ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

阪神タイガース OPENING GAME (2012.3.30)

2012-03-31 19:51:10 | Weblog


弟がチケットを二枚くれたので、孫と京セラドーム大阪での対横浜DeNA開幕試合に行きました。



和田新監督の初めての公式試合。何としても勝ってほしいものです。



国歌斉唱は「千の風に…」の秋川雅史、始球式は「カーネーション」の夏木マリという、♀ペンの喜びそうな顔ぶれでした(しかし残念ながら今日は娘とお留守番)。



1点ビハインドのまま7回攻撃前の風船飛ばしを迎えます(孫の中象クン撮影)。



その裏、関本の3ランで逆転。狂喜乱舞しましたが、追いつかれ延長戦にもつれ込みました。10回表に藤川が1点取られて、これまでかと諦めかけたが何とか引き分けに持ち込みました。見応えのあるいい試合でした。



弟夫婦も変愚院夫婦に輪をかけたトラキチで、沖縄キャンプまで追っかけで行って「お姉さん」に土産をくれました。シーサーがタイガースのキャップを被っているのが面白い。



中象は筆箱を貰い、球場のショップでも高価なスポーツバッグも買って貰って大喜び。



僻んではいけないと思ったか、義妹が変愚院にはトートバッグをくれました。久しぶりで弟夫婦にも会えて楽しい夜でした。

わが家の庭で(2012.3.27)

2012-03-27 13:49:40 | 我が家の歳時記
ようやく春らしいうららかな日和になりました。昨夜、一雨降ったらしく庭の花たちも活き活きしています。



ヒイラギナンテン。そろそろ花期の終わりです。



このツバキの花は、今年は可哀相でした。せっかくたくさん蕾を付けたのに、何度も寒さが戻ってきて、開かずに枯れた花も多かったです。例年より小振りの花ですが、それでも頑張って次々咲いてくれています。
鉢植えのツバキは、まだ蕾です。



ジンチョウゲ。小さい小さい鉢で懸命に春を迎えました。



ニオイスミレ。庭のあちこちで咲いています。





ヒマラヤユキノシタ。寒さに強いこの花は元気いっぱいで、もう少し目を楽しませてくれるでしょう。

ペルーの旅(15・終) 

2012-03-24 17:00:00 | 旅日記
夕暮れのリマ

リマの海岸付近に広がる新市街「ミラフローレス」には、ホテルやショッピングセンターなど高層ビルが立ち並んでいます。ラルコ博物館は、そこから北西に少し離れた静かな場所にありました。



一方、リマのもう一つの顔は、世界遺産に登録されている「セントロ」と呼ばれる旧市街です。



治安があまり良くないということで、ポリスの姿も目立ちます。



賑やかな広い通りに入りました。



植民地時代にスペイン人たちの作ったコロニアル建築が並んでいます。
色彩豊かな壁やバルコニーが特徴的です。



旧市街の中心、マルサス広場です。スペインの侵略者フランシスコ・ピサロは、1535年、都をクスコからリマに移し、このマルサス広場を政治の中枢として統治しました。広場の周りは古い公共建築物で囲まれています。



カテドラル(大聖堂)。ここにピサロの遺体が眠っています。高さ17mの豪壮な建物の礎石はピサロ自らの手で置かれたといわれ、その日付は1535年1月18日、この日がリマ建都の日とされています。建物は地震などで何度も修復され、現在の建物は19世紀のものです。



大統領府。もとピサロの邸宅址に建っています。これも何度か建て替えられたものです。



リマ市庁舎。ネオバラック式の美しい建物です。



広場に別れを告げて、少し歩きます。



サントドミンゴ教会。美しい塔は18世紀末に改築されたものです。



ちょっと中に入ってみました。



この礼拝堂は地震の被害を免れ、ペルー最古(1547年)の礼拝堂とされています。



再びミラフローレスに帰る頃には、とっぷりと日が暮れました。「恋人たちの公園」に地元カップルの姿が増え始める時間です。



「抱き合う恋人たち」のモニュメントがライトアップされています。



昔の恋人たちのペルーの旅も、そろそろ終わりです。長い間ご覧頂きまして、本当にありがとうございました。

ペルーの旅(14)

