庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

優しいタザディー

2005-04-19 20:00:03 | 大空
私が人生の多くを捧げた航空の未来は、航空機の完成よりも、世紀に渡って変化してきた生物環境を守ることに拠っているということ、そして、それは全ての科学技術の発展についても言えることであるということが分かった。
≠b.リンドバーグ 「優しいタザディー:序文」7 Apr 1974

タザディーとはフィリピン・ミンダナオ島の原住民のことで、リンドバーグは彼らの中に入り交流を続けた。1974年4月といえば、彼がハワイのマウイ島で静かに亡くなるわずか数ヶ月前のことだ。


リンドバーグの墓(aloha-hawaii.com)

I realized that the future of aviation, to which I had devoted so much of my life, depended less on the perfection of aircraft than on preserving the epoch-evolved environment of life, and that this was true of all technological progress.
The Gentle Tasaday (foreword, 7 Apr 1974)

リンドバーグ

2005-03-16 20:02:07 | 大空
「しかし、私が崇拝した科学や愛した航空機が、文明を守るのではなく破壊しているのだということが分かった。」

「未開の大自然の中で私は生命の奇跡を感じ、その背後で我々の科学技術が取るに足りないものとして色あせて行くのを感じる。」

「人間は自分自身を知りその価値を認識するために大地を感じ取らなければならない。神は生命を単純なものとして創造した。それを複雑にしているのは人間である。」

<`ャールズ・A・リンドバーグ(1902-1974)



But I have seen the science I worshipped and the aircraft I loved destroying the civilization I expected them to serve.

In wilderness I sense the miracle of life, and behind it our scientific accomplishments fade to trivia.

Man must feel the earth to know himself and recognize his values... God made life simple. It is man who complicates it.
Charles Lindbergh

アモン・ヘネシー

2005-03-10 20:04:00 | 大空
「勇気と智慧なき愛は感傷である、普通の教会の人々のように。
愛と智慧なき勇気は軽率である、普通の兵士のように。
愛と勇気を欠いた智慧は臆病である、普通の知識人のように。
したがって、100万人に一人の愛と勇気と智慧を持った人間が世界を動かすのだ、
キリストや釈尊やガンジーのように。」(1949年の感謝祭の日に)

<Aモン・ヘネシー(July 24, 1893 - January 14, 1970:アメリカ、オハイオ州生まれ。平和主義者、社会活動家、キリスト教的アナキスト、カトリック・ワーカー・ムーブメントのメンバー。第一次、第二次世界大戦に反対して納税を拒否し、投獄される。1951年8月には広島に原爆を落とし更に原爆を作り続ける国民の一人であったことへの懺悔のために6日間断食。)

LOVE without COURAGE and WISDOM is sentimentality,
as with the ordinary church member.
COURAGE without LOVE and WISDOM is foolhardiness,
as with the ordinary soldier.
WISDOM without LOVE and COURAGE is cowardice,
as with the ordinary intellectual.
Therefore one with LOVE, COURAGE, and WISDOM
is one in a million who moves the world,
as with JESUS, BUDDHA, and GANDHI.



原文の大文字表記をボールドにしてみた。"one in a million"は「滅多にいない」と訳す方が適当かもしれない。どんな人の中にもある勇気や智慧や愛をバランスよく備えるのは至難であることなども彼は知悉していただろう。 アモンは独居房で唯一読書を許されたバイブルで新しい人生を開くことになるのだが、次のような一言も印象深い。

「ああ、裁判長。あなた方の法律が、善人にとっては必要ないものであり悪人は従わないものであるなら、そのどこに良いことがありましょうや? 」

"Oh, judge, your damn laws: the good people don't need them
and the bad people don't follow them so what good are they?"

