初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

テレビ映画

2009年01月31日 19時11分40秒 | Weblog
  私の小学校時代、学年末になると校長先生、担任の先生を囲んで、記念写真を写しました。学校出入りの写真屋さんが、木製の組み立て暗箱のカメラと三脚をセットします。黒い幕を被って、構図を決めて、乾板を装填します。乾板とは感光乳剤を塗ったガラス板です。写真屋さんは、ソルントンシャッターのゴム球を握って「イチ、ニイ、サン」と声に出して写真を写します。何か大げさですから写される生徒たちもだんだん緊張してきます。
 街の写真館も、大きな木製のアンソニーというキャスターで動かせる乾板カメラが普通でした。このカメラも大げさですから、写される方は緊張します。乾板を使う理由は、後で修正できるからです。目立つシワなどをきれいに直す名人芸の写真屋さんがいました。
 やがて、カラー写真全盛になり、乾板は製造されなくなりました。カメラも小型のフィルムカメラになり卒業写真も写真館の撮影も簡単になりました。

 テレビでまだVTRが普及しないとき、アメリカからテレビ映画がやってきました。「サンセット77」、「ハワイアン・アイ」、「ララミー牧場」、「ローハイド」…。これらはハリウッドで映画並みの規模でつくられましたから、きれいな仕上がりでした。

 日本でもテレビ映画が作られましたが、予算の関係で35ミリ映画カメラが使えません。小型の16ミリカメラで制作されました。現場のスタッフも少人数でした。
 映画の35ミリカメラ、ミッチェルはフィルム駆動に220ポルト、3相交流シンクロナスモーターを使う大げさなカメラです。

 はじめて、テレビ映画に出演した映画俳優さんは、この小さな16ミリカメラの前で演技するのに抵抗を感じたことでしょう。

 久しぶりに会った俳優さんに次の仕事を聞くと

 「次は本編です…」

 35ミリカメラ映画の仕事をこう言うのです。

 大げさなカメラに撮られると、命まで吸われそうに感じますが、小さな簡単なカメラや携帯電話で撮られると大丈夫かと聞きたくなります。

ズームレンズ

2009年01月30日 18時07分28秒 | Weblog
  松竹新喜劇の劇場中継は最初、生中継ではじまりました。
舞台正面の客席の一番後と、両袖の桟敷に三台のカメラ、レンズは600、400㍉、250㍉、135㍉の四本の固定レンズ付きがセッティングしてあります。
  放送中の前番組は後コマーシャルに入ります。そして、次に劇場中継番組のタイトルが入ります。そして、現場に絵が切り替わったところで、カメラサイドにいるADさんが、舞台の袖に待機している劇場の舞台監督さんに、懐中電灯を回して合図を送ります。やがて、場内は暗くなり、緞帳が上がって芝居が始まります。

  VTRがテレビに導入されて、劇場中継も時間的な制約もなく、楽になりました。また、カメラもトランジスター化してレンズはズームレンズに変わってゆきました。

 中継の打ち合わせに藤山寛美さんの楽屋へおじゃましたときです。

 「どうも、あのズームレンズは具合が悪い」

 話をよく聞きますと、どのサイズで私を撮っているのかわからないと云われるのです。前は、600㍉だと、寄りの大写しだな、とか、250㍉だと、二、三人のショットだなと見当がついて、芝居の段取りがついたが、ズームレンズだとサイズが分からない…。

 「ズームインしたら旗かなんか上がるようにできないか…」

 ご説ごもっともです。カメラマンも隣のズームレンズのカメラがどのサイズで撮っているのか分かりません。レンズの横に今、何㍉で使用中というバーが出るのですが、暗い時は分かりません。カメラの横についている送り返しボタンを押せば、そのカメラのファインダー像を見ることができますが…。

 カメラクラブの撮影会もマクロレンズだと、花のアップを撮っているなとか、望遠レンズで狙っているなと見当がつきましたが、いまは、高級デジタル一眼レフに大きなズームレンズつきですから、何を写しているのかわからなくなりました。

 

タイム アウト

2009年01月29日 17時58分11秒 | Weblog
 ディブ・ブルーベック、カルテットのアルバムに「タイム・アウト」というLPがありました。「調子っぱずれ」とでもいうのでしょうか。