2012-03-24 07:00:00 | 旅日記
ラファエル・ラルコ・エレラ博物館の45,000点といわれる膨大な展示物の一部をご紹介します。(ペルー文化の歴史に沿って展示の順序を変えています)



ペルーの文化はBC.1000~BC.200年頃に始まります。治世者の名前からチャビン文化と呼ばれます。この文化形成期(BC13半~AD1)に作成された「パラカスの大布」。ラクダ科の動物の獣毛が素材で、図柄のテーマはネコ科動物(ピューマ?)です。チャビン文化ではネコ科動物や蛇、コンドルが神格化されていました。



同じ形成期(BC 13C半~AD1)ピクス文化、王冠、頭飾りなど装身具一式。
先スペイン期の指導者はこうした装身具を身につけることで、自分とは異なる身体や人格を持っていることを示しました。今で言う「ヘンシ~~ン」ですね。

次に出現するのがレクアイ文化(現在のワラス一帯を治めていた国の名前)で、ペルー北海岸や北部アンデス地方で発展しました。



レクアイ文化の展示。前の左は狸の置物みたいだし、右の「片足立ちのネコ科動物」もユーモラスです。





モチェ文化は紀元前後からA.D.700頃までコスタ北部で栄えました。プレ・インカと呼ばれる高度な文化で、「太陽のワカ」「月のワカ」と呼ばれる神殿ピラミッドも建設されました。この「黄金の頭飾り」は色や輝きを通じて身に着けた人の超自然的な性質を知らしめたといいます。やはり金は最高権力者の象徴?



これもモチェ文化の遺物。敗者の血を注いだ器が神にささげられている「生贄の儀式」を描いたラルコ博物館を代表する器です。



同じ頃(AD1~600年頃)、コスタ南部ではナスカ文化が生まれます。あの地上絵で有名なナスカですね。
これはナスカA型と呼ばれる土器で全体が彩色されています。題材は神々、農民、漁師の他、狩猟や戦闘の場面など多彩です。



この容器も面白いですね。



この布の断片もナスカ時代のものと思います(が、間違っているかも知れません)。



次にワリ文化が現在の南部アンデス山岳地帯アヤクーチョ盆地で発生して、形成期のアンデス土器に大きな影響を与えました。



ワリ文化後期(地方王国期AD8~13世紀)の織物。経(縦)糸には木綿、緯(横)糸にはラクダ科の動物の毛が使われています。緯糸の太さは世界第二位の細さという説明でした。



その後、コスタ北部にはチムー王国が建設されました。帝国期(AD.14世紀~16初期)の銀の王冠と指輪です。古代アンデスでは銀は金と同じように重要な金属でした。自然界には純粋な金属として存在しないため、取り出すには高度な技術が必要とされています。



これは有名な展示物、仮面をつけたミイラです。(何時の時代のものでしょうか)



博物館を出る前に別室にある、この博物館を有名にしているもう一つの展示物を見て頂きます。インカ時代のエロチックな土器です。実に生々しいのもたくさんありましたが、動物が題材のものを一枚だけ…(他には撮影していません)。



美しい庭園にも屋外展示物があります。ペルーの古文化を観賞しているうちに夕暮れが迫ってきました。いそいで次の観光に向かいます。

ペルーの旅(13)

