初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

本日は晴天なり

2008年12月31日 15時15分56秒 | Weblog
ラジオが発達するにつれて、色々なマイクロホンも出てきました。
 炭素粒を使ったカーボンマイクから、繊細なリボンマイクが出現しました。リボンマイクは言葉通り、薄い金属のリボンが磁石の中に張られています。機構的にデリケートなため、マイクのテストで口で吹くなどはもってのほか。
 本日は晴天なりとテストしますが、もともと英語圏でIt is FineDay とかの日本語訳だそうです。指向性の強い鉄仮面のあだ名のアルテックの639Bなどユニークなものもありました。

 石原裕次郎は自分の好みのマイクがあって、会場や劇場に持参してこれを使ってくれと言っていました。また漫才の放送ではどこの局でもソニーの38を使っています。出演者はこのマイクが前にあると安心だと言います。不思議です。
 ラジオでは問題ないのですが、テレビでは、マイクロホンも画面に登場しますからスタイルに気を遣うようになりました。マイクにも流行がありまして、、シュアーのボーカルマイクがはやりました。グループサウンドやロックグループでは四角いスタイルのEKGのマイクがはやりました。舞台は大音量の電子楽器が勢ぞろいしていますから歌手は負けないようにマイクに口を近づけて歌います。マイクの感度を低くしたマイクで、後ろの楽器の音が入らないようにしています。

 歌手にとってマイクのコードは邪魔になります。そこで、ワイヤレスマイクが出現しました。舞台袖で舞台監督助手さんからA歌手はマイクを受け取り、歌い終われば助手さんに渡してC歌手に渡して、B歌手さんのマイクをD歌手が使う。と、いまだれがどのマイクで歌っているのか、たえず神経を使って確認していかなくてはなりません。マイクに色のついた小さなテープを張ってあるのをみたことがあります。苦肉の策です。
今夜の、<紅白歌合戦>はマイクの受け渡しが大変な番組です。

 劇場で歌い終わったあるベテラン歌手は、手洗いに行きたくなって、舞台から降りてスイッチの入ったワイヤレスマイクを持ったまま化粧室に入りました。当然、トイレ内の音が場内のスピーカーから流れました。
 それ以来、ワイヤレスマイクの管理はやかましくなりました。
  

マルマン深夜劇場

2008年12月30日 17時11分46秒 | Weblog
 マルマン深夜劇場という、少し古い名作映画を深夜に放送するTBSの番組でした。
当時は、夜の放送は早く終わっていましたから、夜の放送時間を少し延長したものでした。深夜劇場は話題性に富んだ番組でした。特に、夜の仕事のホステス嬢が、遅く帰っても見られるし、職場で話のタネになるといわれていました.

 1日は24時間ですから、24時間以上の放送はありません。コマーシャルの放送時間は、全放送時間の何パーセントと決まっていますから、放送時間が長いほどコマーシャルの量が多くできます。

 夜の劇場の前に、二人連れが後ろ姿で入場していく画面がタイトルバックでした。
 
 ラジオ、テレビともに民間放送はコマーシャルを放送することによって、成り立っています。ところが、公共放送はコマーシャルがありません。NHKの職員はこれをうらやましがっていました。約2分間のコマーシャルの時間は、スタジオは一服できるのです。この時間に、次のコーナーを何分短くしてくれなどの打ち合わせや、中継先と連絡したりできるのです。
 NHKのラジオでは、民間放送のコマーシャルの代わりとして、ここで歌をお送りします。とか、テレビでは番組宣伝用のVTRを流して時間を作っています。
 

割れたアンプル

2008年12月29日 16時27分55秒 | Weblog
 映画のセットでの話です。
スタジオでの撮影は小道具待ちなどの手違いで、長い待ち時間があります。
 セットの脇で待っていたベテランの俳優さんが、手提げバックを広げました。中には、注射用のアンプルがぎっしり入っていました。その俳優さんは中に入っている栄養剤やビタミン剤の注射用のアンプルを内服していたのです。
 注射して効く薬を内服しても効くはずだというのです。ほかの芸能人もやっているよ、わたしは体の調子がすこぶる良いといいます。

 民間テレビのはじめは、VTRなどありませんから、全部生放送です。民間テレビはコマーシャルがあります。それぞれ番組に前コマ(前のコマーシャル)、中コマ(獏組の中ほどのコマーシャル)、後コマ(終りのコマーシャル)とありまして、これを生CMまたは、生コマと言いました。

