かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

後がない大峰奥駈踏破の構想

2023-01-25 15:52:42 | 日記

特定の信仰心があるわけでもないのに、「大峰奥駈を踏破したら、四国八十八を踏破しよう」という構想を60代半ばに抱き、「いざや!」とばかり、無職となった2019年5月GW明け、吉野から熊野の100kに渡る大峰奥駈を七泊分の食料をつめ込んだ20kgばかりのザックを「ヨッコラショ」と出かけたものの二泊したばかりで道失いと悪天のため挫折。

「荷物が重すぎてこの年でのクサリ場は危険だ」と反省し、コースを二分し二回に分けて再チャレンジを決意したというのに、2023年現在実行に移されていない。もうあれから4年も経ってしまった。

昨年、高野山から熊野大社までの「小辺路」を踏破したが、心のどこかに「もう大峰奥駈は無理だから、小辺路踏破による熊野詣でがまんするか」という弱音が働いていたのかもしれない。

だが、本日「日本百名山MYSONGS」で大峰山に辿り着いて、あらためて深田さんを読み、オイラの百名山登頂記を読み返していたら、これまで歩いてきた山岳エリアの中で大峰縦走路だけが醸し出す「魑魅魍魎」的「森羅万象」的雰囲気がここにきて心にフツフツとよみがえり、「あの道に戻らないと何か失ったまま人生を終える・・」というへんな気持ちになってしまった。なにものかが、オイラを引き寄せているともいえる。(蔵王大権現さまか)

4年前七泊八日で計画したコースを二分し、各五泊六日程度のSlow&Light登山に計画を組みなおし、出かけるか、秋以降の渇水期は水が枯れ気味なので今年と来年の新緑のころ。ボチボチしていると後がなくなるぞ。

 


日本百名山 MY SONGS     91 大峰山(おおみねさん・1915米)ka

【深田久弥・日本百名山から】

「・・・大峰山脈縦走は、南の熊野から出発して北の吉野で終わるのを、順峰といった。役行者が初めて開いた道である。現在ではむしろ北から南への縦走が多く行われているが、これは逆峰と呼ばれている。その縦走路七十五靡(なびき)と称して、七十五カ所の行場があって、それぞれ名前がつけられ、伝説がある。順峰で行けば、第一が熊野本宮の証誠殿で、第七十五が柳の宿、これは六田の河原が結願所となっている。この七十五靡の完全縦走は、現在では修験者も登山者もほとんど試みるものがない。ことにその南半は忘れれれた山となっている。」

*七十五靡の修験道は奥駈(おくがけ)と称され、深田さんが北部縦走したころは、ひどいヤブでに覆われていたため、上記のような表現となったのだろうが、現在は十津川村や地元山岳会の手で整備され復活している。

 

奥駈の忘れられたる山道は復活せしと九山に告げたき

 

 

深田日本百名山登頂の思い出

和歌山勤務時代の1988から1989年の間に、スバルジャステイで長い林道をつたい、行者還りトンネル西口というスペースに駐車し、弥山(みせん・1895m)~最高峰八経ヶ岳(1915m)~釈迦ヶ岳(1799m)を往復している。記憶に乏しいが、今地図を見ると往路だけで7~8時間はかかりそうだから、弥山あたりにテン泊して往復してきたのだろう。釈迦ヶ岳の釈迦如来立像をいつまでも覚えているが、季節はいつだったか、オオヤマレンゲの記憶はない。

今でも日本で唯一女人禁制の山上ヶ岳(1719m)に登ったのは、別の機会だったか。当時の山と高原地図を開いたら、登山口となっている洞川(どろかわ)集落から山上川を少し遡った母公堂あたりにテント場のマークがあり鉛筆で囲っているので、そこにテントを張って山上ヶ岳と稲村ヶ岳(1726m)を周回してきたのだろう。山上ヶ岳下山中に登ってきた白装束のこどもたちに「よーまいり!」(よくお詣りしてきましたの意か)と大きな清らかな声であいさつされ、何と返事をすればいいか戸惑ったことを、今でも覚えている。