2012-03-23 07:00:00 | 旅日記
3月6日 ペルーの旅も最終章。7時、クスコのホテルを出発して空港へ。ガイドのカワムラさんとお別れして、9時30分のLAN機でリマへ1時間25分の空の旅。11時にはリマに着いて午後はリマ市内の観光…の筈でした。
 同じツァーグループの若い女性・Iさんと変愚院夫婦が、3人掛けのシートに並んで離陸を待ちます。タクシーイングが終わり離陸体制に入りました。しかし管制塔のゴーサインが出ないのか、なかなかテイクオフしません。そのうち、心地よいエンジン音で眠気がさしてきて、つい寝入ってしまいました。辺りが騒がしくなったので、てっきりリマに着いたかと窓の外を見ると「ン?クスコと同じ?」。なんと他の二人も寝入っていて、てっきりリマだと思ったそうです。
 他の乗客が立ち上がって通路を出口へ急ぎます。聞くと乗客機材のトラブルで出発できないとのことで、空港待合室へ返されました。待つこと1時間半。その間、添乗員のOさんが走り回って交渉して、何とか別便の機に乗ることになりました。同じように3人座って離陸体制に…。ところが再び飛び立てず、また別の飛行機に…。



この飛行機が飛び立ったのは12時35分。リマに着いたのは14時を過ぎていました。バスで市内観光に出発したのは14時30分近く…



4日前に通った海岸沿いの美しいレストランで、遅い昼食。



まずは3日ぶりのビールで乾杯です。



メインディッシュはコンチータス・アラ・パルメザーナ、帆立貝にパルメザンチーズを乗せてオーブンで焼いた料理です。ピスコ・サワーの味も、すっかりお馴染みになりました。



そして、シーフードの入ったピラフと。



デザート。とても美味しく頂きました。



リマ市内の観光を始める頃は16時近くになっていました。まずラルコ博物館へ。



リマ市には他にも「天野博物館」などの博物館がありますが、この「ラファエル・ラルコ・エレラ博物館」はラルコ氏の個人コレクションで、インカのミイラと後でご紹介するもう一つの展示物で有名です。





美しい南国の花々に迎えられて入場します。



入口には、こんな珍しいサボテンもありました。



驚いたのは、その収集品の数の多さです。



まだ未整理のコレクションが、所狭しと広い室内の棚に並べられています。



壁面に飾られた人間の顔を象った土器です。



別の建物に入って、時代区分されて説明が付けられた展示室を順に巡っていきます(続く)。

ペルーの旅(12)

2012-03-22 00:07:58 | 旅日記
MACHU PICCHU (4)



インティワタナから急な階段を下っていくと、農業試験場と呼ばれている段々畑の上にでます。高地での栽培に適した作物の研究が行われていたようで、植物の種子などが発掘された場所です。小さな石組のあるところは未完成の神殿の跡です。



ワイナピチュの下に二軒の建物が見えます。ワイラナと呼ばれる建築様式で、復元された屋根はイチュというイネ科植物で葺かれています。



雨が降り出しました。草を食むリャマ君の横を急いで通り過ぎ、ワイラナに入って雨具を着けました。



ワイラナの少し先で再び登り道になります。下に小屋が見えるところがワイナピチュへの登山口。毎日、限られた人数しか登頂許可されません。キナバルやカナダィアン・ロッキーでもそうでしたが、自然遺産を守るにはこうした方法を取らざるを得ないのでしょう。富士山のように年間、何十万人もが登る山を、せめて現状のままで維持していくには非常に困難を伴うことが予想できます。



往路で上から見た技術者の居住区の一角です。



排水溝が完備していて生活の文化程度が高かったことを証明しています。



左手の通路を下ると「コンドルの神殿」へ通じるのですが、雨が激しくなってガイドは先を急ぎ早足で通り過ぎました。



「水汲み場」山地から遺跡内の水路を辿ってきた水が、今も遺跡で働く人々に利用されています。



先ほど上から俯瞰した「太陽の神殿・トレオン」を今度は下から見ます。



神殿の下部。自然の洞窟を利用した内部には階段があり、その奥はお墓として使われていたようです。



手前の階段を登って出口に通じる朝の道に合流して、マチュピチュの観光を終わりました。



降り続く雨の中、シャトルバスで山を下り、駅前通りのレストランでビュッフェ形式の昼食。そのあと自由行動になって、土産物屋がひしめくバザールのような一角を冷やかして



列車の予約時間を待ちました。帰りも同じフランス人グループと一緒でしたが、私たちより平均年齢はぐっと高そうです。ガイドさんの話では皆さん元気に歩き通したそうで、そのタフさには恐れ入りました。帰りのウルバンバ渓谷は恐ろしいほどの量の濁流が、時には岩にあたって大きく波打っていました。



