ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ (130) 行仙岳

2016-04-23 09:22:09 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(130)行仙岳(ぎょうせんたけ) <1227m>  「山頂に電波中継塔」

持経宿は役行者が経典を納めたところという。ここに立つ山小屋から奥駆道を南に辿ると、持経千年檜と不動尊の祠がある。

ヒノキは昔から十津川郷の人々に大事にされてきた樹齢800年の巨木である。この辺りに多いヒノキ、ミズナラなどの巨木を見ながら、小さいピークを上下し、中又尾根分岐の標識があるピークを下ったコルに平治宿(靡二一番)がある。

理源大師聖宝が大蛇を呪縛して、遥かの谷に投げ落としたという伝説が残り、蛇の落ちたところが上北山村池原郷の明神池になったという。(理源大師の蛇退治については、黒滝村の百貝岳の項でも記した)。なだらかな道をしばらく進み、わずかの急登で転法輪岳(1281m)の頂上に着く。釈迦が説法した椅子の形に似た岩がある。少し下るとルンゼ状の岩の間に鎖場があり、ここでもシャクナゲが美しかった。

次の倶利伽羅岳の頂上は狭いが、すぐ先の岩の上から、北方の釈迦ヶ岳や西の中八人山の展望が得られた。さらに二、三のアップダウンがあり怒田宿跡に来る。すでに行仙岳の登りにかかっていて、その中腹にある狭い平坦地だ。行く手高くに山頂が望まれる。

急登で長い階段道が終わると、最後は右へ山腹を捲くように登って電波中継塔の立つ山頂に着く。行仙岳三角点はその一段上の枯れ木の下にあった。


奈良の山あれこれ (129) 涅槃岳

2016-04-21 12:12:31 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(129)涅槃岳(ねはんたけ) <1346m>   「昔は、けつかうが森」

地蔵岳のコルから般若岳へは短いが急登である。頂上付近にはミツバツツジやアケボノツツジが美しく咲いていた。少し狭まった尾根道を下ると滝川辻で、西に下ると十津川側の滝川である。雑木林の中をさらに下った最低鞍部にくる。エアリアマップでは、ここに笹の宿跡、ヒクタワとともに剣光門の文字がある。

宮家準氏「大峰修験道の研究」によると、「乾光門」の鳥居と金剛童子をまつった小祠があり、吉野から発心門、等覚門、妙覚門とこの乾光門で四門を越えたことになるので、ここから山上権現、釈迦、弁才天、さらに大峰一山を拝み返す所であったという。しかし鳥居や祠は見あたらなかった。森沢さんによると、本来の「拝返し」はこの先の聖誠無漏岳ではないかということである。次のピーク・涅槃岳(1346m)へも急な登りがある。

「吉野郡群山記」に『乾光門、滝川辻、金剛童子祠より登る坂を云ふ。乾光門を登れる峯を、俗にけつかうが森と云ふ。』とあるが、この「けっこうが森」が今の涅槃岳である。あまり展望はよくない。

緩やかなアップダウンで聖誠無漏岳(しょうじょうむろ)に来る。大きなシャクナゲが群がる中を下る。背丈より高い笹の緑とピンクの花のトンネルがしばらく続く。鎖のついた大きな岩を下り、再び鎖で登り返す。最後の阿須加利岳から、かなりの急坂を下ると持経宿(第二十二靡)である。


奈良の山あれこれ (128) 天狗山

2016-04-19 14:31:07 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(128)天狗山(てんぐやま) <1537m>  「360度の大展望」

大日岳の項で述べた太古ノ辻には「これより大峯南奥駆道」の標識が立っている。南へ辿る奥駆道は笹原の登りとなり、登り切ったピークを蘇莫岳(そばく)岳と呼ぶ。ここは第三二番靡で古くからの行所である。

この山にある大岩の上で、仙人が雅楽の「蘇莫者」を舞ったという伝説が残る。笹原の中を鞍部に下り、ガレ場を過ぎて次の1472m峰は西側を捲く。

しばらく登って頂上に立った『石楠花岳は、その名に恥じず満開のシャクナゲ林の中にあり、岩峰に登ると釈迦ヶ岳と大日岳が正面に見えた。(2005年5月の山日記)』

明るいブナの林を行き、小さなコブを上下して着いた天狗山の頂上は背の低い笹原で、広々とした大展望に恵まれた。

ここからブナやミズナラなどの林が続く稜線の道で、西側に大きく切れ落ちたナギを二箇所通過する。奥守岳の標識を見て大きく下ると嫁越峠である。『十津川村と北山村を結び、奥駆道が女人禁制であった時代には、幅一間だけ女性の通行が認められていたという(森沢義信氏「奈良80山」)』。

