ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

伊勢代参犬

2020-08-01 10:42:54 | 私の動物記

伊勢代参犬

前回の「代参犬・こんぴら狗」の金毘羅参りよりも以前から、飼い主の代わりに伊勢神宮に詣でた犬は数多くいた。文献資料を基に日本人と犬との関わりを研究してきた仁科邦夫の「犬の伊勢参り」(平凡社新書」には『犬の金毘羅参りは、犬の伊勢参りに触発されて始まったと思われる…』と記されている。

 私が「伊勢代参犬」のことを初めて知ったのは、正月の伊勢参宮の帰りに「おかげ横丁」を歩いた時だった。

おかげ横丁のシンボルともいえる「おかげ座・神話の館」の往時の様子を再現したジオラマで、「おかげ犬」を見た。「おかげ参り」の人の側に首に縄を捲き、御幣を付けた白犬が歩いている。

また総合案内所でもある「おみやげや」で売っていた「おかげ横丁のおかげ犬」という縁起物は首の縄に赤い布袋を下げている。


「犬の伊勢参り」他色んな文献を見ると、江戸時代には何年かに一度(式年遷宮など)、熱狂的に伊勢参りの人が増えることがあった。これが「おかげ参り」と呼ばれるようになったのは明和8年で、それまでは「ぬけ参り」と呼ばれていた。皇大神宮の御札が降ったというような噂が広まると、子供は親に、妻は亭主に、奉公人は主人に無断で集団で伊勢を目指す。それで「抜け参り」というが、明和8年からは「おかげ(陰)参り」というようになった。

 代参犬が現れたのはこの年からで(文献上は)、抜け参りをしたくても行けない人が犬に代参をさせたのが始まりと思われる。この時の犬の飼い主の名前も外宮の神官によって記録されている。やがて犬の代参は普通に見られるようになり、首に付けた袋に路銀を入れて伊勢参りの集団に加えてやると、参宮する奇特な犬だということで宿泊費や食費を取らずに、船にも無料で乗せて貰い無事、参宮する。神宮ではお祓い札を授けられ、帰りは次々と村役の引継ぎで(増えて重くなったお金や荷物も運んで貰う)大事に保護されながら帰ってくる。最長距離は津軽黒石からの往復2400㎞という記録も残っている(「犬の伊勢参り」)。

 

代参犬は「白」が多い。実際に代参した中には他の色の犬もいた筈だが、記録に残っている犬は殆ど白である。これは汚れを嫌う神宮に、かっては禁制だった犬を入れるのに、せめてもの清浄さを表すためかも知れない。明治4年の最後の代参犬もシロという名だった。私の干支である戌年の初詣で授かった、お伊勢さんの土鈴の犬は土色である。ただし、これは綱も袋も付けていないので、代参犬ではない。
 


こんぴら狗

2020-07-18 09:18:59 | 私の動物記

こんぴら狗

2009年4月19日、妻と飯野山(標高421.9m)に登った。讃岐平野の中央部にあり丸亀・坂出両市にまたがる美しい山容で讃岐富士と呼ばれている、香川の誇る低名山である。

登山口の伊勢神社に着いたのが9時40分。早い人は30分、普通は1時間のコースだが、私たちは1時間で頂上に着いた。

飯野山頂上からの眺め。象頭山が霞んで見える

巨人「おじょも」伝説の巨石群・天狗周回路を見て下山したのは12時40分。すぐに琴平へ車を走らせる。象頭山の姿が次第に大きくなり、緑の山腹に金刀比羅宮の屋根が光っている。

象頭山の最高点は大麻山(616.3m)で金毘羅宮はその中腹にある。

明日登る予定だった大麻山だが、予定より早く着いた(13時過ぎ)ので、フロントにキーを預けて出発。

金毘羅参りの善男善女に交じって石段を登る。両側に並ぶ土産物屋が終わると大門を潜り、飴を売る五人百姓の傘が並ぶ広場になる。

785段の石段を登ると本宮、さらに583段を登って奥社、さらに竜王社と手を合わせただけで登り続け、ボタンザクラの並木が続く稜線のTV専用道路に出た。並木の奥、TV中継塔横に616.3mの三角点があった。殆どの人は南側の琴平、北の善通寺から車で2~300m手前まで登って花見にくるらしい。帰りに出会った人は私たちのザック姿に「金比羅さんから歩いて!」と驚いていた。

本宮に下って改めて参拝する。神官や巫女が賽銭箱をひっくり返して、紙幣や硬貨を山にしていた。

社務所で「こんぴら狗」を授かり、五人百姓さんが店じまいの掃除をしている大門を出てゆっくり下った。参道入口近くなって登りでは気付かなかった「こんぴら狗」に出会った。立札に

『こんぴら狗 江戸の昔「こんぴら参り」の袋を首に飼い主にかわって

犬がこんぴらへ

首に巻いた 袋に初穂料と道中の食費を入れて飼い主が旅の人に託した犬

無事代参をすませるとふたたび旅をして家族のもとへ いつのころからか

こんぴら参りのこの犬を「こんぴら狗」と呼ぶようになりました』

とある。句読点がなくて読み辛く文章もややおかしい気もするが、「代参」という言葉を古い記憶からふと蘇らせた。物心ついた頃、浪花節と呼んでいた浪曲がラジオでよく流れ、中でも広沢虎造の『清水次郎長伝』の名調子は今も耳に残っている。なかでも大坂八軒屋から淀川を上る三十石舟の中で、「けえどおいち」の親分は清水次郎長と言った若い男に喜んだ森の石松が…「喰いねえ、喰いねえ、寿司喰いねえ」「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」と振る舞うが、「親分ばかりが偉いんじゃねえ」と子分の名前が出るうちに自分の名前がなかなか出てこない…。あの「石松三十石道中」が好きだった。しかし、あれは無事に代参を果たし後の話で、『跨ぐ敷居が死出の山、雨垂れ落ちが三途の川、そよと吹く風無情の風・・・』と「石松金比羅代参を無事に果たした帰り道の話だった。