ウィルバー・ライトの平和

2005-03-09 20:05:50 | 大空
「他の何にも増して、その(飛行の)感覚は、全ての神経の緊張が極限にまで達したような興奮状態と混ざり合った、いわば完全に平和な心理状態の一つである。」
<Eィルバー・ライト

More than anything else the sensation is one of perfect peace mingled with an excitement that strains every nerve to the utmost, if you can conceive of such a combination.

彼が多くの飛行の中の“どの”飛行で“完全に平和な心理状態の一つ”を得たのかは明らかではないが、ごく初期の極めて短い期間であったろうと思う。空を飛ぶことは基本的に幸せなことだが、いつも“緊張の極限”や”平和な心理状態”を経験する訳ではない。

飛行機材と人間と飛行環境・・この3要素”が“完全に”調和することはめったにないことで、私の場合、自己の全てが大気に溶け込んだような全く自由で平和な感覚を持ったことは数えるほどしかない。

1903年の初飛行から僅か9年後の1912年の冬、彼は結婚することもなく45歳の短い生涯を終える。弟のオービルはその後特許争訟で忙しくなったり、陸軍との契約でこの人類の永年の夢を戦争の具の一つにしてしまう。もちろん航空機を戦争の“愚”に変えたのは彼だけではないが・・・。

1908年、2時間20分の滞空で125kmの記録的飛行を行った頃が彼にとって最も幸せな時期であったのかもしれない。その後の航空機の発達は、本来実に多様な選択肢の中から、ちょっと無理のある歪んだ道を選択することになるからだ。


宇宙から地球を見たら

2005-02-23 20:06:43 | 大空
既に宇宙から地球を眺めた者たち、或いは今後眺めるであろう何百何千という人たちにとって、その体験は間違いなく彼らの“ものの見方”を変えるだろう。我々が同じ世界で分かち合っているものは、我々を分断しているものよりもはるかに価値があることなのだ。
<hナルド・ウィリアムズ
(アメリカの宇宙飛行士。1942年インディアナ生まれ、空軍パイロットとして6000時間以上の飛行記録を持つ。1978年宇宙飛行士となり2回の宇宙飛行で288時間を過ごす。1990年引退)

For those who have seen the Earth from space, and for the hundreds and perhaps thousands more who will, the experience most certainly changes your perspective. The things that we share in our world are far more valuable than those which divide us.
- Donald Williams, USA

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太陽はほんとうに“稲妻のような速さで昇り”、瞬(またた)く間に沈んだ。日出も日没もほんの数秒間の出来事だ。しかしその間、光り輝く赤色から非常に明るい藍青色まで、少なくとも8種類の色彩の帯を見ることができる。そして、宇宙では一日に16回の日出と日没を見ることになるが、どれ一つとして同じものはない。
<Wョセフ・アレン
(アメリカの宇宙飛行士。1937年インディアナ生まれ。1967年までワシントンで物理学の教鞭をとっていた。2つのミッションで314時間の宇宙滞在、2回の宇宙遊泳。1984年にはSTS≠T(スペースシャトル)に搭載した人工衛星を宇宙遊泳しながら軌道に乗せた。)

The sun truly "comes up like thunder," and it sets just as fast. Each sunrise and sunset lasts only a few seconds. But in that time you see at least eight different bands of color come and go, from a brilliant red to the brightest and deepest blue. And you see sixteen sunrises and sixteen sunsets every day you're in space. No sunrise or sunset is ever the same.
- Joseph Allen, USA

アメリア・イヤハート

2005-02-16 13:33:25 | 大空
この魅力的な女性パイロットの最後の消息については、あんまり興味深いのでついはまり込みそうになる。しかし、24歳で飛び始めて39歳で行方不明というのは、やはりあまりに生き急いだ人生ではなかったのか、飛ぶことそのものの喜びをちょっと横に置いて商業主義と付き合っているうちに無理を重ねることになったのではないか・・・などと想いながら、彼女の歯切れの良い文章を少し読んでみる。

勇気は生命が平安を得るのに必要な代価である。
勇気を知らない魂は、些細なものごとからの解放も、恐浮フ青ざめた孤独も
また、厳しき喜びをもって、翼を切る風音を聞く事のできる山の高みも、知ることはない。
<Aメリア・イアハート

Courage is the price that Life exacts for granting peace.
The soul that knows it not Knows no release from little things:
Knows not the livid loneliness of fear,
Nor mountain heights where bitter joy can hear
The sound of wings.