クスコへ帰るバスが峠を越えるとき、雪を被ったアンデスの峰々がちらりと見えました。



車窓に見える高地の農作地帯。ジャガイモやトウモロコシなどの畠の中で、背の高い木のように見えるのはリュウゼツランです。



夕暮れが迫り、牛を連れて帰る農夫の後姿が旅愁を誘います。



クスコに帰り、マルサス広場にある昨日の昼とは別のレストランでビュッフェ形式の夕食(オプションでした)。店の名前は忘れましたが、このようにフォルクローレの聞けるお店を一般にペーニャといいます。



民俗衣装の踊りもありました。しかし、このオプションには少し不満も残ります。まず、私たちの席は舞台から一番遠くに離れていて、この写真(ビデオからのキャプチチャー)を撮るにも席を立って前に行かなければなりませんでした。また演奏曲目は世界各国からの観光客を楽しますためかペルーの音楽は僅かで、「Happy Birthday to you」(今日が誕生日の客はいないようなのに…)やトルコ行進曲などが次々演奏されます。ようやく最後に例の「コンドルは飛んでいく」でお開きになりました。

ペルーの旅(11)

2012-03-21 07:00:05 | 旅日記
MACHU PICCHU(3)
マチュピチュの石像建築物は約200、居住者は500~1,000人ほどと推定されています。クスコを守るインカ最後の砦、アクリャ(太陽の処女)と呼ばれる美しい巫女の暮らす特別な宗教施設など、いろいな説がありますが、現在最も有力なのは第9代インカ王・パチャクティの私有地で、おそらく避寒のための別荘地だったという考え方です。



ここには美しい石造の宗教施設が多く見られます。まず、市街地入口から階段を下り、作業小屋の立ち並ぶ区域を見ながら行くと「太陽の神殿」を下に見ます。



ここは帰りにまた訪れますが、マチュピチュの建物の中で唯一、美しい曲線を描く姿が印象的です。窓から太陽の光が真っ直ぐに差し込む冬至の日には、種蒔きの儀式が行われました。ここでは冬至の頃が一年で一番昼の長い…つまり日本では夏至にあたる種まきの時期なのです。



狭い通路を過ぎて少し登ると展望の良い…



大きい石がゴロゴロしている開けた場所にでました。石切り場の一角です。マチュピチュの殆どの建造物には、ここから切り出された石が使われています。

すぐ下に見える広場は「聖なる広場」。その正面の三方を石壁で囲まれたところが「主神殿」です。



この岩の割れ目にはいくつかの穴が開けられています。この穴に木の棒を差し込み水を注いで膨張させて、その力で石を割って加工していました。



石切り場にあった加工中の岩



「聖なる広場」
中央の平らな石台には「太陽の神」への生贄の動物が置かれ、神聖な儀式が行われていました。



聖なる広場の正面にある「主神殿」
天地創造の神「ヴィラコチャ」を祀ったところと考えられています。三方の壁の17の窪みには、何が飾られていたのでしょう?



主神殿近くの「方位を示す石」
二等辺三角形の尖っている方角(写真右下角)が南。夜になるとこの方角に南十字星が見えるというカワムラさんの話に、太陽の神殿同様、「ここは日本の裏側・南半球だった」ことを気付かされました。



主神殿の上にある「エコーの部屋」
入口にある「ぴったり組み合わさった」岩は、いくつの辺があるのでしょうか。これは外側から見たところ



こちらは内側から見たところです。左手奥の壁の窪みに向けてカワムラさんが「ウォー」と声を出すと、共鳴してこだまが返ってきます。これが「エコーの部屋」と名付けられた所以です。



