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日本文学100年の名作「ベトナム姐ちゃん」

2018-11-14 | 読書

島根県、三瓶山山麓で。2016年11月。


1964年から1973年の間の短編、12編を収める。

今から半世紀前、戦後20年たったころである。私で言えば高校から大学生、そして結婚するまでと、人生の節目のいくつかが見事にこの10年間に詰まっていることに改めて気が付いた。

作家の作品集などで読んだのもあるけど、発表当時、リアルタイムで読んだのは一編もない。忙しかったのもあるけれど、その頃は文芸雑誌を読むこともなかったので。

毎月の雑誌、追いかけて読むのはよほど熱心な読者。それよりやりたいことたくさん、と言い訳してみる。

一読した感想は、読む前の予想に反して戦争の影が色濃く作品に反映されていること。当然かもしれない。戦争の記憶はまだ生々しく、戦争に駆り出された人が壮年になり、自分の体験を小説として昇華するのに必要な時間だったのだろう。

私が若いころは戦争からもう遠く隔たった平和と繁栄の時代と思っていたけれど、この作品集を読んで、まだまだ戦争に近い時代だったという発見があった。

作品の良しあしは甲乙つけがたいですが、好きなのは木山捷平の「軽石」、古山高麗雄の「蟻の自由」でしょうか。

そう突飛な作品はなく、まだまだ日本人が共通の価値観を持っていた時代、という印象です。大江健三郎の作品も当時は斬新だったはずですが、今読むと、正統的、王道を外してないように思えます。

川端康成の美意識には、私のこの歳ではもうついて行けない。というか、川端の美女好き、その他の感覚は私には理解できないところもあります。以前、「古都」を読んで、呉服問屋の主人がいきなり帯職人を殴る場面にびっくりしたのです。

「くだんのはは」小松左京は、内田百閒の「件」の本歌取りをした作品ですが、元歌の方が私には面白かった。

司馬遼太郎「倉敷の若旦那」は幕末混沌の時代の、血気盛んな若者の革命未遂譚。これは数年後の時代を先取りした作品かもしれません。最後は悲劇的結末に終わる。滑稽で救いようがないけど、本人はいたって真剣という70年前後の数々の事件を思い出した。

うーーーむ、これより遡るのは今の時代の感覚では読みづらいかも。古典があり、大家の作品があっても、今の時代の小説が書かれなければならない理由がそこにはあります。小説を読んで元気をもらいたい、物事の筋道を解き明かしてほしいという人はいつの時代にもいるのですから。

最近の作品も全然読まない私ですが、誰か、これはというのを教えてくれないかなあ。一つ一つ付き合うには、もうばあちゃんには時間がない。


最後に余談。昨夜の話。

私が家空けてヨーロッパへ行くのと、機織り機、家に入れるのとどっちがいいって夫に聞いたらヨーロッパがいいそうです~♪

ヨーロッパは10日間だけど、織り機はずっと邪魔になるそうで

で、織り機がよそに行く、もううちには来ないことはまだ言ってません。言いそびれています。

夫が「やはりいないと大変だから海外旅行は困る」と言えば、「2015年1月からの病院への付き添い、その後の三度の骨折以来いろいろお世話した自分へのご褒美。だめと言うなら今後の対応は考えざるを得ない」って言おうかな。まるで脅迫笑。

織り機を家に入れないことから始まった、姑様の介護から解放されるこのわらしべ長者的三段論法、実行するかどうかは別にして、自分で笑ってしまった。

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