今は単なる鞍部に過ぎず、花嫁が馬の背に揺られながら越えた風情を忍ぶすべもない。広々とした草地の「天狗の稽古場」を過ぎて、地蔵岳(1464m)への急登になる。しかし10分程で終わり、あまり特徴のない頂上を通過する。地蔵岳は行所としては二六番靡の子守岳に当たる。下りになると背丈を超すスズタケの切り開き道になる。「新宮山彦ぐるーぷ」の皆さんの献身的な奉仕で、楽々と歩かせて頂けることを本当にありがたく思った。


奈良の山あれこれ(127) 小峠山

2016-04-17 09:00:33 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(127) 小峠山(ことうげやま) <1100m>「東側からの釈迦ヶ岳展望台」

大峰山系孔雀岳から東に派生した尾根上のピーク。山頂は釈迦ヶ岳を初め、奥駈道の山々の好展望台である。2006年4月14日、日本山岳会関西支部例会、一般参加も含めて24人の大パーティで登った。

『八木から貸切バスで169号線を南下、池原ダム湖に臨む水尻集落から登り始め、今日はしんがりを務める。


バス停横の階段を登り、墓地を過ぎて樹林帯の急登が続く。尾根に出るとやや傾斜が緩み、松林や常緑樹の林の中を抜けて、小さいコブを二つ三つ越していく。

尾根道のあちこちにシャクナゲが美しく咲き、新緑の中にミツバツツジやアケボノツツジなどが美しいアクセントとなっていた。再び急な登りで926mピークに出る。



左手眼下に幾重にも重なる山々に抱かれるようなダム湖が美しく望めた。』

小さなコルに下って、次に登りなると左側は大きく開けた伐採地になる。ネット沿いに転石混じりの少し歩きにくい道を辿り頂上に着く。ここは三方を樹林に囲まれて西北側だけが開け、中央に釈迦ヶ岳、その左に大日岳の先鋒が見える。5分ほど先にある展望峰までは、シャクナゲの花の道だった。

中峰といわれる最高点(といっても僅か1mほど先程の山頂より高いだけ)で展望はますます拡がり、孔雀岳、釈迦ヶ岳、大日岳から続く大峰奥駈道が涅槃岳、行仙岳(頂上のアンテナもくっきり)、笠捨山…そしてずっと左向こうに玉置山まで連なりを見せていた。同じ道を下山、上北山温泉で山の汗を流して帰途についた。


奈良の山あれこれ(126) 大日岳

2016-04-14 17:59:26 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(126)大日岳(だいにちたけ) <1540m>  「岩上に大日如来像」

釈迦ヶ岳の南にある神仙ノ宿は修験道の重要な聖地で、これより北は蔵王権現の支配する金剛界、南は熊野権現の胎蔵界になぞらえた大峯の中心とされてきた。従ってこの山には、多くの靡き(行所)が点在している。三五番靡の大日岳は釈迦ヶ岳の東南に聳える岩峰である。鎖のある一枚岩を登る修行場だが、捲き道もある。山頂には大日如来像が鎮座している。これも「鬼雅」が運び上げたと伝えられている。

釈迦ヶ岳への東山麓からの登山口は前鬼である。ここには三重滝(みかさねのたき)という大峰修験者にとっては重要な裏行場(二八番靡)がある。前鬼には役行者に帰依した前鬼・後鬼の子孫が住み続けてきたが、現在は小仲坊ただ一軒で、現当主五鬼助義之氏は61代目に当たる。「群山記」に「釈迦嶽前鬼より登る道」として『前鬼村より釈迦嶽へ六十八丁(神仙宿へ五十丁、前鬼より西南の谷を登る)』とある。私たちもこの谷を登った。

 地蔵の尾

谷を詰め、地蔵の尾の急斜面を登ると制多迦(せいたか)童子と矜伽羅(こんがら)童子の名を持つ二つ石がある。「群山記」には『俗にせくらべ石といふ』とも記されている。しばらく平坦な道を行き、最後に笹原の中の急登を終えると奥駆道の通る太古ノ辻に出た。さらに深仙宿への途中の鞍部が大日岳(群山記では『宝冠嶽 すなはち大日嶽なり』)の基部になる。

