所として親しまれてきました。吉備真備は若き日は遣唐留学生にえらばれ、在唐十九年、長安の都においても、その学識が高く評価されたといいます。帰国の後は春宮太夫として皇太子の教育にあたり、大学寮の整備や、東大寺の造営に尽くすなど、天平文化の一翼をにないました。」この後の「私たちも、学問や研究の深さと、世界に向かう心の広さを学びたいと願っています」という結びの文章が、平和への祈りを表しているようで強く印象に残った。

 


正門を出て白毫寺に向かう途中、奈良衛戍病院(陸軍病院)の跡を通る。現在は国家公務員高畑合同宿舎の敷地だが、宿舎は使われていないようだ。土堤に残るカラタチが当時を語っている。カラタチは鉄条網の代わりか、教育大北側の土手にも植えられていた。

大阪では堺市金岡に陸軍病院があり、田辺国民学校3年の時、慰問に行った。戦場で怪我をして帰国した兵隊さんを慰めようと、みんな一生懸命に唱歌を歌い、寸劇をした。私は紙芝居を披露した。絵は市販のもので、枠は親父が段ボールで作ってくれた。題目は芥川の「蜘蛛の糸」で『或る日のことでございます。お釋迦樣は極樂の蓮池のふちを、ひとりでぶらぶら御歩きになつていらつしやいました。』の書き出しの部分など今も暗唱できるほど、懸命に覚えた。裏に文章は書いてあったのだが…。終わると大拍手だった。白衣姿で顔や手足に包帯を巻いたり、松葉杖を小脇にした兵隊さんの中には、歌を聞いて涙を流す人もいた。

 


高円山の西麓にある白毫寺へは五色椿の時期などに何度か訪れたことがあるが、本堂に上げて頂いて重文の仏様を間近に拝するのは初めてである。ゆっくり拝観してお堂を出ると、今日の会を企画してくださった幹事の方たちが、大きな世界地図を壁に掲げて下さっていた。(下の写真は室 典良さん撮影)

この地図は奈良聯隊が使用していたもので、現在は白毫寺に所蔵されている。小さいカードに、「(地図には敵国語である)英語が一切使用されていない、文字は右から左へ書かれている、国名は全て漢字」であるとの、ご住職の説明が記されていた。
 


地図の制作年代を探したが見つからなかった。私は地図の赤く塗られた範囲から、恐らく太平洋戦争勃発以前か直後のものと推測する。終戦の翌年頃まで「日本」の国号は「大日本帝国」だった。そして大日本帝国の領土とされたのは 内地(ほぼ現在の日本国土)の他、 台湾、 樺太、 朝鮮(現在の北朝鮮と韓国)が含まれていた。太平洋の広い範囲を赤線で囲ってある南洋諸島は、国際連盟の委任を受けた「委任統治区域」である。地図ではここまでが赤色で国土とされている。しかし、戦争が始まって半年ほど経った1942年には、大日本帝国はいわゆる南方作戦でフィリピン、ビルマ、インドネシアなどを占領して領土とした。その頃の地図なら更に赤い色の部分が増えていると考えられるからである。ともあれ、地図に「大日本」の文字を久しぶりに見た。

 今日最後の戦争遺跡は古市町の奈良県護国神社である。「高円の杜」と言われる鬱蒼とした森が見えてきた頃には少し遅くなり、佐保短大のある北側から境内に入る。

まず戦没者慰霊碑に参拝。側面には戦没された場所が記された地図が付けられていた。神社には明治維新から太平洋戦争までの間に戦争の犠牲となった奈良県の軍人、軍属3万柱と満蒙開拓殉難者、消防で殉職した人たちが祭祀されている。

本殿にお参りし、石段を降りて神社正面の大鳥居から出た。



「戦国時代古市氏の山城址」の説明板があり「奈良縣護国神社」の社号石標が立っている。「裏に回って見てください」と先生にいわれて、ツバキの木をかき分けるように裏から石標を見ると「高圓神社」の文字が彫られている。なんとこの神社、敗戦後のGHQ占領時代は「高円神社」に名前を変えていたのだった。神社存続のためとはいえ、占領軍に忖度するところがなかっただろうか。奈良の戦争遺跡を訪ねた最後に、敗戦後のあの惨めな時代が思い出された。近くにあった松下無線工場は進駐軍に接収され、そこで働く人たちは米兵に阿って僅かな食料を手にし、私たち子供はジープに群がってチョコレートをねだり…嫌な思いはこれ以上記すに忍びない。

