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「老いの生き方」 鶴見俊輔

2018-11-17 | 読書

数年前に読んだ本。

再読。

数年前よりまた一段と老境に差し掛かり、以前はなるほどといちいちうなずいた部分も当たり前すぎてさらりと読めた。

また以前は分からなかったところが実感できるところもあり、同じ本は二度と読むことのほとんどない私だけど、たまにはいいかなと思った。

付箋いっぱいつけているのは前にいいなと思ったところ。今はどこがいいのか分からなくなっているのもあり、それだけ私が変わったと言うことだろう。

普段からほとんど泣くことのない私だけど、唯一涙が出たのは、高森和子「へそものがたり」の中の「幸せな男」。

ある老齢の男性、著者の読者であり交流が続いていた人をしばらくぶりに病院に見舞うと、奥さんの急死の後、息子が交通事故に遭い、後遺症で痴呆が出ていたと言う。

大学で教えていたその息子は家庭を持ち、かわいい女の子までいたけれど、恢復の見込みがないので、お嫁さんは孫を連れて離縁、再婚したと言う。

男性一人で面倒見ていたけれど、失禁し、訳の分からないものを紙に書くだけでとても手がかかり、とうとう入院させようとした朝、部屋中に漂う便の匂いで目が醒めたら、息子は「かあちゃん」と字を書いてこと切れていた。。。。

成人した子供の下の世話である。他人なら逃げ出すところを、男性は「…早ようオシメを替えてやろうと思うて、抱き起そうとしたら…」もう死んでいた。その言い方に、私は限りない愛情を感じて涙するのである。

翻って、わが姑様の下のお世話、ほとんど夫がするけれど、夫不在でどうしても私がしないといけない場面では、大でありませんように、内側の尿取りパッドだけで収まっていますようにと念じている。もう、早く済ませたいと。

これが肉親と嫁との違い。

肉親の愛って見返りを期待しない。無償の愛。我が夫もオシメ替えには全然愚痴言わないし、昨日みたいに姑様が元気なころの性格が戻ると喜んでいる。

話戻って男性は、妻も息子も見送り安心して死ねる。私は幸せな男、と言っている。そうかもしれない。辛いことを乗り越えた後の安心の境地。まだまだこの世に心を残す人にははたどり着けない心境だと思う。

老齢の迎え方は人それぞれ。

室生犀星の妻ウメ子、歩けなくなってからも座布団に座ってそれを引いてもらい、夫の来客にも対応。その人がまた神様みたいな人。

「あとさき」からの引用。

何でも許し何にでも信を置いている倖せな人には、ほとんど私は感謝され通しであり…引用終わりという信じられないくらいの人柄。

末尾の8行もよかった。夫婦はバラバラに死んでいく。生き残った者はしばらくすると、ぼんやりとあの人はどこへ行ったのだろうと。そこまでは私も想像できる。

が、この一節、美しいものがほろんだ後に、もっと美しいものが見えてくるのを期待する。というのはまだ未知の領域。連れ合いとまだわかれてないので。

でもそう思えるのなら、歳とるのも、夫に先立たれるのも、静かに受け入れたいと願う。

森於菟の耄碌寸前もよかった。・・・ここまで書いたら孫が来た。残りはまた後程。

 

コメント (2)
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