以下、山日記より…
 『三三尋(約60m)と言われるフェイスには鉄鎖が下がっていて、ここを登ると面白そうなのだが…。17名の大人数なので、万一のことも考えて捲き道をとることにした。それでも最後は結構、面白い登りで全員が通過するのに時間がかかった。

大日岳頂上にはブロンズの大日如来が安置されている。狭い頂上は樹木に囲まれているが、北側が開けて釈迦ヶ岳から孔雀岳へ続く稜線、五百羅漢の岩峰群が美しく望めた。


奈良の山あれこれ (125)釈迦ヶ岳

2016-04-13 09:29:47 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(125)釈迦ヶ岳(しゃかがたけ) <1800m>  「山頂に大釈迦如来像」

<馬ノ背より空鉢の岩峰と釈迦ヶ岳>

山頂にある大銅像で知られるように、古くから釈迦如来が祀られていた。昔は金の如来像が釈迦堂に安置されていたという。

現在の銅製如来像は大正13(1924)年、「鬼雅」と呼ばれた大峰の強力(ごうりき)・岡田雅一が、ただ独りで担ぎ上げたものである。高さ3.6mあり、台座を含めるとかなりの重量となるが、彼は何度かに分けて背に負って登ったという。

 山頂からは富士山が見えるという記述が『吉野郡群山記』にある。 曰く「釈迦嶽は大山にして、群峰の上に出る。南に大日嶽、千種嶽相並び、北に楊枝の大山有り。西に群れ、七面山有り。常に雲霧起り、晴日稀れなり。晴るれば、頂上より西に当りて、紀州の海・四国・九州を眼下に見る。南は、南海を過ぎる船の帆かすかに見え、熊野の諸山見ゆ。北は、大和国中の諸山、山城の山々、大峰通りの諸山、山上嶽は楊枝の山に支へられて見えず。その外は、大台山を始めとして、東は伊勢・尾張・駿河の海を望み、晴天のあした日未だ出でざる頃、駿河の富士山、海中に見ゆ。」たしかに奈良県下第三の高峰だけに、期待に違わぬ素晴らしい展望が得られる。 釈迦ヶ岳へは三つの登山道が利用できる。最も簡単には十津川側からの旭ダム近く、不動小屋谷林道の登山口から登る。

この道は1999年に初めて歩いた。2006年には登山口が以前より林道奥になり、立派なトイレや駐車場も設けられていた。

ここからは尾根伝いに古田の森や千丈平を経て2時間強で頂上である。

頂上北側のオオミネコザクラを見た後、大日岳にも登ってゆっくり往復できた。

以下、2005年、逆峰(吉野から熊野へ)で奥駆けした折の山日記より抜粋。『孔雀覗きからしばらく進むと小尻返しという岩がある。「刀の鐺の意味でしょう」と先達の森沢さん。山伏が帯刀していたことをうかがわせる言葉である。続いて「貝摺り」という岩の裂け目を通る。これは法具である「法螺貝がこすれる」という意味であろう。

次のやや大きな岩の裂け目を「両部分け」という。大峰を金胎両部の曼茶羅と見なし、吉野からここまでが金剛界、ここから熊野までが胎蔵界としたものである。

次の大岩壁をトラバースしていく曲がり角が「橡(えん)の鼻」である。岩の下に蔵王権現像があり、たくさんの碑伝が打ってあった。鼻を回ると釈迦ヶ岳が正面高く聳えている。「橡の鼻まわりて見れば釈迦ヶ岳、弥陀の浄土に入るぞうれしき」。最低鞍部までには、更に馬の背、杖捨と呼ばれる所を過ぎると、ようやく最低鞍部に着く。ここから釈迦ヶ岳に向けて急登が始まる。あせらずにゆっくりと高度を稼ぎ、思ったよりも楽に頂上に立つことができた。何年ぶりかでお目にかかるお釈迦様が、暖かいお顔で出迎えて下さった。思わず手を合わせ般若心経を唱えた。』 

最も印象に残るのはこの山行の翌月(2005年5月)、前鬼の宿坊・小仲坊に泊まり、両童子岩を見ながら太古ノ辻に登った時である。ちょうどシャクナゲの時期で、緑の山肌がピンクの模様で染め上げられた美しさは幻のようだった。


奈良の山あれこれ (124) 仏生ヶ岳

2016-04-11 10:18:09 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(124) 仏生ヶ岳(ぶうしょうがたけ)<1805m> 「昔はクロユリが群生」

大峰山脈で八経ヶ岳に次ぐ第二の高峰である。「コンサイス日本山名辞典」に『修験道場で七十五靡の一つにかぞえられ、仏生の岩場がある。トウヒの美林が多い』とあるが、『仏生の岩場』というのは何を指すか不明である。