ここから再び急な石段登りになります。疲れた人はショートカットして先ほどの合流点へ先行しました。



石切り場や「聖なる広場」が下になりました。こちらから見ると主神殿は広場の手前側になります。
正面の広場と大きな二つの石壁で区切られている三方が壁の空間は「神官の館」です。儀式の時の神官たちの控えの間だったと考えられています。その左には「三つの窓の神殿」が見えます。



登り切ったところがマチュピチュの最高地点。「インティワタナ」と呼ばれる大きな岩があります。



上に立つ四角錐の石の角が東西南北を指しているので日時計の役割をしているともいわれます。インティワタナとは「太陽をつなぎとめる石」の意味です。ただ、色んな説があり日時計か否かは確定していません。遺跡の他の場所についても用途などについての定説はないということです。インカ文化は文字を持たなかっことも、いろんな解釈ができる一因になっているのでしょうか?



インティワタナを下る頃から雲行きが怪しくなってきました。早足で残りのコースを歩きます。

ペルーの旅(10)

2012-03-20 07:00:00 | 旅日記
MACHU PICCHU (2)



「見張り小屋」前は一番人気のあるビューポイント。大勢の人が霧の晴れるのを待っています。



少しづつ霧が晴れてきました。



すぐ前(写真左下)に見えるのは「作業小屋群」、その上の人影の見える小高い丘が「インティワタナ(日時計)」、中央に見える緑が「メイン広場」です。



見張り小屋の横にある「儀式の岩」
三段の階段が刻まれていて上部は平らで、ここで何らかの儀式が行われたと考えられています。



青空が覗き陽が射してきました。見張り小屋の前で記念撮影をして出発。



右手には「見張り小屋」から下の斜面に延々と続く「アンデネス Andenes」が見えます。ここにはジャガイモやトウモロコシの他に、コカやキノアなどの作物が植えられていました。急な斜面を巧みに利用して、土壌の流出を防ぐとともに耕作面積を確保しています。



農作地帯とは深い溝で区分された居住区域へ下っていきます。手前正面が作業小屋のある区域、その左の巨石がごろごろしているところは「石切り場」です。



このように大きく迂回するように



段々畑を見下しながら下っていきます。左の建物群が「作業小屋」、その右、一段下に見えるのが「技術者たちの居住区」です。



「作業小屋」に近づきました。上の石切り場から切り出した大きな石を、熟練した石工が加工していた場所と考えられています。



「市街地への入口」
ここが唯一の入口なのに、意外に小さいものでした。



内部から見たところ。よく見ると精巧な作りで、扉を取り付けて容易に侵入されないようになっています。



狭い通路の正面にワイナピチュが見えます。





いよいよマチュピチュの中心に入ります。
大きな画面でもご覧ください。



ペルーの旅(9)

2012-03-19 07:00:00 | 旅日記
マチュピチュ MACHU PICCHU

3月5日 いよいよ、今回の旅で一番楽しみにしていたマチュピチュを訪れる日が来ました。しかし夜半から雨音が聞こえ始め、明け方からは本降りになりました。
クスコは、気候区分から見ると海岸砂漠地域「コスタ」だったリマとは違って、アンデス山岳地帯「シエラ」に属します。コスタの終わるアンデス山脈西斜面の標高500mから、アンデスを越えた東側斜面の標高1500m辺りまでの地域ですが、山の両側でも標高でも気候や作物の種類が変わります。



クスコは標高3360mの高地にある人口30万の都市ですが、この北には「聖なる谷」と呼ばれるウルバンバ渓谷が流れています。マチュピチュへはバスでウルバンバ渓谷沿いのオリャンタイタンボへ下り、ここから高原列車でマチュピチュ(アグアスカリエンタス)へ、さらにシャトルバスに乗って遺跡入口まで合計約4時間半かかります。
 そのためホテル出発は早朝4時40分。雨はいよいよ激しくなり、前途が危ぶまれます。乗り込んだバスは真っ暗な道を恐ろしいスピードで突っ走ります。カーブがあるたびにスリップしないか、肝を冷やしながらドライバーの腕を信じるしかありません。次第に夜が明けてきて対向車の姿が現れるようになって、ようやくスピードが弱まりやれやれ。しばらくウルバンバ渓谷沿いの道を走り、出発から1時間半ほどでオリャンタイタンボに着きました。鉄道駅に近くなってガタガタの未舗装の迂回路に入ります。