あの時から、30年以上の年月が経ち、こころに温めてきた「大峰奥駈道・おおみねおくがけみち」を踏破しようと、沖縄から帰った2019年5月の連休明けに、7泊8分の食料をつめ込んだザックを担いで吉野から歩き始めたが、縦走3日目、山上ヶ岳を下った小笹の宿のテン場から先の阿弥陀が森付近で、オイラは倒木地帯に踏み込んで道を失い、恐れをなして引き返し洞川に下って、翌日天川登山口から弥山に向かった。奥駈道の一部をワープして、弥山からせめて北部だけでも歩こうと試みたが、あいにく悪天予報が続いたので、弥山を登っただけでむなしく帰途に就いた。

クサリ場もある峻厳な奥駈道にはなにかの神力で跳ね返された思いだが、荷の軽量化をはかり、北部と南部を分割した計画で、何としても本宮の熊野大社までは辿り着きたいと思っている。体力もつけないといけない。はねつけられても、大峰山にはなにか特別の魅力がある。それは、原生の森に覆われた山岳の森羅万象と長い時間引き継がれれてきた人びとの祈りが融合している特別の場所だからかもしれない。

50年間トボトボと山を歩き続けてきた者の「集大成」として、またこの地に向かいたい。

 

     

        山上ヶ岳から大峰山北部の山を望む(2019)

 

     

      

 

 

詣ろうか前鬼(前期)と後鬼(後期)従えし行者の峰をふたたびみたび

 

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後がない大峰奥駈踏破の構想

2023-01-25 15:52:42 | 日記

特定の信仰心があるわけでもないのに、「大峰奥駈を踏破したら、四国八十八を踏破しよう」という構想を60代半ばに抱き、「いざや!」とばかり、無職となった2019年5月GW明け、吉野から熊野の100kに渡る大峰奥駈を七泊分の食料をつめ込んだ20kgばかりのザックを「ヨッコラショ」と出かけたものの二泊したばかりで道失いと悪天のため挫折。

「荷物が重すぎてこの年でのクサリ場は危険だ」と反省し、コースを二分し二回に分けて再チャレンジを決意したというのに、2023年現在実行に移されていない。もうあれから4年も経ってしまった。

昨年、高野山から熊野大社までの「小辺路」を踏破したが、心のどこかに「もう大峰奥駈は無理だから、小辺路踏破による熊野詣でがまんするか」という弱音が働いていたのかもしれない。

だが、本日「日本百名山MYSONGS」で大峰山に辿り着いて、あらためて深田さんを読み、オイラの百名山登頂記を読み返していたら、これまで歩いてきた山岳エリアの中で大峰縦走路だけが醸し出す「魑魅魍魎」的「森羅万象」的雰囲気がここにきて心にフツフツとよみがえり、「あの道に戻らないと何か失ったまま人生を終える・・」というへんな気持ちになってしまった。なにものかが、オイラを引き寄せているともいえる。(蔵王大権現さまか)

4年前七泊八日で計画したコースを二分し、各五泊六日程度のSlow&Light登山に計画を組みなおし、出かけるか、秋以降の渇水期は水が枯れ気味なので今年と来年の新緑のころ。ボチボチしていると後がなくなるぞ。

 


日本百名山 MY SONGS     91 大峰山(おおみねさん・1915米)ka

【深田久弥・日本百名山から】

「・・・大峰山脈縦走は、南の熊野から出発して北の吉野で終わるのを、順峰といった。役行者が初めて開いた道である。現在ではむしろ北から南への縦走が多く行われているが、これは逆峰と呼ばれている。その縦走路七十五靡(なびき)と称して、七十五カ所の行場があって、それぞれ名前がつけられ、伝説がある。順峰で行けば、第一が熊野本宮の証誠殿で、第七十五が柳の宿、これは六田の河原が結願所となっている。この七十五靡の完全縦走は、現在では修験者も登山者もほとんど試みるものがない。ことにその南半は忘れれれた山となっている。」