 
 この日の「奈良の戦争遺跡巡り」では戦争について改めて色々なことを考えさせられました。現在、安保法案や集団的自衛権を巡って様々な論議が盛んですが、単に「戦争は悪いことだ」「戦争は嫌だ」「平和が大切だ」といった感情論だけでなく、「前の戦争から何を学ぶか」が大事だと思います。とても貴重で有意義な企画に参加出来たことに、改めて深く感謝します。
 


奈良の戦争遺跡を訪ねて(4)

2015-12-14 12:09:01 | 奈良散歩

様々な感慨を胸に奈良ホテル本館を出て、旧大乗寺庭園を見下ろしながら入口へ歩く。大乗院は興福寺の門跡寺院で、足利義政の命を受けた善阿弥が手掛けた庭園は国の名勝になっている。



門の手前の守衛室の屋根も苔むして風情がある。
 
次の遺跡を訪ねて赤い鳥居の瑜伽神社の前を通り、高畑町の垢かき地蔵、清水町の弘法大師爪かき地蔵、笠屋町の鎧地蔵と巡って、教育大前の県道に出た。この通りは通称・連隊通りと呼ばれるだけに、周辺には軍人会館跡など戦争遺跡が多い。
 

現在は奈良第二地方合同庁舎がある場所には、「奈良聯隊区司令部」があった。奈良県の青年たちは20歳になると全員、ここで徴兵検査を受けたのである。因みにWikipediaなどの資料によると、私たちがよく耳にした甲(身体頑健~健康)・乙(健康)・丙種(極めて欠陥の多い者)の他に丁(目・口が不自由な者、精神に障害を持つ者)、戌(病中、病後)の5種の判定区分があった。春に徴兵検査で甲、乙種に合格した人は翌年1月に入隊した。戦争が激しくなると現役兵だけでは足りず、予備兵(入隊期間を終えた人や丙種合格者など)も動員されることになる。この招集令状を発行するのも区司令部だった。令状には、「赤紙」と呼ばれてよく知られている「臨時招集令状」だけでなく、青紙(防衛)、白紙(教育)もあったという。

道路に面した敷地の南西隅には、昭和44年(1969)建立の「奈良聯隊記念碑」が建つ。頂いた資料を後で読むと碑文には、(以下抜粋)『この兵営に駐屯した将兵の数は延べ七萬に及び…支那事変に引き続き、太平洋戦争に参加し…赫々たる戦果を挙げた。また当時の兵営は…進んで国難に赴き従容として死につく大和魂の練磨と武技の鍛錬に精進した誠に異議深きところであった。‥』と四記されている。残念ながら、先の戦争への反省や亡くなった人たちへの思いは一切記されていない。その歴史認識や建立の意義を考えると、時代錯誤というよりも「またあの時代に…」後戻りしていく恐ろしさが、ひしひしと迫ってくる。 





奈良聯隊の跡は現在奈良教育大学の敷地になっている。中庭で昼食、小憩の後、構内に残る戦争遺跡を吉川先生のご説明で見学する。まず敷地南西隅の弾薬庫跡へ。周りに土堤を造り、屋根の鬼瓦には陸軍の徽章である一つ星を付けてあったが、ごく最近に屋根は葺き替えられ、建物の前の部分も撤去されている。(写真上は昨年、金田充史氏撮影)。
 


元衛兵所のあった守衛室横を右(東)へ曲がり、右手前方に高円山を見上げながら歩く。突き当たりは銃工場があった処で、左に兵器庫、右に酒保(下士官兵への食品、日用品の売店)や下士官集会所があった。古い桜の木の残る中営庭(兵営の中の広場)を通り、球技をしていた障害児たちと挨拶を交わしながら、東北隅の広場にくる。ここは将校の集会所があったところで、前に生駒石が散乱して泉水庭園の面影を伝えていた。
 


左に折れて付属小学校校舎横を西へ歩く。煉瓦積みの構造物があり、危ない足取りで急な階段を登ってみたが、狭い最上部には何もない。高射砲が据えられていたともいわれるが、実際のところは用途不明だそうだ。兵営への商人が出入りした北門は当時のまま残されている。

その西側にある美しい煉瓦作りの建物は元糧秣庫。糧は軍用の食料、秣(まつ)は「軍馬のまぐさ」のこと。

その内部は教育資料館として改装されているが、外観は往時の面影をそのまま残している。

一風変わった煉瓦の積み方が興味深かった。


奈良の戦争遺跡を訪ねて(3)

2015-12-12 20:25:51 | 奈良散歩

荒池から眺める興福寺五重塔は四季それぞれに美しい。行く手に奈良ホテルが見えてきた。昔は興福寺の塔頭・大乗院があった小高い丘に建つている。1909年(明治42年に営業開始したが、永らく国営(鉄道省)で関西において国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる役割を果たし「西の迎賓館」と呼ばれた。