他人ができることやするであろうことはしてはいけない。もし他人ができないことやしようとしないことがあったならば。

Never do things others can do and will do if there are things others cannot do or will not do.

あなたができないだろうと言われたことをやっている誰かを決して邪魔してはいけない。

Never interrupt someone doing what you said couldn't be done.

何かを行う最も効果的な方法は、それを「行う」ということである。

The most effective way to do it, is to do it.

鳥をまねる

2005-01-26 20:10:10 | 大空
海岸道路を走っているとカモメをよく見かける。海鳥としてはたぶん最も数が多くて世界中どこにでもいるような平凡な鳥だが、私は全体的なフォルムがスッキリ整ったとても美しい鳥だと思う。

近くで見ると大きいのはスパン(翼長)が1.5m近くあって結構迫力がある。サーマル(熱上昇風)を利用しているのはあんまり見たことはないが、海風の強い時は、海岸道路に沿った防波堤のリッジで発生する斜面上昇風に乗ってソアリングを楽しんでいる。『カモメのジョナサン』を書いたリチャード・バックも、あの優しい眼差しで飽くことなく彼らの飛行を観察したのだろう。

人類の飛行の歴史はほとんど例外なく、鳥類への憧憬から観察に至り、その飛行態様を真似るところから始まっている。

近いところでは、ライト兄弟に大きな影響を与えた19世紀末ドイツのリリエンタールはコウノトリを観察しながら何種類かの体重移動型グライダー(現在のハンググライダーに近い)を作り、5年間で2000回以上も滑空飛行を繰り返している。

残念なことに、2500回目辺りで突風にあおられ墜落し翌日50歳に満たない年齢で亡くなるのだが、「犠牲は払われねばならない」"Opfer mussen gebracht werden!" ("Sacrifices must be made!")
というのが有名な最後の言葉だ。彼も間違いなくこの世界の偉大な冒険家でありパイオニアだった。



もっとも、イギリスのジョージ・ケーリーはリリエンタールより半世紀近く前に人間を載せたグライダーで130mの滑空飛行に成功している(彼の御者だった10歳の少年を説得して飛ばせた^^;)。この人はエアロフォイル翼や飛行の基本要素(推力・抗力・揚力・重力)など航空の分野で語られることが多いが、実に博学多彩な人で、電気や光学の研究の他、例えば自転車のスメ[ク車輪や重機のキャタピラなどを発明したのも彼だ。政治家でもあった。生涯を通じて自然を鋭く観察しそれを丁寧に記録していたというのも心引かれる。

↓ケーリーのグライダー(当時の業界紙:「調節できるパラシュート」という見出しが面白い)


更にイギリスには興味深い人がいて、11世紀の中世に修道院の屋根から飛んだ人がいる。マルズベリーのエルマーと呼ばれる僧侶だが、「彼はイカロスとその息子ダエダロスが両腕に翼をくっつけて飛行することで監獄から脱出した・・というギリシャ神話を真に受けて、同様に両腕に翼を付け塔の先端に吹き上げてくる風に乗ってジャンプした。その結果200mも飛んだが渦巻く気流に落とされて両足を骨折した」と僧侶仲間のウィリアムという人が記録に残している。

正確な離陸高度が分からず、高さが50mを越える修道院も幾つもあるから、単純にその滑空性能を比較することはできないが、飛行距離200mというとケーリーはもちろん、リリエンタールの記録も超えているわけだから、後にビッコの神父として町の有名人になるエルマーさんが、一時(いっとき)空中で味わった感動と恐浮ヘ想像に余りがある。

