庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

侏儒の時間

2006-06-26 11:20:14 | 拾い読み
以前、タゴールの、「蝶たちは、(その生涯を)月で数えるのではなく瞬間で数えるのだから、充分な時間を持っている」という詩的直感に触れたことがある。それは私に、本川達夫の『ゾウの時間・ネズミの時間』を連想させるに充分だった。

時間の動き方の相違は、即ち世界の動き方の相違にちがいなく、世界そのものの相違につながるだろう。日常、正確に時を刻む壁時計のように、一様の客観的時間で支配されているように見える世界が、実は少なくとも生物種の数だけ重層的で多様なリズムを奏でているだろうことに想いを致すと、この世界の奥行きと深さが劇的に拡大したような気がしたものだ。

ところが、こないだ、寺田寅彦が昭和8年に書いた『空想日録』を読んでいたら、その中で、およそ本川達夫の理論と趣獅ッじくする一章が出てきて少なからず驚いた。やはり寺田は並みの科学者ではなかった。その章題も「身長と寿命」。以下に主な部分を引用する。

「時間の長さの相対的なものであることは古典的力学でも明白なことである。それを測る単位としていろいろのものがあるうちで、物理学で選ばれた単位が「秒」である。これは結局われわれの身近に起こるいろいろな現象の観測をする場合に最も「手ごろな」単位として選ばれたものであることは疑いもない事実である。いかなるものを「手ごろ」と感ずるかは畢竟(ひっきょう)人間本位の判断であって、人間が判断しやすい程度の時間間隔だというだけのことである。この判断はやはり比較によるほかはないので、何かしら自分に最も手近な時間の見本あるいは尺度が自然に採用されるようになるであろう。・・・


・・・そこで、今かりにここに侏儒(しゅじゅ:小人)の国があって、その国の人間の身体の週期がわれわれの週期の十分の一であったとする。するとこれらの侏儒のダンスはわれわれの目には実に目まぐるしいほどテンモェ早くて、どんなステップを踏んでいるか判断ができないくらいであろう。しかしそれだけの速い運動を支配し調節するためにはそれ相当に速く働く神経をもっていなければならない。その速い神経で感ずる時間感はわれわれの感じるとはかなりちがったものであろう。それで、事によるとこれらの一寸法師はわれわれの一秒をあたかもわれらの十秒ほどに感ずるかもしれず、そうだとすれば彼らはわれわれのいわゆる十年生きても実際百年生きたと同じように感じるかもしれない。
 朝生まれて晩に死ぬる小さな羽虫があって、それの最も自然な羽ばたきが一秒に千回であるとする。するとこの虫にとってはわれわれの一日は彼らの千日に当たるのかもしれない。
 森の茂みをくぐり飛ぶ小鳥が決して木の葉一枚にも触れない。あの敏捷(びんしょう)さがわれわれの驚嘆の的になるが、彼はまさに前記の侏儒国の住民であるのかもしれない。
 象が何百年生きても彼らの「秒」が長いのであったら、必ずしも長寿とは言われないかもしれない。
「秒」の長さは必ずしも身長だけでは計られないであろう。うさぎと亀(かめ)とでは身長は亀のほうが小さくても「秒」の長さは亀のほうが長いであろう。すると、どちらが長寿だか、これもわからない。・・・」


ひょっとすると、生物学者の本川も、この明治生まれの物理学者の優しい「空想」に触れて、その発想の種を育てたのかもしれない。