吹き抜けのあるエントランスから赤絨毯の階段を登ると、



春日吊灯籠を模した和風のシャンデリアなど各所に和風装飾が取り入れられている。このホテルには皇族始め国内、海外の著名人が宿泊した。



大正時代、アインシュタインが若き日の西堀栄三郎を通訳にして泊まった部屋には、彼が奏でたというピアノも残されている。
   昭和10年(1935)に満州国皇帝・溥儀を迎え、その後も要人の来訪が相次いだ。



太平洋戦争を迎えて防空壕が彫られ、空襲警報が発令されると、現在も階段の踊り場にある銅鑼(ドラ)を鳴らして客を誘導した。
 


ちなみに空襲警報は敵「航空機ノ来襲ノ危険アル場合」に発令されるもので、その前の段階に「航空機ノ来襲ノ虞(おそれ)アル場合」に発令される「警戒警報」と併せて「防空警報」と呼んだ。二つの警報は違うサイレンで知らせた。河内へ移ってからは、家から国民学校(小学校)までは30ほどかかり、登校中に警戒警報が出ると帰る準備、空襲警報が来ると即刻帰宅ということになっていたが、時には間隔がごく短い場合もあって、登下校も命がけだった。大げさでなく、山へ松脂取りに行って艦載機から機銃射撃を受けたこともある。警戒警報が鳴ると夜は電灯に黒い布で作った覆いを被せたりして暗くしたが、面倒なのでいつも覆いは付けたままだった。
 


戦局悪化に伴う金属供出の際には、奈良ホテルでは門扉の鋲まで外された(現在は復旧している)。



また、階段の柱頭に装飾として付けられていた真鍮製の擬宝珠まで供出され、代わりに赤膚焼の7代目大塩正人に依頼して製作された陶製のものが取り付けられた。
  この金属供出は、武器生産に必要な金属資源の不足を補うため官民を問わず所有の金属類を国が回収する制度で、役所などのマンホールの蓋や鉄柵などの鉄製品回収から始まり、寺院の鐘から学校の二宮尊徳像、家庭では鍋釜から箪笥の取手まで根こそぎ動員された。我が家では親父が秘蔵の日本刀をどこかへ隠していたようである。
 


荒池の方から見える北側客室は終戦の年(1945)にフィリピン大統領ホセ・ラウエル一家が亡命した宿舎である。ラウエルは太平洋戦争勃発後の日本軍政下で大統領に選出されたが、日本の敗色が濃厚となったので台湾へ逃れ、次いで日本で亡命生活を送ったのである。ホテルは、45年11月に重装備のアメリカ軍によて接収され、ラウエルは戦犯として捕らえられた。


奈良の戦争遺跡を訪ねて(2)

2015-12-11 09:50:28 | 奈良散歩

奈良の戦争遺跡を訊ねて (2)
興福寺の境内に入ると、日曜日とあって外国からの観光客の姿も多かった。穏やかな冬の日差しを浴びて、シカと戯れたり、仲良く二人で自撮りするなど、いかにも平和な光景である。



しかし、先生のお話を聞くと、ここにも戦争の爪痕が残っていることに気付かせられる。北円堂の前に防空壕があったことなどを伺いながら、南大門跡の「扇芝」を見下ろす中門跡に来る。



現在は毎年5月第3金、土曜日に、ここで「薪御能」が行われているが、明治以来途絶えていた。それが1943年、「決戦下神事御能」として復活した。「敵国降伏祈願」など国威発揚に利用されたのである。
 


東金堂前の石灯籠横にある弘法大師手植えの伝説を持つ「花之松」。昭和12年に枯死したので、現在ある松が植栽された。その横に立つ由来を記す碑は何度も見ているが、碑文の最後に「紀元二千六百年昭和十五年三月吉辰 花之松献木翼賛会長 奈良県知事…」の文字があることを始めて知った。昭和15年(1940)は太平洋戦争の始まる1年前。
私は小学校入学前だったが、神武天皇即位から数えて2600年目ということで、各地で奉祝行事が行われたことを子供心にも覚えている。この年は辰年で、今の長居競技場近くの桃ヶ池の中に、大きな竜の模型が横たわっていた。その前にも確か「奉祝・紀元二千六百年」の文字があったようだ。「翼賛」という言葉は今は殆ど聞かないが、当時はナチスに倣って一国一党の「大政翼賛会」組織が幅を利かせていた。
 