UFO

2005-01-24 20:11:54 | 大空
昨日の毎日主要ニュースに、夕暮れ時に紅く染まった飛行機雲を「謎の飛行物体」と見た人たちから多くの問い合わせが気象台にあった・・・とあった。

秋からこの季節にかけては空気が乾燥しているので、水蒸気や水滴の乱反射が少なく遠くのものがクッキリ見える。西の空高度10000m辺りに輝く鮮やかなオレンジの光彩は私も何度も目にしていて、目を凝らして良く見るとその先端にジェット機の小さな機影を確認できるものだが、それはともかく美しい。

「謎の飛行物体」といえば、私の知人にちょっと変わったUFO研究家がいる。(およそこの種の方たちは延べて変わっているのだが)彼は愛媛の西条市という田舎町で味のある木工剣iを作りながら生活している。ところが、或る夜突然、裏山に現れたUFOを目撃して以来不思議な能力が芽生えて宇宙人の声を聞くようになりUFO研究家に転身したという面白い人だ。

この数年はテレビのとんでも番組などにも時々登場して珍妙な話をしているTさんだが、10年ほど前に、「こんな写真を預かったので、航空の視点からちょっと分析して欲しい」といって↓のような写真を渡された。彼の知人が35年ほど前の修学旅行で琵琶湖大橋を渡っていた時にバスの窓から撮ったものらしい。スキャナでPCに取り込んで色々やってみたが、詰まるところ私にはよく分からない。



着陸前の航空機のようにも見えるがこんな所に空港はないし、普通のジェット旅客機がこの角度で着陸進入すると間違いなく地上に激突する。拡大してみると上部から三角形のアンテナのようなものが出ていて、そもそも通常の航空機の体を成していない。

私はこの広大な宇宙のことだから、地球以外にも高度な知性や技術を持った生き物がいて、彼らが何かの縁と興味でこの地球に接近して来ることがあったとしても、なんも不思議だとは思わないが、この15年ほど空を飛んでいて、大空で起きる現象にはかなり注意していても、未だそういう類のものを目にしたことがない。

この画像を見て何か思い当たる節のある方はメッセージを頂けるとありがたいと思う。大空の向こうに側に、もうちょっと夢が広がるかもしれない。

権力は腐敗する

2005-01-20 20:13:00 | 大空
「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する。」・・・遠い昔、このフレーズを初めて目にした時、なんて見事な表現だろう!と感動したのを覚えている。

子供たちとは英語で、妻とはドイツ語で、義理の姉とはフランス語で、義理の母とはイタリア語で話していたというアクトン。その肖像を見てみると、若い頃からの見事なあごひげは変わらないが、年を重ねるにつれてその眼光が鋭くなる。どこかトルストイの晩年の面影と重なる、と感じるのはあごひげのためだけだろうか。


ロード(卿)・アクトン (1834-1902)

アメリカも含め西欧の歴史については驚異的な博識者であり、19世紀も後半に活躍したイギリス人だから、遠くはギリシャ古代から近代市民革命、更に産業革命や帝国主義への突入に至るまで、真の「自由」に向けての人類の絶える事のない道程については、その美醜、明暗、裏表など、窮めて深いところまで知悉(ちしつ)していたに違いない。

「少数者に抑圧されるのは良くないことだ。しかし多数者に抑圧されるのはもっと良くないことだ。」
(It is bad to be oppressed by a minority, but it is worse to be oppressed by a majority.)

「その日の終わりに最高に満足した一日を見てみよ。それは君が何もせずにぶらぶら過ごした一日ではなく、成すべきことが山ほどあり、それをやり遂げた一日である。」
(Look at a day when you are supremely satisfied at the end. It's not a day when you lounge around doing nothing; it's when you've had everything to do, and you've done it.)