*七十五靡の修験道は奥駈(おくがけ)と称され、深田さんが北部縦走したころは、ひどいヤブでに覆われていたため、上記のような表現となったのだろうが、現在は十津川村や地元山岳会の手で整備され復活している。

 

奥駈の忘れられたる山道は復活せしと九山に告げたき

 

 

深田日本百名山登頂の思い出

和歌山勤務時代の1988から1989年の間に、スバルジャステイで長い林道をつたい、行者還りトンネル西口というスペースに駐車し、弥山(みせん・1895m)~最高峰八経ヶ岳(1915m)~釈迦ヶ岳(1799m)を往復している。記憶に乏しいが、今地図を見ると往路だけで7~8時間はかかりそうだから、弥山あたりにテン泊して往復してきたのだろう。釈迦ヶ岳の釈迦如来立像をいつまでも覚えているが、季節はいつだったか、オオヤマレンゲの記憶はない。

今でも日本で唯一女人禁制の山上ヶ岳(1719m)に登ったのは、別の機会だったか。当時の山と高原地図を開いたら、登山口となっている洞川(どろかわ)集落から山上川を少し遡った母公堂あたりにテント場のマークがあり鉛筆で囲っているので、そこにテントを張って山上ヶ岳と稲村ヶ岳(1726m)を周回してきたのだろう。山上ヶ岳下山中に登ってきた白装束のこどもたちに「よーまいり!」(よくお詣りしてきましたの意か)と大きな清らかな声であいさつされ、何と返事をすればいいか戸惑ったことを、今でも覚えている。

あの時から、30年以上の年月が経ち、こころに温めてきた「大峰奥駈道・おおみねおくがけみち」を踏破しようと、沖縄から帰った2019年5月の連休明けに、7泊8分の食料をつめ込んだザックを担いで吉野から歩き始めたが、縦走3日目、山上ヶ岳を下った小笹の宿のテン場から先の阿弥陀が森付近で、オイラは倒木地帯に踏み込んで道を失い、恐れをなして引き返し洞川に下って、翌日天川登山口から弥山に向かった。奥駈道の一部をワープして、弥山からせめて北部だけでも歩こうと試みたが、あいにく悪天予報が続いたので、弥山を登っただけでむなしく帰途に就いた。

クサリ場もある峻厳な奥駈道にはなにかの神力で跳ね返された思いだが、荷の軽量化をはかり、北部と南部を分割した計画で、何としても本宮の熊野大社までは辿り着きたいと思っている。体力もつけないといけない。はねつけられても、大峰山にはなにか特別の魅力がある。それは、原生の森に覆われた山岳の森羅万象と長い時間引き継がれれてきた人びとの祈りが融合している特別の場所だからかもしれない。

50年間トボトボと山を歩き続けてきた者の「集大成」として、またこの地に向かいたい。

 

     

        山上ヶ岳から大峰山北部の山を望む(2019)

 

     

      

 

 

歩こうか前鬼(前期)と後鬼(後期)従えし行者の峰をふたたびみたび

 

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厳冬の眠り薬として聴く朗読

2023-01-24 19:07:25 | 日記

寒い夜には、熱燗やお湯割りをそれ相当にいただいて、早めに暖かな蒲団に潜り込んで、暖かな夢でも見ていればよい。

ただ、その桃源に至る導入が大事で、下手に眠れないと、また起きだして寒い時間を過ごす羽目に陥るのだから、枕もとにスマホとBluetooth専用スピーカーを置いて、Youtubeをいじって、女性の優しい声の朗読を聴きながら眠りに陥ればよい。

こんな厳冬の夜に聴きたくなるのは、そうだな、賢治さんの「雪渡り」とか光太郎さんの「山の雪」なんてどうだろう。キツネたちの幻燈会や月夜の雪の平原に誘ってくれるかもしれない。

 

 

しまえりこさん提供 宮澤賢治 「雪渡り」

 

佐和子の朗読提供 高村光太郎 「山の雪」

 

 


