初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

異国の丘

2020年02月27日 19時43分13秒 | Weblog
【検証歌謡曲】異国の丘


敗戦後の新京で、何時日本へ

帰れるのか判らないまま、

毎日をおくっていました。…

… … …

そんなある日、元軍人は

どこそこへ集まれという噂?が

流れてきました…

… … …

今更、何を云っているのかと

思っていましたが…それでも、元軍人さんらは

どこかへ集まったらしいのでした。

我が親父は、軍人ではありませんから

当然、でかけません。

… … …

兎に角、集まった元軍人さんらは

汽車に乗せられて消えてしまいました。

新京に居た日本人には、どうなったのか

さっぱり判りません。

… … …

後年、判ったのですがこれが

シベリア抑留だったのでした。

戦争は終わったのに、なんと

酷いことをする国、ソ連だと

つくづく思いました

シベリア抑留兵の一人だった、

吉田正作曲の「異国の丘」が

NHKラジオの素人のど自慢で

シベリア抑留兵に、よみひと知らず、として

唄われて大ヒットしました…






りんごの唄 並木路子

2020年02月22日 20時16分47秒 | Weblog
りんごの唄 並木路子



戦時中、満州では米軍による爆撃は無かったのですが

何度か警戒警報は発令されていました…。

その度に、サイレンが鳴り響いていました。

サイレンが鳴ると、何となく緊張させられていました。

敗戦によって、このサイレンも鳴らなくなりました。

夜は、灯火管制(とうかかんせい)といって

部屋の電灯を黒い布で覆って、下の卓袱台だけ

照らすようにしていましたが…、これも敗戦によって

灯火管制はなくなりました。…

… … …

敗戦後、困ったことは新聞が廃刊されて

日本の事情がさっぱりわからなくなって

しまいました。

それに、ラジオ放送もありません。

満州での放送電波がなくなったせいか

夜になると、日本のラジオ放送がよく

聞こえました…

夜になると電離層の関係か、今で云う

DXリスナーだったのでした。

… … …

たしか並木路子(なみきみちこ)の

「リンゴの唄」を聞いていたはずです。

万城目正(まんじょうめ・ただし)作曲。

サトーハチロー作詞の戦後初の

大ヒット曲でした…
















続・満蒙開拓団

2020年02月19日 20時36分05秒 | Weblog


ドイツを攻めていたソ連軍が

ドイツの陥落で満州へその戦力を

ふり向けたという噂でした。

そのソ連の精鋭部隊が無防備な

満州の北を軽々と越境して侵攻してきました

… … …

満州の北で農業をしていた

満蒙開拓団の人々はさぞ、

驚かれたでしょう…

そこで、満蒙開拓団の人々は

とりあえず着の身着のままで

交通機関も無く、広大な原野を

そのまま、徒歩で逃げ出すのです。



幼子が亡くなると、原野へ埋葬して

また、小さな子は、行動で邪魔なので

現地の人に託して、比較的元気な大人だけが

ひたすら、南へ向かって逃亡を続けたのでした。

… … …

後年、中国残留日本人とか

中国残留孤児が日本で問題になりました。

国策によって、希望を抱いて北満へ移住した

満蒙開拓団のなんとも悲惨な最期でした。

… … …

当時、何時、日本へ帰れるか判らなくて

新京に住んでいた日本人は、この満蒙開拓団の

人々に比べれば、ずっと幸せでした。

そこで、何か手助けをしていたようです…








満蒙開拓団

2020年02月17日 19時39分23秒 | Weblog


この破れた衣装の異様な集団は

敗戦によって閉鎖された満赤(まんせき)