瀬戸内海120kmフライトレメ[ト

2005-01-11 09:03:00 | 大空
瀬戸内海120kmフライトレメ[ト
(愛媛県・長浜町~山口県・宇部市)
 1999年8月12日~13日

ルートマップ


生まれ育った海の上が飛びたくて10年ほど前にPPGを始めた。大概は程よい海風でテイクオフして、グライダーの滑空比で陸地まで帰ってこれる範囲の空域をフライトするものだが、それでも上空から見下ろした海の様子は海岸から見るものと全く違っていて、海面の乱反射を受けにくいため、魚の群れが観察できたり、数十メートルの海底まで見通せることもある。オープンコックピットのPPGで空と海のブルーの間をずっと飛んでいると、体ごと青い世界に溶け込んでいくような気がしてちょっと不思議な気分になるのだ。

2年前の春、動力飛行と滑空飛行を組み合わせて瀬戸内海を横断したことがある。香川県坂出市から最短距離の岡山県王子ヶ岳付近まで10km余り、海上サメ[トなしで全くの単独飛行だったが、季節的にも良いコンディションに恵まれて、非常に快適なフライトを経験した。それから徐々に「動力飛行を主体とするPPGでどれくらいの海上飛行が可能なのだろう。いつか限界に挑戦してみたい。」という気持ちが私の中で強くなっていた。

そんな折、ほんの1年前にPPGと出合ってその魅力に取りつかれ、それまでの仕事やらなにやらをさっぱり捨てて大空の夢に人生を賭けることにした・・・というちょっと変わった男に出合った。私はその生き方に共感を覚えた。今年の春、彼の小野田でのPPGスクールのオープニングイベントに参加した時、「そのうちエリア前の海からひょっこり現れてちょっと笑わせたいな。」と思いついたのが今回のフライトプランの始まりだった。

「肱川あらし」で有名な伊予灘に面した愛媛県・長浜町から直線距離で約130km。 瀬戸内海の多島美を楽しみながら、島々を跳び石伝いに飛んで行ければ一番楽で安心なのだが、最も近い八島まで35km、西に向かって伊予灘から周防灘に入るともう島影はない。

  まず燃料をどうやって増やすか、伴走艇をどうするか、季節はいつが良いか、風をどう読むか・・・。 エンジントラブルが許されない海上を100km以上飛ぶとなると、どうしても解決しなければならない課題がいくつかあった。

ともかくまず徹底的に飛行計画を検討することにした。基準として無風時・燃費10分~15分/リットルで計算を始め、風向・風速のデータから所用燃料と時間が計算できるPCソフト等も使いながら何種類ものバリエーションでフライトプランを作った。簡単に要点をまとめると次のようになる。
直線飛行距離130km  搭載燃料 35リットル
燃費
フライト可能時間(分)
15分/リットル
525分8時間45分
10分/リットル
350分5時間50分
対地速度  
予想所要時間
  50km/時間
2時間40分
  45km/時間
3時間00分
40km/時間
3時間20分
(平均対気速度)35km/時間
3時間40分
30km/時間
4時間20分
25km/時間
5時間10分
20km/時間
6時間30分

・35リットルの燃料を積むことが出来れば、燃費が最悪の場合でも5時間50分は飛べるはずなので、対地25km以上で130kmの飛行が可能になる。

・フライト高度は、最も効率的に飛べる位置を選択するが、緊急時に離脱する上での安全マージンを充分取るために最低300m(エンジン停止時に着水まで約3分)を基準にする。

・対地速度が20kmを切る状態が1時間以上続いた場合は、フライトを中止して伴走艇に降りるか、着水するか、近くの陸地に緊急ランディングする。

・その場合、姫島ウエイャCント(75km地点)を越えていれば伴走艇で目的地まで行く。その手前なら伴走クルーと相談して引き返すかどうか決める。

・今回のフライトは常に伴走クルーとの共同作業になる。ダウンウインド(追い風)はスピードが出て良いが、私が早すぎると伴走艇が付いてこれない。そういう時は、上空で旋回しながら追いついてくれるのを待つ。(実際、何度かそうなった。)