昭和19年、各地で空襲が激しくなると興福寺の建物にも偽装網をかぶせ、多数の国宝を個人宅などに避難させた。



余談であるが、偽装網といえば我が母校の四条畷高校の校舎にも、まだ乳牛のような白黒模様のカモフラージュが残っていたことを思いだす。 



昭和20年には奈良公園や東大寺の松を造船用に供出することを軍から命じられ、これは知事ら関係者の努力で回避されたが、松脂が採取された跡は今に残っている。松脂からは飛行機のガソリン代わりの燃料となる油が取れた。本来は「松根油・しょうこんゆ」として切り株などから採取されたが、実用化には程遠かったらしい。疎開した河内では、裏の山に行って松の幹に縦に一本、あとは交互にV字型の傷をつけて流れる樹液を缶詰の空缶に受ける。朝、小学校の校庭に置かれたドラム缶に集めるのだが、果たして役に立つほど集まったのか疑問に思う。
 また旧帝室博物館(現国立博物館)には地下に収蔵庫が設けられ、東京の帝室博物館から国宝などが疎開してきた。これも東京などに比べて奈良は安全と考えられたためだろう。
 


公園を出て春日大社一の鳥居前を南へ向かう。横のモミジが赤い鳥居と色を競っていた。


奈良の戦争遺跡を訊ねて(1)

2015-12-09 13:27:43 | 奈良散歩

奈良の戦争遺跡を訊ねて (1)
「平和のための戦争遺跡めぐり」という趣旨で、奈良県内の戦争遺跡を克明に調査してガイドを続けられている吉川好胤先生とご一緒に、奈良市内の戦争遺跡を訪ねる会に参加させて頂いた。
 


12月6日午前10時、奈良女子大正門前に集合。今はナラジョで知られる大学は明治41年「奈良女子師範学校」として創設された古い歴史を持っている。紅葉したカエデやメタセコイヤをバックに美しい造形美を見せる正門、



守衛室は国の重要文化財である。
 


構内に入ってまず左手(南側)の「奉安殿」をを見学。御真影(天皇・皇后の写真)や教育勅語が収められた、私たちの世代にはよく知られた施設である。毎日、前を通る時には頭を垂れ、紀元節、明治節などの式の日には扉が開かれて、白い手袋の校長が恭しく押し頂いて教育勅語を取り出し、「朕惟(おも)フニ我カ皇祖皇宗國(くに)ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ…」と朗読したものである。この勅語は登校前に家の神棚から下して朗読したので、今でも殆ど諳んじている。どこの学校にもあった奉安殿は戦後、殆どが取り壊されたが、ここではショウジョウバエの飼育室にするということで、残ったそうだ。



女子師範には高等女学校が付属したが、戦後の学制改革で付属中学校・高等学校となり、昭和33年、現在の紀寺町(米軍キャンプ跡)に移転する。



構内の今を盛りの紅葉、黄葉を愛でながら、前の池に美しい姿を映す旧本館の前を通る。



創立当時の面影を残す重文指定の建物で現在は「奈良女子大学記念館」として保存されてる。





裏門を出ると正面の通りは「きたまち」。右手の崇徳寺は同じ通りの旅館・大佛屋とともに戦時中の学童疎開の受け入れ先だった。私は昭和19年(1944)に大阪市内から北河内郡へ疎開した。いわゆる家族疎開(一家転住)だったので不自由の程度も少なかったが、親元を離れて集団で疎開した子供たちは大変だったと思う。

通りを抜けると近鉄奈良駅で、東向商店街から観光客で賑わう興福寺へ向かう。


高円山(滝坂道~大文字火床~三角点~火床~谷道~樋之口池)

2015-11-30 11:58:03 | 奈良散歩

【登山日】2015.11.03
【メンバー】芳村嘉一郎、和子
【コースタイム】滝坂道入口11:05‥演習林入口11:15‥大文字火床第二画下部11:55‥火床最上部12:00~12:15…三角点12:15…最初の分岐12:40…樋之口谷池横登山口13:03‥歴史の道標識13:13



滝坂道から演習林に入る地点に目印の赤紐をつけ、



火床へ向けて直登。快晴で気温が高く、半袖シャツ一枚で登る。
<この写真は、2008年の同じ時期に
撮影した登山道の様子です。ご参考に入れました。>



御蓋山展望地点から見ると、紅葉はまだ始まったばかりだった。



右へ初めての分岐があり、いったん緩やかになった道は再び急坂で第二の分岐へ。暗い林の中をジグザグに登ると三つめの分岐があり、頭上の青空に向けて笹原の急坂をこなすと、大文字火床の第二画下部に着く。今日も素晴らしい展望だった。日隠を求めて最高点へ登り、芝生に腰を下して水分とエネルギー補給。山慣れた格好の人がスタスタ下って行った。



