マチュピチュ MACHU PICCHU
3月5日 いよいよ、今回の旅で一番楽しみにしていたマチュピチュを訪れる日が来ました。しかし夜半から雨音が聞こえ始め、明け方からは本降りになりました。
クスコは、気候区分から見ると海岸砂漠地域「コスタ」だったリマとは違って、アンデス山岳地帯「シエラ」に属します。コスタの終わるアンデス山脈西斜面の標高500mから、アンデスを越えた東側斜面の標高1500m辺りまでの地域ですが、山の両側でも標高でも気候や作物の種類が変わります。
クスコは標高3360mの高地にある人口30万の都市ですが、この北には「聖なる谷」と呼ばれるウルバンバ渓谷が流れています。マチュピチュへはバスでウルバンバ渓谷沿いのオリャンタイタンボへ下り、ここから高原列車でマチュピチュ(アグアスカリエンタス)へ、さらにシャトルバスに乗って遺跡入口まで合計約4時間半かかります。
そのためホテル出発は早朝4時40分。雨はいよいよ激しくなり、前途が危ぶまれます。乗り込んだバスは真っ暗な道を恐ろしいスピードで突っ走ります。カーブがあるたびにスリップしないか、肝を冷やしながらドライバーの腕を信じるしかありません。次第に夜が明けてきて対向車の姿が現れるようになって、ようやくスピードが弱まりやれやれ。しばらくウルバンバ渓谷沿いの道を走り、出発から1時間半ほどでオリャンタイタンボに着きました。鉄道駅に近くなってガタガタの未舗装の迂回路に入ります。
石畳の村の中を通り、オリャンタイタンボ駅近くの駐車場でバスを下りました。この頃から雨は止み、この分では天候は回復しそうです。
オリャンタイタンボ駅で列車の到着を待ちます。クスコ~マチュピチュ間の高原列車は、これまでペルーレイルだけでしたが、2009年からオリャンタイタンボからマチュピチュの間は他に二社が参入しました。
私たちの乗ったのはインカレイル社のもので、大きな窓と天井にも窓のある明るく美しい列車です。
4人掛けの座席で、前に座った女性はフランス人グループの現地ガイドさん。列車の中でお弁当のサンドウィッチとジュースで朝食をとりました。このあと、コーヒーなどの無料車内サービスもありました。
のんびりした農村風景、インカ道に続く吊り橋、粗々しい岩肌むき出しのトンネルなど車窓に流れる風景を楽しみながら、
1時間半ほどでマチュピチュ駅に着きました。マチュピチュ村はかってアグアスカリエンタス(熱い水)と呼ばれたところで、文字通り近くには温泉が湧きだしています。
ここでシャトルバスに乗り換えます。いろんな国の観光客と混乗で、満員にならないと発車しません。走り出してすぐ、美しいブルーの車体のペルーレイルの列車が駅に入っていくのが見えます。機関車の上に見える一角が駅前のマチュピチュ村の土産物屋街です。
標高2,000mのマチュピチュ村から2,460mにあるマチュピチュ歴史保護区へ通じる道は、ハイラム・ビンガム・ロードと呼ばれています。1911年、ジャングルの中に埋もれていたインカの都市を初めて発見した歴史家を讃えて付けられた名前です。シャトルバスはヘヤピンカーブを何度も繰り返して、斜面に乱れ咲く美しい草花に心を和ませたり、断崖の上から濁流の流れる谷底を覗き込んで肝を冷やしたりしながら、高度を上げていきます。
遺跡入口でバスを降りゲートをくぐります。遺跡の面積は約13平方km、これから2時間半ほどのウォーキングなので、まず遺跡内にないトイレ(有料)を済ませておきます。また大きな荷物は持ち込めず、ペットボトルも禁止で水筒を用意してきました。
平坦な道を少し歩くと、石組の建物「貯蔵庫」が見えるところから左の斜面に付けられた急な階段の登りになります。何度かジグザグを繰り返しながらの登りですが、かなり勾配があり急ぐと息が切れます。
貯蔵庫。段々畑の端にあるジャガイモなどの農作物や農機具を保管していた茅葺の建物です。
帰り道との合流点でもある貯蔵庫を横目に登り続けます。
旧インカ道を少し歩いてみました。
美しい緑の台地に出ました。後ろに見える丘の左手にマチュピチュ山(約3000m)への登山口があります。
マチュ・ピチュ Machu Picchu はケチュア語で「老いた峰」を表していますが、「老いた」には「大いなる」の意味もあるそうです。古代都市・マチュピチュは、(観光ガイドなどでは)あまり目立たないマチュピチュ山と、写真や映像でお馴染みの若い峰・ワイナ・ピチュWuayna Picchu の間に位置しています。
後の建物は「見張り小屋」だったと考えられています。あと一息、頑張りましょう。
この建物は「農地管理人住居跡」ともいわれます(ホームページ「PERU ING」による)。段々畑の最上部にありマチュピチュの全体を見渡すことができます。
しかし残念ながら、市街地はまだ薄い雲におおわれています。