日本百名山 MY SONGS   90 大台ヶ原山(おおだいがはらやま・1695米)

深田久弥・日本百名山から

「私が登ったのは三月の初めだった。山の上にはまだ雪があったが、吉野の春の息吹きはもうそこに這い寄っていた。最高点秀ヶ岳(ママ)の頂上に立った時、素晴らしい天気に恵まれた。すっかり晴れて、西の方大峰山脈の峰々を一つ一つ数えることができ、東を振り返れば、すぐ眼下に尾鷲の入り江を。小さな島々まではっきり望むことができた。」

 

台ヶ原山・日出ヶ岳山上にて)

三月の吉野の春の雪を踏み大和の峰々数えていたり

 

(わが愛する山々・「大台ケ原」の結びの記載から

「大和路という甘いひびきを持った言葉を、もう私は幾度となく耳にしているが、実際に眼にしたのは何十年ぶりのことであった。春霞のたなびいている大和の国。しかし私は古寺一つ訪ねず、仏像一見ず、ただ山だけを歩いて、その詩に溢れた野は電車で走り抜けただけであった。」

 

詩(うた)の国 春の大和路立ち去りぬ 古寺を訪ねず 仏も見ずして

 

深田日本百名山登頂の思い出・再掲

和歌山県田辺市在住の1988年か9年に、紀伊半島の複雑な道路網を数時間、当時の愛車スバルジャスティ1000cを走らせて、やっとたどり着いた大台ヶ原のふもとから、最高峰日出ヶ岳と牛石ヶ原や大蛇嵓などを日帰りで周遊している。山頂からの展望として大峰などの山並みより、東方向に目をやった時に光り輝いていた太平洋の大海原と尾鷲の入り組んだ海岸線がいつまでも脳裏に浮かんでいる。笹原の遊歩道でシカさんたちにも出会ったと記憶している。評判通りの美しく気持ちのいい山上だった思い出がある。

深田さんの紀行や年譜を読むと、深田さんが仲西政一郎さんの案内で大台ヶ原に初めて登ったのは、昭和35年(1960年)57歳の2月29日からの3日間だったが、その年の11月に大杉谷から三之公谷を歩いているし、翌年の7月子供たちと大台ヶ原から大杉谷を下りている。

だが日本百名山の「大台ヶ原」のおしまいの数行の記載が気になっている。

(1960年3月の初登頂から)「それから数年後、再び大台ヶ原山を訪れた時には、山上まで有料自動車道路が通じていた。往きはそれを利用したが、帰りは大杉谷に下った。・・」と記している。

翌年には大杉谷を下っているのに、何年も経ったから歩いたという記載がどうも気にかかっている。あまりにもあちこちの山を歩いている方なので記憶違いだったのはなかろうか。

 

大台の日出ヶ岳より俯瞰せる尾鷲の海の波頭かな

 

 

      

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大寒や炬燵の電気いまだオフ

2023-01-23 19:55:49 | 日記

大寒に入り、超一級の寒波が水曜日にもやってくるというが、当地では最低-6℃、最高-1℃の予報。雪国ではないため、雪かきの心配もなく、ただただ寒いだけだが、昔は当たり前だった1月の寒気は、しかし、温暖化に慣らされた高齢者にはつらい。窓を開けただけですぐさま閉めて、部屋に閉じこもりたくなる。

閉じこもりの友として、片時も離れないのが「オコタ」だが、今季はいまだ電気コードをつないでいない。昨年通販で買った毛布がとても暖かいので、毛布をこたつ布団の間に挟んでいればもうポカポカであった。いままでは。

それと節電意識の理由は、ニュースの脅迫。電気代が急騰していて北海道の二人暮らしの高齢家庭の電気代が、オール電化ではあるが昨シーズンの倍程度に跳ね上がって、10万円近いとか「エーッ!」と驚いてしまう。

日常的に節電に努めてはいるが、わが家の昨シーズンは「オコタ」の電源を「弱」にしていても、冬の最高値が二人暮らしで16,000円程度であり、夏場より7,8千跳ね上がった。倍と言われたら3万円にもなる。これではやっていけないため、これまで毛布のおかげもあって「オコタ」を電化製品として扱ってこなかった。