BLUE ROND A LA TURK,STRANGE MEDOW LARK,と続いていよいよポール・デスモンド作の「テイク・ファイブ」がA面の最後です。題名通りこの曲は5拍子です。前の「ブルーロンド」と「ストレンジ・メドウ」の2曲がこのテイク・ファイブの前座のように聞こえます。この曲でのブルーベックは控えめな演奏で、途中のジョー・モレロの5拍子のドラムソロは聞きごたえがあります。
 この演奏以後、アルト・サックスのポール・デスモンドはさらに人気が上がって、同じアルト・サックスのジュリアン・キャノンボール・アダレイと人気を競い合ったそうでした。

 「おはよう、フェルプス君」

と若山弦蔵の吹き替えでテレビ映画「スパイ大作戦」はラロ・シフリンの主題曲とともに始まります。
 親玉のピーター・グレイブス以下癖のある俳優を集めて、毎週が楽しみでした。
 劇中の敵役を策略で陥れるだけでなく、見ているわれわれ観客もときどき騙されるから油断のならないテレビ映画でした。
 この主題曲のリズムが5拍子なのです。この番組ができたのが、「タイム・アウト」より後ですから、ラロ・シフリンはこの5拍子に影響を受けたのかもしれません。
 後年、トム・クルーズが映画「ミッション・インポッシブル」作りました。テレビ映画の何倍も豪華にして作られていましたが、主題曲の5拍子を途中から4ビートにしてしまいました。アメリカにも困ったミュージシャンがいるものです。

シェリーズ・マンホール

2009年01月28日 18時48分52秒 | Weblog
 盲目のピアニスト、ジョージ・シァリングクインテットの「ララバイ・オブ・バードランド」「セプテンバー・イン・ザ・レイン」のクールサウンドは素晴らしくSP盤でMGMレコードでした。シアリングはなかなかの名手です。中でも、デンジル・ベストのブラッシワークのドラムは耳新しかったです。
ジャズ愛好家のS君はスネアドラムを押し入れに持ち込んで、一日ブラッシの練習をしていたことを思い出しました。

 ウェストコーストジャズの名ドラマー、シェリー・マンはピアニスト、アンドレ・プレビンと組んで作った「マイ・フェア・レディ」はアメリカでベストセラーだったらしいです。シェリー・マンのドラムは、始まりはブラッシでも、途中でスティクに持ち替え、曲の終りでブラッシに戻るなど、手の込んだ手法でした。
 ピアノのアンドレ・プレビンはその後、クラシックの指揮者に見事変身してロンドン交響楽団の音楽監督になっています。
 シェリー・マンは「シェリーズ・マンホール」というジャズクラブを経営して、業界では人格者として人気があります。
その後、超テクニックのピアニスト、オスカー・ピーターソンも「マイフェア・レディ」を吹き込みました。

 アート・ブレーキー、ジャズメッセンジャーズのヒット作「モーニン・ウィズ・ヘイゼル」はブルースで客席のヘイゼル・スコットが演奏中に舞台に声をかけたのでこの題名がついたといわれます。
 蕎麦屋の出前持ちの若者も口ずさんでいたというほど、日本でヒットしました。
 プレーヤーを鼓舞するように「ナイアガラ瀑布」と称されるソロを展開するのですが、左足のハイハットはいつも、正確にビートを刻んでいます。すごいプレーヤーで有望な後輩を見つけて育てる人格者です。


 

白い恋人たち

2009年01月27日 18時36分59秒 | Weblog
 このごろのラジオは懐メロをよく放送します。フランシス・レイの「白い恋人たち」を流していました。 
 「白い恋人たち」について感想を少し書きます。
この映画の原題は「フランスにおける13日間」で、日本の題名が「白い恋人たち」です。この題名の方が好きです。

 ポピュラーソングに「People Will Say We are in Love」を「粋なうわさを立てられて」と題名の名訳がありました。

 スキーヤーのスタート地点のカットで、少しバランスの悪い構図だなあ見ていますと、スタートした選手に付けて、カメラも後ろからゴールまで追いかけてゆきます。選手が転倒する場面でヘルメットがカメラの方へカラカラと転がってくるカット。フィギュアスケートで転倒するカットの積み重ね。兎に角、スピード、スピードとたたみかけてゆきます。この映像にフランシス・レイの軽い感じの音楽がかぶさってゆきます。

 東京オリンピックの市川監督は望遠レンズで動の前の静を追及していましたが、クロード。ルルーシュはこれを意識したのか、ダイナミックな動、スピードを追求していました。

 この東京オリンピックは依頼主に評判が悪くて、もっと記録性を強調してくれなどのクレームがついたそうでしたが、この監督に記録性などお門違い。即時性のテレビが公式に放送して記録しているのですから、テレビと同じようなことを注文する方がおかしいです。