15分ほど休憩して三角点に登り、



すぐ引き返してそのまま下山。最初の急坂を降りた分岐で左へ、初めての道に入る。



大きな樹の幹にビニールが巻かれているのは、シカなどの食害を防ぐためだろうか。所々、木に巻かれた赤ビニールや小さな「火床へ」の矢印型標識がある。



落葉で滑りやすい道を15分ほど下ると、やや平坦な処に出た。支那油桐の木が何本も立っている。まだ青い実や、すでに黒くなった実が無数に落ちて、新しい若い木が育ちつつあるのを見ながら行く。小川の流れに沿うようになり、青い屋根が見えると思うと小さな池の水面に青空が写っているのだった。もう一つ大きな池を右に見る頃から、獣除けの金網が続き、やがて広い道に出会う。



金網に樋之口谷池と小さな大文字登山口の標識が付けてあった。舗装路を右に行くと白毫寺の上に出るが、道を横切ってさらに両側に金網の続く道を行く。



左手は墓地が続き、やがて石燈籠が立ち「歴史の道」の標識のある広い道に出た。あとは町歩きで高円高校前、女子大付属中前、紀寺町、奈良町を経て近鉄奈良駅へ歩いた。


高円山(白毫寺~樋之口池~尾根道を火床へ往復)

2015-11-30 11:02:28 | 奈良散歩

【登山日】2015.11.28
【メンバー】芳村嘉一郎、和子
【コースタイム】白毫寺11:00…樋之口池登山口11:15‥火床第三画下部11:50~12:25‥樋之口池登山口13:00

『白毫寺横手の道をしばらく登ると広い道に出合い大きな霊園がある。正面の幅広い階段を登る。偵察のつもりでどんどん登っていくと、墓地が山に接して終わり、右手の斜面に踏み跡があった。雑木林の中、落葉を踏んで登ると尾根にでて、赤ビニール標識があったので、登ってくるよう後に声をかける。尾根の上で全員が揃ったので前進する。真っ赤なヤマナシの実がたくさん落ちている。ところどころ倒木はあるが、それほど歩き難くはない。やがて笹原になり、右からややはっきりした道が合して大文字火床の下に出た。草地の中にコンクリートブロックが点々と「大」の字形に置かれ、その第二画「ノ」の左下地点である。』 
   これは2002年6月、千日町ハイキング同好会例会で初めて高円山に登った時の記録である。その後、二人で何回か登ったが、いつも滝坂道からだが、今日は「まほろば365」1月例会の二度目下見で、13年ぶりにこのルートを歩いて見るつもりだ。

名鉄の北山辺の道ハイキングがあるらしく、白毫寺横で大勢のグループに出会った。上の車道に出て霊園の中を登ったが、すっかり様子が変わり踏み跡が見当たらない。どうも廃道になったようで、もし見つかっても「まほろば」の例会で踏み込むのは無理と判断して、前回の下山地点へ歩く。



樋之口池横に、万葉集第六巻一〇二八「ますらをの 高円山に迫めたれば 里に下り来る むざさびぞ これ」を記した立札があり、その横から山道に入る。



すぐに左は3日に降りてきた谷沿いの道、右は尾根道とY字型に分かれる。



尾根道が池を見下ろすようになると荒れた竹林の中を行く。次第に傾斜が強まると倒木もあり、潜ったり越えたりして上る。



雑木林の中、更に傾斜が強まると落葉で滑りやすく、下りでは注意が必要だろう。



数理院地図の標高320m地点には、茅の輪潜りのような形になった面白い木の枝があり、輪を潜るとしばらくは傾斜の緩い道になった。背の低い笹が現れると再び急な登りになって、ひょっこりと明るい火床の草原に飛び出した。



大の字の第三画下の地点である。風が冷たく、慌てて薄手のダウンジャケットを羽織る。今日も見晴らしが良く、ランドマークを探してしばらく楽しんだ。



「今日は、三角点はいいでしょう」という和子の言葉で最上部まで登って引き返す。風を避けて下降点付近まで降りて、暖かいコーヒーで軽食をとる。考えてみれば朝から初めて腰を下ろしたことになる。帰りは元の道を下った。



案の定、落ち葉の急坂は滑りやすく、ストックを持って来なかったのが悔やまれた。それでも谷へのゴロゴロ道の下りよりは楽で、30分ほどで登山口に帰った。白毫寺からは久しぶりに東山緑地の紅葉を楽しみ、元興寺塔址から猿沢池経由で近鉄奈良駅に歩いた。