犬鳴山の義犬

2020-07-15 16:19:10 | 私の動物記

犬鳴山の義犬

大阪泉佐野市にある犬鳴山は燈明ヶ岳(標高558m)周辺の低山の総称ですが、緑の森林や七つの滝など豊かな自然に恵まれ大阪ではよく知られた山の一つです。
 面白いのは犬鳴山の読み方で、「いぬなきさん」に行くといえば犬鳴川沿いの参道を七宝瀧寺へお詣りすることで、これはお寺の山号である「いぬなきさん」に由来しています。一方下流にある犬鳴温泉郷では「いぬなきやま」と呼んでいます。


 

参道を登っていくと「義犬の墓」と山名の由来を記した板があります。そのまま引用しますと…
『宇多天皇寛平二年三月十五日(一〇八〇年前)紀伊の国の猟夫 当山の行場である蛇腹附近に鹿を追ったとき、樹間に大蛇あり、猟夫を呑まんとす。猟夫その由を知らず。愛犬しきりに鳴いて猟を遮(さえ)ぎぬ。猟夫怒りて愛犬を切る。愛犬の首飛んで大蛇に噛みつき共に斃(たお)る。猟夫我が命を守りし義犬を弔わんが為に剃髪して、庵を結んで余生をおくりたりと。そのこと朝聞に達し、一条山改め犬鳴山の勅号を賜わった』


霊犬早太郎

2020-06-27 09:50:24 | 私の動物記

霊犬・早太郎

1994年の8月初旬、5度目の木曽駒登山からの帰りに、駒ヶ根の名刹・光前寺に詣でました。霊犬・早太郎の墓は人間並の立派なもので、ひょっとすると伝説に近い事実があったのかとさえ思わせます。

お堂の縁の下ではヒカリゴケが緑色の妖しい光を放っていました。このお寺の対応は実に鄭重で感服しました。



そのあと二度、光前寺を訪ねましたが、早太郎のお墓にはいつも新しい花が供えられていて、地元の方の信仰の深さが偲ばれました。少し長くなりますが、お寺の説明版をそのまま、お伝えします。

霊犬早太郎(ハヤタロウ)の伝説
 今よりおよそ七百年程前、光前寺に早太郎という強い山犬が飼われていました。
 その頃、遠州(静岡県)見付村では、田植えが荒らされないようにと、毎年祭りの日に白羽の矢を立てられた家の娘を、いけにえとして、神様にささげる人身御供という悲しい習わしがありました。


ある年、村を通りかかった旅の坊さまは、神様はそんな悪いことをするはずがない、その正体を見とどけようと、祭りの夜に様子をうかがっていると、大きな怪物が現れ、「信州の早太郎おるまいな、早太郎には知られるな」と言いながら、娘をさらっていってしまいました。
 坊さまは早太郎に助けを求めようとすぐ信州へ向かい、光前寺の早太郎をさがし出すと、早太郎を借りて急いで見付村へと帰りました。

次の祭りの日には、早太郎が娘の身代わりとなって怪物と戦い、それまで村人を苦しめていた怪物(老ヒヒ)を退治しました。
 早太郎は傷つきながらも光前寺までたどりつくと、和尚さんに怪物退治を知らせるかのように、一声高くほえて息をひきとってしまいました。

現在光明寺の本堂の横に、早太郎のお墓がまつられています。
 また早太郎を借り受けた旅の坊さまは、早太郎の供養にと「大般若経」を光前寺に奉納致しました。この経本は現在でも、光前寺の寺宝として大切に残されております。

(写真は「仁王門下のワラ犬」が最初に参詣したときのもの、あとはすべて2010年の撮影です)

 

 


高野山の案内犬

2020-06-06 09:20:47 | 私の動物記

高野山の案内犬

「ゴン」は昭和60年代に高野山石道の始点・慈尊院にいたガイド犬です。

最初は慈尊院と九度山駅の間の丹生橋近くを塒とする野良犬でした。お寺から聞こえる鐘の音が好きで、この名前で呼ばれるうちに、参詣人を駅からお寺まで案内するようになりました。

 やがてお寺に住み着いて、平成元(1989)年からは朝、お寺を発って高野山上の大門まで案内し、夜は慈尊院に帰ってくるようになりました。

 最初の町石

この町石道は片道約20キロ強もある道程です。かなり、体力も消耗した様子で平成4年にはガイドを引退しました。

10年後の平成14(2002)年に老衰のため亡くなりましたが、この年夏「高野山案内犬ゴンの碑」が建立されました。そもそも高野山は、開山にあたり弘法大師・空海が道を求めていたところ、出会った猟師の連れていた犬が山上に導いたという伝説があります。この猟師は狩場明神の化身であったといわれています。そのため「ゴン」はお大師さんの横に座っています。


この犬は「二代目ゴン」とも呼ばれた、ゴンの老後を共にしたカイという雄犬ですが、ガイドはしていませんでした(2005年11月撮影)。今は彼もゴンの後を追うように、浄土へ旅立ったと聞きました。