 いつからか、各製薬会社がガラス製のアンプルに入ったドリンク剤を売り出しました。映画界で、はやっていた俳優さんの話を聞いていたのかもしれません。
 番組も終わりに近づいて、後コマになりました。
 CMのお嬢さんは何度もテストして手馴れたしぐさでアンプルにやすりで傷をつけて、ポキッと折りましたが、どうしたわけか、アンプル全体が砕けてしまいました。悪いことに画面は、彼女の手元を大写しでとらえていました。手は血だらけで、その映像が全国のテレビ受像機に映し出されてしまいました。

 この事故の後、販売していた各製薬会社はアンプルに柔らかいブラスチックのケースの上から折るように工夫したり、容器そのものをプラスチックにしました。
 今のドリンク剤はすべてアンプルのイメージをやめて、金の口金の付いた瓶に入ったものになっていますね。

テレビジョン

2008年12月28日 20時43分08秒 | Weblog
京都市川端今出川下がるの広場で、NHKの展示公開のテレビジョンが初めての出会いでした。あかあかと照り輝く照明の舞台にテレビカメラがあって、モデルさんが客席に向けられたモニターに映っていました。

 当時のテレビカメラは、旧式のアイコノスコープ管を使用した感度の低いカメラでした。間もなく、高感度のイメージオルシコン管を使用したカメラが実用化されて、テレビ放送が始まりました。

 テレビスタジオの照明は、映画スタジオほど大げさではなく、照度を低くして夏は冷房で快適でした。カメラのイメージオルシコン管の撮像部分の面積が、35mmのフィルムのサイズに近く、カメラのレンズは35mmカメラのものが流用されていました。ニッコール35mm,50mm,85mm,135mmの四本レンズが、ターレットに取り付けられて、カメラ後ろからのレバーで切り替えて使いました。絞りはF5.6~F8で、映画に比べてかなりの感度がよかったです。舞台中継などは、180mm,250mm,300mm,600mm,などの望遠レンズを使いました。

 皇太子ご成婚パレードの中継では、系列各社がテレビ中継車を東京に持ち込み、分担を決めて、長いレールを敷いて移動撮像などもしました。この機会にテレビ受像機が大量に売れて、日本にもテレビ時代が到来しました。テレビ受像機のサイズは14インチのものが標準でした。

スーパーヘテロダイン方式

2008年12月27日 20時04分36秒 | Weblog
 せっかく、分離の良い、高感度のスーパーヘテロダイン式のラジオを作っても、当時は放送局が少なく、NHK第一、第二、それに進駐軍向けのWVTQの三波があるだけで、空間はきれいなものでした。夜遅く出来上がったラジオにスイッチを入れます。雑音がザーッと聞こえてきますと、まず無事に働いているなとひと安心でした。

 戦後、復興してくるにつれて、日本にもまずラジオの民間放送が発足しました。珍しいのと好奇心で話題になりました。ある商店街が大売り出しの宣伝にスポット広告を入れたところ、売り上げが伸びて大成功という噂も聞きました。

 ある時期から毎月、どこかで民間放送が開局していきました。電離層が下がってくる夜に、新局の受信に張り切りました。新局に受信レポートを送ります。受信報告にはSINPOコードなどを使うのですが、当時の私はそんなことは知りません。
受信時刻のニュースならばニュースの内容、レコードがかかっていればレコードの名前、アナウンサーの名前など、受信状態はどうか、フェージングはどうか、をレポートにして新局に送りました。
 一月ぐらいして、新局からベリカードが届きます。受信日時を認定したベリカードは新局所在地の名所旧跡などを背景に、コールサインが記されています。
 この数々のベリカードが自分の作ったラジオの値打ちを高めるのでうれしく、精を出しました。

 WVTQは今のアメリカを知る窓口でした。昼前の11時半からのレコード番組で、エルビス・プレスリーの“ハート・ブレーク・ホテル”を毎日のように聞きました。最初は、毛色の違った歌だなあと思っていました。すでにアメリカではブレイクしていたようでした。
 土曜日の夜、8時の“ウェスタンジャンボリー”、夜10時からのダンスホールからの中継音楽番組“ワン・ナイト・スタンド”ではかなりの有名な楽団が聞かれました。

 日本に定着したラジオの民間放送もやがてテレビの民間放送の開局に話は移っていきます。

SPレコード花盛り

2008年12月26日 20時19分47秒 | Weblog
 京都寺町四条下がるの電気街で、部品を買い込んで、SP盤のレコードプレーヤーを作りました。ピックアップはクリスタルで小林理研製。フォノモーターは赤井製品でした。

 アメリカから輸入された軽音楽のSP盤の主流はビクターはS盤、コロンビアはL盤として発売していました。キャピトル、MGMなどもありした。
 その中に、生前のグレン・ミラー楽団の“真珠の首飾り”、“ムーンライトセレナーデ”の、力強い演奏に感激しました。絶大な人気に楽団全員が乗っていたのでしょう。レコーディングスタジオが狭い感じに聞こえてきました。
 ダイナショアーの“ホタンとリボン”はコロンビアのL盤でした。
 ウディハーマン楽団の“フォアブラザース”、“アーリーオータム”のスタン・ゲッツのテナーサックス、スタン・ケントン楽団の“アーティストリーシリーズ”のプログレッシブジャズなど聞いていました。