・飛行中に風向き、エンジンの調子、燃料消費量等を見ながら臨機応変に対処する。

・考えられる限りの準備をした後は、心配してもしょうがない事は心配しない。

・ともかく「楽しみながら海を渡る」を基本姿勢にして、決して無理をしない。
                    エンジンユニットの最終チェック 8月13日 朝


増量タンクは今回の飛行に合わせてアンダーシートタイプで20リットルを2個、燃料供給の確認の為に中間タンク5リットルをフレームのサイドに1個、メインタンク5リットルと合わせて50リットル積めるようにして、実際にライズアップからテイクオフにかけての動作が可能かどうか確認した。

燃料供給はミクスチャの不具合が心配なので、まずアンダーシートの20リットルタンクから手動ャ塔vで中間確認タンクに移動して次にメインタンクに落とし込む、という2段階方式にした。

30リットル増量でも装備と合わせて40kg近い重量増加になるのでかなり大変だったがタンクフレームに工夫を加えることとアメリカの友人達からヒントをもらったヒップサメ[トを使うことで、問題なくテイクオフできるようになった。(当日は全部で37リットル搭載した。)

伴走艇とサメ[トクルーはクラブの仲間達が引き受けてくれたが、皆の休日を調整してみると実行日はどうしても空気の薄い真夏のお盆休みの数日間ということになった。

「まあ、台風さえ来なければ気圧配置的には安定した夏の青空が広がるだろう。上空の風の本流も読みやすいに違いない。昼前から吹いてくる海風に合わせてテイクオフし、最も適当な風の層を選んで飛んで、向こうに近づいたら高度を下げてまた海風を利用してスピードを稼ごう。」
およそこのようなことを楽天的に考えながら準備を進めるにつれ、様々な不安要素と共に新しいアイデアが次々に湧いて出てきた。それらを一つ一つ検証しながらプランを練り上げていく作業は本当に楽しかった。
「クロスカントリーフライトの楽しさの90%はフライトプランにある・・というのはまったく本当だ。後のことは付録みたいなものかもしれない。」
 カメラクルー取材中
ところが今年の夏は太平洋高気圧が例年のように張り出すことが無く、四国近辺は梅雨が明けても次々台風がやってきて、予定の8月に入っても荒れた天気が続いていた。

8月12日

「今年は無理かもしれないな・・・」と思いながら迎えた8月12日の朝、テイクオフ場の長浜港多目的広場には、この挑戦フライトの話しを聞いた地元の方達が花束を持って前祝いに来てくれていた。
子供さん達のタンデムフライトがきっかけで取材を受けることになったテレビ局のスタッフもなんだか気合がはいっている。

四国地方はごく弱い熱帯低気圧が停滞しているものの、天気は晴れ、本流は弱い東風、小野田の風情報は西風2m、時間と共に穏やかな海風も吹いてきて、総合的なコンディションは徐々にフライトプランの許容範囲に入ってきた。

ギリギリまで良いコンディションを待って午後2時前、テイクオフ。上昇率0.2m/秒とちょっと頼りないが、エンジン音快調。500mまで上がって海上の逆転層を超えると、東風の本流に当たって対
      長浜港 上昇旋回中
地速度は40kmを超えた。伴走艇がついてこれるぎりのスピード。「この調子なら3時間ちょっとで行けるかもしれない・・」と甘いことを考えながら、燃料供給用のャ塔vを押してみると「あらら・・・」 圧力が無い・・・。
                出発地点から40kmほどの地点だったが迷わず八島まで引き返して長い砂浜に緊急ランディング。

原因は確認用中間タンクにあいた直径5cmほどの穴だった。排気口から充分距離を置いて取り付けたはずのタンクに排気熱がローターになって当たり、長時間の加熱でプラスチック容器を溶かしてしまったのだ。