 70年前、フィルムの感度が低いのに高速度撮影したベルリンオリンピックの映画、レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」「美の祭典」のイメージが私の頭の片隅にあります。


マカロニウェスタン

2009年01月26日 18時04分05秒 | Weblog
  黒澤明監督の作品は、「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」が好きです。
「七人の侍」はアメリカで西部劇「荒野の七人」になり、志村喬の役が黒い衣装のユル・ブリンナーになって、派手な拳銃の応酬で原作同様、面白い映画になっていました。

 戦後、しばらくして、イタリア映画が輸入されて、ビットリオ・デシーカ監督の「自転車泥棒」など名作がありました。今回はマカロニウェスタンです。
 「用心棒」はイタリアでクリント・イーストウッドが三船敏郎の役で、タイトルは「荒野の用心棒」です。エンニオ・モリコーネの音楽も作品の魅力になっていました。

「荒野の1ドル銀貨」はジュリアーノ・ジェンマ主演で、この題名の銀貨の意味が映画を見るまで分かりませんでした。

「夕陽のガンマン」も面白い映画でした。
 どの作品か忘れましたが、ウェスタンの酒場の前が雨上がりのように泥だらけで、その泥の中で女たちが取っ組み合いの喧嘩をするシーンがありました。アメリカの西部劇では枯草が風に舞うドライなシーンばかりでしたが、マカロニウェスタンの泥だらけのシーンは目新しかったです。

 暇なときに、マカロニウェスタンの2本立ての映画館を二軒ハシゴをしました。
終わって映画館を出てきたとき、話がごっちゃになってしまいました。

 ディーン・マーチン主演の西部劇「ジェリコ」を見ました。
話の筋は忘れましたが、最後に出てくる縦ロールのタイトルを見ていますと、最後の最後に、

              Made in U.S.A
と出てきました。

 

 



スクリーンプロセス

2009年01月25日 18時48分23秒 | Weblog
 アメリカ映画の現代物で実際の昼火事のニュース場面を使って始まる映画を見たことがあります。しかし時代劇ではこんなことはできません。時代劇のセットを燃やして火事場のシーンを撮影しなくてはなりません。火事の場面は昼より夜のほうが、火が目立つので、夜の火事のシーンが多いです。

 以前は、撮影所内の広い敷地でオープンセットを燃やして撮影していました。そのうち撮影所の周りに住宅が建てこんできて、敷地内で火事の場面を撮影することが消防署のお達しで、できなくなりました。

 嵐山の中州にセットを建てて、それに火をつけて撮影することになります。
まず、消防署に書類を提出して許可をもらいます。当日、用意して夜になるのを待ちます。中州に消防署から消火器を用意して、数人の消防署員が来ます。
 
 セットが燃え尽きてしまうと終わりです。欲しいカットが撮れないといけませんから、二、三台のカメラにレンズとアングルを変えて用意します。やがて、夜になり本番になると、夜空に火は勢いよく燃え上がって映えます。あれもいるかもしれない、これもいるとか、瞬間的に考えてどうしてもフィルムを使いすぎます。

 俳優さんが芝居をする場面では火事の場面を特別な映写機でスクリーンに写し、その前で演技をするスクリーンプロセスを使います。

 スクリーンプロセスは、火事の場面以外に、乗用車の窓の外の景色、列車の窓の外の景色などに使われますが、最近のテレビドラマでは、軽トラックにカメラを設置して、俳優さんの乗った乗用車を実際に引っ張りながら撮影しているようです。 

 最近はCGでかなり手の込んだことができるそうです。スクリーンプロセスの手法は昔の話になるでしょう。

 

初めてのアルバイト

2009年01月24日 21時34分23秒 | Weblog
  私が高校生の時代、同級生の家が写真機店をやっていました。
時は朝鮮戦争のさなか、米国へ帰る米兵の写した写真の仕上げが忙しいといいます。韓国から日本に立ち寄ってアメリカに帰る米兵の宿舎で現像焼き付けをたのまれるのです。それを帰る日までに、写真を仕上げて渡すという仕事で、ネコの手も借りたいということでした。

 私はその写真の引伸ばしの一人として頼まれたのでした。朝、店に行くと、暗室に案内されました。暗室は広くて茶色セーフライトがあちこちについて明るかったです.ラッキー2Bの引伸機が並んでいました。

そのうちの一台を任されました

 引伸機の上には、L判の固定マスクが置いてあります。印画紙は感度のあまり速くないクロロブロマイド、2号、3号、4号が置いてあります。
 引伸機の右側に現像バット、中間浴バットが置いてあります。
現像を済ませた長いままのネガフィルムが来ます。
そこから私の仕事です。引伸機のネガキャリアにフィルムを挟んで、焼き付けが始まります。
露光タイミングは時計でゆっくりと測れません。