さて、明日からの寒波、耐えて行けるか。やせ我慢はよすか。

隣の電力会社だが、東電が電気料金30%アップを申請したとか。当地の電力会社も右にならえだろう。

何もかも値上がりの季節。防衛費は倍増するも年金は2%しか上げてくれないのだという。

「年寄りに明日はない」。

 


日本百名山 MY SONGS  89 伊吹山(いぶきやま・1377米)

 

【深田久弥・日本百名山から】

「私は山の混雑が嫌いだから、四月中旬の一日を選んだ。晴天に恵まれて、誰もいない山腹を一人登っていくと、草枯れの間にもタンポポや草ボケや紫ケマンの色どりが美しかった。しかし私は薬草採りではないから、草花の詮索よりも、登るに従い展けてくる眺望に心を奪われた。」

「頂上での第一の獲物は、遠く北に茜色ににじんだ純白の白山で、こんな角度からこんな美しい白山を眺めたのは初めてであった。ショウジョウバカマが雪どけの間にもう花を開いている。そのうららかな山頂で過ごした一時間は、まさにこの世の極楽であった。」

 伊吹山 雪どけ月に立ちたれば 雪どけの花 茜の白山

 

   

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深田日本百名山登頂の思い出・再掲

伊吹山には、2007年10月6日、深田百名山98座目の山として登った。今の時刻表を検索したら、おそらくJR鉄道記念日キップを利用して前日豊橋あたりまで行って、安いビジネスホテルを宿にとり、翌日の始発の新快速で大垣まで行って乗り継ぎをし、登山口となる東海道線「近江長岡駅」で朝8時前に降りたのだろう。

駅から三之宮神社伊吹山登山口までは、歩いても1時間の距離だから歩いたかもしれないが、今時刻表を検索すると30分も待てばバスが出るので、バスだったかもしれない。

コースはスキー場から登っていて、展望はいいが、草っ原を行く樹木のない山という印象のコースだった。昔から薬草が育てられていたということで、伐採されたのかもしれない。深田さんの百名山には、暑熱をさけるため昔は夜登って頂上で日の出を拝んだとある。夜に登っても、ほとんど危険を感じないようなジグザグ道が、ただただ上へ伸びているようなコースだったか。花の季節だったら、もっと癒されたかもしれない。

眺めはよく琵琶湖や伊賀の山並み、白山などの好展望地の山だったが、登り着いてシラケたことは、山頂の茶店かレストハウスかどこからか歌謡曲が音高く流れていたこと。それと「伊吹山ドライブウェイ」が頂上直下まで走っていて、観光客めいた軽装登山者で賑わいつくしていたこと。深田さんが、最も嫌う山頂の光景だったろう。もちろんオイラも。

この「伊吹山ドライブウェイ」を調べたら、昭和36年に着工して、昭和40年に竣工したとある。

昭和36年といえば、深田さんが人込みを避けて4月のまだ山頂に雪のある時に一人で登り、静かな山頂で1時間も展望を楽しんだとされる年。深田さんが、この道路のことを知っていたか知らなかったか。百名山には何も記載がないので、まだ耳に入っていなかったかもしれない。4年後にこのことを知って大いに嘆いたのだろう。

オイラは、走る様に元来た道を下り、翌日の荒島岳に登り行くために、その日のうちに近江長岡から米原、長浜、敦賀を経由し福井まで行ったのだろう。せわしない山旅ではあった。

 

 伊吹山 茶店の流す流行歌 伊賀の山見て 走り下りつ

 

     

 

 

 

