先週文化放送の大竹まことのゴールデンラジオのゲストで精神科医の泉谷閑示さんだった。
話を聞いていて
とても印象的なのが、現代人はすべてが意義というものを基本にして生きている、意義あることが正しいことと信じて生きている
意義は役に立つこと、それに対して必要なのは意味ということ、生きている意味は意義でない役に立つことでもない、生きていることを
考える深く考える意味、これは役に立つことを必要としない
今はプライベートの時間まで意義を求めている、休みは何か意義あることをしないといけないスケジュールをうめていなければいけない
心の中からやりたいことなのか?どうかではなく意義があること。
SNSで今こんなことやってます。こんなおいしいものを食べてますよてアピールすること、中には食べるものまでインスタ映えするのとか
FaceBookでうけそうな感じで写真をとる行為、は意味ではなくて意義なのではないかということです。
おいしいものを純粋に楽しめてるのだろうかという疑問を残す。
これはほんとに現代は重傷な感じがしてきた、プライベートまで意義を求めてくる・・
なんとなく日常の生活を過ごし、休みに掃除をして 洗濯して 買い物に行き 昼寝して という日常には意義がないのかと
いう感覚になってるのでは・・
無駄に一日を過ごしたという言葉は現代独特なのか、なにが無駄なのか?なにかアクションをしないと無駄なのか
朝鳥の声で目が覚めてのんびりと過ごし昼ごはんをたべ本を読み 昼寝して 散歩してと 今日一日ゆっくりと自然にすごしたな
という生きることそのものに意味を考えるそんな時間が必要だろうと思う。
電車の中で約半数以上の人がスマホを見ているが、これはたぶん空白の時間を恐れている表れなのではないかと最近思うようになった。
本を読むと眠くなる 新聞よむのもスペースいるし なにもせず思索にふける時間があってもよいが、なにもない時間は不安なのだろう
きっと自分もそうかもしれぬ、だから電車で本を読んだりするのか??
役にたつことの わかりやすいこと 面白いことへの傾斜
目に見えてすぐに役たつことを至上の価値と考えてしまう、現代の病理が象徴的に表れたものだと言える。
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もし人間存在が、あたかも生産マシーンのように促され、その成果によってのみ価値付けられてしまうのだとしたら
人間の精神は奥行のないものになり、魂の抜けたロボットごとき存在に成り下がってしまうことでしょう。
読んでいていかにいまは人間本来の生活を歪める価値観になっていると思える。
とても危険な感じもする。
人間の価値を数量化されたもの役に立つものの基準で見る世の中は非常に危険で、大きな誤りと犠牲を払ってきた。
ナチスドイツの価値観に近くなりつつあるように思える、役に立つことが第一、その価値観で身体障害者を惨殺した、ユダヤ人を惨殺した
そしてベルリンオリンピックに向けて国家発揚をしてきた。