 京都市四条高倉にアメリカ文化センター?がありまして、 そこで初めてLP
レコードを聴きました。LPとはLong Playingの略で、長時間レコードのことです。
33.1/3回転で、SPレコードの78回転から比べて遅く感じました。この遅い回転レコードから早いテンポの音楽が聞こえてくるのは不思議でした。




液温 

2008年12月25日 17時39分34秒 | Weblog
 昔の京都は、ハッキリと夏は暑く、冬は寒かったです。
夏は冷房もなく、涼しさは扇風機か台所の井戸で冷やしたスイカぐらいでした。
 冬は毎年雪が降り、比叡おろしの風が冷たかったです。
冬の暖房は、隙間風がある勉強部屋に火鉢が一つでした。
その火鉢に跨って、俗にいう“また火鉢”のかっこうで過ごしました。

 押入れを改造して簡単に写真ができるようにしていました。
現像液の調合で写真処方集を眺めますと、使用温度つまり液温20℃とあります。この根拠がわかりません。もっと古い処方集では18℃とありました。
 いろいろ調べて当時のアメリカの一般家庭の室温とわかって夢のような話だなあと感じたものでした。
 現像液の温度をしっかり合わせないと、フイルムの濃度や印画紙の黒の描写などに影響が出ます。
 冬は乱暴ですが、熱湯を印画紙現像皿にそそぎ、夏は冷蔵庫の氷を入れました。
温度が低いと眠たい描写になり、温度が高いと、フィルムなどの乳剤がとろけて具合が悪いのです。現像液を作るのには、上皿天秤で薬品を測りながら調合します。
 そのうち、「マイクロドール×」、「ミクロファイン」、「コレクトール」、などの名前で調合済みの缶詰が各社から出てきて利用しました。

 カラー時代になって、私の暗室作業は終わりました。
カラーは温度が一層厳しくなり、真っ暗の暗室でしか処理できないからやめました。
 最近になって、DP店のフィルム自動現像機の現像液の温度が、なんと37℃だと聞きました。まるでぬるい風呂のようです。それでもフイルムがなんともないのかと驚きました。


 10数年前、写真専門学校卒の新進カメラマンと話をしていて、現像液の話になりましたが、現像液に関する知識が全くなく、
 [現像液をそうやって作るのですか」
と言われて、時代の推移を感じました。

 当時の現像液の処方をご披露します。
 D-76 (フィルム現像用)

水          750ml

メトール         2g
無水亜硫酸ソーダ  100g
ハイドロキノン     5g
硼砂         2g
 
水を加えて      1000ml

液温          20℃
 注意としてこの処方の記載順に調合ビーカーに入れていかないと、沈殿物ができることがあります。

 

生ドラマ

2008年12月24日 17時27分42秒 | Weblog
 力道山が街頭テレビで、ヒーローだったころ。放送局にはまだVTR(録画装置)
がなかったから、朝から晩まですべて生放送でした。
 放送時間は朝、10時から、14時まで、夕方は5時から夜10時頃でした。
 夜のゴールデンタイムは、東京からのネットで東京も生放送でした。
 テレビドラマを生で制作する場合、まず、脚本が出来上がります。
脚本に基づいて、スタジオの中のセットの配置が検討されます。俳優さんがストーリーに従ってスムースに動いていけるか検討されます。それを図面にしたのが「青図」といいます。つぎに、俳優さんが一堂に会して読み合わせが行われます。
仕上がり時間どおりに読み合わせがすみますと、スタジオの床に「青図」に基づいて、原寸大のセットがチョークで描かれます。そのうえで、扮装をしないで、動きのリハーサルが行われます。これをドライリハーサルといいます。
やがてスタジオにセットが出来上がって実際に扮装をしてテレビカメラを通して、カメラリハーサルが行われます。これで、大体ドラマはできあがったのですが、スタッフと不都合なところなどの手直しをして、念のために最後の実際の放送に従ってのリハーサルを行います。これをランスルーといいます。
 各リハーサルが問題なくスムースに出来上がっても、本番の保証はありません。
往々にして、いい加減なリハーサルのときが本番でうまく行くときが多いです。

 スタジオのAD(アシスタント・ディレクター)さんが実際の放送時間に合わせて秒読みします。
「5、4、3、2、1」
 ADさんは、俳優Aさんを、AセットからBセットへ導いてきっかけを与えます。のちの録画撮りドラマと違って、生ドラマはこのADさんの腕次第でした。

