ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

わが家の犬と猫

2020-05-08 09:34:26 | 私の動物記

私の動物記(3)

私の生まれ歳(1934年)の干支は戌である。子供の頃から犬が大好きだった。戦後の生活がやや楽になると、親父はさっそく犬の子を貰ってきた。毛色から「クリ」と名付けて、国民学校6年生になった私とよく近くの溜池で泳いだりした。しばらくして捨て犬の仔が弟分になり「ジョン」と呼んで弟と仲良しだった。

      

9歳違いの弟とジョン

 河内の家には猫もいて、多い時は親子三代、色んな色の10数匹が家の中を走り回っていた。弟はタンスの上に数匹を並べて、無理にジャンプさせて飛距離を競わせた。やがてプロ野球が復活して阪神ファンの私たち兄弟は、特にトラネコを可愛がり阪神が勝つように手を叩いて祈願したりした。

増えすぎた猫は貰い手もなくなり、ついに土砂を運ぶトラックに頼んで遠くへ捨てに行って貰った。ところが何か月もあとに痩せ衰えて泥まみれで帰ってきた雌猫がいて、また猫屋敷が復活してしまった。

 

  河内での住まい・庭だけは広かった

結婚してしばらくは池田に住んでいたが、長女が生まれるとすぐ親父が他界したので河内に帰った。猫が嫌いというよりは怖い家内の同居の条件は猫を処分することだったので、ついに動物は何もいなくなった。

 建築中の我が家(1969年10月)

周囲にまだ家が少ない

1969(昭和44)年、現在の大和郡山へ転居した。まだ新しい造成地では前の小川で金魚が泳ぎ、土手ではキジが抱卵していた。

新居の庭で遊ぶ娘と息子(1970年1月)


戦中から戦後へ

2020-05-06 14:46:08 | 私の動物記

私の動物記(2)

     

嘉一郎お宮参り(昭和9年12月21日)           嘉一郎8カ月(昭和10年)

 

      

嘉一郎4歳(昭和14年日支事変南京陥落記念)      嘉一郎7歳(昭和16年 田辺国民学校入学)

戦争が激しくなり家族で河内へ疎開することになりインコは誰かに譲ったらしいが、その止まり台と足を縛っていた鎖は残していた。戦争が終わると、どこからかカラスの子を拾ってきて「カー公」と名付けて育て、大きくなるとオウムの鎖を付けた。夕方になると運動のために放してやるが、仲間外れになるのか家の上を大きく旋回するだけで、親父が「カーコー」と呼ぶとすぐ止まり木に帰ってきた。

家族疎開で北河内郡四条村に転居した当時の写真

 烏は雑食で餌に困らなかったが、ウグイスやメジロはそうもいかず、生餌のミノムシを取るのが私の仕事になった。また兎、鶏など飼って食糧難を乗り切ったが、ひもじくても口にするのは辛かった。


親父の思い出

2020-05-04 09:57:21 | 私の動物記

私の動物記(1)

動物が好きだ。長いものや足の多いものなど昆虫の一部を除いては、どんな動物にも興味がある。相手も分かるのか、初めての動物もすぐ慣れるし仲良くしてくれる。これはたぶん親父の血を引いているためと思う。

下)昭和2年 右端が親父(25歳) 筑前琵琶を持っている  

 親父28歳(左から二人目、三味線を弾く)

 親父は遊び人(よく言えば趣味人)で色んな事に手を出したが、中でも小鳥を飼うことに熱中していた。第二次大戦中、軍属としてシンガポールへ行っていたが、もともと病弱気味だったのですぐ帰国できた。その時、連れて帰ってきたオウムにやる餌に苦労して、近所の種苗店からヒマワリの種を分けて貰っていた。このオウムは最初、英語でしゃべりまくるので喧しいだけだったが、ある日、初めて「コンニチワ」と言って親父を驚かせた。

 1942(昭和17)年 軍属姿の親父