「イチ、ニイ、…」

と頭の中でカウントして、印画紙に鉛筆でネガの番号を付けて、現像皿に印画紙を沈めます。だんだん画像が現れてきて、適当なところで、中間浴につけます。これで、露光の時間と現像時間などの見当をつけて、次々とスピードを上げて仕事をしていきます。
ある程度中間浴に印画紙がたまると、次の定着液に漬けますが、ここからは別の係が作業をつづげます。

引伸機で印画紙露光→現像→中間浴→定着→水洗→乾燥→カット仕上げ→袋詰め。

以上が写真仕上げの仕事ですが、暗室を終わって外へ出てくると、夕方でした。
 回転乾燥器から出てきたプリントを化粧裁ちして袋へ詰めてその日の仕事は終わりました。

この流れ作業を経験して、新しい写真の世界を認識しました。

  
 


ENG時代

2009年01月23日 20時32分07秒 | Weblog
 映画以外に動く映像に飢えていた私は、一週間に一回くらいの間隔で、なにか映画を見ていました。映画制作会社も量産態勢で、東映などは、一週間で二本立て興行でしたから大変でした。映画は活動写真と言われていたサイレントの時代からフィルムをはじめ機材がすべて外国製です.フィルムはその後、国産になりましたが、特に映画の肝心な機械キャメラは輸入品でした。
 フランスのエクレール、カメフレックス、パルポ、アメリカのベル&ハウエル、ミッチェルなど。使用するレンズも外国製でした。
 国産でもこれらを手本にセイキミッチェルとか土井ミッチェルが作られましたが…。

 テレビ時代になって、番組はVTRになりましたが、報道番組、ニュースは16ミリフィルムのカメラが使われていまして、これもベル$ハウエルの機械が大勢を占めていました。

 その後、テレビカメラもトランジスターで小型になり、電池駆動がてぎるハンディカメラが出てきました。VTRも2インチから1インチ、1/2インチ、3/4インチのUマチックなどが現れました。

 アメリカのテレビ局から大量のハンディカメラの注文が入りました。
ENG(Electonic News Gathering)と呼ばれる「電子的ニュース取材」で、ビデオテープで取材して、使ったテープは消去すればまた、使えますから、フィルム取材をやめる方向です。日本からソニー、池上通信機、日本ビクターなどが輸出しました。日本のテレビ局もアメリカに遅れてENGに変わります。
 

 日本もENG時代になりました。そして国産の機械が輸出されるようになりました。それに付随してレンズも輸出されます。海外のニュース取材を見ていて日本のカメラが写っていたり、スポーツ中継で国産の高倍率のズームレンズが使われているのを見ると頼もしく感じます。
 

カメラの思い出

2009年01月22日 17時13分09秒 | Weblog
  私が五歳ごろの午前中、なぜか親父と二人きりで、母親は用事か家にいませんでした。親父と京極の玩具屋で玩具のカメラセットを買ってあったのでした。

「カメラで遊ぼうか?」

 部屋の外に紅葉が植わっていまして、それを写そうと決まりました。
カメラは木製で前面はレンズとレバーのシャッターで反対側はすりガラスでその前にフィルムを入れるみぞがありました。
 卓の上にカメラを据えて、すりガラスに紅葉を映して位置を決めます。
黒い紙のふたのついたフィルムの撮り枠をカメラの後ろに入れます。
黒いふたを上に引き上げて、親父はシャッターレバーを押して

「イチ、ニイ、サン」

と勘定してシャッターを閉めました。

 カメラセットにはカメラ以外に赤いガラスチューブの現像薬と青いガラスチューブの定着薬に、赤と青のセルロイドの皿が入っていました。親父は、台所で赤い現像液の入った赤い現像皿にフィルムの入った黒い紙の撮り枠ごと、浸けました。
 しばらくして、その黒い撮り枠を次の青い皿に入った定着液に浸けます。
やがて黒い紙ははがすと、フィルムに庭の紅葉の木がネガで写っていました。
そのフィルムを私は日光写真で焼くと、白黒の紅葉の写真ができていました。

 大きくなってから、現像液が赤いのは、フィルムが赤色に感光しないオーソフィルムで現像液にフィルムが浸かると感度が低下して、それで明るい台所で現像できたのがわかりました。

 これから、だんだん写真が好きになりました。七十年前の思い出でした。