「何たる情けないミス!」 しかし、この日のフライトでマイナス要素の一つが解消したので、「この天気さえ続けば必ず成功する」という確信が更に強くなった。
伴走クルーも「これなら明日は絶対行けるね。」と、元気いっぱいだ。「そうだ、失敗は目標を達成するまで諦めなければ、かえって貴重な過程になるのだ。」

8月13日
昨日と似たような空模様だが、低気圧が多少発達しているのだろう、昼になっても海風が安定
(初日 矢島上空750m

せずテイクオフ場には弱い東寄りの風が入っていた。相変わらず蒸し暑いが風的には悪いコンディションではない。

ところが、エンジン周りの確認を済ませプラグの増し締めをしようとした途端、ヘッドのねじ山がとんでしまった。非日常的な状況では日常めったに無いことが起きるものだ。急遽別のエンジンからシリンダーヘッドを取って付け替えたが、今度はミクスチャがリッチ気味で回転数が充分に上がらない。かなりリーン絞り込んでやっといつもの回転数に戻した。

今日はなんだかおかしな事が続けて起こる。しかし「これでまたマイナス要素が減ったのだから、プラス要素の割合が増えたに違いない」と考えた。要するにどうしようもない楽天家らしい。

「さて、今日で最後だ。ともかく悔のない飛びをしよう。」  
12時39分、テイクオフ。瀬戸内には薄いガスがかかっていて視程10km以下。上昇率は昨日より悪い。エンジンが100%の力を出していない
                       (伴走艇とペースを合わせて・高度400m)



それでもゆっくりゆっくり上昇し、やっと高度300mに達した頃、突然エンジンが息をつき始めた。

明らかに「かぶり」気味の兆候だ。(ハイニードル、もうちょっと絞り込んでおけば良かった・・・オーバーヒートを恐れて躊躇したのだ・・・と後悔してももう遅い。)クルージングの6000回転を維持できない。高度は徐々に下がっていく。昨日と違って近くに島影は無い。
 

これまで経験したことの無い真剣さで微妙なスロットル操作に集中しながら、回転数が持ちなおしてくれるように祈るしかなかった。

必死の思いの何分間か・・高度は下がり続けたが、ありがたいことに海面まで200mというところで、また徐々に回転が上がり始め最初の危機を脱することができた。

やがて昨日降りたひょうたん島みたいな矢島が近づいてきた。その向こうの岩礁だらけの祝島も見えてきた。取材ヘリが今日もやってきた。海の上を一人で何時間も飛んでいると、こんな巨大な航空機が昔からの友人みたいに思えるから妙だ。こちらからもビデオ撮影しながら、何度も手を振った。ヘリは私の前後左右を見守るように30分ほど飛んで、帰って行った。

今回のフライトでは主にGPS航法を使った。前もって入力してある通過地点に近づくと、メッセージが表示され次の地点までの距離と方位を示してくれる。

注意深くエンジンの機嫌を取りながら45km地点の祝島沖を過ぎた。高度450m、上空からは細波にしか見えない海面もかなり波立っているのだろう、伴走艇がホッピングしながら白い航跡を引いている。

辺りは薄いもやに覆われていて遠くの島や陸地を確認するのは困難だが、回りを取り囲んでいる薄青い空間と光が自分をしっかり守ってくれているような奇妙な感覚があった。

                     
                     快走する伴走艇・萩原さんとコックピットの二宮船長、秋山記者
幾分余裕が出来て喉が渇いたので、ハーネスのャPットに入れておいた飴をなめようと思ったが、しばらく前に1個目を口に入れたとたんエンジンの調子がおかしくなったのが気になって、縁起担ぎみたいでおかしかったが到着するまで我慢することにした。
 
75km地点の大分県姫島ウェイャCントが近づくにつれ、それまで東だった本流が徐々に西に変わり、対地速度が30kmを切るようになってきた。いよいよ今回一番困難を予想していた周防灘に入ったのだ。