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写真文集「安曇野」を開き、春の安曇野の旅を決意する

2023-01-21 15:10:01 | 日記

図書館にある写真家田淵行男さんのありったけの蔵書のうち4冊を選んで借りてくる。

そのうち、まず昭和51年に朝日新聞社から刊行されている「安曇野 田淵行男写真文集」をひらく。

戦前から戦後すぐかけて録り始めたの写真なのだろう、カラー写真は現代から見たら色あせたような彩度であり、モノクロームも、後輩の山岳写真家たちの作品のように「ビリビリとしたピント」による写実性をもたらすものではないが、一枚一枚が写真家のこころに満ち溢れている。住んでいた安曇野の風景と生き物たち、また、そこから遠望する常念や後立山の山々への愛情が満ち溢れている、そんな写真集だ。古さを感じるが、どうしようもなくなつかしい。洒落ではないが古さは古里。

冒頭のエッセイで、田淵さんは以下のように語っている。

「・・清らかで美しい安曇野の自然も、その後いくばくもなく世をあげての開発の渦中に投ぜられ、蝶も野草も、桑も落葉松も、あるいは消滅し、あるいは彩度を失ってしまった。本書に収録したほとんどの風景も今では姿を変えた。期せずしてこの小著が、豊かな桑と落葉松の古里、野草と蝶の王国の衰亡の記録、回想の形見とおなり、心ならずもその頃の安曇野の山野に捧げる挽歌となったことが、私にはこの上もなくかなしい。」

開発により失われた安曇野の挽歌の書だったのだが、安曇野や「アルプスの三面鏡」と記した仁科三湖(木崎湖、中綱湖、青木湖)周辺の小高い丘からのアルプスの展望だけは、いまも変わっていないのだろう。

GWに前後した時期を選んで、出かけてみよう安曇野に。

幸い、この書で田淵さんは、掲載した写真の撮影ポイントを地図で示してくれている。このガイドを頼りに田淵さんが撮影した場所を訪ね、遠望した残雪の山々を眺めてみよう。

 

  

田淵さんは鹿島槍や爺ヶ岳を撮影したポイントの正確な記録を地図に残していたようだ。

仁科三湖の小熊山や権現山の山頂に立ってみようか。

 

 

 

 


日本百名山 MY SONGS  88 荒島岳(あらしまだけ・1523米)

【深田久弥・日本百名山から】

「数年前の五月、私は勝山の姉を訪ねた折、荒島へ上る機会を逃さなかった。勝山から大野(略)へ向かう間から眺めた荒島岳は、文句なしの立派な山である。「美しいですね」と私は、自家用車に乗せてくれた親戚のTさんに声をかけると、「良うゴエス」という返事。なつかしい越前弁である。」

「良うゴエス」 親戚の声越前弁 荒島岳を二人で仰ぐ

 

 

【深田日本百名山登頂の思い出・再掲】

2007年という年は、百名山の登り残しの「追い込み」で集中的に出かけていたが、おもに青春18きっぷ・深夜バス・レンタカーの組み合わせをアシに使っていた。

小石の記録では、荒島岳登山は2007年10月7日。登山口としたのは、JR越美北線勝原(かどはら)駅だった。福井県は当時住んでいた仙台からは遠すぎるし、わざわざ荒島岳一座に登るだけに出かけるはずはないと、小石を探したら伊吹山が2007年10月6日と分かった。

「そうか、伊吹山を登ってから、線路を繋いで比較的近い?福井県の荒島岳に行ったのか、でも18キップの時期でもないのにアシはどうしたんだっけ」

と考えてみたら、

「あ、そうか、JRがこの頃、3日間在来線乗り放題の鉄道記念日記念切符を販売していたな!。」

とギモンが解決した。でも、各駅ばかりで3日間で帰ってくることは厳しい、どうして帰ったのかは不明だが、おそらく金沢か新潟に出て深夜バスでもどったのだろう。

伊吹山と荒島岳の小石にはそれぞれ「98」「99」とも記されていた。荒島岳は、百名山全山踏破に「王手」をかけた記念すべき山だった。

山頂の石仏群と黄金色に輝く越前の田園風景と山並みを眺めながら、晴れ晴れとした気持ちで荒島岳山頂にしばらくの間座っていたことを思い出した。

 

百名山九十九の山アラシマと教えてくれた小石をにぎる

 

 

    

 

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