 あるドラマで、生前の元気な姿と、臨終の場面が、交互に表現されるストーリーがありました。映画でカットバックという描写です。
 臨終の場面で、俳優Aさんが間に合わなくなってしまったのです。意を決した俳優Aさんは、涙にくれる遺族の前の空の寝床に猛然と飛び込んでゆきました。
 もちろん、この生ドラマは大失敗です。

 生ドラマが無事に終わっても、俳優さん、制作スタッフとも、いま放送したドラマがおもしろかったのかどうかさっぱりわかりません。いつも皆、顔を真っ赤にしてスタジオを出てきました。生ドラマ開始前のプレッシャー、本番中のスリルは独特のものがありました。何度でもNGの出せるVTRドラマになってからむしろ懐かしいくらいです。




ケツカッチン②

2008年12月23日 18時28分03秒 | Weblog
 昨日の話題、ケツカッチンで、わかりやすい写真を見つけました。
 写真でのカチンコは外国の現場なのか少し日本のものより大きいです。
日本のものは、助監督の尻のポケットに入るくらい小さなものです。カチンコを持っている女性は、スクリプターのようです。現場で監督の横にいて、出演者の持ち物が右手か、左手かなどから、撮影カットの長さをストップウォッチで記録します。仕上がりの編集にも立ち会う女性です。男性スタッフの中の紅一点ですから、しっかりした女性です。
 番傘をさして歩いている武士が、横丁を曲がると番傘を差していなかった場面がありました。明らかに記録ミスです。

 京都の太秦(うずまさ)は日本のハリウッドと呼ばれていました。京福電鉄太秦駅の出勤時間には映画関係者のラッシュです。太秦駅の右側は東映撮影所、左側は大映京都、次の帷子の辻(かたびらのつじ)駅は松竹太秦撮影所です。出勤の関係者の
なかに混じって、大部屋の女優さんも大勢いました。どうしてこの娘が売れないのかと思うほどビックリするような美人も大勢います。

 外国の映画祭の賞をよくとっていた大映は「映画は大映」のキャッチフレーズで「夜間は東映」「火事は松竹」と続きます。東映は第二東映まであって、残業の多い撮影所で、深夜までこうこうとオープンセットが輝いていました。月給を本人には本給、奥さんには残業代を渡していて、奥さんが主人の残業の後押しをさせたとの噂をききました。「火事は松竹」は、松竹京都下加茂撮影所のフィルム倉庫の火事で、黒煙を上げて貴重なフイルムを全部失うことがありました。

 その後、広大な広さの東映撮影所は縮小されて、跡地の利用に「東映映画村」を作りました。これが予想外のヒットで、のちの「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」のヒントになったと思われます。


ケツカッチン

2008年12月22日 18時07分39秒 | Weblog
 映画が音声を得て、無声映画からトーキーになって、撮影の方法がややこしくなりました。
 撮影された映像フィルムと、録音された音声フイルムをずれることなく仕上げる方法です。
 スタジオで監督さんが撮影するカットの頭で
 「用意、スタート」
 とどなります。この声を合図にカメラのスイッチが入ってフィルムが回ります。
 次に、スタジオの二階にある録音部の録音機械が回転を始めます。それを確認して、ブザーを鳴らします。
 「ブー」
 この音を聞いたカチンコを任された助監督さんか録音部の助手さんがカチンコを少し開いて、カメラ前に差し出します。そして、カチンコが動かないように注意しながら、
 「カチン」
 と鳴らして、鳴らした拍子木が開くまで間をおいて引っ込めます。
現像場から仕上がったフィルムに写っているカチンコの拍子木が合わさったところと、カチンと聞こえる録音テープを一致させれば、OKです。
 映画の俳優さんは芝居を始める前の儀式として段取りが頭に入っています。

 テレビドラマの場合はビデオカメラのテープに映像とともに音声トラックが入っていますから、カチンコは不要なのです。
 スタジオのADさんが
 「5、4、3、2、、Q」
 の号令で芝居を始めます。
 テレビドラマに映画出身の俳優さんが共演するとテレビの3、2、が苦手のようで、その時は必要のないカチンコを鳴らしています。

 さてケツカッチンですが、普通撮影では頭にカチンコが入ります。

 馬や犬、猫など動物が絡んだシーンでは、いつよいカットが撮れるかわかりません。その場合、カチンコなしでカメラが、録音機械が回り始めます。
 良い場面が撮影できた時、監督さんが
 「カット」
 と叫びます。その声を聞いて、カチンコをカメラ前に差し出して、
 「カチン」
と鳴らします。
「ブー、ブー」
 録音部の録音OKの合図が鳴ります。
つまりケツカッチンで撮影はOKとなります。