七面山遥拝所から奥駆道を南に辿ると、笹原の中に避難小屋が立っている。元の楊枝宿跡で、「群山記」には『楊枝宿に、黒百合多し。白山の黒百合より苗長大にして二、三尺、…六月土用頃、花あり』と記されているが、私の生年である昭和9年(1934)には、まだ僅かに生育していたという記録が残るそうである。1693mを越えた次の鞍部には平成13年建築の新しい山小屋が建っている。この辺りは楊枝森と呼ばれていたところである。

 
楊枝森より仏生ヶ岳

 以下、2005年の山日記より『目の前に立ちはだかる仏生ヶ岳への登りにかかる。かなりの急坂を登っていくと行所(仏生ヶ岳遥拝所)があり、更に登ったところから少し引き返す形でピークに立つ。針葉樹林に囲まれて無展望で、明星ヶ岳と似た感じのところだった。元の山腹道に戻って少し下り、緩く登り返すと倒木の多いところを通る。跨ぎ越えたり、下を潜ったり。「これも修行のうち」とMさん。

孔雀岳も山腹を捲いていく。この横駆けの途中で、烏ノ水という美味しい湧き水を一口づつ頂く。ちょうど最高点の下を過ぎる辺りでは、登山道が凍結しているところがあった。この辺りからが奥駆道最大の難所ということである。

孔雀覗きで暫く休み、遠く左手下方にニョキニョキと立ち並ぶ、五百羅漢、十六羅漢という名の岩峰群を見おろす。』この岩峰群が釈迦の生地の光景に似ているとして、『仏生の岩場』と呼ばれたのかも知れない。


奈良の山あれこれ(123) 七面山

2016-04-08 20:23:25 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(123)七面山(ひちめんざん) <1624m>  「昔は大峰修験の山?」

明星ヶ岳から南へ大峰奥駆道を辿ると、禅師の森を過ぎ、五鈷ノ峰を捲くように越える。少し岩場を下った広い鞍部から登り返し、1658mPを越えると大きな舟の形をした窪みの舟ノ垰である。間もなく七面山遙拝所で、西の七面山へ分岐する尾根がある。ここからは手前の峰に遮られて見えないが、東峰・西峰・三角点峰(槍ノ尾 1556m)↑の三峰からなる山で、東峰の南面には高さ約300mの七面と呼ばれる岩が露出している。いかにも昔は修業が行われていたのではないかと思わせるところで、室町時代の文書では役行者が修行したと記されているという(大峯奥駆道七五靡)。また、この山には金六という天狗がいて道に迷わされるという伝説が残されている(吉野郡群山記)。山名の由来を「興地通志」では『七面山七峯連聳、宛如蓮華』としているが、「群山記」は『伝聞の誤りなり。この山七つの峯なし』と切り捨てている。

2003年5月末、行くならシャクナゲの咲く時期と狙っていたこの山に妻と登った。王子製紙の私用林道を標高差330m、1時間歩いて登山口に達し、ジグザグの急坂を西の下辻山へ続く長い尾根上(七面尾)に登る。『大きな倒木を乗り越し、もつれ合う木の根を踏んで次第に痩せてきた尾根を登っていくと、辺りはシャクナゲの花、花、花。歩いている道の両側、谷を見下ろす斜面、行く手の岩の上…まだ固い深紅の蕾から花の終わりを告げる淡い桃色まで、周り全てが赤い色で溢れかえるようだ。』

急登で西峰に登り、東峰へ往復後、広大な笹原のアケボノ平で昼食。

『正面に七面山東峰が聳え、その右に仏生ヶ岳、さらに南へ孔雀岳と、奥駆け道の通る大峰の山々が連なっている。空は更に高く青く、この贅沢な展望をゆっくりと二人だけに与えてくれる。』

食後、三角点ピーク「槍の尾」を往復して、元の道を下山した。 


奈良の山あれこれ(122)明星ヶ岳

2016-04-02 09:31:45 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

明星ヶ岳(みょうじょうがたけ)<1890m> 「国指定天然記念物の原始林」

大峰主稜を通る奥駆道は八経ヶ岳を過ぎると、しばらく山腹を行く平坦な道になり、鞍部から少し登って弥山辻に出る。辻を右手(西)に下ると頂仙岳だが、左に疎林の中を10分足らず登ると明星ヶ岳山頂に着く。シラビソやトウヒの原生林に囲まれ、一帯が仏教ヶ岳原始林として国の天然記念物指定を受けている。『吉野郡群山記』では「明生ヶ嶽」と記され、「道東にあり。水の元、この所、渓間にして、水西に流れ、末、弥山川に入る。峯中往来の者、この水を呑みて渇をしのぐ」として、貴重な水源地「山の神」でもあった。この「水の元」は、八経ヶ岳と明星ヶ岳の最低鞍部近くで見つかった古い石積の辺りではないかと「大峰奥駆道七五靡」で、森沢義信氏が推定されている。