石畳の村の中を通り、オリャンタイタンボ駅近くの駐車場でバスを下りました。この頃から雨は止み、この分では天候は回復しそうです。



オリャンタイタンボ駅で列車の到着を待ちます。クスコ~マチュピチュ間の高原列車は、これまでペルーレイルだけでしたが、2009年からオリャンタイタンボからマチュピチュの間は他に二社が参入しました。



私たちの乗ったのはインカレイル社のもので、大きな窓と天井にも窓のある明るく美しい列車です。



4人掛けの座席で、前に座った女性はフランス人グループの現地ガイドさん。列車の中でお弁当のサンドウィッチとジュースで朝食をとりました。このあと、コーヒーなどの無料車内サービスもありました。



のんびりした農村風景、インカ道に続く吊り橋、粗々しい岩肌むき出しのトンネルなど車窓に流れる風景を楽しみながら、



1時間半ほどでマチュピチュ駅に着きました。マチュピチュ村はかってアグアスカリエンタス(熱い水)と呼ばれたところで、文字通り近くには温泉が湧きだしています。



ここでシャトルバスに乗り換えます。いろんな国の観光客と混乗で、満員にならないと発車しません。走り出してすぐ、美しいブルーの車体のペルーレイルの列車が駅に入っていくのが見えます。機関車の上に見える一角が駅前のマチュピチュ村の土産物屋街です。



標高2,000mのマチュピチュ村から2,460mにあるマチュピチュ歴史保護区へ通じる道は、ハイラム・ビンガム・ロードと呼ばれています。1911年、ジャングルの中に埋もれていたインカの都市を初めて発見した歴史家を讃えて付けられた名前です。シャトルバスはヘヤピンカーブを何度も繰り返して、斜面に乱れ咲く美しい草花に心を和ませたり、断崖の上から濁流の流れる谷底を覗き込んで肝を冷やしたりしながら、高度を上げていきます。



遺跡入口でバスを降りゲートをくぐります。遺跡の面積は約13平方km、これから2時間半ほどのウォーキングなので、まず遺跡内にないトイレ(有料)を済ませておきます。また大きな荷物は持ち込めず、ペットボトルも禁止で水筒を用意してきました。



平坦な道を少し歩くと、石組の建物「貯蔵庫」が見えるところから左の斜面に付けられた急な階段の登りになります。何度かジグザグを繰り返しながらの登りですが、かなり勾配があり急ぐと息が切れます。



貯蔵庫。段々畑の端にあるジャガイモなどの農作物や農機具を保管していた茅葺の建物です。



帰り道との合流点でもある貯蔵庫を横目に登り続けます。



旧インカ道を少し歩いてみました。



美しい緑の台地に出ました。後ろに見える丘の左手にマチュピチュ山(約3000m)への登山口があります。
マチュ・ピチュ Machu Picchu はケチュア語で「老いた峰」を表していますが、「老いた」には「大いなる」の意味もあるそうです。古代都市・マチュピチュは、(観光ガイドなどでは)あまり目立たないマチュピチュ山と、写真や映像でお馴染みの若い峰・ワイナ・ピチュWuayna Picchu の間に位置しています。



後の建物は「見張り小屋」だったと考えられています。あと一息、頑張りましょう。



この建物は「農地管理人住居跡」ともいわれます(ホームページ「PERU ING」による)。段々畑の最上部にありマチュピチュの全体を見渡すことができます。



しかし残念ながら、市街地はまだ薄い雲におおわれています。