残り50km。ここから先は海以外何も無い。「これからが大変だから、気を引き締めて行こう。」無線で伴走クルーに呼びかけた。予想通り西風は徐々に強くなっていった。 海面には薄いブローラインが何本も見え始めた。

あと30km。 はるか前方に淡く本山岬近辺の海岸線が浮かんできたが、速度はついに20kmを切り始めた。ほとんどアップウインド、15km程の向かい風が吹いていることになる。
伴走艇を停めて海上の風を測ってもらう。「2~3m/秒」。ここよりは幾分弱い。緊急の場合の為に高度は下げたくなかったが少しでも速度を稼げるように150mまで降りた。トリムもかなり解放してグライダーのピッチを下げた。

テイクオフしてから3時間以上が経過していた。「燃料は後2時間位は残っているはずだから、風がこれ以上あがらなければなんとか小野田まで届くかもしれない。」確認用の中間タンクを反射鏡で覗いてみた。

なんと・・・空になっていた。何度もャ塔vを押す・・・上がって来ない・・・ということは補助タンクの30リットルをすでに使い切ったということになる。予想した最悪の燃費のリットル当り10分を下回って8分しか飛んでない計算だ。残りはメインタンクだけ・・・どんなに上手に使っても1時間もたないだろう。

しばらく迷ったが、本山岬をまわって小野田まで行くプランを、最も近い宇部市を突っ切ってまっ
ランディングが近い
すぐ進むプランに切り替えた。進路を北北西に転じると完全なアップウインドになった。宇部セメントのエントツから白い煙がこちらに向かって真横にまっすぐ流れている。見事なオフショアの風、海面のブローラインは黒く波状になって次々押し寄せてくる。

大気は相当荒れている。高度を50mまで下げた。伴走艇のスタッフの心配そうな顔が見える。アクセルを目いっぱい踏み込んでも速度は10kmを超えなくなった。6m以上の風だ。燃料はどんどん減っていく。

ともかくランディング場所を探した。幸い正面の宇部漁港の横にかなりの広さの広場が確認できた。残りの燃料は2リットル。グライダーのピッチは最大限下がっている。波のような乱気流にグライダーはアップダウンを繰り返している。キャノピーを潰されないようにブレーク操作が忙しい。

後1リットル、まだ海の上。広場で風に波打つ木々がもうすぐそこに見えているのに、なかなか近づいてこない。伴走艇に着水の可能性を指示して、アクセルを踏みつづけるしかない。それでも少しづつ少しづつ陸地が近づいてきた。

そして・・・5時28分、やっとランディングした時、メインタンクには300ccの燃料しか残っていなかった。広場は漁港内に設けられた網干し場だった。

目的地の小野田まで10kmほど残したが、海上フライト 5時間弱、120km。ともかく幸運にも恵まれて私にとって全力を出し切った今回のチャレンジフライトは終了した。新しい発見が色々あってほんとに楽しかった。たった24フィートの伴走艇にとっても一つのチャレンジ航海だったのだ。。ほんとによく無事に航海を終えてくれた。
(オノダスカイスクール・格納庫前にて)
最後に、私の思いつきに忍耐強く最後まで付き合ってくれたLAAの二宮船長とサメ[トクルー、あいテレビの秋山記者、応援して下さった長浜町の皆さん、大歓迎してくれた「オノダスカイスクール」の西村さんはじめクラブの皆さん、私がボランティア参加している難民救援団体AAR・NGOの皆さんに感謝します。有り難うございました。                   1999年8月

朝日新聞 99/8/14
使用機材

(グライダー)
ハトル・シンフォニーXL
(パワーユニット)
DKウィスパーGT
(増量タンク)
アンダーシート型40リットルタンク(手動ャ塔v加圧式)+確認用中間タンク5リットルタンク

その他の装備

アルチバリオメータ・GPS・無線機・ヒップサメ[トシステム・セイフティメ[チ(自動膨張式)・シーナイフ・撮影機材 ほか