2004年10月、頂仙岳へ登ったあと高崎横手から明星ヶ岳へ向かった。古くから土地の人が利用していた道だが、尾根が広いだけに初めて来たものはルート探しに余程苦労したことだろうと思う。しかし、この年、弥山小屋管理人西岡さんらの尽力で随所に道標や赤テープ、ロープ柵が設けられ、立派な歩きやすい登山道となって開通した。以下、当時の山日記を引用する。

『まだ多くの登山者で踏み固められていない道はフカフカと足に優しく、緑のコケに覆われた林床に立ち並ぶトウヒやシラビの中を、落ち葉の感触を確かめるように歩く。初夏には天女の花・オオヤマレンゲも見られるという道は、殆ど疲れも感じないうちに次第に高度を上げ、いつか八剣谷を見下ろす地点に来ている。

林を抜けだした尾根上の台地で非常に展望の良いところだ。ここで森沢さんから、見える限りの山の名を詳しく教えて貰った。

まず真南に兎が寝ているように見える七面山。その右は、頂上に円いアンテナが二つ見える下辻山。さらに遠くは奥高野から熊野にかけて数えきれぬ程の峰々…<上の写真>。反対に向き直ると、八剣谷、池ノ谷を隔てて秋の衣を纏った弥山の山肌と八経ヶ岳。雲一つない青空の下に展開する豪華な絵巻物に、しばし時を忘れて陶酔した。立ち去りがたい思いを振り切って、明星ヶ岳に向かう。』

 少し緩く下った、やや湿った草地から再びなだらかな登りになる。コシダ、スギコケ、ヒカゲノカツラが地面を覆う草地で踏み跡はやや不明瞭になるが、すぐに明瞭な登山道に戻り、短いがやや急な坂を登ると奥駈道の通る弥山辻に飛び出した。』


奈良の山あれこれ(121)大所山

2016-03-30 16:21:48 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(121) 大所山(おおどころやま)<1346m>「美しい自然林と渓谷」

別称・百合ヶ岳。大峰奥駈道の五番関と今宿跡の間から東へ派生する支尾根の末端にある。吉野川支流の下多古川と高原川と挟まれるが、下多古側は植林だが高原側は深い自然林が残っている。山頂付近もブナの自然林の中で、冬の落葉期には大峰山系の展望が得られる。初夏のころはヤマザクラ、ミツバツツジなどが新緑に彩りを添え、南側の下多古谷は弁天岩から琵琶滝、中ノ滝と素晴らしい渓谷美を見せる。

 

一般的な登山路は川上村下多古より下多古林道に入り、徒歩1時間で登山口。車の場合は登山口まで進入できる。2004年2月、日本山岳会関西支部8名で登った。登山口から村有林を過ぎ、涸れた谷を何度か渡り返して、二段になった小滝の前に出る。

ジグザグの登りで明るい疎林から伐採跡に出ると視界が開け、正面に白鬚岳の美しい三角錐、その左に池木屋岳、右には日出ヶ岳が望め、更に右に勝負塚山が近い。

小さなピークを越えて雪の稜線を行くと、美しいブナ林の中にぽっかり開けたような頂上に着いた。南には大普賢岳から山上ヶ岳、弥山、稲村ヶ岳へと続く稜線が指呼の間に、また反対側には四寸岩山の穏やかな山容が望まれる。

下山は殆どの人が登路を引き返すようだが、私たちは南西に延びる稜線を下った。
 2009年5月、山友の女性二人と私たち夫婦で同じコースを辿った。頂上から尾根を下るとシャクナゲ林になり、それが疎らになるところが一番の難所で、大岩の横に危なっかしい木の梯子がつけられている。次の難所、長い岩場の下りにはマダラロープが張ってあった。植林帯に入ると膝が悲鳴を上げるような急坂の連続で、木の幹を頼りに下る。

登山口から琵琶滝に続く水平道に出たときは正直ほっとした。あまり登られていない不遇の山だが、大峰の前衛にふさわしい深山の趣があった。