を住居としていました。

… … …

満赤とは満州赤十字病院の

ことで、大きな建物の病院でしたが

敗戦で建物は廃墟となっていました

… … …

この破れた衣装の集団は

満蒙開拓団だったということが

判ってきました…

満蒙開拓団は国策として満州の北で

開墾の集団で農業を営んでいました

そこへソ連軍が戦車隊で攻め込んできました。

当時、北満の守りとして関東軍(かんとうぐん)が

防衛していたはずなのに、その関東軍はいつの間にか

南方の戦線か沖縄へ移動していました。

そして、北満は軍隊による守りは無く、

無防備な民間人だけになっていました。








満洲國紙幣

2020年02月14日 19時57分50秒 | Weblog


ソ連軍が進駐していたときは

赤い色をした軍票(ぐんぴょう) を

使っていました。

そこへ蔣介石の率いる国府軍が

やって来ました。

国府軍も軍票を使い始めました

そこへ今度は毛沢東の八路軍が

やって来て、これも軍票を使い始めます。



そこで市場?では

色んな軍票が流通しだしました。

いままで、流通していた

満洲國紙幣も使えます…



言い直すと、三種類の軍票と

満洲國紙幣が使われていましたが、

一番、信用があったのは

皮肉なことに、満洲國紙幣でした。

… … …

新京の日本人は、いつ

日本へ帰れのか不安な毎日を

過ごしていました…

そこへ、見たところ日本人

らしいのですが、すっかり

汚れきって、あちこち

破れたような服装の異様な集団が

現れました…。



国府軍と八路軍

2020年02月13日 21時10分42秒 | Weblog


建てかけの校舎(女学校)の学習塾は

何かあるとよく、中止されました。

国府軍部隊の駐屯がしばらく続きました、

ある日、学習塾へ向かおうとしていると

銃声が聞こえてきました…

わが家の部屋から覗いていると

なにやら国府軍と違う部隊が来ています。

… … …

近所の噂で、毛沢東率いる共産軍、

八路軍(はちろぐん=パーロぐん)と判りました

蔣介石率いる国府軍と毛沢東率いる八路軍との

内戦が、満州の新京でも始まったのでした。

当然、私たちの学習塾は閉鎖になって

しまいました…。

… … …

そして、この国府軍と八路軍の

駐屯は交互になってしまいました。

内戦ですから、お互い攻めたり攻められたり

したのでしょう…

ある日、建てかけの校舎に国府軍が

いると思っていたら翌日には、

八路軍に変わっていました。







蔣介石率いる国府軍が

2020年02月10日 22時42分31秒 | Weblog


戦後始まった、ボランティア?による

授業は毎日、数時間続きました

課目は、謄写版(とうしゃばん=ガリ版刷り) の

プリントを教科書にして、英語、算数など

でした…

… … …

このような臨時学習塾?が数ヶ月

続きました…

そんなある日、銃声が響いて

蔣介石(しょうかいせき)の率いる

国府軍がやって来ました

そして、その小部隊は なんと、

私たちの学習塾である建てかけの

女学校を基地として駐屯してしまいました、

… … …

この国府軍の連中は、私たち日本人には

関心がなかったようでした。

しかし、私の学習塾は、休講に

なってしまいました。




小学生の授業再開?

2020年02月08日 21時18分55秒 | Weblog


満州に住んでいた小学生は、

敗戦によって、学校がすべて

無くなってしまいました。

… … …

日本での学校は敗戦になっても

授業は行われていたのでしょうか?

… … …

外地で敗戦を迎えた日本人学校は

どうだったのでしょう…

… … …

進化街に住んでいたまわりの大人達は

なんとなく話し合いをしたのでしょうか

教師の経験のある人たちが集まって

近所の小学生を集めて授業を始めようと

なりました…

… … …

教室は、近所に建設半の女学校の校舎を

使うことになりました。

完成なかばの教室でしたから、床はまだ

出来ていません。土、丸出しの教室に

集まった小学生は自宅から持ってきた椅子に

座りますが、机がありません。

野外の写生に使う画板を首から提げて

その画板に、先生から配られた

謄写版(とうしゃばん)刷りのプリントを

広げてが、授業でした…

… … …

再開された小学生の授業は

教師の経験のある先生がボランティアで

行うのですから、正式の授業では

ありません。この授業は正式に

認められないことになります…




私の通っていた春光国民学校が…

2020年02月05日 19時05分07秒 | Weblog


敗戦後しばらく暮らしていた

盛京大路房産住宅78號の家は

一棟が二つの住宅に分かれて、

平屋建て、4部屋の賃貸住宅でした。

新京の日本人は個人の住宅が

無かったようでした。

… … …

この敗戦後の賃貸住宅の家賃は

どうなっていたのでしょう…

しばらくして、親父はもう少し

狭いところへ引っ越そうと考えて

私の通っていた春光国民学校(小学校)の

近くの進化街?(しんかがい)へ

変わりました…

間取りは、現在の住宅公団の

2LDKに似ていました。

冬の暖房はペチカ?だったかも

しれません。

… … …

引っ越してきた進化街の家から

煉瓦造りの春光国民学校の校舎が

良く見えました。

… … …

ある日、敗戦によって授業が

行われなくなった、春光国民学校の

校舎から、もくもく黒煙があがって

不審火による火災で焼けてしまいました

… … …

私は小学六年生の夏に授業がなくなって

母校?は焼け落ちて、宙ぶらりんの

少年になってしまいました。

そして、新京の日本人は

日本に何時帰れるのか見通しもなく

皆、宙ぶらりんになってしまいました。







部屋へ石炭だるまストーブを

2020年02月03日 21時06分38秒 | Weblog


敗戦を迎えて、親父は職を

失いました…

小学六年生の私も学校(国民学校)が

無くなってしまいました…

毎日、渡満した日本人はすべて

宙ぶらりんの状態になってしまいました。

… … …

やがて新京は、厳寒の冬を迎えます

敗戦によって、暖房のラジエターの

工場は閉鎖されてしまいます。

親父はどこかから、石炭を焚くだるまストーブを

買ってきました。

石炭ストーブですから、煙突が必要です

厳重な二重窓を通して煙突が出来ました。

… … …

新京で石炭は豊富でした

毎日、家族でブラブラ暮らすことに

なりました。幸い、家族の誰も

病気することも無くすごせました。

… … …

新京に暮らしている日本人は

何時日本へ帰れるのか全く、

わかりませんでした。